デヴィ夫人が語る読書、インドネシア、そして最も忘れられない日
PLAYERS公式経済学者の成田悠輔がホストを務める対談番組『夜明け前のPLAYERS』に、元インドネシア大統領夫人のデヴィ・スカルノが出演した。成田が最初に尋ねたのは、大統領夫人として社交界に身を置く一方で、日本のバラエティ番組ではイルカと戯れ、都知事選では田母神俊雄を推す政治活動までする夫人を「突き動かしているもの」は何か、という点である。夫人は子ども時代の読書、歴史に名を残したいという願い、そしてスカルノ大統領の危篤を知ってインドネシアへ戻った日の体験を語り、最後に自分のエネルギー源は「怒り」だと述べた。
アラン・ドロンの文章から始まる対談
番組の冒頭で、成田は俳優アラン・ドロンがデヴィ夫人について書いた文章を朗読した。ドロンは1964年の東京オリンピック開会式に出席するため来日しており、記者や警備の者と帝国ホテル地下のショッピングアーケードを歩いていたところ、スカルノ大統領夫妻の一行と出会った。大統領はドロンに気づいて手を差し伸べ、「お会いできて光栄です」と言い、寄り添っていた夫人を紹介したという。ドロンはその時点で、これが「かのデヴィ」であると見てとっていた。のちに大統領が亡くなり、夫人がパリに居を構えてからは度々顔を合わせるようになったと書き、邂逅から30年が経っても「我が人生の貴重な閃光」として記憶に生き続けている、と結んでいる。
夫人は成田がこの文章を見つけてきたことに驚いた様子だった。成田と夫人はこの日が完全に初対面で、成田はテレビやYouTube、本を通じて知っているだけなので緊張していると述べた。夫人は成田の足袋のような「靴下のような靴」と、片方が丸く片方が四角い眼鏡に興味を示した。成田によれば、元々は趣味だった眼鏡が最近は「芸人の小道具」と思われているが、視力は0.0台で度はしっかり入っており、これがないと夫人とモンスターの区別もつかないという。夫人のブローチはピンクサファイアと淡いブルーのサファイアでできた花の形で、両方ともサファイアだと説明された。
読書で身につけた「なりきる」力
知識と教養をどう身につけたのかという問いに、夫人はまず、子どもの頃にはテレビがなかったことを挙げた。日本でテレビが普及し始めたのは現在の上皇陛下のご婚約発表の頃だったと思うと言い、それまでは読書が唯一の楽しみだったという。
夫人の読書は、登場人物に「なりきる」ものだった。トルストイの『戦争と平和』を読めばナターシャに、バルザックの『谷間の百合』を読めばアンリエット・ド・モルソフ伯爵夫人に、スタンダールの『赤と黒』を読めばその登場人物になりきった。そのためフランス貴族社会の流れがよく分かっており、後にパリに着いたときには「水を得た魚のように」泳げたと夫人は振り返る。成田が、子どもの頃の読書体験がたまたまつながったということかと確認すると、夫人はそうだと答えた。
ツヴァイク『マリー・アントワネット』という「バイブル」
夫人がとくに重要な一冊として挙げたのが、シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』である。夫人の理解では、ツヴァイクはマリー・アントワネットの唯一の罪を、王妃として幸せになろうとせず、女性として幸せになろうとしたことだと書いていた。この一文が、インドネシアへ渡ったときの夫人にとって唯一のバイブルになったという。
夫人はそこから、女性としての幸せを願うのではなく、大統領夫人として、あるいは大統領に仕える者として、ベストセクレタリー、ベストアシスタント、ベストコンパニオン、ベストコムレードになろうと決めた。辛いこと、悲しいこと、苛立つことにはいろいろ遭ったが、そのたびに「こういう風にすればいいんだ」という指針がこの言葉にあった、と夫人は語った。
画家志望から女優志望へ
インドネシアへ行くまでの経緯を尋ねられると、夫人は子ども時代の夢から話し始めた。2歳ぐらいから絵を描き、周囲に「天才だ」ともてはやされたため画家になろうと考えていた。母親が内職をして先生につけてくれたが、その師である岡田雪子(字幕表記による)は、後に東京藝術大学の名誉教授になった人物でありながら、作品を出展するたびに男性の名前で出していたという。当時、女流画家の絵には値段がつかなかったからだと夫人は説明する。
夫人は、今でも女性画家の作品は男性画家より価格が低いと思うと述べ、何億円もの値がつき世界のトップ10に入るような草間彌生は「奇跡」だと評した。画家になっても母と弟を養うことはできないと考え、方向転換したという。
転機は、母に連れられて新橋演舞場で水谷八重子と花柳章太郎の舞台を観たことだった。強く感動した夫人は、女優なら学歴は関係ないと考え、女優を目指した。当時、国際俳優として知られていた早川雪洲が『戦場にかける橋』などに出演しており、その早川が六本木付近の材木町の駅前に置いていたプロダクション(字幕では「峠プロダクション」)に入団した。演技、歌、ダンスを学び、実践としてテレビの端役や映画の子役的な役、つまりセリフがあったりなかったりするエキストラに出ていたという。16歳の頃で、ちょうどテレビが出てきた時期だった。そこで出会ったのが浅丘ルリ子で、浅丘は14歳で映画『緑はるかに』に抜擢されてすでにスターだった。今でも仲良くしているという。
帝国ホテルでの出会いとインドネシア行きの決断
当時の夫人は千代田生命で働きながら、夜は三田高校に通っていた。その頃知り合った女性のボーイフレンドがインドネシアと仕事をしており、彼らと一緒に、エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトが出演した映画『愛情の花咲く樹』(原題Raintree County)を観に行った。その待ち合わせ場所が、フランク・ロイド・ライト設計の旧帝国ホテルで、そこでスカルノ大統領と出会った。
インドネシアへ実際に渡った経緯については「長いお話になっちゃう」として詳細は語らなかったが、行けたのは若くて冒険好きだったからで、30歳を過ぎていろいろ経験し贅沢もしていたら行かなかっただろうと夫人は言う。当時は結婚するべきか、外国の人と結婚するかどうかなど悩みを抱えた「スランプ状態」でもあった。そこへ「インドネシアに2週間遊びにいらっしゃいませんか」と招待があり、外国へ行けば何かひらめくものがあるかもしれないと考えた。
夫人はさらに、自身の原体験として戦後の記憶を語った。疎開先から戻った東京はまだ焼け野原で、見上げると満天の星が見えた。今は高層ビルが立ち並び明かりもついていて星は見えないが、そのとき「いつか世界に飛び立ちたい」と思ったという。
「歴史上なかった存在」として残るための準備
夫人は歴史が大好きで、歴史の成績はすべて5だったと語る。そして、いつか歴史上なかった存在として名を残したい、そういう存在になりたいとずっと思っていた。インドネシアへの招待は「これがチャンスでは」と思えたという。
成田が、最初から歴史の教科書に残るようなことをイメージしていたのかと驚くと、夫人は、そうなったら絶対に自伝や伝記を書くことになると考え、小学生の頃から資料を保存してきたと明かした。大きな茶箱5つに、当時の通信簿、描いた絵、先生と交わした手紙、新聞の切り抜きまですべて保管している。伝記を書くときに、自分が生まれ育った時代に何があったかを調べるのは大変だと思ったからで、新聞のクリッピングは癖になり、今も続けているという。
成田が「これからデヴィ資料館ができる」と言うと、夫人はまさに今悩んでいるところだと答えた。美空ひばり館や北島三郎館があったが、今の若い人に美空ひばりや北島三郎と言ってもピンとこない人が多く、結局どちらもクローズした。自分の場合、永遠に人が見に来る館にするにはどうしたらいいかを考えているという。成田は、デヴィ夫人のAIゴーストのようなものを作り、未来永劫みんなの人生相談に乗り続けるのがいいのではと提案し、夫人も同意した。
10年ごとに移る拠点
成田は夫人の人生が20〜30年ごとにリセットされ、新天地に移っているように見えると指摘した。夫人は「every 10 years」だと応じ、経歴を整理した。20歳ぐらいでインドネシアへ渡り、30歳でパリに亡命して10年間住み、再びインドネシアへ戻って石油とガスのプラントの仕事をした。1990年からはニューヨークに住み、2000年に日本へ戻った。成田のまとめによれば、日本で20年、海外で40年近くを過ごし、帰国後さらに20年強になる。
最も鮮烈な記憶:スカルノ危篤の報とインドネシアへの帰国
激動の人生で最も強烈だった瞬間を問われ、夫人が挙げたのはスカルノ大統領の最期に駆けつけた日のことである。大統領は幽閉されたままで、パリのマンションにいた夫人のもとにAP通信の記者から電話があり、大統領が昏睡状態に陥ったと知らされた。夫人はそれで初めて事態を知り、その場でインタビューを受けた。
夫人は娘のために飼っていた鳥や金魚など、生き物の整理だけをして、取るものもとりあえずインドネシアへ帰ろうと決めた。フランスの友人たちは、そんなことをしたら絶対に殺される、娘のカリナのためにも行ってはいけないと止めた。夫人は自民党副総裁の川島正次郎に電話し、日本政府が安全を守ってくれないかと頼んだが、数時間後に「日本政府は何にもできません」と返答されたという。
そこで夫人は、スカルノ大統領に心酔していたオランダ人記者(字幕では「ウィリアム・ウルトマン」)に電話し、一緒に来てほしい、自分が殺されるならその有様を全世界に知らせてほしいと頼んだ。記者は喜んで同行を引き受けた。
遅れた便を待ったJAL
計画では、パリからエールフランスでバンコクへ飛び、日本から来るJAL便に乗り換えてシンガポール経由でジャカルタに入る予定だった。ところがエールフランス便が2時間遅れ、乗り継ぎに間に合わない状況になった。一方、夫人は小学館の編集長などに出発を電話で伝えていたため、パリを出たことは日本側に知られていた。同行記者はインドネシアのビザを手配する必要もあり、結果として動きはスハルト派の人間たちの知るところになった、と夫人は語る。
バンコクに着くと、インドネシア大使館の人々が待ち構えており、同行のオランダ人記者は飛行機から引きずり降ろされた。それでもJALは、満席の乗客を乗せたまま2時間夫人を待っていたという。通常なら空港に入って乗り換えるところ、空港には入らず、飛行機から飛行機へ滑走路の上を歩いて移ったと夫人は説明する。
JALがそこまでしてくれた理由について、夫人は、東京—ジャカルタ間の航路を開いたのは自分だからだと語った。JALの幹部がジャカルタへ来て路線の認可を求めた際、夫人が大統領に頼み、JALが東京—ジャカルタ間を飛べるようになった。そのためJALが恩義を感じていたのかもしれない、と夫人は言う。もしこの乗り継ぎに間に合わなければ、大統領の死に目には会えていなかったという。
シンガポールでの警告と、機内での祈り
嫌な予感は続いた。シンガポールに着くと、今度はインドネシア大使館の武官たちが待っており、ジャカルタへの入国は許可できないと告げた。夫人は、自分はインドネシアのパスポートと国籍を持っている、自分の国へ帰るのに誰にも左右されない、と返した。すると武官たちは、それならあなたの身の安全は保障できないかもしれないと言った。夫人は「いいですよ」と答え、誰の許可もいらないとして飛行機に乗った。
機内で隣に座っていた朝日新聞の記者がちらりと見えた原稿は、スカルノ大統領の死亡記事だった。大統領はまだ亡くなっていなかったが、新聞記者とはこうして予備の記事を書いておくものなのだと夫人は思ったという。
そのとき夫人が祈ったのは、もし自分が殺されるのなら、20秒でも1分でもいいから、我が娘を我が手で殺す時間と力を与えてください、ということだった。娘は3歳3カ月で、夫人の隣にいた。我が子が敵の手に落ちることは考えられず、たとえ自分が撃たれても娘を先に死なせるだけの力を与えてほしいと神に祈った。これが最も強い、鮮烈な思い出だと夫人は述べた。
鮮明な昔の記憶と、忘れる昨夜
成田は、半世紀以上前の出来事について人名や作品名が次々に出てくる記憶の鮮明さに驚いた。夫人は、昔のことは鮮明に覚えているが、朝何を食べたか、昨日誰とどこへ出かけたかは忘れていると答えた。毎晩シャンパンを飲んでぐっすり寝るので、朝には昨夜のことを何も思い出せないという。成田も、自分も昨日誰に送られて帰ってきたか全然覚えていないと応じた。
エネルギー源は「怒り」
対談の終盤、夫人は自分のエネルギーは怒りから来ていると語り、日本の政治家は何をしているのかと本当に思うと述べた。夫人が例に挙げたのは、尖閣諸島周辺で中国海警局の船が横行しているのに自衛隊も海上保安庁も手を出せないでいること、北朝鮮が次々にミサイルを撃ってきても何もできないことである。それにもかかわらず、LGBTに関する法律はあっという間に通過した、LGBTがあんなに簡単に通過するなら憲法第9条もすぐに直せるはずだ——と夫人が主張しかけたところで、字幕は途切れている。
夜明け前のPLAYERS。今日は照りつける太陽と照明の下でお届けしたいと思ってます。照明が、そして太陽がきついのは、ゲストがこの方だからです。ちょっと朗読してみたいと思います。
「私がデヴィ・スカルノに会ったのは、全くもって特異な状況だった。私はその時日本にいた。というのは、64年のオリンピック開会式に出席するため来日していたのである。私が何人かの記者や警備の者と共に帝国ホテルの地下のショッピングアーケードを歩いていた時、我々とは比べ物にならない要人の一団、スカルノ夫妻と待ち合わせたのだった。大統領は立ち止まり、私に気づいて近づいてきて、手を差し伸べ『お会いできて光栄です』と言った。彼は寄り添っていた崇高なる美の化身のごときかの夫人を私に紹介したのだが、私の方はその時点ですでに、これがかのデヴィであることを見てとっていた。彼女とはその後、著名な夫が亡くなって彼女がパリに居を構えて以来、度々顔を合わせることになる。邂逅の後30年が経つが、我が人生の貴重な閃光として記憶に生き続けている」
俳優アラン・ドロン。ということで今日は、世界と日本の誇る閃光、デヴィ夫人にお越しいただきました。よろしくお願いします。
そうすると、初めましてじゃないんですか?いえ、完全に初めまして。そうです、こちらこそ。いやあ、64年に日本にいらしてたんですか?いや、アラン・ドロンさんが書かれているのを発見しました。なんだ、びっくりしました、アラン。僕は64年はまだ生まれてないですよね。だから私、聞いていて、まさか、それを読んでらしたんですか。今のは俳優のアラン・ドロンさんがデヴィ夫人について書いた。私の。はい、あ、そうです。
とにかく初めてで、テレビとかYouTubeとか本とかを通じてだけ存じ上げていて、ちょっと緊張しています。そうですか。あの、お名前何でしたっけ?成田と申します。成田さん、よろしくお願いします。面白いおしゃれな、靴だか何だかわからないのと、眼鏡が1つ丸くて1つ四角いメガネかけてらして。ええ、それ、あの靴に気づいていただいたの嬉しいですね。ソックスシューズ、足袋のような。はい、足袋みたいな、靴下のような靴らしいです。それで外歩けるわけですか?下ゴムですか?下ゴムね。快適ですね。
で、これはあなたの趣味でいらっしゃる?元々は趣味だったんですが、最近はただの芸人の小道具なんじゃないかって思われてるみたいですね。あ、そうですか。でも度入ってないんですよね?いや、入ってます入ってます。入ってるんですか。僕これをかけないと、デヴィ夫人とモンスターの区別がつかない。目が悪いです、0.0何とかで。なので本当に度が強い分厚いメガネをかけていて。あ、そうですか。へえ。なので普通の方はこれかけると目がすごいちっちゃくなって。あ、そうなんです。不思議な感じになります。いやでも、とってもおしゃれですよね。ありがとうございます。夫人ほどではない。
そのブローチすごいですね。ああ、そうですね、これはピンクサファイアと淡いブルーのサファイアでできたお花。あれ、両方サファイアなんですか?サファイアです。これはクサイドですけど。へえ。
でも今日伺いたかったのが、夫人を突き動かしてるものは何なんだろうって思ったんです。というのは、元々大統領夫人をやられたこともあり、社交界にずっといらしたこともあるかと思うと、日本のバラエティ番組でイルカと戯れたりもされてるじゃないですか。で、かと思うと、都知事選とかだと田母神さんとかを激推しする政治活動までやられると。溢れ返る知識と教養はどうやって身につけられたものなんですか?
そんな。私の子供の頃ってテレビがなかったんですね。今の上皇陛下がご婚約を発表した33年前に初めて日本でテレビが出現したんじゃないかと思うんですけど、その頃はまだボックスだったですね。で、私の随一の楽しみは読書だったんです。だから例えば、トルストイの赤と黒を読めばナターシャになりきっちゃうとか、バルザックの谷間の百合を読めばアンリエット・ド・モルソフ伯爵夫人になりきっちゃうとか、スタンダールの赤と黒を読めば、あ、さっきのは戦争と平和ですね、トルストイ、戦争と平和。だからフランスに行った時に、もうフランスの貴族社会の流れっていうのがよく分かっていたので、パリに着いた時に、もう水を得た魚のように泳げたんですよ。
じゃあその子供の頃の読書体験がたまたま繋がったって感じ。そうですね。それと、シュテファン・ツヴァイクのマリー・アントワネットっていう本を読んだ時に、マリー・アントワネットの随一の罪は、彼女が女王として幸せになろうとしないで、女性として幸せになろうとしたことが随一の罪だったっていうことを彼が書いてたんですね。それが、私がインドネシアに行った時の随一のバイブルになりました。
私は女性としての幸せを願わないで、もう大統領夫人、あるいは大統領にお仕えするということを目的として、もうベストセクレタリーになろう、ベストアシスタントになろう、ベストカンパニオンになろう、ベストコムレードになろうっていう気持ちでお仕えしなきゃいけないんだって。だからシュテファン・ツヴァイクのその最後の言葉が非常に脳裏にあって、それがだから私のバイブルになりました。だから辛いこととか悲しいこととか苛立ちがあったと、もういろんな目に遭いましたけども、私はこういう風にすればいいんだっていう。
元々インドネシアに行かれたのはどういう経緯で行かれることに?インドネシアに行くようになったのは、まあ私、最初は周りがですね、もう2歳ぐらいから絵を描いたんですね。で、天才だ天才だって周りがあんまり囃すものですから、画家になろうと思ってたんですね。それで私の母がいろんな内職をして先生につけてくださったんですね。岡田雪子っていう先生だったんですけど、その方は東京芸術大学の名誉教授に最後になられたんですけど、その方が、私が習ってる当時、絵を出展するたびに男性の名前で出したんですね。
今でも女流画家は男性画家よりも値段は、価格は低いと思うんですけど。だから草間彌生なんて、ああいう画家は奇跡だと思うんですね。今何億ってする絵を描く。今世界のトップ10ぐらいに入ってますね。なぜ男性の名前で出してるかって言うと、もう女流は当時値段がつかなかった。それで、じゃあ画家になっても母と弟を養うことできないじゃないかっていうことで、方向転換して。
新橋演舞場に母に連れられて、水谷八重子と花柳章太郎の舞台を見て、すっごい感動して、あ、女優になろう、女優だったらば学歴だとか関係ないって思って。で、その当時、早川雪洲という俳優さんが国際俳優としていたんですね。戦場にかける橋とかいう映画に出たりして、当時は大変有名な方で。その方が峠プロダクションっていうものを材木町に、今材木町ってないんですけど、テレ朝の辺ですね。霞町、今は西麻布ですけど、霞町、材木町から六本木ってあって、その材木町の駅前に峠プロダクションていうのがあって。
そこに入団して、演技の勉強、歌の勉強、ダンスとかいろんなことして、時々実践ということで、テレビの端役とか映画の子役みたいな、まあセリフがあったりなかったりするような、まあエキストラですね、に出たりして。その頃はちょうどテレビが出てきたぐらいの時期ですか?そうですね。で、そこで出会ったのが浅丘ルリ子さんっていう、なんか一緒に写真撮ったりしてますけれども、彼女はもうその頃スターだったんですよ。で、私も16歳、彼女も16歳で。浅丘ルリ子さんは14歳で緑はるかにっていう映画に抜擢されて、もうすでにスターでした。で、未だに仲良くしてます。
今その芸能の世界にちょっと入られたのが10代の頃。そうですね、16の時ですね。ですから千代田生命に働きながら、夜は三田高校に通っていて。で、その頃知り合った女性のボーイフレンドがインドネシアとお仕事してて、それで私はその彼と彼らたちと一緒に、レインツリー・カントリーって言って、エリザベス・テイラーとモンゴメリー・クリフトが出演した映画が上映されたんですね。それを見に行って、ところが昔の帝国ホテルですよ、ライト氏が設計したレンガの時代で。まあ歴史の教科書とかに時々出てきたりする。そうそうそう、そうですね。そこで大統領と出会って。ああ、じゃあまず日本で知り合われた。そうですね。なるほど。
でもそっからインドネシアに実際に行って。それはもう、私の回想録か何かが長いお話になっちゃう。インドネシアに行ったのは、多分私が若くて冒険好きだったことと、私がすでに30歳超えていて、いろんな経験したり贅沢をしてたりしたらば行かなかったと思うんですね。でもすごい冒険好きだったかっていうか、アバンチュールっていうか。まあその当時、非常に悩んでたんですね。結婚するべきか、する前か、外国の人と結婚するかどうかとか色々考えていて、自分の人生どうしたらいいかなみたいな、本当にスランプ状態って言えばスランプだし、色々考えた時に、インドネシアに2週間遊びにいらっしゃいませんかってお招きがあって、あ、外国に行ったら何かひらめくものがあるかもしれないと思ったんですね。
戦後、まだ東京が焼け野原で、疎開先から帰ってきた時に、上を見上げると満天の星が見えたんですよ。今はもう高層ビルがこんなに立ち並んでしまって、明かりもすごくついてますから星なんか全然見えない。でもあの時に満天の星を見て、いつか世界に飛び立ちたいって思った。それと歴史が大好きで、歴史、私全部5だったんですね。で、いつか私はかつて歴史上なかった存在として名を残したいな、そういう存在になりたいなってずっと思ってたんです。だからこれがチャンスではと思えました。
初めから歴史に名を残すとか、歴史の教科書に残るみたいなことをイメージされてたんですか?歴史上なかった存在として残りたいなって。で、そうなった時に絶対自伝を書くと思って、小学校の時から全部、大きな茶箱に5つ、5箱、その当時の通信簿から、その当時に書いた絵から、その当時先生と交わした手紙、その当時の新聞切り抜き全部。デヴィ夫人の資料館が作れるように。そうですね。なので、自伝を書くことになった時に、私が生まれて育った時代ってどんなことがあったかって調べるの大変だと思ったんで、新聞のクリッピングなんかも。今も新聞のクリッピングする癖になって、今もクリッピングしてます。
じゃあこれからデヴィ資料館ができる。あ、そうですね。その計画もう立てられたりされてます?いや、今悩んでるとこなんですよ。とにかく、美空ひばり館っていうのがあって、あるいは北島三郎館っていうのがありますね。でも今の人に美空ひばりとか北島三郎さんって言ってもピンとこない若い方がたくさんいて、結局美空ひばり館もクローズしたし、北島三郎館もクローズして。私の場合、永遠に人が見に来るっていう会館にするにはどうしたらいいかってことは考えてます。
デヴィ夫人のAIゴーストみたいなのを作ってですね、未来永劫みんなの人生相談に乗り続けてあげるとかがいいんじゃない?そうそう、そうですね。
ちなみに番組ホームページではノーカット版の配信もしています。番組が大赤字で大変です。ぜひ皆さんカンパをよろしくお願いします。
でもそう、人生通じて20〜30年ごとにリセットされて新天地に移るみたいなことをされてるっていう感じですか?あ、そうですね、エブリー10イヤーズですね。大体二十歳ぐらいでインドネシアに行かれて。そうで、30歳にパリで亡命して、10年間パリに住んでいて、また再びインドネシアに戻って、石油とガスのプラントの仕事をして、で、90年からニューヨークに住んで、2000年になって日本へ行きましたから。だから外にいた時間が40年近く。40年の外国生活を経て。海外に40年いて、日本に戻って来られて20年強、そんな感じ。はい、そうですね。なるほど。
でもそんな激動の人生で、1番鮮烈な印象に残ってる瞬間ってありますか?それは感動したでもいいですし、何か身の危険を感じたでもいいですし、1番強烈だった体験って。それはですね、スカルノ大統領が幽閉されたままでいらして、私のパリのマンションにAP通信社から電話があって、スカルノ大統領が昏睡状態に陥ったっていうことですけれども、それで初めて知ったんですね。大統領が昏睡状態になってるってことを、その記者からの電話で。で、その時のインタビューを受けて。
その時、うちの娘のために飼っていた鳥だとか金魚、生きてるものだけの整理をして、もう取るものも取りあえずインドネシアへ帰ろうっていうことで。フランスの友人たちが、そんなことしたらあなた絶対殺される、だからカリナちゃん、娘の名前、カリナのためにあなたは生きなきゃならない、だから行っちゃだめって言われたんですね。もう絶対殺されるって。
それで私が自民党の副総裁の川島正次郎さんにお電話して、日本政府で私の安全を守っていただくことできませんでしょうか。そして数時間後だったかな、お電話いただいて、日本政府は何にもできませんて言われて。それで私、スカルノ大統領に心酔しているオランダの記者がいたんですね。ウィレム・オルトマンスっていう人だったんですけど、彼に電話して、あなた一緒に来てくれない?って。私がもし殺されるんだったら、その有様も全世界にあなたが知らせてって言って。で、彼も喜んで来てくれたんですね。
私はパリからエールフランスで来て、バンコクで日本から来るJALに乗り換えて、バンコクからシンガポール、ジャカルタに入る予定だったんですね。ところが私の乗ったエールフランスが2時間遅れたんですよ。そしたら2時間遅れたら、私が乗るJALに間に合わない。でも私がパリを出たっていうことは、その当時いた小学館の編集長とかいろんな方に電話してましたから、日本の方は知ってたし、そのオランダの記者はインドネシアにビザがいるわけですね。その手配なんかしてたので、結局スハルト派の人間たちの知るところとなっていて。
バンコクに着きましたら、まずインドネシア大使館の人たちが待っていて、ウィレム・オルトマンスさんが飛行機から引きずり下ろされたんですね。で、JALはなんと、いっぱいの乗客が乗ってるにも関わらず、私のこと待っててくださったんですよ。普通はコネクティングフライトだったら1回エアポートに入って乗り換えるじゃないですか。それもうエアポートには入らないで、この飛行機と飛行機の間をタラップ持って入ったんです。タラップの上を走って。そうそう、タラップの上を歩いてね。
でもJALがなんでそこまでしてくれたかって言うと、JALの東京ジャカルタ間の空路を開いてあげたのは私ですね。なのでJALは私に対してすごい恩義がある。え、それどういう意味ですか?それはJALの、何部長だったのかな、JALの偉い方がジャカルタに来て、東京ジャカルタ間の飛行機、JALの空路の許可を取りたいと。それで私が大統領にお願いして、JALがジャカルタ東京間を飛べるようになったんです。その認可を出すので暗躍されてた。それでJALは私に恩義を感じてか何か知りませんけど、とにかく2時間待ってくれたんですよ。
だからその乗り換える飛行機に間に合わなかったら、大統領の死に目には会えてないんですね。で、まずウィレム・オルトマンス氏が引きずり降ろされて、私も嫌な予感がしてて。今度シンガポールに着いたらば、今度はシンガポールの大使館の人たち、武官たちが私のこと待ってまして、ジャカルタへの入国は許可できませんと。それで私が、私はインドネシアのパスポート持ってるし、インドネシア国籍、私は誰からも自分の国へ帰るのに左右されることはありませんて言って。そしたら彼たちが、だったら私たちはユア・セキュリティ、もうあなたの身の安全を守ることはできないかもしれませんって言われて。それで飛行機に乗りました。
で、私の隣にいた人が朝日新聞社の方で、彼が何を書いてあるかちらっと見たら、死亡記事書いてるんです、スカルノ大統領の。まだ亡くなってない。でも、あ、新聞記者っていうのはこういうことをするんだ、もう予備の記事を書いてるんだと思って。
とにかくシンガポールで大使館の武官たちに、もうユア・セキュリティって言われた時に、いいですよと、私は自分の国へ帰るんだから誰の許可もいらないって言って飛行機に乗って。その時私思いましたね。もう神様、どうか私が殺されるんだったら、20秒でも1分でもいいから、我が娘を我が手で殺す時間を、力を与えてくださいって祈りました。
その時娘さんは何歳?私の隣に一緒にいました。我が子がその時3歳3ヶ月だったんですけど、我が子が敵中に落ちるっていうことが考えられなくって、もう我が手で殺める時間をください、もうバーンと撃たれても、その力だけを与えてくださいって神に祈りました。それが1番強い鮮烈な思い出かなと思います。
衝撃を受けてるのは、夫人、半世紀以上前のことについて記憶が鮮明すぎませんか?なんか人の名前とか作品名とかすごい勢いで出てきて。昔のことは鮮明に覚えてるんですよ。朝何食べたか忘れてます。昨日何したか忘れて。え、昨日誰とどこへ出かけたか、それ覚えてないですか?もう昔のことは鮮明に覚えてるんですよ。いやあ、でも僕も昨日誰に送られて帰ってきたかしらとか、もう全然覚えてない。すごいですね。毎晩シャンパン頂いてるので、それでぐっすり寝ちゃうと、もう朝、昨夜のことは何にも思い出せない。シャンパンの泡と共に。そうですね。
私のエネルギーっていうのは怒りから来てますから。日本の政治家は何してるのかなって私本当に思うのは、尖閣諸島のあの辺は中国の海警局の船がそこを横行してるわけじゃないですか。で、自衛隊も海上保安庁も何にも手を出せないでいる。で、北朝鮮はボンスカボンスカミサイル投げてきて、それに対して何にもできないにもかかわらず、LGBTなんてパッと通過したんじゃないですか。LGBTがあんな簡単に通過する。憲法第9条をパッと直せるはず。
記事公開
