寺島しのぶと成田悠輔が語る、歌舞伎の家に生まれた女優の「負けん気」と、短く語る表現
PLAYERS公式経済学者の成田悠輔がホストを務める対談番組『夜明け前のPLAYERS』に、女優の寺島しのぶが出演した。対談は、歌舞伎の家に生まれながら歌舞伎の舞台には立てなかった寺島の生い立ちから始まり、コンプライアンスで変わった表現の現場、演劇とメディアの今後、芝居の良し悪しの判断、作品の適切な長さへと進む。最後は、寺島が言いたいことを五七五に収めるという提案にたどり着いた。
歌舞伎に「生まれながら拒否された」関係
成田はまず、芝居の一家に、それも歌舞伎という特殊な世界に生まれながら、演じることを仕事に選んだ理由を尋ねた。寺島の答えは「負けん気でしかない」というものだった。歌舞伎は男性ばかりの世界である。成田はこれを、演じる世界に生まれながらその世界から生まれつき拒まれている特殊な関係だと言い表し、寺島もそれに同意した。
寺島によれば、一人っ子だった頃はとても幸せだった。しかし弟が生まれたとき、周囲の目が一斉にそちらへ向いた瞬間があったように感じたという。寺島は、生まれたときからスカートを1枚も持っていないような子どもだった。『キャンディ・キャンディ』より戦隊ものの『ゴーグルファイブ』や『キン肉マン』が好きで、自分では男として生まれてきたような感覚があった。それでも、いざ歌舞伎をやるかどうかという段になると「女だからできない」と言われた。寺島はそのルールに納得がいかず、歌舞伎を見ない時期もあったと振り返る。
それでも演じたい気持ちはずっと持ち続け、この仕事に就いた。歌舞伎の華やかな楽屋や舞台、色彩には憧れしかなかったという。歌舞伎座に行くと妙にアドレナリンが出て、ずっとそこにいたくなり、目がらんらんとしてくる子どもだった。客席から見ている自分の立場をおかしいと感じてもいた。
のちに寺島は歌舞伎座の舞台にも立っている。初めて舞台から見た景色は本当に感動的だったと語る。ただ、その演目では客席が真っ暗だったので、明るいところで見てみたかったという思いも少し残っているそうだ。
自分の中の「男」と「女」がよくわからない
成田は、寺島が演じてきた役には女性性や男女の関係が濃密に表れるものが多いと指摘し、そうした作品を選び、得意としてきたことが生まれ育ちと関係しているのかと尋ねた。
寺島自身もそこは謎だと答えた。自分の中身が本当に男っぽいのか、それとも覗いてみればドロドロした女なのか、よくわからないという。ただ、男性に囲まれているほうが明らかにほっとする自分がいる。女子会に行くと居心地の悪さを感じてくるが、男性とならいつまででも話していられる。それが不思議だと寺島は言う。
では男性を演じたいかと問われると、寺島ははっきり「それはない」と答えた。50歳を一度超えたので、これからは周囲が驚くような役にも挑戦してみようと思っているが、特にこれがやりたいというものはないという。逆に「私の何が見たいですか」と成田に問い返した。
成田は、男とか女とかのラベルでは分けられない人間を演じたらどうなるか見てみたいと答えた。寺島を見ていると、男性性と女性性が表裏一体で、常にひっくり返っているように見えるからだという。その存在が、私たちがステレオタイプとして持っている男女の記号を乗り越えたり、ずらしたりする役を演じたら面白いのではないか、という提案だった。寺島は、それが物語になるのか、今ならどこまで大丈夫なのかと考え込み、「じゃあ人間じゃないものを考えてみるか」と応じた。二人は、性別を変えて女性になろうとする男性の物語がアニメにまで現れるほど増え、それに嫌悪感を持つ人も減ってきたと話した。
「みんな品行方正になってつまらなくなった」
話題は、ここ数十年で表現の現場から何がNGとして避けられるようになったか、そして演者本人の私生活に求められるものがどう変わったかに移った。成田は、かつての「かぶき者」のような生き方がもう許されなくなったと述べた。そのうえで、歌舞伎の世界で育ち、規範から外れかけた人物を多く演じてきた寺島が、この生きづらい社会とどう折り合いをつけているのかと尋ねた。
寺島の答えは率直だった。「正直、つまんなくなっちゃいましたよ」。今は誰もが品行方正で、現代劇のテーマも品行方正になっている。全員が品行方正だったらどうなってしまうのか、と寺島は言う。成田も、この20年ほどで一気に変わったと応じた。
そうしたなかで、寺島が今も「すごいことをやる」と感じるのが歌舞伎だ。首実検があり、切腹があり、近親相姦がある。そうした演目が今も存在している。もし歌舞伎までコンプライアンスを問われるようになったら、何もなくなってしまうだろうと寺島は言う。
成田は、犯人がシートベルトを締めてから逃走しなければならない世の中になったと冗談めかした。寺島は、タバコを吸う場面もNGになり、『3年B組金八先生』では教室が煙でもうもうとしていたと振り返った。寺島自身は、ちゃぶ台をひっくり返して叱る昭和の親父のような時代を生き、根性論でやってきた世代なので、今の人たちとのギャップを強く感じるという。成田は、寺島が古き良き時代と今の品行方正な時代のちょうど間にいる世代だと整理した。
歌舞伎座の敷居と、忙しい日常からの解放
歌舞伎の世界自体は変わっているのかと問われると、寺島はそこはわからないとしつつ、若い世代が頑張って新しいものを取り入れていると述べた。ただ、歌舞伎座のチケットは本当に高く、何度も通える値段ではない。年配の観客はこれから減っていくので、若い人に見てもらわなければどうにもならない。若い役者たちはそのために色々と考えているようだ、と寺島は語る。
成田が「確かに敷居は高めですよね」と言うと、寺島は、高いと思われてしまっている以上、そうではないと演者の側から発信しなければ絶対にだめだと答えた。成田は、覗いてみればお祭りのような雰囲気もあり、気楽に楽しめるものだと付け加えた。寺島によれば、昼の部で3本の芝居を見て1万8000円ほどなら、そんなに高いとは思わない。成田も時間あたりで考えれば高くないと同意した。寺島はむしろ、忙しい人たちが何時間も歌舞伎座にいたくないのではないかと見ている。
成田はそれを逆に捉えた。忙しい日常からあれほど解放してくれる場所はなかなかない。最近の解放の場は映画館、歌舞伎座や劇場、サウナくらいしかないと成田は言う。サウナが好きというより、さすがにスマホを持ち込めないのがいいのだという。一度持ち込んで本当に壊したことがあり、それで学んだと笑う。スマホから離れられる場所がほとんどなくなった今、そこに可能性があるのではないかと成田は述べた。
21世紀の演劇は「観客が参加する」ものになるか
ここから成田は、演劇や物語体験の今後について自分の見立てを語った。スマホの時代になって映像作品を見る体験は急に貧しくなったが、今後は再び豊かになる可能性もあるのではないかという。たとえばヘッドマウントディスプレイで周囲360度に映像が広がれば、歌舞伎座の舞台の上に座っているような感覚で芝居を見られるかもしれない。新しいデジタル技術やデバイスだからこそできる演劇体験がありうる、というのが成田の考えだ。
実例として成田が挙げたのは、ニューヨークの『スリープ・ノー・モア』である。成田によれば、これは演劇と呼べるかどうかもわからないもので、マンションのような建物全体を使い、中のさまざまな場所で芝居やダンスが同時並行で進む。観客は建物の中を歩き回り、好きなものを好きなタイミングで見る。その結果、観客ごとに独自の作品が立ち現れ、人によって見ているものが違う。成田は、こうしたことが建物を丸ごと使わなくてもできるようになり、長い目で見れば観客自身が参加者として中に入っていけるようになるかもしれないと述べた。
これまでの芝居や映画は、そこにある物語を観客が受動的に見るものだった。しかし観客が関わって物語を作り直すようになれば、役者と観客の境目が曖昧になる。成田は、それが21世紀の演劇の姿として現れてくるのではないかと語った。
語り部の時代に戻るという見立て
成田はこの変化が演劇に限らず、あらゆる領域で起きるのではないかと話を広げた。小説でも映画でも、作り手が作ったものを読み手や観客が与えられたものとして体験するのが基本だった。成田はこれを20世紀的なあり方だと考えている。
今後は小説も、生成AIやGPTのような語り部的な存在に話しかけると物語の冒頭を語ってくれ、それに質問やリアクションを返すと物語が分岐していくような形になるのではないか、と成田は予想する。寺島は「うわあ、大変」と反応した。
成田によれば、これは昔のあり方への回帰でもある。何百年も前、本がなかった時代には、語り部が話し、周りが野次馬のように茶々を入れながら、その場その場で物語が立ち上がっていた。今後は一人ひとりが自分の語り部を持てるようになり、見る側と作る側が一緒に作る対話型の物語や劇が主流になる。成田はそれを「語りの時代にもう一度戻る」と表現し、今はその過渡期にいるという感覚を語った。逆に言えば、20世紀的なメディアやエンターテインメント、アートの形を直に体験できた最後の人類が、ちょうど今の世代になるのかもしれない、と成田は付け加えた。
凶悪犯を演じても嫌悪感はない
後半、成田は寺島の役づくりについて尋ねた。あれだけ癖の強いキャラクターを演じるなら、違和感や嫌悪感が強すぎると演じにくいのではないか、という問いである。
寺島は、それが今までないと答えた。凶悪犯の役も数多く演じてきたが、かわいそうに思えてくるという。言ってはいけないことかもしれないと断りつつ、その人にはその人なりのドラマがあり、どういう育ち方をしたからこうなったのかと考えていくと、同情している自分もいる。そうして、こんな悪さをしていても、この人はこういうところで救われていたのだ、と思える部分がどこかにあると寺島は語る。
芝居の良し悪しは何で決まるのか
成田は続けて、芝居の良し悪しはどう判断されるのかと問うた。測れるものではないし、人気投票すればよいわけでもない。準備の過程で、向かうべき方向に向かっているかをどう判断しているのかが気になるという。
寺島によれば、そのプロセスは舞台のほうがわかりやすい。舞台では、その場のお客さんの空気や人のぬくもりを感じながら進められる。それをもとに修正でき、千秋楽にはいいものになっているのがいいところだという。
一方、映像には時差がある。撮影中にスタッフから「すごくいいシーンでした」と言われても、完成してみるとばっさりカットされていることがある。だから映像については、結局は自分の物差ししかないのかもしれない、と寺島は語る。後から「ここはもう少しこういう顔をしておけばよかった」と思うことはあるそうだ。
成田は、カメラで切り取った映像を何十万、何百万人に渡すのは、何の手触りもない不思議なものだと応じた。寺島も、映像を切るのは1人か2人で、それはその人の価値観なので、そこは何も言えないと付け加えた。
犬の動画編集に夢中になる
その不思議さと向き合ってきた寺島が、自分で監督や編集をすることはあるのか。成田がそう問うと、寺島は最近の楽しみを語った。インスタグラムを始め、犬の動画を長時間撮って編集するのが今ものすごく好きなのだという。
編集はスマホで行い、犬の心の声を入れたり、自分の好きな音楽を使ったりする。誰にも邪魔されない自分だけの作品で、ばかみたいに時間を費やしてしまうが、それが嬉しくてしょうがないと寺島は言う。いつか監督をやりたい気持ちになるかもしれない、とも述べた。
編集をしてみて、寺島は自分が意外と几帳面だと気づいたという。ほんのわずかな秒数や、この映像でパッとこの音楽にならないと嫌だといった細かいこだわりが、自分の中にはっきりあるとわかった。
作品の長さ、「3分」と「60分」
成田は、動画は長さによってまったく違う世界になると指摘し、どのくらいの長さが一番しっくりくるかと尋ねた。寺島の答えは、犬の動画なら3分を超えるとぐだぐだになる、というものだった。3分以内に収まるとかちっとして収まりがいいと感じるという。
では自身が出演する映像作品ならどうか。短編、90分ほどの映画、10時間、20時間に及ぶドラマでは時間の流れ方がまったく違う。この問いに寺島は、だらだらしたものが嫌いだと答えた。なんとなく時間を追っていくような映画はあまり好きではない。自分はそういう作品によく出ているけれど、と笑いながら付け加えつつ、コンパクトにまとまった、数日間の物語が好きだという。
例に挙げたのが主演作『ヴァイブレータ』である。寺島によれば10日間の物語で、2週間かけて実際にロードムービーとして撮影した。物語が終わってしまうという切なさがある作品が好きだと寺島は語る。
観客としては何分で終わってほしいか。寺島は「ごくごく個人的には60分」と答えた。60分で終わる映画は少ないが、そのくらいで終わってくれると嬉しいという。
成田はここでジャン=リュック・ゴダールの例を出した。成田によれば、ゴダールの映画はほぼすべて90分以内に収まっており、ゴダール自身も、2時間半もの時間を客から奪う勇気がないと語っていたという。成田は、90分はつまらなくても許せる時間で、60分ならテレビドラマ1話の延長で、微妙そうなドラマでも1話目は見てみるかという感覚でこなせる長さだと述べた。
それなのになぜ長い映画が多いのか。寺島は、監督が切れないのではないかと見ている。ただ、切れない気持ちもわかるという。ばんばん切る監督もいるが、関わったみんなに「ありがとう」という気持ちがあると長くなってしまうのだろう、というのが寺島の見方だ。
成田は自分の論文執筆を例に挙げた。放っておくと、やったことを全部詰め込みたくなって、どんどん長くなる。しかし出版時に長さ制限があって大きく削らなければならなくなると、よく考えれば削れる。作り手が自然に入れたいものを入れて、できるだけ豊かにしようとすると、長さや分量はたいてい過剰になるのだろう、と成田は述べた。
五七五で生活するという提案
この話を受けて、寺島は「五七五で生活できたらいいですよね」と提案した。言いたいことがたくさんあるときこそ、俳句のように五七五で考えるようにしているという。そうすると伝えるべきことがものすごく限られ、シンプルになる。これとこれとこれが言えればいい、と絞れるのだそうだ。
成田はこれを最近のテキストのやり取りと結びつけた。昔の人の書簡は、やり取りそのものが一つの作品のようで、巨大な段落があった。一方で今の人たちは、スマホの一行に収まるやり取りを続けている。コミュニケーションはぶつ切りで短くなっており、その延長線上には、みんなが五七五で話す世界も本当にありうる気がしてきた、と成田は話した。寺島は「忙しい世界ですからね」と応じた。
成田は対談を、映画と芝居の世界から来た寺島がたどり着いた提案が五七五でのコミュニケーションだったと締めくくった。そして、それが時短なのか、効率がいいのか悪いのかもわからない結末だとし、それが人間と世の中の複雑さなのだろうと勝手に理解した、と述べた。
[音楽]
そのお芝居の一家に生まれられて、しかも歌舞伎っていうものすごい特殊な世界じゃないですか。それにも関わらず演じるっていうことを仕事として選んだっていうのは。もう負けん気でしかない。もうそれしかないです。はい、もう多分もうそれしかないんですよ。だって男の人ばっかりだし。
はい。ある意味ではその、歌舞伎という演じる世界に生まれながら、その世界からは生まれながらに拒否されてるみたいな、すごく特殊な関係ですよね。そうそうそうそう、そうです。
本当に私だけだった時はすごい幸せだったんですよ。だけどやっぱ弟が生まれて、ふわってこう、なんかみんながふわって見た瞬間があったような気がしたんですよ、そこから。でももうね、生まれた時からスカート1枚も持ってないような子だったんですよ。キャンディ・キャンディよりはゴーグルファイブみたいな、はい、キン肉マンみたいな。なんかこう多分そういうDNAで生まれてきちゃったから、多分自分は男だと思って生まれてきてるような感じで。でもいざ、じゃあ歌舞伎やるやらないになったら、できない、なぜなら女だから、っていう風に言われて。なんじゃそのルールと思って、そっからなんかもう歌舞伎見ない時期もありましたし。
でもこう演じたいなっていう気持ちはずっと持ってたような気がして。だからそう、この仕事をやったんですけど。でもやっぱ歌舞伎のあの華やかな楽屋とか舞台とかは、もう憧れでしかなかったですね。あの色彩とか。その歌舞伎座行くと、なんか妙なアドレナリンが出て、もうずっと居たいみたいな、目がランランとしてきちゃうような子供だったんで。なんか客席で見てるのがもう本当におかしいなっていう感じはしてましたけど。
でも歌舞伎座にも立たれたわけですよね。はい、初めて見た景色は本当に感動的でした。ただ文七元結だったんで、客席真っ暗だったんですよ。はい。ああ、暗いですね。はいはい。それもちょっと明るいとこで見たかったなっていう気はしましたけど、でも感動的でしたね、本当に。
でもそのちょっと屈折した、こう芝居とか歌舞伎との関係が、その何を演じるかとか、どういう役をやるかっていうことにも影響されましたかっていうのは、ある意味で寺島さんがやられてる役って、よく、こう女性性というか、男女の関係みたいなものがものすごく濃密に出てるものが多いじゃないですか。ああいう作品を選ばれてきた、でそれがお好きで得意だったっていうことは、その育ちとか生まれと関係があるのかなとかってちょっと思ったんですけど。
ねえ、そうなんですよね。そこ謎なんですけど。で、自分の体がどうなってんのかがちょっとよくわかんないんですよ。で今ほら、すごくいろんな部分自由になってきたじゃないですか。だからこれ、自分の中身は本当に男っぽいのか、でも中見たらすごいドロドロした女なのか。でも男の人に囲まれてる方が明らかにほっとしてる自分がいるっていうか。女子会とか行くと、もうなんかゾワゾワしてくるんですよ。なんかこう、いちゃいけないような気になってきて。で男子がずっと一緒にいると、いつまででも喋ってられるし。なんか不思議なんですよね、今自分の中で。
はい。男を演じたいみたいなこと思われたりしますか。それはないですよね。それ何か、これまで演じてたことがないものでこれは、みたいなものってありますか。こう男を演じるってんでもいいですし、あれは人間じゃないものを演じるとか。ちょっともう50一旦超えたんで、はい、まあこれからはちょっと「おっ」ていうような役もやってみようかなとは思ってますけど、取り立てて何をやりたいっていうのはないかな。何が見たいですか、私の。何も浮かばないですか。
いや、でもその性別をある、乗り越えたというか、その男とか女とか、こうラベルをつけられないような人間っていうのが。それ物語になりますかね。どうでしょう、今だったら大丈夫なのかね。なので、それがなんか分かりやすくトランスジェンダリズム
という俳優さんを見てると、そのなんか男性性と女性性みたいなものが、なんか常に表裏一体で、いつもなんかひっくり返ってるような感じはお見受けするんですよね。だから、そのでそこには、その僕たちがステレオタイプとして持ってる男と女みたいな記号とかラベルっていうものも存在していて、でもそれをなんか乗り越えたり、それを向かしたりするような存在を演じられたらどうなるんだろうみたいなことは、ちょっと思いますかね。ちょっとじゃあ人間じゃないや、考えてみるか。
まあ性転換して女性になろうとしていく男の物語とかも、まあ色々あるにはありますよね。で、そういう物語最近本当に増えましたよね。そう、アニメでもあるぐらいですもんね。まあそれをやっても嫌悪感を持つ人とかいなくなってきたってことなんですよね。
そう。でもその点、何十年か演じられてきて、なんかこういうものはいやいやNGとか、ダメとか、避けておこうとかっていう風潮自体ものすごく変わってきたじゃないですか。でさらには、その演じるご本人たちの生活みたいなもの、何がオッケーで何がNGかみたいなのも、なんかものすごい変わってきて、もはや歌舞伎者みたいなのは許されなくなっちゃったじゃないですか。それって結構こう影響されたりされてますか。っていうのは、こう歌舞伎の世界で育たれて、しかも演じてる役はちょっとその普通の規範とかルールから逸脱しかけてるような人も多いじゃないですか。そういうものを演じてるっていうことと、寺島さんというご本人がこの生きづらい社会の中で生きてるってことは、なんかどう折り合いつけられてるんだろうってちょっと思ったんですけど。
いや、でもつまんなくなっちゃいましたよ、正直本当に。みんな品行方正だから。テーマは品行方正じゃないですか、今の、現代の。でも全員品行方正だったらどうなっちゃいますかっていう。びっくりしますよね、本当に。しかももうここ20年とかですもんね、一気に変わりましたもんね。
だからそのやっぱり、ああすごいことやるなって思うのは、未だに歌舞伎なんですよ。首実検があったりとか、ね、切腹だってそうだし、近親相姦だってそうだし。未だに歌舞伎は存在してるわけですから。歌舞伎もついにそんなコンプライアンス問題言われちゃったらどうなっちゃうんだろうと思って。何もなくなっちゃうと思う。
辛いですよね。犯人がシートベルト締めてから逃走しなきゃいけないなんて世の中になっちゃうわけで。まあタバコ吸うのさえNGになっちゃう。そうですよ、金八先生なんてね、教室モクモクでしたよね。っていうなんかその良き時代に、はい、すごい生きてて。あばれはっちゃくとかね、なんかこう叩いて父ちゃんは、みたいな、なんかそういう昭和の親父みたいなのとか、自分も根性論みたいなのでやってきちゃってるので、世代としてものすごい今の人たちとギャップを感じますよね。
しかもその古き良き時代と今の品行方正時代の、なんか両方の間あたりにいらっしゃりますもんね、世代的に。いや、そうですね。
で、歌舞伎の世界もすごく変わってると思われますか、最近。いや、そこはわかんないんですけど、でも若い人たちが頑張ってるから、新しい歌舞伎を取り入れて。もうまず、あの歌舞伎座って本当に値段が高いですから、チケットのね。そんな何回も何回も見に行けるような値段じゃないので。ただご年配の方たちはどんどん亡くなられていくわけで、若い人たちに見ていただかないとしょうがないわけですよね。そこをなんとか若い人たちは色々考えてやられてるみたいですけどね。
確かにちょっと敷居は高めですよね。高いですよ。高いと思われちゃってるから。だからそうじゃないんだよっていうのはこっちから発信しないと絶対ダメだし。それこそなんか覗いてみると、お祭り的な雰囲気もあって。そうなんです。気楽っちゃ気楽に楽しめるものですよね。だから昼の部で3つお芝居見れて1万8000円とかだと思うと、そんなに高いとは思わないんだけど。まあ時間あたりで見ればそんなに高くないですね。でまあ、その値段だけ見るとそうですね。あとは何時間も歌舞伎座にいたくないっていう人たちが多いんじゃないですか、やっぱみんな忙しいから。
でも逆に言うと、そんな忙しい日常からあんな風に解放してくれる場もなかなかないですよね。そうですよ、私はそう思いますけどね。いや、だから映画館と歌舞伎座とか劇場とサウナぐらいしか最近解放の場がないなと思って。サウナ行かれるんですか。サウナも結構行くんですが、サウナが好きってよりは、サウナの中だとさすがにスマホ持ち込めないじゃないですか。一度持ち込んで本当に壊したことがありまして。はい、ああ。でこれで学んで、サウナはスマホ持ち込めない。でそういう場所ってもはやあんまりなくて。そうですね。まあなので、可能性あるんじゃないかなっていう気はしますけどね。
まあとは、今はスマホ時代で、急になんか映像作品を見るっていう体験が貧しくなっちゃってるじゃないですか。でも今後はまたなんか豊かになる可能性もあるのかなと思って。まあ例えばヘッドマウントディスプレイみたいなもので、この周り360°展開できるみたいになっていくと、例えば歌舞伎座のなんか舞台の上に自分が座ってるような感覚で、あの芝居を見れるとか。ああ、そういう方向で。なるほど。新しいデジタル技術とかデバイスを使ってるからこそ体験できる演劇体験みたいのあると思うんですよね。ああ、なるほどね。
で実際、なんかあのニューヨークにある演劇で、スリープ・ノー・モアっていうやつがあって。それももはや演劇と言えるのかどうかわかんないもので、あの1個のマンションみたいなもの、建物全体を使った劇なんですよ。でその中にいろんな場所がたくさんあって、でいろんな芝居とかダンスとかがその中で同時並行でバっと流れてるんですよね。でお客さんはその建物の中をこう歩き回って、好きなものを好きなタイミングで見るんですよ。ああ。そうするとその人にとっての独自の演劇作品がその中から立ち現れて、人によって見てるものが違うみたいな。そういうことは、だんだんそんなマンション・建物使いきらなくてもできるようになっていくかもしれないですよね。
でさらには、自分が参加者としてその中に入っていくとかっていうことも、長い目で見るとできるようになるのかなと。なので、これまではなんか芝居とか映画とかって言うと、もうそこに物語があって、でそれを見るっていう受動的な感じだったと思うんですよね。でもその中に自分が関わっていって、その物語をこう作り直して。ありえるのかな。ああ、という気がしますけど。そうすると壁がちょっとなくなって、自分も参加してるっていう気持ちになって、もうちょっとこう能動的に。はい、なんで役者さんとあの観客の境い目がもうちょっと曖昧になる。なるほどね。みたいな姿は、なんかこう21世紀の演劇みたいなものとして現れてくるのかなっていう気はしますけどね。
で多分あらゆる領域に起きるんじゃないかって気がするんですよね。つまりその、これまで小説でも映画でも、基本的に作る作り手がいて、その人が作ったものを読み手とか観客は、もう与えられたものとして体験するっていうものが基本的なあり方だったじゃないですか。でこれは多分すごくなんか20世紀的なあり方なんだろうなと思って。今後は多分小説とかも、最近のあの生成AIとかGPTみたいなものみたいに、あの語り部みたいな存在がいて、でそのちょっと話しかけると物語の最初なんか言ってくれて。へえ。でこっちがそれにもう1度なんか質問を投げかけたりリアクションしたりすると、それによって物語が分岐していくみたいな感じになるんじゃないのかな。うわあ、大変。
それで昔はそうだったじゃないですか。あの何百年も前は本とかなかったので、要は物語も語り部がいて、その人がなんかお話ししてて、周りがなんか野次みたいな感じで茶々入れながら、その場その場で物語が立ち上がってたと思うんですよ。で今後は、その語り部を1人1人が持てるようになって、であらゆるこう物語とかあらゆる劇みたいなものが、そうやって見る側と作る側ってのがこう一緒に作っていく対話型のものになっていくんじゃないかな。語りの時代にもう1度戻るんじゃないかとかっていう気が。だいぶ戻りますね、じゃあ。はい。っていうの時期にいるんだろうなっていう気が今僕してる。時代、あ、そうなんだ。
だから逆に言うと、でもその20世紀的な色々なメディアとかエンターテイメントとかアートの形を、なんか直に体験できた最後の人類っていうのがここら辺になるのかもしれないなっていう気しますね。そうね。
ちなみに番組ホームページではノーカット版の配信もしています。番組が大赤字で大変です。是非皆さん、カンパをよろしくお願いします。
あれだけ癖の強いキャラクターを演じてきたわけじゃないですか。で、あまりにも違和感を感じたり、あまりにも嫌悪感を感じたりしてると演じにくいんじゃないかって気もするんですけど。はい、でもそれが今までないんです。へえ。もう本当にあの凶悪犯とかいっぱいありましたけど、なんかかわいそうにもなるしね。こんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、でもなんかその人にはその人のこう、それなりのドラマがあって。どういう育ち方をしたからこうなっちゃったんじゃないかとか、そう考えてくると、なんかちょっと同情しちゃってる自分とかもいるんですよね。だからそこで、ああこの役って、こういうところは救われてたんだな、この人こんな悪さしてても、っていうところがどこかあるんですよ。
でもお芝居がいいか悪いかって、どうやって判断されるものなんですか。なんかあれほど難しいものもないんじゃないかと思って。その測れるものじゃないですし、かと言って別に人気投票すればいいってもんでもないし。これ準備されるプロセスとかで、こうちゃんと向かうべき方向に向かってるかどうかっていうのを、どうやって判断されてるんだろうなって気になるんです。
まあ舞台の方が分かりやすいですよね、そのプロセスは。あ、今こういう感じだなって、人のぬくもりを感じながら進められるけど。ああ、その場所とかお客さんの空気があるからってことですね。そうそう、はい。それで修正できたりとか、結果最終的にいいものになってるっていうのがいいんですけど。映像ってこう本当に、さっきもあれしたけど時差があって、スタッフさんが「すごいいいシーンでしたよ」なんて言っててもね、いざ出来上がったらばっさりカットになってる時とかあったりしますから。もうそこはなんだろう、映像は自分の物差しでしかないのかな。ああ、ここもうちょっとこういう顔しときゃよかったとか、それはありますけどね。
確かにこのカメラがある映像作品、不思議なものですよね。不思議なものですよ。こんな部屋で切り取って、それを何十万人とか何百万人に渡す。何の手触りもないですもんね。だって切る人っていうのは1人か2人じゃないですか、この映像を。でそれはその人の価値観じゃないですか。だからそこはもう言えないですからね。
でその不思議さにこう向き合われてきて、ご自身で監督するとか、ご自身で編集するってことは。いや、それがもう今本当に、さっきも言いましたけど、インスタ始めたじゃないですか。はい。犬の動画を撮って、長いこと撮って編集すんのが今ものすごい好きなんですよ。動画編集ですか。そう、犬の声、心の声を入れたりとか。へえ。音楽使ったりとか、自分の好きな。はいはい。誰にも邪魔されない自分だけのなんか作品じゃないですか。それがね、本当バカみたいに時間費やすんですけど。スマホで編集されてる?スマホで。それがもう嬉しくってしょうがない。
いつかそれは監督ということをやりたいという気持ちになるかもしれないですね。で今まさに映像ディレクターをやり始められてる。はい。あれも切りない世界ですもんね。切りないです。いや、意外と几帳面なんだな、自分って、っていう。そのちょっとのちょっとの秒数とか、この映像でパッてこの音楽にならないとやだとか、すごく細かいことが自分の中で分かって。
でも面白いのはさ、例えばその犬のインスタ動画、どれぐらいの長さか分からないんですが、長さによっても全く違う世界になるじゃないですか。はい。どれぐらいの長さのものやられてる時、1番こうしっくり来るとか、自分の世界だなって思われるかってありますか。ああ、面白い質問。でも3分超えるとグサだなと思う。あ、それ犬、犬の場合?犬のそうそう。今、あの出演された全ての映画を否定。そういうことなのか。えー、あ、そその犬動画の世界では3分以内に収まると、カチっと収まりがいいっていう感じがする。いい感じかなっていう。
ご自身が出られる作品の場合はどうですか。映画ですか、舞台ですか。映像作品の場合で。短編も考えられれば、90分ぐらいの映画も考えられれば、あるいはドラマでその10時間20時間あるっていう世界もあるじゃないですか。これでやっぱ時間の流れ方全然違うと思うんですが、1番しっくりくる時間の長さってどれぐらいなんだろうと思ったんですよね。
ああ、でもね、ダラダラしてんのが嫌い。あのなんとなくだらだらこう時を追ってくような映画あるじゃないですか。はい。あんま好きじゃないですね。でも往々にしてそういうのやってんですけど。なんかこうシュッとこうコンパクトにまとまってる日数の方が好きです。日数の物語とか。はい。『ヴァイブレータ』とかで、何日の物語でしたっけ、あれは。2週間。あ、10日の話か。10日の話で2週間で撮ったんです。実際に赤木さんとか登って、本当にロードムービーでやって。なるほど。でああいう風にこう、やっぱ物語が終わっちゃうんだなっていう、そういう切なさがある話は好きですね。『マディソン郡の橋』とか。ああ、なるほど。
で映画を見てる側としては、何分ぐらいで終わってほしいみたいな感覚とかありますか。ごくごく、1時間ぐらい、60分。60分。確かに60分で終わる映画は少ないですけど。少ない。でも60分強ぐらいで終わってくれると嬉しいですね。そういや、確かジャン=リュック・ゴダールが、あの人って多分ほぼ全ての映画が90分以内に終わってるんですよ。ああ。でそれが彼にとってすごい大事だって言ってて。そう思います。あの2時間半の時間を客から取る勇気がないって。ああ、ゴダールが。
ええ。でも90分ってつまんなくても許せる時間じゃないですか。あ、そうですよね。面白かったらああと。だってテレビドラマ1本の延長線上って感じですもんね。そうですね。なので微妙なドラマでも1話目は見てみるかっていう感覚でこなせるのが60分強ですよね。そうですね。90分はいいと思います。でも長い映画が多いですよね。多い。やっぱ監督が切れないんじゃないかな。そうですよね。でも切れない気持ちは分かりますよね。ものすごい非道な監督もいますけどね。バンバン切っちゃう人もいるけど、やっぱりこうみんなにありがとうっていう気持ちがあると長くなっちゃう。
いや、でも全くただの個人的な話なんですが、あの論文書く時とかも、放ってくとどんどん長くなっていくんですよ。色々やったことを詰め込みたくなるので。でもあの、いざ例えばそれを出版するとかなると、長さ制限とかある場合あって、でガッと切らなくちゃいけないってなるんですけど、まあよくよく考えてみると切れるんですよね。だからほとんどのものって、人間が自然、作り手が自然に入れられるものはこう入れてて、できるだけ豊かにしようとすると、多分長さとか分量は過剰になりすぎなんだろうなと思った次第です。
だから七五調で生活できたらいいですよね。七五調。だから七五調ってすごい便利じゃないですか、日本人。575。あ、575。はい。あ、俳句のようにやり取りする。そう。いっぱい言いたいことあるんだけど、575で考えるとものすごく限られてくるじゃないですか。はい。だから言いたいこといっぱいある時は575で考えるようにしてるんです、私。すごい提案ですね。なんかそうするとものすごいシンプルなんですよ。あ、これとこれとこれが言えればいい。記号とか全然無視ですよ。はい、で575で。
でも最近のテキストとかLINEとか、ちょっとそういう感じありますよね。ああ。昔の人とか、あのなんか書簡とか見るとなんかすごいじゃないですか。あのやり取りするだけで1つのあの作品みたいになってて、巨大な段落があって、みたいなのが。今の人たちもうスマホの一行で収まるやり取りを続けるじゃないですか。だからすごくそういうなんかぶつ切りで短くはなってんのかなと。その延長線上には、みんな575で話してる世界とか、本当にあり得る気もしてきましたね。そうですよ、忙しい世界ですからね。
はい。まあということで、そのなんか映画と芝居の世界からいらしていただいた寺島さんが、はい、ご提案が575でコミュニケーションするという。そうです。時短なのか時短じゃないのか、効率がいいのか悪いのか分からないような結末にたどり着きましたが、それが人間と世の中の複雑さなのかなと勝手に理解した次第です。はい、ということで、今日は難しい質問にも瀬戸内寂聴さんを召喚してお答えいただいた、長さんごめんなさい、長さん。歌舞伎座の前に寄っていただいて本当にありがとうございました。ありがとうございます。
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