『五体不満足』のヒットで「死にたい」と思った乙武洋匡が語る、偶像からの解放と政治への未練
PLAYERS公式作家の乙武洋匡氏が、東大医学部に在籍するYouTuberのベテランちと対談した。番組では、ゲストが事前に書いた「人生の浮き沈みグラフ」をもとに話を聞く。手足のない体で生まれ、『五体不満足』で一躍有名になり、40歳で不倫報道によって政治への道を断たれた乙武氏は、自分の人生の出来事をそれぞれプラスとマイナスのどちらと捉えるかを一つずつ整理してきたと語る。ただし、10年前の報道についてはまだ答えが出ていない。対談はその整理の過程をたどり、最後に「遠回り」の意味へと進んだ。
生まれた時点をどう描くか:グラフの起点で迷った理由
乙武氏は冒頭で「この企画むずい」と漏らした。多くの人は生まれた時点から「この時期は良かった」「この時期は悪かった」と線を引いていく。しかし乙武氏は、起点の「生まれ」をどこに置くかでまず迷ったという。
乙武氏の説明はこうだ。自分で排泄の後始末ができない人生をプラスと捉えるかと問われれば、多くの人は嫌だと答えるし、自分も嫌だ。物理的にできないことが多く、人に頼み続けなければならない。人生のリスクをなるべく減らして生きたいという価値観で見れば、この体に生まれたことは「最悪中の最悪」でリスクしかない。
一方で、中学生の頃から社会人になって数年ほどの間に、多くの人は「自分は何のために生まれてきたのか」「会社の歯車として働く自分である意味は何か」と悩む。乙武氏はその悩みにぶつかったことがない。オリジナリティがありすぎたからだという。大変なことも、物理的にできずに悔しい思いをしたこともあった。それでも、1億2300万人、あるいは80億人の中で「俺にしかできない生き方」の土台を与えられたと考えればプラスが大きい。どちらで捉えるかを選ぶなら後者で行きたい、というのが乙武氏の結論だった。この「事実は変えられないが、プラスとマイナスのどちらで捉えるかは自分次第」という考え方は、対談の後半まで何度も出てくる。
幼稚園・小学校に入るまで:受け入れ先探しと母親の楽観
乙武氏は幼稚園と小学校で一般の教育を受けたが、そこに至るまでが大変だった。当時、一家は東京の東端にある江戸川区に住んでいた。区内を探し回っても受け入れてくれる幼稚園が見つからず、母親の友人のつてで、23区の西端にあたる世田谷区深沢の幼稚園に決まった。そのため家族ごと引っ越したという。当時は一般的な進路を取ることすら難しかったと乙武氏は振り返る。
小学校はさらに難航した。両親は「障害児教育に力を入れている」とうたう私立なら受け入れてくれるだろうと考えて当たったが、全滅どころか門前払いで、会ってすらもらえなかった。障害といってもそこまでの重度は無理だ、という反応だったという。
転機は就学時健康診断の案内だった。通知が届いて驚いた母親が教育委員会に「うちの子が行っていいんですか」と問い合わせると、向こうも驚いた。そこからやり取りが始まり、校長が非常に前向きに検討してくれた。すんなりとはいかず、さまざまな調整を経たうえで受け入れが決まった。これほど重度の子どもが、当時でいう養護学校ではなく地域の学校に通うのは極めて異例だったのではないか、と乙武氏は話す。
ベテランちが母親について尋ねると、乙武氏は「基本的に楽観的に生きている人」と答えた。『五体不満足』で読者が最も印象に残る場面として挙げるのが、出生時のエピソードだという。病院側は、出産で体力的にも精神的にも弱っている母親に「手足がありませんでした」と伝えるのはショックが大きすぎると判断し、黄疸が強いという理由で1か月間会わせなかった。1か月後の対面の際には、母親が倒れた場合に備えて別室にベッドまで用意していた。しかし母親は乙武氏を見て「かわいい」と言った。
約50年前、ネットで同じ境遇の人とつながることもできない時代である。母親にも「この子の人生はどうなるのか」という不安はあったはずだが、基本は「なんとかなるでしょう」という姿勢で育ててくれたという。親が「この子の人生はお先真っ暗だ」と思うか「大変そうだけどなんとかなる」と思うかで、子どもの人間性はまったく変わってくる、と乙武氏は言う。ベテランちも、そこで母親が悲観していたら性格はまったく違っていただろうと応じた。
いじめのなかった子ども時代、都立戸山高校への進学
思春期も調子を崩さずにいられた理由として、乙武氏は友人関係を挙げる。いじめを受けた経験は、強がりではなく本当になかったという。普通学級を選んでいじめられていたら「この体で生きていくのはしんどい」と感じたかもしれない、と本人も認めている。幼稚園や小学校では車椅子に乗っているだけで皆がぞろぞろついてきた。学級委員や生徒会役員を務めるなど仕切る側の人間だったので、障害による引け目よりも「俺はクラスのリーダーだ」という意識のほうが強かったという。
高校でも受け入れ先探しに苦労した。私立は難しいと判断して都立に絞ったところ、手を挙げてくれたのが学区で最も偏差値の高い都立戸山高校だった。私立がいいことを言いながら受け入れず、最終的に公立が受け入れたという話に、ベテランちは「それ面白い」と反応している。
ただし入学試験は受ける必要がある。当時は内申点が高いほど当日の試験で必要な点数が低くなる仕組みで、乙武氏の体育の成績は1か2だった。当日にかなりの高得点が必要だったが、詳しい点数は分からないものの、かなり良い成績で合格したらしいという。
入学後は「みんな賢い」と感じ、クラスで下から2番目まで成績が落ちた。アメリカンフットボール部のマネージャーとなり、当時出始めたパソコンで相手チームを分析したデータを戦略担当に渡していた。そのうち勉強をしなくなり、恋愛にも時間を割くようになった。
「A君よりマシかな」:恋愛に自信を持てた一言
乙武氏が「自信を持てた」「スイッチが入った」と振り返るのも高校時代の出来事だ。文化祭の準備の帰り、仲のよい女友達と二人で高田馬場の駅前を歩いていると、やはりじろじろ見られた。恋愛関係ではなくただの友達だったその女性に、乙武氏は「俺と歩いていると目立つと思うけど、正直ちょっと嫌じゃないの」と尋ねた。
クラスには、丸っこい体型で「ドラえもん」というあだ名がつくような、とても性格のいい男子がいた。仮にA君とする。女友達の答えは「A君よりはマシかな」だった。
もし「全然気にならないよ」と言われていたら、気を遣わせたと感じただろうと乙武氏は言う。「A君よりはマシ」という答えに女子のリアルな序列が見え、自分がその中で最下位ではないと分かった。手足がなくても「土俵の外」にいるわけではない、少なくともこの子は線を引いていない。そう思えて「これはいけるぞ」と感じたという。乙武氏はこのテーマについて、のちの「大事件」につながるものでもあると付け加えている。
早稲田での街づくり活動から『五体不満足』へ
当時、乙武氏は西早稲田に住んでおり、高校も高田馬場にあった。そのため大学は早稲田しか考えず、現役時も浪人時も早稲田だけを受けた。現役では3学部すべてに落ち、一浪して合格した。
大学生活は「本当に楽しかった」。大学も自宅も早稲田だったので、早稲田の商店会の人たちと街づくり活動に参加していた。その一つが、地域の子どもたちを対象にした「車椅子探検隊」だ。社会福祉協議会から車椅子を十数台借り、普段は元気に駆け回っている町を車椅子で回ってもらう。すると景色が違って見え、いつもの路地や店に入れないことに気づく。今でこそこうした体験型の取り組みは増えたが、それを30年前にやっていたわけだ。
この活動を毎日新聞が記事にし、その記事を見たNHKが30分ほどのドキュメンタリーを制作した。さらにそれを見た講談社の編集者が本の執筆を持ちかけた。21歳頃のことだという。
乙武氏は3回ほど断った。今でも「嘘だろう」と言われるが、本当に文章を書くのが苦手だった。小学生の頃は読書感想文が書けず、最後まで教室に残された3人のうちの1人だった。勉強はできたが文章だけは駄目だった。それでも伝えたいことがあるという気持ちが上回り、引き受けることにした。
600万部のヒットで「人生終わった」と感じた二つの理由
『五体不満足』は発売前から10刷がかかり、最終的に600万部のヒットになった。多くの人は、どん底から始まった人生がこの本で跳ね上がったと想像するだろう。しかし乙武氏のグラフでは、ここで線が大きく下がっている。当時の気分を聞かれ、乙武氏は「人生終わったなと思った」「死にたいと思った」「逃げたいと思った」と答えた。
理由の一つは、役割を終えてしまったと感じたことだった。本を書いた動機は、障害者は「かわいそうな人」「社会的弱者」と思われているが、勝手に決めつけるな、自分は少なくともここまで幸せに生きてきた、というアンチテーゼとして自分を差し出すことにあった。乙武氏はそれを生涯かけて伝えていくつもりでいた。それが一冊でほぼ全員に届いてしまった。今振り返ればそんなことはなかったが、当時は「もう何をして生きていけばいいのか」と感じたという。
もう一つは、実像とかけ離れた清廉なイメージを背負わされたことだ。乙武氏自身は普通に大学生活を謳歌していた22歳で、早稲田の学生なんて「しょうもない」と笑う。それが「やたら清廉なイメージ」を植え付けられた。街を歩けばほぼ100%の人に気づかれ、写真やサインを求められ続けて、まともな生活が送れなくなった。時には拝まれることもあったという。「これからどうやって生きていくのか」という絶望だった、と乙武氏は語る。
キューバの英雄・キンデランとの出会い
そこから回復するきっかけになったのが、キューバ代表の強打者オレステス・キンデランとの出会いだった。野球少年だった乙武氏にとって、キューバ代表の3番リナレス、4番キンデランは、日本でいえば王・長嶋のような存在だった。
乙武氏は20代の頃、7年間スポーツライターとして働いていた。その縁で、社会人チームのシダックスで監督を務めていた野村克也氏のパーティーに出席した。そこにシダックスでプレーしていたキンデランがいた。日本のスターも来ていたが、乙武氏にとってキンデランは「別格」だった。キンデランの側も、野球のパーティーになぜ車椅子に乗った手足のない人がいるのかと気になったらしく、関係者から説明を受けると、わざわざ向こうから挨拶に来た。野村氏にお世話になっているスポーツライターだと伝えると、キンデランは「今度シダックスの試合を見に来てくれ。そこでホームランを打てたら、それは君のために打ったホームランだ」と言った。
乙武氏は有頂天で帰宅した。しかし冷静になってから考えたのは、キンデランも最初からあれほどの人格者で、国民の期待を背負う立場をこなせていたのだろうか、ということだった。キューバの少年だった頃は悪ぶっていたかもしれない人物が、初対面の相手にホームランを捧げると言える人間になるまでの葛藤や努力を想像した。
それまでの自分は、「乙武さんは素晴らしい人」と言われるたびに「そんなんじゃない」と露悪的に振る舞いたいと思っていた。一方で、そういう自分になれるよう努力することはしてこなかった。キンデランですら長い年月をかけてそうなったのだとすれば、自分も少しは周囲が思うような振る舞いができるようにならなければいけない。そう思えたことが大きな転機になったという。
乙武氏はここで、生まれた体についてと同じ整理をした。本が売れて多くの人に知られたという事実は変えられない。「あんな本を出さなければよかった」とくよくよして生きるか、「あのおかげで出会いも景色もあった」とプラスにして生きるかは自分次第だ。そう思えるまでに3年ほどかかり、25歳頃のことだったという。
折り合いと、裏表をつくること
ベテランちは「大人になるってそういうことですよね」と応じた。乙武氏はこれを受けて、「ちゃんとし始める」というよりも、人間はちゃんとできないものだと認めたうえで、ちゃんとした自分を求められていることに折り合いをつけたのだと説明した。
それまでは、取材で「自分はそんなに綺麗な人間じゃない、しょうもないところがいっぱいある」と話しても、編集された番組や記事ではその部分がばっさり切られ、綺麗な乙武像だけが出された。3年それが続くと、求められていないのだから喋っても仕方ないと思い、綺麗なことしか話さなくなった。よく言えば折り合いをつけた、悪く言えば裏表をつくることに徹した。それが20代後半だったと乙武氏は振り返る。
政治を志した理由と、40歳の報道
グラフは20代後半から上向くが、乙武氏はベテランちに「この辺で何か変わったことはあるだろ?」と迫り、「40で週刊新潮ですよ」「ネット見ろ」と笑いを取った。
乙武氏は38歳頃から政治を意識し始めた。20代の頃から声はかかっていたし、周囲の期待もあった。障害があるから「かわいそう」「不幸」とされる社会を変えたいという思いはずっとあり、そのために政治が有効な手段であることも分かっていた。それでも、批判しかされない職業で、金がかかり、プライベートは監視される。できれば避けて通りたいと考えていた。
とはいえ、腹をくくらなければならない時が来たらくくろうとも20代から思っていた。40歳という人生の折り返しが見えてきた頃、メディアに出て20年がたっていた。『五体不満足』も含めて人々の意識をだいぶ変えられたという自負はあった。同時に、このままメディアで20年発信を続けてどれくらい世の中を変えられるかという「成長曲線」も見えてきた。その行き先は、乙武氏が納得できる水準には届きそうになかった。それなら、もっとリスクのある手法を取るしかない。これが政治を意識した理由だという。
その矢先、政治家としてふさわしくないプライベートの行いが週刊誌に報じられ、出馬すらできなくなった。ちょうど40歳、10年前のことだ。結婚は25歳頃で、当時の配偶者とは離婚して10年になる。
報道はプラスかマイナスか:まだ描けないグラフ
グラフは報道以降、前後に揺れる線になっている。乙武氏は、体のことも『五体不満足』のことも整理がついているが、10年前の報道が結局プラスだったのかマイナスだったのかはまだ答えが出ていないので、グラフが描けなかったと話した。
ベテランちは当時を覚えているといい、乙武氏からすれば一人の男が至らないことをしただけだが、社会には「有名で変わった体の乙武さんがそんなことをしていたのか」という面白がりが乗っていたのではないかと指摘した。乙武氏も、他の芸能人の同様の件と比べて報道はずっと大きく扱われ続けたと認める。
乙武氏はここに二つの見方があるという。一つは、明るく前向きに生きる障害者として偶像崇拝されてきたからこそ、より大きく叩かれたという不満だ。もう一つは、障害者はこれまで決して叩いてはいけない存在だったのに、日本の歴史上「最もフルスイングで叩かれた障害者」になったという見方である。乙武氏はこれを冗談めかして「社会進出」と呼んだ。テレビの素敵な番組だけでなく、週刊誌で叩かれる側にも進出したというわけだ。学校の教科書に載り、週刊誌にも写真が載った人間は、障害の有無に関係なく自分くらいだろうとも笑った。
騒動をめぐるさまざまな声の中で、乙武氏が最も嬉しかったのは、NPO法人ホワイトハンズの経営者による文章だった。この団体は、自分で射精ができない重度の身体障害がある男性に向けて、風俗ではなくヘルスケアの一環として、性的でない形で定期的な射精を介助している。その経営者は、どんなに重度の障害があっても不幸だと決めつけず、人生を謳歌できる存在だと乙武氏は生涯をかけて伝えてきた、今回の騒動は批判を受ける形ではあるがそれを自ら証明してみせた、と書いた。乙武氏は、マイナスもプラスも丸ごと踏まえたありがたい総括だと感じたという。
全国的なバッシングの中で唯一、障害児を育てる母親たちからの評価は「微妙に上がった」とも乙武氏は話す。「女性として不倫を肯定することはできない。でも、うちの子は一生女性との交わりはないだろうと諦めていたが、育て方によっては可能性があると思えるようになった」という声が届いたという。
プラスとマイナスの中身は理解している、と乙武氏は言う。マイナスは、この10年、自分が実現したい社会のためにあまり力を尽くせなかったことだ。政治家になれず、メディアへの登場回数や扱われ方も10年前とは大きく変わった。プラスは、ずっと剥ぎ取りたかったメッキが剥がれ、本当の自分でいられるようになったこと。これは周囲が思う以上に大きく、人生は楽になったという。背負う荷物は軽くなったが、やるべきことをやれるチャンスは小さくなり、そこへのジレンマは大きくなった。乙武氏はこれを「プラスとマイナス」とまとめた。今年4月に50歳になったので、40代の10年が何だったのかを総括できるのはこれからかもしれない、とも語った。
「逃げているのだろう」:現在の立場と戦い方の難しさ
現在、乙武氏は小池百合子氏が率いる都民ファーストの会で代表補佐を務めている。ベテランちが「今度は選挙に出られるのでは」と振ると、乙武氏は、楽をしながら少し政策にも関われる緩めの立場は意外と美味しいのではないかと思い込もうとした時期があったと明かした。しかしそれはやはり逃げなのだろうと思い、「自分で行けよ」と思う人がいるように、自分自身もそう思っているのだと思う、と語った。
ここで乙武氏が難しさとして挙げたのは、世間からの見え方の変化だった。弱者の代表を背負わされるのは苦しかったが、ようやくその覚悟が芽生え始めた。ところが、表に出続けた年数が重なった結果、特に若者を中心に、乙武は弱者の代表ではなく、むしろ強者側・エスタブリッシュメント側と見られている。最近になってようやくそれを理解したといい、「これは戦い方が難しい」と話した。ベテランちは、マイノリティの声を届けるために出した本が500万部を超えた途端に「権威あるもの」になってしまうのは、文学にとって普遍的な問題だと応じた。
「ネクスト乙武」が現れない不健全さ
乙武氏はさらに話を続けた。スキャンダル後、2年ほどメディアから姿を消していた間、自分の後を継ぐ存在が出てきてほしいと思っていたし、出てくるとも思っていた。ほぼ同時期に「社会的な死」を迎えたベッキー氏の場合は、その空白によってホラン千秋氏や宮沢氏らいわゆるハーフタレントの活躍の機会が増えた。大御所の席が空いたことで若手が育ったわけだ。
ところが障害者の分野では、1年待っても2年待ってもそうした存在は現れなかった。それどころか、障害者に関する話題があると必ず乙武氏に取材依頼が来た。「何なんだこの不健全さは」と思い、親しいテレビマンに苦情がてら尋ねたことがある。返ってきた説明はこうだった。今のテレビ番組は多くがお笑い芸人中心で、芸人の仕事は面白おかしくすることだ。障害者の共演者がいれば絡みが生じるが、コンプライアンスの厳しい時代にはその絡みが「不謹慎」「障害者に対してあの物言いは何だ」とクレームになりやすい。その点、乙武さんならいじられても面白く返せるという安心感を視聴者が持っている。だから新しい人を起用するより、スキャンダルがあっても乙武さんになってしまう。
乙武氏は、仕事のことだけを考えれば独占企業でいられるのでラッキーだが、社会のことを考えるととても不健全だと話した。ベテランちは、自身が短歌を書いていることに触れ、マイナーな文学ジャンルで俵万智氏が長年代表を背負わされている状況と近いのではないかと重ねた。
ベテランちの「遠回り」:5回の留年と短歌
話はMCのベテランち自身に移った。ベテランちは東大医学部に在籍する27歳で、5回留年している。本業はYouTubeで、大学には出席が必須の授業だけ隙間を縫って通っており、あと1回留年すれば退学になるという。プロデューサーたちも半笑いで見ているといい、この番組も近いうちに終わるのではないかと思っているので、立派なスタジオで夢を見ないほうがいいと考えていると話した。ABEMA Primeなどに出る同世代の「若者代弁」的な人たちのようになりたいわけでもない、とも付け加えた。
乙武氏が「もう医者にはならないのか」と尋ねると、ベテランちは医師免許はとりあえず取るつもりだと答えた。医師になれば副業禁止の場合もあり、研修に入れば基本的に医師一本になるので迷いもあるが、一人前の医師になりたい気持ちも多少はあるという。乙武氏は、自分のスイッチが入るものが見つかっていないなら選択肢はなるべく多く残したほうがいいと助言した。この番組で乙武氏を含むさまざまな「変な大人」と話せるのは人生のマイナスにはならないだろう。一方で、後から医学をやりたくなって大学に入り直すのは、この番組の趣旨が「遠回りもいい」だとしても遠回りすぎる。だから今は頑張って卒業しておいたほうがいい、という考えだった。
ベテランちは、人生で一番、死後に残したいのは短歌や文章の仕事だが、本当に食えないと話した。食べていこうとすればエッセイや小説を大量に書く必要があり、そうなると濃度が薄くなるという。
これに対して乙武氏は一つ質問をした。俳句より短歌のほうが思いを込められるとはいえ、五七五七七に思いを込めるのは高度で繊細な技術だ。尺の制限がないYouTubeで喋るほうがはるかに楽で、伝えたい感情を喋って出してしまえば、限られた字数で自分を追い込まなくなるのではないか。YouTubeでの表現は短歌にとってプラスなのか、消費されてしまうマイナスがあるのか、それとも関係ないのか。
ベテランちの答えは、それはない、というものだった。むしろ普段のYouTubeで「雑に喋っている」という感覚が日々蓄積していく。また、面白いことを言わなければならないので、それこそ乙武氏が多少傷つくような話の振りも含めたセンサーが働いている。これは他の歌人にはない経験で、基本的にはプラスになっていると思う。だからYouTubeをやめて短歌一本にしようとも思わない、と答えた。乙武氏は、番組が終わってもYouTubeというプラットフォームに限りが見えても短歌は続けるだろうから、その時代ごとにちょうどいいものを見つけ、短歌や医学と合わせて2本、3本をスイッチを切り替えながらやっていくのが向いているのではないかと述べた。ベテランちも、そうなりそうな気がしていると応じた。
「遠回りとは、明確なゴールがある状態」
最後に「あなたにとって遠回りとは」と問われ、乙武氏は「明確にゴールがある状態」と答えた。明確なゴールがなければ、今歩いている道が遠回りかどうかも分からない。ゴールがあるからこそ近道が見え、自分の位置が遠回りだと実感できる。近道を歩けるほうがさらに幸せかもしれないが、遠回りをしているということは明確なゴールを持てているということなので、意外とハッピーな状態なのかもしれない、と乙武氏は話した。
ベテランちも、自分が留年を「遠回り」といじられるのは卒業という目標があるからで、社会に出てただふらふらしているだけなら遠回りとすら呼ばれない、と納得した様子だった。乙武氏は、目標を決めずに今ある自分を受け入れる哲学的な生き方ができる人はそのほうが幸せだと思うと認めつつ、自分は凡人なので、目標を持ち、そこに向かって努力し、失敗したり成功したりを繰り返すのだと語った。そして、自分の中でまた「ゴールした」という感覚が持てたとき、今の時期も遠回りだったと思えるようになるのかもしれない、と対談を締めくくった。10年前の報道をどう位置づけるかという問いは、ここでも答えが出ないまま残っている。
手足がない人生を送ってきて、どん底スタートで、でも『五体不満足』でバーンって人生跳ね上がったんじゃないって多分思われがちだと思うんですけど、真逆かな、俺にとっては。そん時どういう気分?あ、もう人生終わったなと思って。いや、まあね。死にたいと思った。あ、本当すか。そこまで。もう逃げたいと思った。
こんなに品行方正ではない。まあね。こう普通に大学生活を謳歌していた。それは早稲田大学生なんてね、しょうもないですよ。バカしかいませんからね。エロいだけなんですから。早稲田大学生なんていう22歳が、やたら品行方正なイメージを植えつけられ、街歩けば写真撮ってください、サイン書いてくださいっていうラッシュでまともな生活が送れなくなり、マジで俺この先どうやって生きてくんだっていう絶望。
40で、週刊新潮ですよ。おお。ど、どういうことが?おい。すいません。ネット見ろ。
明るく前向きに生きてきた障害者っていう偶像崇拝されてきたからこそ、より大きく叩かれたよなという、僕としては不満と。でもなんか障害者ってこれまで絶対叩いちゃいけない存在だったのに、そういう意味ではあれまでの日本の歴史において最もフルスイングで叩かれた障害者。確かに。っていう聖域を超えたっていう意味では、社会進出ですよね。テレビの素敵な番組だけじゃなくて、週刊誌にも出て叩かれる方にも進出したと。だから本当に多分障害者・健常者関係なく、学校の教科書に載って写真週刊誌に載ってるの、俺ぐらいだと思うんだよね。
じゃあ、あの、10年前の報道で結局自分はプラスだったのかマイナスなのかが……
ということで、今回ですね、普段いつもこの企画でグラフを書いてもらうということをやってまして、事前に書いていただいた人生の浮き沈みをグラフにしたものを元に、色々聞いていきたいと思ってます。ここから始まっているんですけども。
あのね、この企画むずい。あ、そうですか。いや、というのは、大体みんなほら生まれた瞬間から、この時期は良くて、この時期は悪くてって書いてくじゃないですか。いきなり迷うもん。まあね。この生まれは、そうじゃない。まあ、そうですね。
これをマイナスと捉えるか、プラスと捉えるか。多くの人がよ、自分でうんこしたケツを自分で拭けない人生をプラスと捉えますかって言ったら、嫌でしょ。ま、そうですね。いや、俺も嫌だよ。ま、気は使いますよね。っていう、物理的にできないことがたくさんある。それは普通に考えたら、一般的にはマイナスで。そう、そう。で、人に頼み続けなきゃいけない人生になる、マイナスじゃない。
でも何に自分の人生の価値を置くかで、特に困ることや人生のリスクをなるべく少なく生きていきたいなという価値観で生きていくなら、多分この体に生まれついたことはもう最悪中の最悪、リスクしかない。
でも、いわゆるほら中二病時期から社会人スタートして数年ぐらいまでの間で、多くの人は俺は何のために生まれてきたのかとか、いやなんかこの会社の歯車として働いているけど俺である意味は何なのかみたいな、割と多くの人が考えるじゃない。オリジナルの人生を生きたいぞというね。そう、そう。で、それで言うとその悩みにぶち当たったことがないのね。オリジナリティ溢れすぎちゃってるから。そうですね。誰が見てもこの人だと分かるという。そう。
だから大変なことはいっぱいあるし、物理的にできなくて悔しい思いをしたことはあるけど、1億2300万人の、もっと言えば80億人の中で、レアな生き方してんな、俺にしかできない生き方してんなっていうベースを与えてもらえたという上では、めっちゃプラスなので。どっちを取ろうかなと思った時に、こっちだと。そうね。こっちで行きたいと。そうね。
幼稚園と小学校は、一般学級というか、普通教育というかを受けてらっしゃったみたいな話ですよね。でも幼稚園入るのすら大変で、僕当時東京の東の端の江戸川区に住んでたんですよ。でも江戸川区中探し回っても僕のこの体を受け入れてくれる幼稚園が見つからず、ようやく母の友人のつてで、むしろ23区の今度は西の端の世田谷・深沢というところにある幼稚園に受け入れてもらえることが決まって、家族ごと引っ越しちゃったんですけど、っていうぐらい、やっぱ当時は一般的な進路を取ることすら難しい時代だったので。まあ今でもそうかな。
どうなんでしょうね。同じような方にちょっと会ったことがないようなあれですけど、でもあれですよね。乙武さんって健康ではあるというか。そう、病気になったりとかいうリスクは全然皆さんと変わらない。それもだからどうなんやろう。まあでもいらっしゃるか、いっぱい。片手がないとか多分いらっしゃるんですけどね。程度問題で、指が1本ないとか、手が1本ないとかはいるけど、4本全部ないは。そうすね。まあ、パンチ効いてるよね。4本全部なくてめっちゃ健康って、あんまいないすかね。やっぱそもそも4本全部ない人にあんま出会ったことないからね。そうっすね。
で、また小学校入るのが大変で、両親としては障害児教育に力を入れてますって謳っている私立の方が受け入れてくれるんじゃないかって。安心感ありますよね。それで当たってくれたんだけど、全滅どころかもう門前払い、会ってもくれないみたいな。ええ。なんでなんですか?あの、障害言うてもそんな重度は無理よみたいな。限度あるてみたいな。そうそう。
で、就学時健診っていう、来年から小学校に上がる子たちの健康診断という名の、ちょっと大丈夫なのっていう洗い出しみたいなのがあって、それのお知らせが来て、母はびっくりして教育委員会に「これうちの子行っていいんですか?」って言ったら向こうもびっくりしちゃって、うちの学区にそんなやべえやつ住んでたのかみたいな。送ってもうたってこと。そう、そう。でも、じゃ、とりあえずしてくださいみたいなところからやり取りが始まり、でも校長先生がすごく前向きに検討してくださったことで。素晴らしい。もちろんすんなりとはいかなかったですけど、色々な調整を経て受け入れていただけることになったから、当時としては本当に異例中の異例で、これだけ重度のある子が、今でいう特別支援学校、当時でいう養護学校ではなく、いわゆる地域の普通教育を受けるっていうのはかなり珍しかったんじゃないかな。
ちなみになんですけど、お母さんどういう方だったんですか?あの、基本、なんだろうな、楽観的に生きている人かな。なんか本にも書いてましたけど、ありますよ、なんか生まれた時に。そう、そう。だから『五体不満足』の中で一番やっぱり皆さんが印象的なシーンだったと言ってくださるのが、僕はこの体で生まれて、病院側はやっぱりその産後に体力的にも精神的にも弱っている母親に「あなたのお子さん生まれてみたら手足ありませんでした」って言ったらショックが大きすぎるからって言うんで、1ヶ月、黄疸っていう体が黄色くなる症状が激しいという理由で、ある意味嘘をついて会わせなかったんですよ。気使ってちょっとっていう。で、1ヶ月後に初めて会うことになって、でも病院はそれでもすごい心配して、あまりのショックに母親が倒れてしまうんじゃないかと、別室にベッドまで用意していたらしいんですけど、母は初めて私を見て「可愛い」っていう風に言ってくれた。
で、そのシーンだけじゃなく、普通だったらやっぱりこの体の息子を育ててくのに、当時50年前ですから、どうなってくんだろう、この子の人生、どうしてったらいいんだろう。それこそネットとかあったらね、いろんな人と繋がれてとかありますけど、そんな時代じゃないですからね。って思うと思うし、もちろん彼女もそう思った部分はあったと思うんですけど、それでも基本が楽天的でなんとかなるでしょうと思って育ててくれてたようなので。それはやっぱり自分の親が、この子の人生お先真っ暗だ、なんてことをしてしまったんだろうと思う親と、まあなんか大変そうだけどなんとかなるっしょっていう親では、やっぱり僕も全然人間違ってくると思う。でかいすね。そういう意味でも引き強いというかね。これでおかんがもう、やってもうた、終わった、赤子も息子も私も終わりやみたいになったら全然違う、多分性格。本当にそう思う。
思春期、小中高、思春期全くこの絶好調のままでいられたのは、やっぱ友達関係も大きくって。確かにね、中学ぐらいまで調子良くて、また高校生なってこうなってみたいなのあってもおかしないですけど。そう。いじめられてないの。いや、すごい。この体で。すごいっていうのも言い方ありますけど、でもすごいことやと思いますよ。それもやっぱ大きかったよね。なぜならね、小学校だったり中学校だったり、普通教育を選んだことでいじめを受けましたってなったら、やっぱりこの体で生きてくのしんどいなとか、そういうのやっぱあったと思うけど、本当に強がりでもなくそういった経験なく。
なんか本にも幼稚園・小学校では車椅子乗ってるだけで無双できてたみたいに書いてましたよね。そうね。みんながぞろぞろついてくるみたいな。で、割とこういう性格でもあるから、学級委員やってみたりとか、生徒会の役員やってみたりとか、割とこう仕切る側の人間だったので、なんかその障害があることでの引け目よりも、いやいや、俺クラスのリーダーだしみたいな方がやっぱ強かった。ま、そうか。本人のスタンスすもんね、結局はっていう。
で、高校がまたやっぱり受け入れてくれるところ探しが結構大変で、やっぱ私立これ難しいぞってなったんで都立に絞りました。それ面白いすね。なんかいいこと言ってる私立は受け入れてくれんくて、結局その公立のとこになるという。そう。公立に大感謝ですよ。いや、そうすね。いい国っすね。で、僕を受け入れてもいいよって手を上げてくれたのが、僕の学区の中で一番偏差値高いとこだったんですよ。都立戸山高校っていう。そこが手上げてくれたんですけど、でも当然試験は受かってねっていう話なので。
当時はいわゆる内申が高ければ高いほど、当日取らなきゃいけない点数が低くて済んだんですよ。逆に内申が低ければ低いほど、当日一発勝負でかなり高得点取らないとダメだったんですよ。で、僕、体育が……いや、笑いますね。1とか2なわけよ。まあ、それは向こうもね、普通科に入れたからには忖度してこれ5ってわけにはいかないと。そう。でも手上げてくれてるのもそこしかないし、せっかくそんな名門がね、入れてあげるよっていうね。で、受験なんですけど、どういう感じだったんですか?いや、もちろん詳しい点数わかんないですけど、かなり良い成績で受かったみたいで、戸山高校に進学。いや、おめでとうございます。
でもそこから学力的には堕落。まあまあ一旦ね。みんな賢いのよ。で、クラスで下から2番目になったの。ああ、みんな勉強できんなと思って。で、さらに、僕アメリカンフットボール部のマネージャーになり、それこそ当時出始めたパソコンを使って相手チームの分析をしてデータ出して、それをうちの戦略担当に渡すみたいな。パソコンまだ出始めで。そうやってたらどんどん勉強しなくなり、恋愛に時間を割き、みたいな。え、もう恋もしていた。でも実らずだけどね。
でも、その後の大事件につながるテーマではあるけど、なんか自分の中でちょっとこう自信を持てたというか、スイッチが入ったのは実は高校の時で。ある時、それこそ文化祭の準備した帰りかな、仲の良かった女友達と高田馬場の駅前を2人で歩いてたん。で、やっぱりじろじろ見られる。まあ、そうっすね。で、その時に聞いたの。その子とは本当に恋愛関係でもなんでもなく、ただの友達だったんだけど、「こうやってさ、俺と歩いてるとめっちゃ目立つと思うんだけど、正直ちょっと嫌じゃないの」って聞いたの。
そん時に、うちのクラスに、ちょっと名前忘れてますけど、ちょっと丸っこい体型で、ドラえもんっていうあだ名がつくような、めちゃくちゃ性格のいい男の子がいたの。じゃ、それを仮にA君としましょう。その子が「うーん、A君よりマシかな」。おお。めっちゃリアルだなと思って。そん時にもしその子が「全然気になんないよ」とか言ってたら、気い使わせちゃったなと俺も思うし。それはさすがにやってるやんね。そう、そう。でも「A君よりマシかな」って言われた時に、本当に女子のリアルなヒエラルキーが見えて、あ、こういう景色で見てんだなと。で、ビジュランキングの中で、俺手足ないのに最下位じゃないんだと思った時に、これ行けんぞと思ったんだよ。ワンチャンあるぞと。
絶対A君も将来ねご結婚なさったりするだろうから、絶対まあ大丈夫じゃ。めちゃめちゃビジュで得してるタイプではないが、この障害、このビジュで、あ、無理やわっていう土俵の外にいるわけではないんだなっていう。少なくともその子は一線引いてないと。そう、そう。ありがてえと思って。そっから、なんか大丈夫かもって思えたのは大きかったかな。へえ。ま、後にね、ぐちゃぐちゃに発展しますけれども。
で、大学また行かれるんですよね。当時西早稲田というとこに住んでいたので、となると早稲田大学かいと。高校も高田馬場にあったわけですから。そう。だから早稲田しかないなと思って。僕一浪してるんですけど、現役の時も一浪の時も早稲田しか受けてないです。で、現役の時は3学部受けて、3つとも全部落ちて、一浪して受かってっていう。
大学はどういう感じなのですか?もう本当に楽しくって。大学も早稲田だし家も早稲田だったから、早稲田の商店会の方たちと一緒に街づくり活動に参加してたの。例えば地域の子供たち相手に「車椅子探検隊」っていうイベントを開いて、社会福祉協議会から車椅子10何台借りてきて、当日その普段は元気に駆け回ってる町を車椅子に乗って回ってもらったら、こんなに景色が違うし、普段駆け回ってたここの路地入れないよとか、ここのお店も入れないよとかっていうのを体験してもらうみたいな。すごい、早いっすね。なんかそういうの今結構増えてきてますよね、体験してみようみたいな。だからそれもう30年前のやつだ。いやすごい、なるほど。
っていうのをやってたら、毎日新聞が、早稲田の学生で商店街の人たちとこんな活動してる車椅子の学生がいるっていう記事を書いてくれて、その記事を見たNHKがこんな学生がいるっつって30分ぐらいのドキュメンタリーを撮ってくれて、そのドキュメンタリーを見た講談社の編集者が本書いてみませんかっていう風に言ってくれて、『五体不満足』になるっていう。いきなり。そう。それだからもう20歳ぐらいの時ってことですか?21かな。へえ。でもそこはもうポンポンポンって決まって。でも3回ぐらい断ったの。
それどの段階でですか?本書きませんかって言われた時に。俺今でも嘘だろうって言われるんだけど、本当に文章書くのが苦手で、それこそ小学校の時とかも、読書感想文が書けなくて最後まで教室に残されてる子が3人ぐらいいたうちの1人っていうぐらい、勉強はできたんだけど文章だけがダメだったの。だから本書くなんて絶対無理ですって言って断り続けてたんだけど、それでもなんかやっぱり伝えたいことはあるなあっていう気持ちが上回ったので、やってみるかって感じかな。
で、600万部とかですか、バカ売れということになるわけですけど、それがここなんですかね。そう。こうなっちゃうんだ。そう。売れすぎちゃったな。多分皆さんのイメージとは真逆だよね。要は手足がない人生を送ってきてどん底スタートで、でも『五体不満足』でバーンって人生跳ね上がったんじゃないって多分思われがちだと思うんですけど、真逆かな、俺にとっては。まあまあそうっすね。普通に考えたらやっぱお金持ちなって良かったですねってなっちゃいますよね。
え、どういう感じで?いきなりもうボコンって売れたんですか?そう。いきなりもう発売前に重版がかかった。なかなかない。もう初版少なすぎたという。しかも知らない人だからね。人気作家さんとかなら分かるけど。発売前、重版。そうです。だからなんか企画がおもろすぎてっていう。本屋さんが送られてきたのを読んでめっちゃいいっつって注文、注文。多分プレスリリースみたいなのが先行って、それちょっと読んでこれえぐいということになってボコーンってなって。え、そん時どういう気分なんすか?もう人生終わったなと思った。いや、まあね。死にたいと思った。あ、本当すか。そこまで行った。もう逃げたいと思った。
プレッシャーがというか、どういう感情すか、それは。2個あって、1個は、さっき文章を書くのが苦手だから本書くなんて無理だけど、それ以上に伝えたいことがあったっていうのは、この前半で語ってきたことそのままなんだけど、障害者ってかわいそうな人だよね、社会的弱者だよねって思われてた中で、いやいやいや勝手に決めつけんなよと、俺はここまで少なくとも幸せに生きてきてるよっていう、アンチテーゼとして自分を登場させたかったっていうのがあって。
で、それを俺は生涯かけて伝えていくんだと思っていたら、今になって振り返ればそんなことはないんだけど、当時は、あ、もう役割終えちゃったなと思ったんだよね。生涯かけてやっていくべきことを、もうやっちゃったじゃん。俺じゃあもう何して生きてくの、生きる意味ないじゃんみたいな。確かに。全然そんなことはなかったんだけど、やっぱ当時はそう思っちゃって。それが1個の大テーマというかね。こういう体だけど普通に生きていけるし、それこそみんなと楽しくやっていけるんだというのを伝えていくぞというのが、もう全員読んじゃったやんってなって。そうそうそう。逆に崩壊というか、いうのがまず1個。そう。
もう1個は、その後で露呈するわけだけれども、そんなに品行方正ではない。まあね。いわゆる普通に大学生活を謳歌していた。それは早稲田大学生なんてね、しょうもないですよ。バカしかいませんからね。エロいだけなんですから。早稲田大学生なんてっていう22歳が、やたら品行方正なイメージを植えつけられ、街歩けばほぼ100%の人に知られ、写真撮ってください、サイン書いてくださいっていうラッシュでまともな生活が送れなくなり、マジで俺この先どうやって生きてくんだっていう絶望。いや、確かにな。ほんまなんかそういう仏像みたいな崇められ方して。そうすね。本当に、よくよくはそうだけど、時々拝まれてた。街中で。そうなっちゃうでしょうね、その当時のメディアのあれで。
で、下がっていって。でもそっからも、しんどいけど活動はしなきゃいけないすもんね。多分求められるから。で、回復に向かったのは、とあるキューバ人のおかげで。え。僕野球がすごい好きで、ちっちゃい頃から。俺が子供の頃に、3番リナレス、4番キンデランっていう、日本で言えば王・長嶋みたいな存在がいたんですよ。え、それはキューバ代表の。そう。キューバ代表の3番リナレス、4番キンデラン。リナレスって日本来ましたよね。キンデランが当時野村克也さんが監督を務めていたシダックスでプレイしていた。シダックス率いてた時のやね。そうそう。社会人チーム。そう。
で、俺が野村さんのパーティーに出席したら、キンデランが来てたわけ。選手だから。それはだから売れてできた繋がりみたいなので、パーティー行ったらキンデランが来てた。そう。で、もうさ、野球大好きっ子で育った俺からしたら、キューバの至宝キンデランが同じ部屋にいるわけですよ。別にキンデラン以外の日本のスターもいたけど、もうキンデラン別格よ。うわ、キンデランだと思ったら、キンデランもキンデランで、なんで野球のパーティーにあんな車椅子乗った手足ないやつがいるんだって気になってくれたみたいで、関係者に、あいつは何なんだと。ポジションどこやった?そうそうそう。どこ守ってたんやと。で、これこれこうでっていう説明を受けたら、すごい興味を持ってくれたみたいで、わざわざ向こうから挨拶してくれた。いいっすね。礼儀正しいキンデラン。
そう。で、僕当時、20代の頃7年間スポーツライターという仕事をしていて、その繋がりでそのパーティーも出席させていただいた。で、スポーツライターで野村さんにもお世話になっていて、なんて言ったら、「そうか、じゃあ今度シダックスの試合も是非見に来てくれ。もしその試合で僕がホームランを打つことができたら、それは君のために打ったホームランだよ」と。あら。俺小児がんの子供かなみたいな。別に手術とかはせんねんけど。ま、捧げるよと。そんなん言ってくれたら、もう好きと思って、有頂天で家に帰るわけですよ。キンデランがって。そうそうそう。
でもね、家に帰って、ちょっと冷静になった時に、あいつも大変だっただろうなと。ほうほう。つまり最初からそんなに素晴らしい人格であり、国民中の期待を背負う立場を最初からこなせていたんだろうかと。まあ、そうっすね。だからキューバの小僧やった時は、ウェイとか言ってマフィアはかっこいいなとか言ってたやつがキンデランになり、乙武さんを見たらすぐホームランを捧げるっていうやつになるまでの葛藤とか努力を想像したと。そう。
だから、俺は今まで、人々が乙武さんって素晴らしい人ですよねと言ってくれて、いや、そんなんじゃねえよって露悪的に振る舞いたいという思いでずっといたけれども、そういう自分になれるように努力しようっていうことはしてこなかったな。なるほど。キンデランも、しょうもない洟垂れ小僧が国民的英雄という看板を背負わされ、長年かけてそういう振る舞いができるようになったんだとしたら、俺も、とてもキンデランにはなれなかったとしても、もう少しはなんかそういう皆さんが思う振る舞いができる自分にならなあかんなという風に思えてから、めちゃくちゃそこが転機になって。へえ。
まあそう考えると、この本を出したおかげでキンデランと出会えたし、いろんな人が見れない景色も見れたし、これをプラスに捉えるかマイナスに捉えるかは、この体で生まれた人生をプラスで捉えるかマイナスに捉えるかのことと一緒で、本が出て売れまくって多くの人に知られる存在になったという事実はもう変えられないんだから、あとはそれを、あんなん出すんじゃなかったってくよくよ生きてくか、まあ、あのおかげで色々今これがあるよねってプラスに生きてくかは、もう俺次第だなと。やっと……いや、3年ぐらいかかって。キンデランのおかげだ。キンデランのおかげだ。もう27とかですか?いやいや、25ぐらい。
ま、本当、でも大人になるってそういうことすよね。自分を分かってくれ、本当の自分はこうじゃないんだじゃなくて、違うけど違うなりに人のため、世のためにちゃんとしますっていう。ちゃんとし始めるというよりも、そうは言っても人間ちゃんとできないじゃん。もちろん。そら僕なんてもっとできませんよ。だから、あ、でもちゃんとした自分を求められているんだなということへの折り合いをつけたんだよね。そうですね。
で、特に大きかったのが、やっぱりそのキンデランとの出会いまでは、いくらテレビや雑誌の取材を受けて、そんな俺じゃないんだ、もっと綺麗じゃない、しょうもないとこいっぱいあるんだと思って、それを語っても、結局編集された番組を見て、記事を読んでもばっさり行かれていて、綺麗な乙武君だけが出されるわけよ。それはやっぱり3年やられると、あ、もう求められてねえんだなと。これ喋ってもしょうがないなっていうことで、もう綺麗なことしか喋らなくなる。っていうことが、やっぱり自分の中で、よく言えば折り合いをつける、悪く言えば裏表を作ることに徹したのが20代後半ぐらいかな。まあ、でもそうすることで自分のメンタル的に安定するんだったら、その方がいいですからね。そう、そうね。
で、こう上がっていかれてということですけども、この辺なんか変わったことは……。あるだろ。え?あるだろ。40で……ちょっとこれずれてるのかな、わかんない。40で、週刊新潮ですよ。おお。ど、どういうことが?おい。すいません。ネット見ろ。
30代後半の辺りから政治を志すんですよ。今もされてる政治のね。やっぱり20代の頃から、当然いろんなお声がけもいただいていたし、周りから期待していただく声もありました。ま、あるでしょうね。できたら政治は避けて通りたいなとずっと思っていた。しんどそうというかね。それこそ本当の自分はこんなんじゃないって思うような性格だったらね、それもうやめてくれよと。
もちろん障害があるからかわいそうな人、不幸になるという、そんな社会を変えていきたいという思いはやっぱずっと持っていた。で、もちろんそうした社会に近づけていくためには、政治っていう手段は非常に有効であるというのも分かっていた。でもやっぱ今言ってくれたように、批判しかされない職業だし、それはそうすよ。金はかかるし、プライベートは監視されるし、監視されたら、ああなるしっていう中で、絶対避けたいなと。
でも、人生の針がどんどん進んだ時に、腹くくんなきゃいけない時が来たら、それは腹くくろうかなとは20代の頃から思ってたんだけど。40という人生のなんとなくの折り返しが見えてきた時に、ちょうどメディアに出始めて20年。20年で『五体不満足』も含めて、だいぶ人の意識を変えることができたぞという自負もあれば、じゃ、これもう20年やってどんぐらい世の中変えられそうなんだっけっていう、その後の成長曲線も見えてきた中で、あんまりその20年後の成長曲線の行き先が、まだまだ俺の納得できるレベルには到達しなそうだったんだよね。
だとしたら、これはメディアで発信をし続けるということではない、もうちょっとリスクのある手法を取るしかないんじゃないかというところで、30代後半、40が見えてきたあたりから政治というものを意識し始めた。なんかいいタイミングというかね。ね、本当の大人みたいなね、40過ぎて社会のために本当に動く人生みたいな、素敵なタイミングですけど。
中で、自分自身のプライベートの、政治家としてはふさわしくない行いが週刊誌に書かれ、出馬すらできなくなるという。例の不倫ってやつですよね。そうですね。あれがだからちょうど40です。なんか、あ、10年前だ。ご結婚されたのはこの辺。25。そうか。その時の奥さんとはもう別れられてる。はい。もう離婚して10年ですね。そうか。で、その選挙もそもそも出られず。それもしんどいな。
だから、こっから先のグラフが本当にちょっとわかんない。つまり……。ケネットみたいになってますけど、前行ったり後ろ行ったりして。この体で生まれましたということの整理はもう今ついているので、マイナスに捉えたらこうだよね、プラスに捉えたらこうだよね、じゃあお前どっちで捉えんの、あ、やっぱプラスかなって整理がついています。『五体不満足』という本で日本中のほとんどの人に知られる存在になりました。いや、これめっちゃ大変だったよね。でもこれによって出会いも経験もあったよね。まあ良かったかなとか、それぞれ自分で整理がついてるわけですよね、これは。そうです。
でも、じゃあ10年前の報道で、結局自分はプラスだったのかマイナスなのかが、まだ正直答えが出ていないので、グラフ書けなかったっていうのが正直なところかな。
あれ、僕も当時多分物心ついてたんで覚えてますけど、やっぱ結局乙武さんからしたら、1人の男がエロくて至らないことをしてしまったっていうだけですけど、やっぱ社会は、あの面白い、有名で変な体の乙武さんがエロいことしとったんかいみたいなのが乗っかってるから、余計嫌な言われ方というか。そうね。ずっと報道を大きくされ続けたよね。他の芸能人の同じようなことからすれば。でもそれに対して、世間的にはどうやってもやっぱ乙武さんが悪いってなってるから、いやお前らさ、俺がこんな体やから不倫余計にいじってないかとは言えへんすもんね。まあそうね。
どっちもあるなと思っていて、いわゆる明るく前向きに生きてきた障害者っていう偶像崇拝されてきたからこそ、より大きく叩かれたよなという、僕としては不満と。でもなんか障害者ってこれまで絶対叩いちゃいけない存在だったのに、その意味ではあれまでの日本の歴史において最もフルスイングで叩かれた障害者。確かに、確かにね。っていう聖域を超えたっていう意味では。確かに、社会進出ですよね。テレビの素敵な番組だけじゃなくて、週刊誌にも出て叩かれる方にも進出したと。だから本当に多分障害者・健常者関係なく、学校の教科書に載って写真週刊誌に載ってるの、俺ぐらいだと思うんだよ。まあまあ、はいはいっていう。
あのね、俺のあの騒動で人がいろんなこと言ってたんだけど、そん中で一番俺が嬉しかったのが、ホワイトハンズっていうNPOかな。重度の身体障害がある男性って自分で射精ができないんですよ。なので、それを風俗としてではなくヘルスケアの一環として、全くエロくないシチュエーションでエロくないようにして、定期的な射精のお手伝いをするっていうNPOかなの経営者がいるんですけど。
その方が、乙武さんの功績というのは、どんなに重度の障害があっても、それは不幸だと決めつけるわけではなく、きちんとその人生を謳歌できる存在なんだということを彼は生涯をかけて伝えてきたし、それを、批判を受ける形ではあるけれども、自ら証明してみせたのが今回の騒動だと思う、って書いてくれていて。なんかそれは一番、僕自身が今語ったマイナスとプラスと全部まるっと踏まえた上で、ありがたい総括だなとは思った。
これもいい言い方かわかんないですけど、ほな俺も行けるぞって思った人は、おるでしょうね。マジでありえないぐらい全国的なバッシングを受けたんだけれども、唯一、障害児を育てているお母様方からの株が微妙に上がって。不倫はマイナスやけども。そう、そう。恋できるという勇気を与えたというプラスが少しあって。「いや、やっぱり私も女性なんで、不倫を肯定することはやっぱりできないです。でもうちの子は一生女性との交わりっていうのはないんだろうなっていう風に諦めてましたけど、育て方によってはワンチャンあるんだと思えるようになりました」。それは素敵なことですからね。行為をできるぞという。
まだそのプラスとマイナスとどっちがどうなのか整理がついてないという中で、でも何がプラスで何がマイナスかは理解できていて。マイナスはやっぱり、自分がこういう社会にしていきたいと思うことに、この10年はあまり力を尽くせなかったなというのが、やっぱり大きなマイナスです。それは結局この10年政治家にもなれていないし、メディアへの登場回数とか扱われ方というのも、やっぱり10年前までとは大きく変わっているので。自分も周りもね、出づらい、出しづらいみたいな面が、どう接してもね、乗っちゃうというか。それがやっぱりマイナス。
でもプラスは、やっと剥ぎ取りたかったメッキが剥がれて本当の自分でいられるようになったというのは、これは結構皆さんが思ってる以上にプラスが大きくて、人生は楽になったかなと。だから背負ってる荷物は軽くなって楽になったけど、その分自分がやるべきことをやれるチャンスは小さくなったし、そこに対するジレンマは大きくなってるっていう、プラスとマイナスかな。なるほど。
また、キンデランのようなね、出会いが。そうね。だから今年の4月で僕50になるんですよ。だからこのグラフで言ったら、もうこの黒板からはみ出始めてるんで。そうなってきた時に、じゃあ40代の10年って結局何なんだろうっていう総括が、ようやく自分の中でもでき始めるのかもしれないですね。
で、今また多分今度も出られるなんかには出られると思うんですけど。あ、そういうわけでもない。いやいや、今、政党の役員を務めていて。あれですよね、小池さんの都民ファースト。の、なんでしたっけ?代表……。代表補佐という立場で。このままでいいかな、割と楽しながら少し政策にも携われるという、ちょっと緩めの立場は意外と美味しいのかなと思い込もうとしていた時期はあったんですけど、それってやっぱり逃げてんだろうなと思い。まあ、言い方あれですけど、そうっすね。自分で行けやって思う人は、中には、知る人ほどいらっしゃるでしょうね。って多分俺自身も思ってんだと思う、自分で。まあまあ、ここまでの戦いがありますからね。こんだけ戦ってきて、ここでなんか居座んのかっていう。
そう。まさに今すごく難しさを感じているのは、もちろん弱者の代表を背負わされることも苦しかったけど、ようやくその覚悟が芽生え始めたら、今度は、ある意味表に出続けた年数が重なり続けたことによって、特に若者中心に、乙武イコール弱者の代表ではなく、むしろもう強者側、エスタブリッシュメント側と見られていることも、ようやく最近自分の中で理解してきたので、これは戦い方難しいぞっていう。そうですね。
いや、これは本当に、文学にとって普遍的な問題だと思いますよ。本を出すっていうのも、マイノリティの声を本という形で出版して世を変えようっていうので出したのに、これがいきなり500万部売れたら途端に、あるものってなってしまってっていう。でもまあ、ネクスト乙武というかね、そういうマイノリティの声を……マイノリティってくくっちゃうのもあれですけどね、別のスターがどんどん現れてくれるといいんですけど。
それ、もうちょい喋っていい?はい、もちろん。10年前にさ、そのスキャンダルで全く2年ぐらいメディアから姿を消した時期に、俺としては、まさにそのネクストが出てきてほしいなと思っていたし、出てくると思っていたの。実際俺とほぼ同時期に一旦社会的死を迎えたベッキーさんが……一旦社会的……まあね。それによって、例えばホラン千秋さんとか宮沢さんとか、いわゆるハーフタレントと言われる方の活躍の機会が増えたのよ。そういう意味で言えば、いわゆるハーフ枠の大御所が空いたことで若手が育ったように。ある意味健全と言えますよね。ベッキーさんも、なんやったら肩の荷がちょっと降りる部分もあるというか、しんどいでしょうけどっていう。
ところが1年待っても2年待ってもそういう存在は出てこず。まあね。なんなら障害者絡みのトピックがあった時に、必ず俺に取材依頼が来るっていうのは、何なんだこの不健全さはと思って、実際仲のいいテレビマンに苦情がてら聞いたことがあったの。そん時に、いや、そうなんですけど、今のテレビ番組ってほとんどお笑い芸人の方が出てますよね。彼らの仕事ってやっぱり面白おかしくすることなので、当然障害者の方が共演者としていれば絡みが生じるし、そのいじりが、このコンプライアンス時代、なるほど、不謹慎であるとか、障害者に対してあの物言いはなんだとクレームが来る可能性が高い。でも視聴者は乙武さんに対する安心感……
まあ、乙武さんはそうやっていじられてもあの人面白く返せるよねっていう、もうプロでやってこられてる人やから、多少不倫いじられようが、体いじられようがっていう。そう。だから結果、新しい人を出すよりはスキャンダルがあったとしても乙武さんってなっちゃうんですよね、って言われた時に、これは結構大変だなと思いました。
いや、むずいっすね。
だから仕事のことだけ考えればラッキーなのよ。まあね。俺がずっと独占企業でいられるから。でも社会のこと考えたら、めっちゃ不健全だなとは思ってる。
いや、むずいっすね。僕、YouTubeが普段仕事なんですけど、別で短歌も書いてて、短歌業界も、また違いますけど、マイナーな文学ジャンルじゃないですか。だから短歌で俵万智さんとかが長年背負わされてるやつと、多分ちょっと近いというか。で、しかも大体もう代替不可能っていうのが。
そうか。
まあ、どうしたらいいんでしょうね。
俵さんとその文脈だけで対談したい。
毎回同じ話させられてとか多分あるんですよ。俵さんも、短歌ってあの何々けりとかのやつじゃないんですか?いや、これが違うくて、みたいな。多分乙武さんも、障害者ってみんな不幸なもんだと思ってました、いや、楽しく生きていけるんですよ、みたいな。どうしたらいいんですか?
いや、そうか。
乙武さんの前でこれぐらいで変人面するのもあれなんですけど、今東大の医学部に通ってて、27歳なんですけど、5回留年してて、今その本業がYouTubeで、その隙間を縫って大学に、ギリ行かなあかんやつだけ行き続けて、でもあと1回留年したら辞めさせられるという状態で。こんなスタジオに呼び出されて、いっぱいカメラある中ベラベラ喋ってるという状態で。
で、プロデューサーの大人とかもいるんすけど、そいつらも半笑いで、いつどうなるんやろうなと思いながら見てて。まず僕はこの番組は近いうちに終わるんじゃないかと思って。だから、終わるんやとしたら、こんな高いとこにあるスタジオで夢見ひん方がいいなとか。
すごいよね。びっくりしたもん。え、これYouTubeだよねと思ったもん。
そう。地上波とYouTubeなのに、なんかこんなすごいとこで。だからここに強くしがみついて話さない方がいいのではという気持ちもあるし。でも別に、それこそ今アベプラとか出てる同世代の、香ばしいやついっぱいいるんですよ。その若者代弁するみたいな。別にそれになりたいわけでもないしなっていうのもありつつ。
え、もう医者にはならないの?確定?
医師免許はとりあえず取ろうと思ってて。それこそ医者になると副業NGとかもあるんで、医者で研修やりますってなったら基本はもう医者1本っていう形になるんで、それはどうなんやろうとも思いつつ。ただ、一人前の医者になりたいなという気持ちもあり。
あ、あるんだ。
まあ、多少は。
これだっていう自分のスイッチが入るものが見つかっていない状態なら、選択肢はなるべく多く残しておいた方がいいと思うので、そういう意味では今の方針でいいのかなと思っていて。つまり、やっぱりこの番組をやれていることで、もちろん失うものも出てくるかもしれないけど、俺も含めていろんな変な大人たちと喋れるのは、多分人生にとってマイナスにはなんないだろうし。
おもろいです。
とはいえ、やっぱり俺医学やりたいなと思った時に、もう1回大学入り直すのはしんどいっす。もちろんこの番組の趣旨は遠回りもいいよね、だけど、さすがに遠回りすぎるので、だったら今頑張ってそこは取るのは取っといた方がいいよねとは思うかな。
そうっすね。だからとりあえず卒業するまでは必死こいてやって、そっからまた考えるという。
短歌で食ってくことはまあない?
でも正直、人生で何が一番、死後も残したいかって言うと短歌とか文章の仕事なんすけど、本当にやっぱ食えないので。食えるのは食えるかもしれないですけど、食おうと思ったら、それこそエッセイだの小説いっぱい書いて、量を書かないと。で、そうなったらやっぱ濃度は薄くなるというか。
それで言うと聞きたいのはさ、結構独特な世界じゃない?それをさ、YouTubeという映像を使った表現を日々していることは、今のところプラスに働いていると感じているのか、そこである意味消費されてしまっているマイナスの部分があるのか、あんまり関連してない、どっちでもいいなと思っているのか。俳句よりもさ、短歌の方がやっぱ思いがこもるじゃない。でもそれって、やっぱり五七五七七にその思いを込める技術って、めちゃくちゃ高度だし繊細だと思うの。こんな尺のないさ、YouTubeでパーっと喋った方が100万倍楽じゃん。だから自分の伝えたい感情を喋れちゃったら、なんかそれをあえて五七五七七の限られた字数で表現しなくていいじゃんっていう、自分を追い込まなくなっちゃわないのかなっていう質問。
で言うと、それはないっすね。むしろ普段のこのYouTubeとかで雑に喋ってるなっていう感覚が蓄積していくんです、日々。面白いこと言わなきゃいけないから、それこそ多少乙武さんが傷ついてもフリとか。そのセンサーが、それは他の短歌やってる人にはない経験なんで、基本的にはプラスになってるなとは思って。
なるほどね。
だから、これやめて短歌一本にしようとも思わないと。そこが強みなんで、って感じかな。
なんかそれで言ったら、本当にこだわらなくていいなと思っていて。別にこの番組が終わろうが、YouTubeというプラットフォームに限りが見えようが、多分あなたは短歌は続けると思うけど、プラスまたその時代の何かちょうどいいものを見つけ、それと短歌とか、それと医とか、2本3本ぐらいをうまく自分の中でスイッチ切り替えながらやってくのが向いてるのかなという。
確かに、そうなりそうな気も確かにしてますね。いや、そうですね。じゃあ最後にちょっと香ばしい質問なんですけど、あなたにとって遠回りとは。お願いいたします。
明確にゴールがある状態かな?
おお。
だって明確なゴールがなきゃ、今歩いてる道が遠回りかどうかなんかわかんないじゃん。明確なゴールがあるから、近道はこうで、俺が今歩いてる位置は遠回りだと実感するわけで。だから遠回りをしているということは、もちろん近道を歩ける方がさらに幸せかもしれないけど、自分の明確なゴールを持てているという意味では、意外ともしかしたらハッピーな状態なのかもなとは思う。
確かに。今僕が留年して遠回りっていじられてるのも、卒業という目標があるから遠回りってなるだけで、これが社会出てただフラフラしてるだけのやつは別に、フラフラしてるだけですもんね。確かに。そうか。だから遠回りと思えてるうちはマシと。
目標があるわけだからね、行き着きたい先が。これが永遠に続くって考えたら、もうそれ遠回りじゃない。そういう方が幸せだという人もいると思う。変に目標とか決めずに、常に今ある自分を受け入れるみたいな、ちょっと哲学的な生き方ができちゃう人はそっちの方が幸せなんだと思うけど、私は凡人なので、やっぱり目標があり、そこに向かって努力し、それが失敗したり成功したりっていう繰り返しかな。
それこそこれも、また自分の中でゴールしたぞっていう感覚が持てたら、遠回りやったなってなるかもしれないです。はい。分かりました。ありがとうございます。
こちらこそ。
ということで乙武さんでした。本日ありがとうございました。ありがとうございました。
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