デヴィ夫人が語る読書、インドネシア、そして最も忘れられない日

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概要

経済学者の成田悠輔がホストを務める対談番組『夜明け前のPLAYERS』に、元インドネシア大統領夫人のデヴィ・スカルノが出演した。成田が最初に尋ねたのは、大統領夫人として社交界に身を置く一方で、日本のバラエティ番組ではイルカと戯れ、都知事選では田母神俊雄を推す政治活動までする夫人を「突き動かしているもの」は何か、という点である。夫人は子ども時代の読書、歴史に名を残したいという願い、そしてスカルノ大統領の危篤を知ってインドネシアへ戻った日の体験を語り、最後に自分のエネルギー源は「怒り」だと述べた。

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アラン・ドロンの文章から始まる対談

番組の冒頭で、成田は俳優アラン・ドロンがデヴィ夫人について書いた文章を朗読した。ドロンは1964年の東京オリンピック開会式に出席するため来日しており、記者や警備の者と帝国ホテル地下のショッピングアーケードを歩いていたところ、スカルノ大統領夫妻の一行と出会った。大統領はドロンに気づいて手を差し伸べ、「お会いできて光栄です」と言い、寄り添っていた夫人を紹介したという。ドロンはその時点で、これが「かのデヴィ」であると見てとっていた。のちに大統領が亡くなり、夫人がパリに居を構えてからは度々顔を合わせるようになったと書き、邂逅から30年が経っても「我が人生の貴重な閃光」として記憶に生き続けている、と結んでいる。

夫人は成田がこの文章を見つけてきたことに驚いた様子だった。成田と夫人はこの日が完全に初対面で、成田はテレビやYouTube、本を通じて知っているだけなので緊張していると述べた。夫人は成田の足袋のような「靴下のような靴」と、片方が丸く片方が四角い眼鏡に興味を示した。成田によれば、元々は趣味だった眼鏡が最近は「芸人の小道具」と思われているが、視力は0.0台で度はしっかり入っており、これがないと夫人とモンスターの区別もつかないという。夫人のブローチはピンクサファイアと淡いブルーのサファイアでできた花の形で、両方ともサファイアだと説明された。

読書で身につけた「なりきる」力

知識と教養をどう身につけたのかという問いに、夫人はまず、子どもの頃にはテレビがなかったことを挙げた。日本でテレビが普及し始めたのは現在の上皇陛下のご婚約発表の頃だったと思うと言い、それまでは読書が唯一の楽しみだったという。

夫人の読書は、登場人物に「なりきる」ものだった。トルストイの『戦争と平和』を読めばナターシャに、バルザックの『谷間の百合』を読めばアンリエット・ド・モルソフ伯爵夫人に、スタンダールの『赤と黒』を読めばその登場人物になりきった。そのためフランス貴族社会の流れがよく分かっており、後にパリに着いたときには「水を得た魚のように」泳げたと夫人は振り返る。成田が、子どもの頃の読書体験がたまたまつながったということかと確認すると、夫人はそうだと答えた。

ツヴァイク『マリー・アントワネット』という「バイブル」

夫人がとくに重要な一冊として挙げたのが、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』である。夫人の理解では、ツヴァイクはマリー・アントワネットの唯一の罪を、王妃として幸せになろうとせず、女性として幸せになろうとしたことだと書いていた。この一文が、インドネシアへ渡ったときの夫人にとって唯一のバイブルになったという。

夫人はそこから、女性としての幸せを願うのではなく、大統領夫人として、あるいは大統領に仕える者として、ベストセクレタリー、ベストアシスタント、ベストコンパニオン、ベストコムレードになろうと決めた。辛いこと、悲しいこと、苛立つことにはいろいろ遭ったが、そのたびに「こういう風にすればいいんだ」という指針がこの言葉にあった、と夫人は語った。

画家志望から女優志望へ

インドネシアへ行くまでの経緯を尋ねられると、夫人は子ども時代の夢から話し始めた。2歳ぐらいから絵を描き、周囲に「天才だ」ともてはやされたため画家になろうと考えていた。母親が内職をして先生につけてくれたが、その師である岡田雪子(字幕表記による)は、後に東京藝術大学の名誉教授になった人物でありながら、作品を出展するたびに男性の名前で出していたという。当時、女流画家の絵には値段がつかなかったからだと夫人は説明する。

夫人は、今でも女性画家の作品は男性画家より価格が低いと思うと述べ、何億円もの値がつき世界のトップ10に入るような草間彌生は「奇跡」だと評した。画家になっても母と弟を養うことはできないと考え、方向転換したという。

転機は、母に連れられて新橋演舞場で水谷八重子と花柳章太郎の舞台を観たことだった。強く感動した夫人は、女優なら学歴は関係ないと考え、女優を目指した。当時、国際俳優として知られていた早川雪洲が『戦場にかける橋』などに出演しており、その早川が六本木付近の材木町の駅前に置いていたプロダクション(字幕では「峠プロダクション」)に入団した。演技、歌、ダンスを学び、実践としてテレビの端役や映画の子役的な役、つまりセリフがあったりなかったりするエキストラに出ていたという。16歳の頃で、ちょうどテレビが出てきた時期だった。そこで出会ったのが浅丘ルリ子で、浅丘は14歳で映画『緑はるかに』に抜擢されてすでにスターだった。今でも仲良くしているという。

帝国ホテルでの出会いとインドネシア行きの決断

当時の夫人は千代田生命で働きながら、夜は三田高校に通っていた。その頃知り合った女性のボーイフレンドがインドネシアと仕事をしており、彼らと一緒に、エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトが出演した映画『愛情の花咲く樹』(原題Raintree County)を観に行った。その待ち合わせ場所が、フランク・ロイド・ライト設計の旧帝国ホテルで、そこでスカルノ大統領と出会った。

インドネシアへ実際に渡った経緯については「長いお話になっちゃう」として詳細は語らなかったが、行けたのは若くて冒険好きだったからで、30歳を過ぎていろいろ経験し贅沢もしていたら行かなかっただろうと夫人は言う。当時は結婚するべきか、外国の人と結婚するかどうかなど悩みを抱えた「スランプ状態」でもあった。そこへ「インドネシアに2週間遊びにいらっしゃいませんか」と招待があり、外国へ行けば何かひらめくものがあるかもしれないと考えた。

夫人はさらに、自身の原体験として戦後の記憶を語った。疎開先から戻った東京はまだ焼け野原で、見上げると満天の星が見えた。今は高層ビルが立ち並び明かりもついていて星は見えないが、そのとき「いつか世界に飛び立ちたい」と思ったという。

「歴史上なかった存在」として残るための準備

夫人は歴史が大好きで、歴史の成績はすべて5だったと語る。そして、いつか歴史上なかった存在として名を残したい、そういう存在になりたいとずっと思っていた。インドネシアへの招待は「これがチャンスでは」と思えたという。

成田が、最初から歴史の教科書に残るようなことをイメージしていたのかと驚くと、夫人は、そうなったら絶対に自伝や伝記を書くことになると考え、小学生の頃から資料を保存してきたと明かした。大きな茶箱5つに、当時の通信簿、描いた絵、先生と交わした手紙、新聞の切り抜きまですべて保管している。伝記を書くときに、自分が生まれ育った時代に何があったかを調べるのは大変だと思ったからで、新聞のクリッピングは癖になり、今も続けているという。

成田が「これからデヴィ資料館ができる」と言うと、夫人はまさに今悩んでいるところだと答えた。美空ひばり館や北島三郎館があったが、今の若い人に美空ひばりや北島三郎と言ってもピンとこない人が多く、結局どちらもクローズした。自分の場合、永遠に人が見に来る館にするにはどうしたらいいかを考えているという。成田は、デヴィ夫人のAIゴーストのようなものを作り、未来永劫みんなの人生相談に乗り続けるのがいいのではと提案し、夫人も同意した。

10年ごとに移る拠点

成田は夫人の人生が20〜30年ごとにリセットされ、新天地に移っているように見えると指摘した。夫人は「every 10 years」だと応じ、経歴を整理した。20歳ぐらいでインドネシアへ渡り、30歳でパリに亡命して10年間住み、再びインドネシアへ戻って石油とガスのプラントの仕事をした。1990年からはニューヨークに住み、2000年に日本へ戻った。成田のまとめによれば、日本で20年、海外で40年近くを過ごし、帰国後さらに20年強になる。

最も鮮烈な記憶:スカルノ危篤の報とインドネシアへの帰国

激動の人生で最も強烈だった瞬間を問われ、夫人が挙げたのはスカルノ大統領の最期に駆けつけた日のことである。大統領は幽閉されたままで、パリのマンションにいた夫人のもとにAP通信の記者から電話があり、大統領が昏睡状態に陥ったと知らされた。夫人はそれで初めて事態を知り、その場でインタビューを受けた。

夫人は娘のために飼っていた鳥や金魚など、生き物の整理だけをして、取るものもとりあえずインドネシアへ帰ろうと決めた。フランスの友人たちは、そんなことをしたら絶対に殺される、娘のカリナのためにも行ってはいけないと止めた。夫人は自民党副総裁の川島正次郎に電話し、日本政府が安全を守ってくれないかと頼んだが、数時間後に「日本政府は何にもできません」と返答されたという。

そこで夫人は、スカルノ大統領に心酔していたオランダ人記者(字幕では「ウィリアム・ウルトマン」)に電話し、一緒に来てほしい、自分が殺されるならその有様を全世界に知らせてほしいと頼んだ。記者は喜んで同行を引き受けた。

遅れた便を待ったJAL

計画では、パリからエールフランスでバンコクへ飛び、日本から来るJAL便に乗り換えてシンガポール経由でジャカルタに入る予定だった。ところがエールフランス便が2時間遅れ、乗り継ぎに間に合わない状況になった。一方、夫人は小学館の編集長などに出発を電話で伝えていたため、パリを出たことは日本側に知られていた。同行記者はインドネシアのビザを手配する必要もあり、結果として動きはスハルト派の人間たちの知るところになった、と夫人は語る。

バンコクに着くと、インドネシア大使館の人々が待ち構えており、同行のオランダ人記者は飛行機から引きずり降ろされた。それでもJALは、満席の乗客を乗せたまま2時間夫人を待っていたという。通常なら空港に入って乗り換えるところ、空港には入らず、飛行機から飛行機へ滑走路の上を歩いて移ったと夫人は説明する。

JALがそこまでしてくれた理由について、夫人は、東京—ジャカルタ間の航路を開いたのは自分だからだと語った。JALの幹部がジャカルタへ来て路線の認可を求めた際、夫人が大統領に頼み、JALが東京—ジャカルタ間を飛べるようになった。そのためJALが恩義を感じていたのかもしれない、と夫人は言う。もしこの乗り継ぎに間に合わなければ、大統領の死に目には会えていなかったという。

シンガポールでの警告と、機内での祈り

嫌な予感は続いた。シンガポールに着くと、今度はインドネシア大使館の武官たちが待っており、ジャカルタへの入国は許可できないと告げた。夫人は、自分はインドネシアのパスポートと国籍を持っている、自分の国へ帰るのに誰にも左右されない、と返した。すると武官たちは、それならあなたの身の安全は保障できないかもしれないと言った。夫人は「いいですよ」と答え、誰の許可もいらないとして飛行機に乗った。

機内で隣に座っていた朝日新聞の記者がちらりと見えた原稿は、スカルノ大統領の死亡記事だった。大統領はまだ亡くなっていなかったが、新聞記者とはこうして予備の記事を書いておくものなのだと夫人は思ったという。

そのとき夫人が祈ったのは、もし自分が殺されるのなら、20秒でも1分でもいいから、我が娘を我が手で殺す時間と力を与えてください、ということだった。娘は3歳3カ月で、夫人の隣にいた。我が子が敵の手に落ちることは考えられず、たとえ自分が撃たれても娘を先に死なせるだけの力を与えてほしいと神に祈った。これが最も強い、鮮烈な思い出だと夫人は述べた。

鮮明な昔の記憶と、忘れる昨夜

成田は、半世紀以上前の出来事について人名や作品名が次々に出てくる記憶の鮮明さに驚いた。夫人は、昔のことは鮮明に覚えているが、朝何を食べたか、昨日誰とどこへ出かけたかは忘れていると答えた。毎晩シャンパンを飲んでぐっすり寝るので、朝には昨夜のことを何も思い出せないという。成田も、自分も昨日誰に送られて帰ってきたか全然覚えていないと応じた。

エネルギー源は「怒り」

対談の終盤、夫人は自分のエネルギーは怒りから来ていると語り、日本の政治家は何をしているのかと本当に思うと述べた。夫人が例に挙げたのは、尖閣諸島周辺で中国海警局の船が横行しているのに自衛隊も海上保安庁も手を出せないでいること、北朝鮮が次々にミサイルを撃ってきても何もできないことである。それにもかかわらず、LGBTに関する法律はあっという間に通過した、LGBTがあんなに簡単に通過するなら憲法第9条もすぐに直せるはずだ——と夫人が主張しかけたところで、字幕は途切れている。