野村万作が語る狂言の稽古、型の変え方、「残す」と「残ってしまう」の違い

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概要

経済学者の成田悠輔が、狂言師で人間国宝の野村万作を稽古場に訪ねた対談である。1931年生まれの野村は番組史上最年長のゲストで、この収録時点でも新しい演目の稽古に取り組んでいた。話題は、新作狂言や他ジャンルとの融合、長大な演目「釣狐」のための体づくり、師匠である父から受け継いだ型をどこまで変えるか、映像化で得た発見、そして芸が記録として残ることの意味にまで及んだ。

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稽古場と、いま取り組んでいる「右流左止」

対談の場所は野村家の稽古専用の舞台で、客が座ることはほとんどないという。普段の過ごし方を聞かれた野村は、弟子に稽古をつける日もあれば自分の稽古をする日もあると答えた。収録時は、月の半ば過ぎに初めて演じる難しい役の稽古中で、「頭が混乱している」と話した。

その演目は古い曲だが、野村自身は演じたことがない。菅原道真ともう二人の男、あわせて三人の葛藤を扱う不思議な作品だという。西国の男が京都見物に向かう途中、明石の茶屋に立ち寄る。茶屋の亭主は茶を出し、あれが明石の浦、あれが淡路島、ここが住吉と景色を教える。ところが旅の男が「あなたは一人者か」と尋ねると、亭主は途端に「うるさや、うるさや」と嫌がる。題名の「うるさし」は「右流左止」の四文字で書く。なぜ嫌がったのか、「うるさし」とはどういうときに使う言葉なのかを、亭主が菅原道真の話から延々と語る構成になっている。

この語りが長く、覚えにくいと野村は言う。能舞台にはプロンプターがほとんどいない。周囲に相談すると、見台に台本を置いて見ながら演じればよいと勧められたが、野村は「それはまだやりたくない」と考えているという。

新作狂言と他ジャンルとの融合

新しいものへの取り組み方を問われると、野村は20代の経験から話し始めた。関西の演出家・武智鉄二の演出で、一回り年上の茂山千作と共演したのが、新しいことに挑んだ最初の頃だという。木下順二の戯曲「彦市ばなし」や「夕鶴」が、能の形式や狂言の形式に置き換えられて上演された時期があった。野村によれば、置き換えといっても直す箇所はほとんどなく、「夕鶴」はそのまま能になり、「彦市ばなし」はそのまま狂言になったという。

ほかにもシェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」、武者小路実篤の「仏陀と孫悟空」を手がけた。東大でシェイクスピアを翻訳していた高橋康也とは、オペラにもなっている好色な大男フォルスタッフを題材に、新作狂言「法螺侍」を作り、海外公演にも持っていった。「それは楽しかった」と野村は振り返る。数は多くないが、新しいものと狂言を融合させる試みには比較的積極的だったという。

話の途中で野村は、自分が着ている着物が、共演した能役者の形見分けだと明かした。7〜8歳上の、非常に優れた役者で、尊敬していた人物だという。その妻は劇団青年座の創立メンバーの一人で新劇の俳優だった関弘子だと、野村は人名を次々と挙げながら説明した。名前が出てこないと言っていたわりに驚くほど名前が出てくる、と成田が指摘する場面もあった。

狂言の笑いは何を目指すか

能、新劇、オペラと多くの舞台芸術に関わってきた野村に、成田は狂言の特徴を尋ねた。野村は、狂言は喜劇と言われるが、西洋のコメディと日本の喜劇が同じものかどうかは分からず、どこか違うのではないかと思っていると答えた。

野村によると、狂言は254番が伝わっており、その4分の3以上は観客の笑いを求める演目である。一方で、笑いがまったくなく悲劇的な作品も少しある。自分たちは「喜劇だから笑わせる」ことに努めようとは思っていない、と野村は言う。美しく、形をきちんと、という考え方で、狂言を単なる笑いより一段上に持っていきたいと努力してきたという。爆笑を狙う作品は実際にはあまりない、というのが野村の認識である。

1時間15分の「釣狐」と、ボクサーのような稽古

一段上の笑いが最も凝縮された作品はどれかと問われ、野村は自分の中にいくつかあるとしたうえで、26回か28回演じた「釣狐」を挙げた。あまり人が演じない難しい曲である。通常の狂言が20〜30分ほどなのに対し、釣狐は1時間15分かかる。

狐が人間の僧に化けるという筋のため、演者は下に狐のぬいぐるみを着て、その上に僧の衣装を重ね、僧の面をつける。前半では、狐が狐を釣る猟師のもとへ行き、狐を釣るなと説教する。しかし説教は失敗し、罠を張られて一度は釣り取られそうになり、なんとか逃げていく。

野村は「自分で言うのはおかしいが」と断りつつ、運動神経が比較的あったので、狐の動きの鋭さに憧れたと話した。狸なら柔らかく演じるが、狐は鋭く演じる。多くの演者は一、二度やって体力的にも懲りてしまうが、野村は何度も挑戦した。毎回うまくいったわけではないが、一度演じると具合の悪いところが見つかり、次はどうだと試せたという。

そのための稽古として、野村は15階建てのマンションに住んでいた頃、毎日15階まで駆け上がり、下の公園で縄跳びを300回跳んでから稽古に臨んだという。成田が「試合に向かうボクサーの生活のようだ」と言うと、野村も同意した。

野球と相撲に見る「美しい運動」

ボクサーの話から、野村は野球と相撲に話を広げた。自分の仕事と結びつけてよいかは別として、と前置きしたうえで、福岡ソフトバンクホークスの監督が「美しい野球をやりたい」と発言したのを聞き、いいことを言うと思ったと話す。監督がどういう意味で言ったのかは記憶にないが、野村は1番打者の周東の盗塁を例に挙げた。一塁から二塁へ足が実に綺麗に運び、失敗がほとんどない。そうしたことも美しさの一つではないか、というのが野村の解釈である。

野村は昔の南海ホークスのファンでもあった。内野手は小柄な選手ばかりで、名前が変わった監督の鶴岡、ファーストの岡本らの華麗な守備を記憶していると、選手名を次々に挙げてみせた。相撲についても、張り手を多用して引っぱたくような取り口は、芸としても運動としても美しいと思わないと話し、「ちょっと偏っているかな」と付け加えた。

成田は、狂言を語るときより野球と相撲を語るときの方が生き生きしていると冗談を言った。そのうえで、狂言には言葉と同時にさまざまな動きがあり、一人の役者が狐を演じたかと思えば狸や人間や猿も演じる、何もない舞台に一人の体から全てが生まれるところに狂言のすごさがあるのではないか、と述べた。

野村はこれを「大変ありがたい」と受け止めた。松の絵しか描かれていない舞台で全てを表現しようとするのは贅沢であり、それだけに難しいという。例えば幕から橋掛かりに出てくるとき、どう止まるか、歩く速さをどう変化させるか。狐なら素早く、狸なら重く歩くといった、さまざまなものが伝統の中に伝わってきている、と野村は説明した。

師匠がいなくなってから変わる解釈 ——「川上」

成田は、同じ作品を長く繰り返し演じるなかで解釈は変わるのかと尋ねた。例に挙がったのは、ドキュメンタリー映画『六つの顔』に収められた「川上」である。野村は、師匠である父がいた頃といなくなってからでは随分変わると答えた。父が亡くなってから、川上をどう演じるかは自分の発想から出てくるようになった。父から習っていないことを試したい、あるいはこれはやってはいけない、と考えるようになったという。

映画では一か所だけ、これまでやったことのない動きを入れた。盲目の男が寺に籠もり、夢に仏が現れる場面である。仏のお告げには妻と別れろという話も含まれる。その夢で仏が御簾を上げ、自分の体を三度まで撫でさせたと語るところに、野村は自分で考えた所作をつけた。それまでは言葉だけで、所作はなかったという。

もう一つは、目が開く場面で繰り返す「南無地蔵大菩薩」の回数である。古い本を見ると、父に習ったより四つほど多く書かれていた。言葉をこれだけ重ねている間に目が開いていく、その瞬間の感じが実にいいと野村は考えた。二回唱えてふっと見たら開いていた、ではつまらない。開いているのかいないのか分からないまま唱え続け、「おや、目が開いた」となる瞬間の思いを映画でも表現した、と野村は話す。あまり違えないつもりだが、父から習ったものを多少変えた箇所だという。

父の存命中にそんなことはできなかったのかと成田が聞くと、野村は「もちろん」と答えた。ただ、父の生前にも違いはあったという。野村は4歳下の叔父(父の弟)と川上を十数度演じ、自分が妻の役を務めた。妻が仏のお告げを聞いて泣く場面で、叔父は膝をついて泣いたが、父は立ったまま泣いていた。道端で膝をついて泣くことはないだろう、立ったまま泣く方がよい、というのが父の考えではないかと野村は推測する。ところが古い台本には膝をついて泣くと書いてある。だから父も叔父も、師匠から受けたものだけでなく、自分の思いでこうやりたいということがたくさんあったのではないか、と野村は考えている。今後は自分の芝居も変わっていくのでは、と成田が言うと、年を重ねたらもっと激しくなるのではないか、と野村は笑った。

映像で見て気づいたこと

映画で自分の演技を見て新しい発見はあったか。野村はあると答え、盲目の人の表現を例に挙げた。一般の芝居では盲目の人をある姿勢で演じることが多いが、映画に映った自分は前傾で、杖をつきながら手を差し出して物とぶつかるのを避けていた。これは能とも共通だという。能にも盲目の人物がいくつか出てくるが、やはり前傾で体が前にかかり、杖をつく。江戸時代以降の盲目の人の表現と、狂言や能の表現は違うのだと、野村はつくづく思っているという。

成田は、映画にはカメラによる「第三の目」があり、劇場では見えない見え方をすると指摘した。野村によれば、上空から見下ろす構図で映画に入っているのは「釣狐」の狐の場面である。観世能楽堂がまだ大曲にあった頃、2階からカメラマンが撮影したため、餌と狙う狐がうまく一つの構図に収まった。野村はこの映像がNHKにあると思いつき、探してもらって今回の映画に使ったという。もう一つ、正面とは反対側から、お堂に座って「南無地蔵大菩薩」と拝む人物を撮ったショットがあり、野村は「おや」と思い、面白い場面だと感じたという。

自分の後ろ姿は自分では見られないものの代表だ、と成田が言い、世阿弥の「離見の見」を引いて、離れた第三の目から見ることをある意味で実現しているのがこの映画ではないかと述べた。野村は、そう見てもらえると世阿弥も喜ぶだろうと応じた。

何でもやってきたわけではない ——「ゴドーを待ちながら」

成田は、600年後の狂言は何をしているかと問いかけた。野村は、何をやっても狂言という感じになるのでは、と前置きし、ベケットの「ゴドーを待ちながら」の話をした。この作品を狂言師が上演したことがあり、中心になったのは着物をくれたあの親友だった。野村は「私はやれませんよ」と降りてしまい、上演は兄やその親友たちが行った。そうした前衛劇を狂言の人間がやれるとは思わなかったという。

それ以前にも、岩田豊雄、つまり獅子文六から、「ゴドーを待ちながら」という面白いものがあるからやってみたらどうかと勧められたことがあった。しかし野村は、狂言師には無理だと思った。だから何でもかんでもやってきたわけではなく、選別しながらやってきた、と野村は振り返る。

「残す」ことと「残ってしまう」こと

成田は、野村は生涯を通じて多くの演技が映像として残った、ある意味で最初の世代だと指摘した。それを学習したAIアバターが600年後も演じているかもしれない、良いことか悪いことかは分からないが、と投げかけた。

野村の答えは、残そうとする精神はいいが、「残っている」のとは少し違うのではないか、というものだった。そして、残るのであれば、自分が見てきた先輩の芸が残っていればよかったと語った。

例に挙げたのは「木六駄」である。父も演じたが、大蔵流で父より7〜8歳上の名人・善竹弥五郎の舞台を野村は見ている。大雪の中、太郎冠者が12頭の牛を追い、奥丹波から京都へ向かう。牛には薪や炭が積まれ、太郎冠者は酒樽を一つ持ち、鞭を手にしている。何もない舞台で12頭の牛を表現するのは、先ほど話に出た「贅沢さ」そのものだと野村は言う。善竹弥五郎が牛を追うときの「させほうせい」という声を、野村はいまも覚えている。いかにも寒い雪の中の厳しさが出ていて、そのピンと張った声をなんとか真似したいと思ったという。野村はその場で声を出して再現してみせた。

物語の後半、太郎冠者は峠の茶屋で酒が飲みたくなる。茶屋も酒を切らしていたため、持っている酒を飲めということになり、土産に届けるはずの酒を飲んでしまう。酔ってへべれけになったまま、伯父のもとへ使いに行く。

成田が、それはいまや野村の記憶の中だけにあるのかと確かめると、野村はそうだと認めた。善竹弥五郎自身も牛を追う声のことを息子や孫たちに伝えていたという。そして野村は、自分がいま出そうとしている声の響きは、その先輩の真似に違いないと話した。

成田は、先輩たちの演技は失われたが、野村の演技は残ってしまう、と応じた。子、孫、ひ孫と世代をたどった九世代先を「雲孫」と呼び、300年ほど先にあたるらしいと紹介し、野村は残るので野村家の雲孫と共演できるのではないか、と話した。

最後に演じるなら ——袴だけの「釣狐」

最後に成田は、「最後の晩餐」になぞらえて、人生最後に演じるなら何を選ぶかを尋ねた。野村は再び「釣狐」を挙げた。60代を過ぎてからは、衣装を着けず着物と袴で演じたという。衣装があるということはそれだけ着飾っているということで、衣装がない方がその人の芸がにじみ出てくるはずだ、というのが野村の考えである。

最後の晩餐には酒が欲しいが、着物と袴があれば釣狐は袴でできる、と野村は話した。成田が、最後は袴姿で酒を一口飲んでいるだけで最高の芝居になるのではと言うと、野村は「なんだか自分の生活が見えちゃったような気がしますけどね」と笑って応じ、対談は終わった。