寺島しのぶと成田悠輔が語る、歌舞伎の家に生まれた女優の「負けん気」と、短く語る表現

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概要

経済学者の成田悠輔がホストを務める対談番組『夜明け前のPLAYERS』に、女優の寺島しのぶが出演した。対談は、歌舞伎の家に生まれながら歌舞伎の舞台には立てなかった寺島の生い立ちから始まり、コンプライアンスで変わった表現の現場、演劇とメディアの今後、芝居の良し悪しの判断、作品の適切な長さへと進む。最後は、寺島が言いたいことを五七五に収めるという提案にたどり着いた。

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歌舞伎に「生まれながら拒否された」関係

成田はまず、芝居の一家に、それも歌舞伎という特殊な世界に生まれながら、演じることを仕事に選んだ理由を尋ねた。寺島の答えは「負けん気でしかない」というものだった。歌舞伎は男性ばかりの世界である。成田はこれを、演じる世界に生まれながらその世界から生まれつき拒まれている特殊な関係だと言い表し、寺島もそれに同意した。

寺島によれば、一人っ子だった頃はとても幸せだった。しかし弟が生まれたとき、周囲の目が一斉にそちらへ向いた瞬間があったように感じたという。寺島は、生まれたときからスカートを1枚も持っていないような子どもだった。『キャンディ・キャンディ』より戦隊ものの『ゴーグルファイブ』や『キン肉マン』が好きで、自分では男として生まれてきたような感覚があった。それでも、いざ歌舞伎をやるかどうかという段になると「女だからできない」と言われた。寺島はそのルールに納得がいかず、歌舞伎を見ない時期もあったと振り返る。

それでも演じたい気持ちはずっと持ち続け、この仕事に就いた。歌舞伎の華やかな楽屋や舞台、色彩には憧れしかなかったという。歌舞伎座に行くと妙にアドレナリンが出て、ずっとそこにいたくなり、目がらんらんとしてくる子どもだった。客席から見ている自分の立場をおかしいと感じてもいた。

のちに寺島は歌舞伎座の舞台にも立っている。初めて舞台から見た景色は本当に感動的だったと語る。ただ、その演目では客席が真っ暗だったので、明るいところで見てみたかったという思いも少し残っているそうだ。

自分の中の「男」と「女」がよくわからない

成田は、寺島が演じてきた役には女性性や男女の関係が濃密に表れるものが多いと指摘し、そうした作品を選び、得意としてきたことが生まれ育ちと関係しているのかと尋ねた。

寺島自身もそこは謎だと答えた。自分の中身が本当に男っぽいのか、それとも覗いてみればドロドロした女なのか、よくわからないという。ただ、男性に囲まれているほうが明らかにほっとする自分がいる。女子会に行くと居心地の悪さを感じてくるが、男性とならいつまででも話していられる。それが不思議だと寺島は言う。

では男性を演じたいかと問われると、寺島ははっきり「それはない」と答えた。50歳を一度超えたので、これからは周囲が驚くような役にも挑戦してみようと思っているが、特にこれがやりたいというものはないという。逆に「私の何が見たいですか」と成田に問い返した。

成田は、男とか女とかのラベルでは分けられない人間を演じたらどうなるか見てみたいと答えた。寺島を見ていると、男性性と女性性が表裏一体で、常にひっくり返っているように見えるからだという。その存在が、私たちがステレオタイプとして持っている男女の記号を乗り越えたり、ずらしたりする役を演じたら面白いのではないか、という提案だった。寺島は、それが物語になるのか、今ならどこまで大丈夫なのかと考え込み、「じゃあ人間じゃないものを考えてみるか」と応じた。二人は、性別を変えて女性になろうとする男性の物語がアニメにまで現れるほど増え、それに嫌悪感を持つ人も減ってきたと話した。

「みんな品行方正になってつまらなくなった」

話題は、ここ数十年で表現の現場から何がNGとして避けられるようになったか、そして演者本人の私生活に求められるものがどう変わったかに移った。成田は、かつての「かぶき者」のような生き方がもう許されなくなったと述べた。そのうえで、歌舞伎の世界で育ち、規範から外れかけた人物を多く演じてきた寺島が、この生きづらい社会とどう折り合いをつけているのかと尋ねた。

寺島の答えは率直だった。「正直、つまんなくなっちゃいましたよ」。今は誰もが品行方正で、現代劇のテーマも品行方正になっている。全員が品行方正だったらどうなってしまうのか、と寺島は言う。成田も、この20年ほどで一気に変わったと応じた。

そうしたなかで、寺島が今も「すごいことをやる」と感じるのが歌舞伎だ。首実検があり、切腹があり、近親相姦がある。そうした演目が今も存在している。もし歌舞伎までコンプライアンスを問われるようになったら、何もなくなってしまうだろうと寺島は言う。

成田は、犯人がシートベルトを締めてから逃走しなければならない世の中になったと冗談めかした。寺島は、タバコを吸う場面もNGになり、『3年B組金八先生』では教室が煙でもうもうとしていたと振り返った。寺島自身は、ちゃぶ台をひっくり返して叱る昭和の親父のような時代を生き、根性論でやってきた世代なので、今の人たちとのギャップを強く感じるという。成田は、寺島が古き良き時代と今の品行方正な時代のちょうど間にいる世代だと整理した。

歌舞伎座の敷居と、忙しい日常からの解放

歌舞伎の世界自体は変わっているのかと問われると、寺島はそこはわからないとしつつ、若い世代が頑張って新しいものを取り入れていると述べた。ただ、歌舞伎座のチケットは本当に高く、何度も通える値段ではない。年配の観客はこれから減っていくので、若い人に見てもらわなければどうにもならない。若い役者たちはそのために色々と考えているようだ、と寺島は語る。

成田が「確かに敷居は高めですよね」と言うと、寺島は、高いと思われてしまっている以上、そうではないと演者の側から発信しなければ絶対にだめだと答えた。成田は、覗いてみればお祭りのような雰囲気もあり、気楽に楽しめるものだと付け加えた。寺島によれば、昼の部で3本の芝居を見て1万8000円ほどなら、そんなに高いとは思わない。成田も時間あたりで考えれば高くないと同意した。寺島はむしろ、忙しい人たちが何時間も歌舞伎座にいたくないのではないかと見ている。

成田はそれを逆に捉えた。忙しい日常からあれほど解放してくれる場所はなかなかない。最近の解放の場は映画館、歌舞伎座や劇場、サウナくらいしかないと成田は言う。サウナが好きというより、さすがにスマホを持ち込めないのがいいのだという。一度持ち込んで本当に壊したことがあり、それで学んだと笑う。スマホから離れられる場所がほとんどなくなった今、そこに可能性があるのではないかと成田は述べた。

21世紀の演劇は「観客が参加する」ものになるか

ここから成田は、演劇や物語体験の今後について自分の見立てを語った。スマホの時代になって映像作品を見る体験は急に貧しくなったが、今後は再び豊かになる可能性もあるのではないかという。たとえばヘッドマウントディスプレイで周囲360度に映像が広がれば、歌舞伎座の舞台の上に座っているような感覚で芝居を見られるかもしれない。新しいデジタル技術やデバイスだからこそできる演劇体験がありうる、というのが成田の考えだ。

実例として成田が挙げたのは、ニューヨークの『スリープ・ノー・モア』である。成田によれば、これは演劇と呼べるかどうかもわからないもので、マンションのような建物全体を使い、中のさまざまな場所で芝居やダンスが同時並行で進む。観客は建物の中を歩き回り、好きなものを好きなタイミングで見る。その結果、観客ごとに独自の作品が立ち現れ、人によって見ているものが違う。成田は、こうしたことが建物を丸ごと使わなくてもできるようになり、長い目で見れば観客自身が参加者として中に入っていけるようになるかもしれないと述べた。

これまでの芝居や映画は、そこにある物語を観客が受動的に見るものだった。しかし観客が関わって物語を作り直すようになれば、役者と観客の境目が曖昧になる。成田は、それが21世紀の演劇の姿として現れてくるのではないかと語った。

語り部の時代に戻るという見立て

成田はこの変化が演劇に限らず、あらゆる領域で起きるのではないかと話を広げた。小説でも映画でも、作り手が作ったものを読み手や観客が与えられたものとして体験するのが基本だった。成田はこれを20世紀的なあり方だと考えている。

今後は小説も、生成AIやGPTのような語り部的な存在に話しかけると物語の冒頭を語ってくれ、それに質問やリアクションを返すと物語が分岐していくような形になるのではないか、と成田は予想する。寺島は「うわあ、大変」と反応した。

成田によれば、これは昔のあり方への回帰でもある。何百年も前、本がなかった時代には、語り部が話し、周りが野次馬のように茶々を入れながら、その場その場で物語が立ち上がっていた。今後は一人ひとりが自分の語り部を持てるようになり、見る側と作る側が一緒に作る対話型の物語や劇が主流になる。成田はそれを「語りの時代にもう一度戻る」と表現し、今はその過渡期にいるという感覚を語った。逆に言えば、20世紀的なメディアやエンターテインメント、アートの形を直に体験できた最後の人類が、ちょうど今の世代になるのかもしれない、と成田は付け加えた。

凶悪犯を演じても嫌悪感はない

後半、成田は寺島の役づくりについて尋ねた。あれだけ癖の強いキャラクターを演じるなら、違和感や嫌悪感が強すぎると演じにくいのではないか、という問いである。

寺島は、それが今までないと答えた。凶悪犯の役も数多く演じてきたが、かわいそうに思えてくるという。言ってはいけないことかもしれないと断りつつ、その人にはその人なりのドラマがあり、どういう育ち方をしたからこうなったのかと考えていくと、同情している自分もいる。そうして、こんな悪さをしていても、この人はこういうところで救われていたのだ、と思える部分がどこかにあると寺島は語る。

芝居の良し悪しは何で決まるのか

成田は続けて、芝居の良し悪しはどう判断されるのかと問うた。測れるものではないし、人気投票すればよいわけでもない。準備の過程で、向かうべき方向に向かっているかをどう判断しているのかが気になるという。

寺島によれば、そのプロセスは舞台のほうがわかりやすい。舞台では、その場のお客さんの空気や人のぬくもりを感じながら進められる。それをもとに修正でき、千秋楽にはいいものになっているのがいいところだという。

一方、映像には時差がある。撮影中にスタッフから「すごくいいシーンでした」と言われても、完成してみるとばっさりカットされていることがある。だから映像については、結局は自分の物差ししかないのかもしれない、と寺島は語る。後から「ここはもう少しこういう顔をしておけばよかった」と思うことはあるそうだ。

成田は、カメラで切り取った映像を何十万、何百万人に渡すのは、何の手触りもない不思議なものだと応じた。寺島も、映像を切るのは1人か2人で、それはその人の価値観なので、そこは何も言えないと付け加えた。

犬の動画編集に夢中になる

その不思議さと向き合ってきた寺島が、自分で監督や編集をすることはあるのか。成田がそう問うと、寺島は最近の楽しみを語った。インスタグラムを始め、犬の動画を長時間撮って編集するのが今ものすごく好きなのだという。

編集はスマホで行い、犬の心の声を入れたり、自分の好きな音楽を使ったりする。誰にも邪魔されない自分だけの作品で、ばかみたいに時間を費やしてしまうが、それが嬉しくてしょうがないと寺島は言う。いつか監督をやりたい気持ちになるかもしれない、とも述べた。

編集をしてみて、寺島は自分が意外と几帳面だと気づいたという。ほんのわずかな秒数や、この映像でパッとこの音楽にならないと嫌だといった細かいこだわりが、自分の中にはっきりあるとわかった。

作品の長さ、「3分」と「60分」

成田は、動画は長さによってまったく違う世界になると指摘し、どのくらいの長さが一番しっくりくるかと尋ねた。寺島の答えは、犬の動画なら3分を超えるとぐだぐだになる、というものだった。3分以内に収まるとかちっとして収まりがいいと感じるという。

では自身が出演する映像作品ならどうか。短編、90分ほどの映画、10時間、20時間に及ぶドラマでは時間の流れ方がまったく違う。この問いに寺島は、だらだらしたものが嫌いだと答えた。なんとなく時間を追っていくような映画はあまり好きではない。自分はそういう作品によく出ているけれど、と笑いながら付け加えつつ、コンパクトにまとまった、数日間の物語が好きだという。

例に挙げたのが主演作『ヴァイブレータ』である。寺島によれば10日間の物語で、2週間かけて実際にロードムービーとして撮影した。物語が終わってしまうという切なさがある作品が好きだと寺島は語る。

観客としては何分で終わってほしいか。寺島は「ごくごく個人的には60分」と答えた。60分で終わる映画は少ないが、そのくらいで終わってくれると嬉しいという。

成田はここでジャン=リュック・ゴダールの例を出した。成田によれば、ゴダールの映画はほぼすべて90分以内に収まっており、ゴダール自身も、2時間半もの時間を客から奪う勇気がないと語っていたという。成田は、90分はつまらなくても許せる時間で、60分ならテレビドラマ1話の延長で、微妙そうなドラマでも1話目は見てみるかという感覚でこなせる長さだと述べた。

それなのになぜ長い映画が多いのか。寺島は、監督が切れないのではないかと見ている。ただ、切れない気持ちもわかるという。ばんばん切る監督もいるが、関わったみんなに「ありがとう」という気持ちがあると長くなってしまうのだろう、というのが寺島の見方だ。

成田は自分の論文執筆を例に挙げた。放っておくと、やったことを全部詰め込みたくなって、どんどん長くなる。しかし出版時に長さ制限があって大きく削らなければならなくなると、よく考えれば削れる。作り手が自然に入れたいものを入れて、できるだけ豊かにしようとすると、長さや分量はたいてい過剰になるのだろう、と成田は述べた。

五七五で生活するという提案

この話を受けて、寺島は「五七五で生活できたらいいですよね」と提案した。言いたいことがたくさんあるときこそ、俳句のように五七五で考えるようにしているという。そうすると伝えるべきことがものすごく限られ、シンプルになる。これとこれとこれが言えればいい、と絞れるのだそうだ。

成田はこれを最近のテキストのやり取りと結びつけた。昔の人の書簡は、やり取りそのものが一つの作品のようで、巨大な段落があった。一方で今の人たちは、スマホの一行に収まるやり取りを続けている。コミュニケーションはぶつ切りで短くなっており、その延長線上には、みんなが五七五で話す世界も本当にありうる気がしてきた、と成田は話した。寺島は「忙しい世界ですからね」と応じた。

成田は対談を、映画と芝居の世界から来た寺島がたどり着いた提案が五七五でのコミュニケーションだったと締めくくった。そして、それが時短なのか、効率がいいのか悪いのかもわからない結末だとし、それが人間と世の中の複雑さなのだろうと勝手に理解した、と述べた。