『五体不満足』のヒットで「死にたい」と思った乙武洋匡が語る、偶像からの解放と政治への未練

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概要

作家の乙武洋匡氏が、東大医学部に在籍するYouTuberのベテランちと対談した。番組では、ゲストが事前に書いた「人生の浮き沈みグラフ」をもとに話を聞く。手足のない体で生まれ、『五体不満足』で一躍有名になり、40歳で不倫報道によって政治への道を断たれた乙武氏は、自分の人生の出来事をそれぞれプラスとマイナスのどちらと捉えるかを一つずつ整理してきたと語る。ただし、10年前の報道についてはまだ答えが出ていない。対談はその整理の過程をたどり、最後に「遠回り」の意味へと進んだ。

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生まれた時点をどう描くか:グラフの起点で迷った理由

乙武氏は冒頭で「この企画むずい」と漏らした。多くの人は生まれた時点から「この時期は良かった」「この時期は悪かった」と線を引いていく。しかし乙武氏は、起点の「生まれ」をどこに置くかでまず迷ったという。

乙武氏の説明はこうだ。自分で排泄の後始末ができない人生をプラスと捉えるかと問われれば、多くの人は嫌だと答えるし、自分も嫌だ。物理的にできないことが多く、人に頼み続けなければならない。人生のリスクをなるべく減らして生きたいという価値観で見れば、この体に生まれたことは「最悪中の最悪」でリスクしかない。

一方で、中学生の頃から社会人になって数年ほどの間に、多くの人は「自分は何のために生まれてきたのか」「会社の歯車として働く自分である意味は何か」と悩む。乙武氏はその悩みにぶつかったことがない。オリジナリティがありすぎたからだという。大変なことも、物理的にできずに悔しい思いをしたこともあった。それでも、1億2300万人、あるいは80億人の中で「俺にしかできない生き方」の土台を与えられたと考えればプラスが大きい。どちらで捉えるかを選ぶなら後者で行きたい、というのが乙武氏の結論だった。この「事実は変えられないが、プラスとマイナスのどちらで捉えるかは自分次第」という考え方は、対談の後半まで何度も出てくる。

幼稚園・小学校に入るまで:受け入れ先探しと母親の楽観

乙武氏は幼稚園と小学校で一般の教育を受けたが、そこに至るまでが大変だった。当時、一家は東京の東端にある江戸川区に住んでいた。区内を探し回っても受け入れてくれる幼稚園が見つからず、母親の友人のつてで、23区の西端にあたる世田谷区深沢の幼稚園に決まった。そのため家族ごと引っ越したという。当時は一般的な進路を取ることすら難しかったと乙武氏は振り返る。

小学校はさらに難航した。両親は「障害児教育に力を入れている」とうたう私立なら受け入れてくれるだろうと考えて当たったが、全滅どころか門前払いで、会ってすらもらえなかった。障害といってもそこまでの重度は無理だ、という反応だったという。

転機は就学時健康診断の案内だった。通知が届いて驚いた母親が教育委員会に「うちの子が行っていいんですか」と問い合わせると、向こうも驚いた。そこからやり取りが始まり、校長が非常に前向きに検討してくれた。すんなりとはいかず、さまざまな調整を経たうえで受け入れが決まった。これほど重度の子どもが、当時でいう養護学校ではなく地域の学校に通うのは極めて異例だったのではないか、と乙武氏は話す。

ベテランちが母親について尋ねると、乙武氏は「基本的に楽観的に生きている人」と答えた。『五体不満足』で読者が最も印象に残る場面として挙げるのが、出生時のエピソードだという。病院側は、出産で体力的にも精神的にも弱っている母親に「手足がありませんでした」と伝えるのはショックが大きすぎると判断し、黄疸が強いという理由で1か月間会わせなかった。1か月後の対面の際には、母親が倒れた場合に備えて別室にベッドまで用意していた。しかし母親は乙武氏を見て「かわいい」と言った。

約50年前、ネットで同じ境遇の人とつながることもできない時代である。母親にも「この子の人生はどうなるのか」という不安はあったはずだが、基本は「なんとかなるでしょう」という姿勢で育ててくれたという。親が「この子の人生はお先真っ暗だ」と思うか「大変そうだけどなんとかなる」と思うかで、子どもの人間性はまったく変わってくる、と乙武氏は言う。ベテランちも、そこで母親が悲観していたら性格はまったく違っていただろうと応じた。

いじめのなかった子ども時代、都立戸山高校への進学

思春期も調子を崩さずにいられた理由として、乙武氏は友人関係を挙げる。いじめを受けた経験は、強がりではなく本当になかったという。普通学級を選んでいじめられていたら「この体で生きていくのはしんどい」と感じたかもしれない、と本人も認めている。幼稚園や小学校では車椅子に乗っているだけで皆がぞろぞろついてきた。学級委員や生徒会役員を務めるなど仕切る側の人間だったので、障害による引け目よりも「俺はクラスのリーダーだ」という意識のほうが強かったという。

高校でも受け入れ先探しに苦労した。私立は難しいと判断して都立に絞ったところ、手を挙げてくれたのが学区で最も偏差値の高い都立戸山高校だった。私立がいいことを言いながら受け入れず、最終的に公立が受け入れたという話に、ベテランちは「それ面白い」と反応している。

ただし入学試験は受ける必要がある。当時は内申点が高いほど当日の試験で必要な点数が低くなる仕組みで、乙武氏の体育の成績は1か2だった。当日にかなりの高得点が必要だったが、詳しい点数は分からないものの、かなり良い成績で合格したらしいという。

入学後は「みんな賢い」と感じ、クラスで下から2番目まで成績が落ちた。アメリカンフットボール部のマネージャーとなり、当時出始めたパソコンで相手チームを分析したデータを戦略担当に渡していた。そのうち勉強をしなくなり、恋愛にも時間を割くようになった。

「A君よりマシかな」:恋愛に自信を持てた一言

乙武氏が「自信を持てた」「スイッチが入った」と振り返るのも高校時代の出来事だ。文化祭の準備の帰り、仲のよい女友達と二人で高田馬場の駅前を歩いていると、やはりじろじろ見られた。恋愛関係ではなくただの友達だったその女性に、乙武氏は「俺と歩いていると目立つと思うけど、正直ちょっと嫌じゃないの」と尋ねた。

クラスには、丸っこい体型で「ドラえもん」というあだ名がつくような、とても性格のいい男子がいた。仮にA君とする。女友達の答えは「A君よりはマシかな」だった。

もし「全然気にならないよ」と言われていたら、気を遣わせたと感じただろうと乙武氏は言う。「A君よりはマシ」という答えに女子のリアルな序列が見え、自分がその中で最下位ではないと分かった。手足がなくても「土俵の外」にいるわけではない、少なくともこの子は線を引いていない。そう思えて「これはいけるぞ」と感じたという。乙武氏はこのテーマについて、のちの「大事件」につながるものでもあると付け加えている。

早稲田での街づくり活動から『五体不満足』へ

当時、乙武氏は西早稲田に住んでおり、高校も高田馬場にあった。そのため大学は早稲田しか考えず、現役時も浪人時も早稲田だけを受けた。現役では3学部すべてに落ち、一浪して合格した。

大学生活は「本当に楽しかった」。大学も自宅も早稲田だったので、早稲田の商店会の人たちと街づくり活動に参加していた。その一つが、地域の子どもたちを対象にした「車椅子探検隊」だ。社会福祉協議会から車椅子を十数台借り、普段は元気に駆け回っている町を車椅子で回ってもらう。すると景色が違って見え、いつもの路地や店に入れないことに気づく。今でこそこうした体験型の取り組みは増えたが、それを30年前にやっていたわけだ。

この活動を毎日新聞が記事にし、その記事を見たNHKが30分ほどのドキュメンタリーを制作した。さらにそれを見た講談社の編集者が本の執筆を持ちかけた。21歳頃のことだという。

乙武氏は3回ほど断った。今でも「嘘だろう」と言われるが、本当に文章を書くのが苦手だった。小学生の頃は読書感想文が書けず、最後まで教室に残された3人のうちの1人だった。勉強はできたが文章だけは駄目だった。それでも伝えたいことがあるという気持ちが上回り、引き受けることにした。

600万部のヒットで「人生終わった」と感じた二つの理由

『五体不満足』は発売前から10刷がかかり、最終的に600万部のヒットになった。多くの人は、どん底から始まった人生がこの本で跳ね上がったと想像するだろう。しかし乙武氏のグラフでは、ここで線が大きく下がっている。当時の気分を聞かれ、乙武氏は「人生終わったなと思った」「死にたいと思った」「逃げたいと思った」と答えた。

理由の一つは、役割を終えてしまったと感じたことだった。本を書いた動機は、障害者は「かわいそうな人」「社会的弱者」と思われているが、勝手に決めつけるな、自分は少なくともここまで幸せに生きてきた、というアンチテーゼとして自分を差し出すことにあった。乙武氏はそれを生涯かけて伝えていくつもりでいた。それが一冊でほぼ全員に届いてしまった。今振り返ればそんなことはなかったが、当時は「もう何をして生きていけばいいのか」と感じたという。

もう一つは、実像とかけ離れた清廉なイメージを背負わされたことだ。乙武氏自身は普通に大学生活を謳歌していた22歳で、早稲田の学生なんて「しょうもない」と笑う。それが「やたら清廉なイメージ」を植え付けられた。街を歩けばほぼ100%の人に気づかれ、写真やサインを求められ続けて、まともな生活が送れなくなった。時には拝まれることもあったという。「これからどうやって生きていくのか」という絶望だった、と乙武氏は語る。

キューバの英雄・キンデランとの出会い

そこから回復するきっかけになったのが、キューバ代表の強打者オレステス・キンデランとの出会いだった。野球少年だった乙武氏にとって、キューバ代表の3番リナレス、4番キンデランは、日本でいえば王・長嶋のような存在だった。

乙武氏は20代の頃、7年間スポーツライターとして働いていた。その縁で、社会人チームのシダックスで監督を務めていた野村克也氏のパーティーに出席した。そこにシダックスでプレーしていたキンデランがいた。日本のスターも来ていたが、乙武氏にとってキンデランは「別格」だった。キンデランの側も、野球のパーティーになぜ車椅子に乗った手足のない人がいるのかと気になったらしく、関係者から説明を受けると、わざわざ向こうから挨拶に来た。野村氏にお世話になっているスポーツライターだと伝えると、キンデランは「今度シダックスの試合を見に来てくれ。そこでホームランを打てたら、それは君のために打ったホームランだ」と言った。

乙武氏は有頂天で帰宅した。しかし冷静になってから考えたのは、キンデランも最初からあれほどの人格者で、国民の期待を背負う立場をこなせていたのだろうか、ということだった。キューバの少年だった頃は悪ぶっていたかもしれない人物が、初対面の相手にホームランを捧げると言える人間になるまでの葛藤や努力を想像した。

それまでの自分は、「乙武さんは素晴らしい人」と言われるたびに「そんなんじゃない」と露悪的に振る舞いたいと思っていた。一方で、そういう自分になれるよう努力することはしてこなかった。キンデランですら長い年月をかけてそうなったのだとすれば、自分も少しは周囲が思うような振る舞いができるようにならなければいけない。そう思えたことが大きな転機になったという。

乙武氏はここで、生まれた体についてと同じ整理をした。本が売れて多くの人に知られたという事実は変えられない。「あんな本を出さなければよかった」とくよくよして生きるか、「あのおかげで出会いも景色もあった」とプラスにして生きるかは自分次第だ。そう思えるまでに3年ほどかかり、25歳頃のことだったという。

折り合いと、裏表をつくること

ベテランちは「大人になるってそういうことですよね」と応じた。乙武氏はこれを受けて、「ちゃんとし始める」というよりも、人間はちゃんとできないものだと認めたうえで、ちゃんとした自分を求められていることに折り合いをつけたのだと説明した。

それまでは、取材で「自分はそんなに綺麗な人間じゃない、しょうもないところがいっぱいある」と話しても、編集された番組や記事ではその部分がばっさり切られ、綺麗な乙武像だけが出された。3年それが続くと、求められていないのだから喋っても仕方ないと思い、綺麗なことしか話さなくなった。よく言えば折り合いをつけた、悪く言えば裏表をつくることに徹した。それが20代後半だったと乙武氏は振り返る。

政治を志した理由と、40歳の報道

グラフは20代後半から上向くが、乙武氏はベテランちに「この辺で何か変わったことはあるだろ?」と迫り、「40で週刊新潮ですよ」「ネット見ろ」と笑いを取った。

乙武氏は38歳頃から政治を意識し始めた。20代の頃から声はかかっていたし、周囲の期待もあった。障害があるから「かわいそう」「不幸」とされる社会を変えたいという思いはずっとあり、そのために政治が有効な手段であることも分かっていた。それでも、批判しかされない職業で、金がかかり、プライベートは監視される。できれば避けて通りたいと考えていた。

とはいえ、腹をくくらなければならない時が来たらくくろうとも20代から思っていた。40歳という人生の折り返しが見えてきた頃、メディアに出て20年がたっていた。『五体不満足』も含めて人々の意識をだいぶ変えられたという自負はあった。同時に、このままメディアで20年発信を続けてどれくらい世の中を変えられるかという「成長曲線」も見えてきた。その行き先は、乙武氏が納得できる水準には届きそうになかった。それなら、もっとリスクのある手法を取るしかない。これが政治を意識した理由だという。

その矢先、政治家としてふさわしくないプライベートの行いが週刊誌に報じられ、出馬すらできなくなった。ちょうど40歳、10年前のことだ。結婚は25歳頃で、当時の配偶者とは離婚して10年になる。

報道はプラスかマイナスか:まだ描けないグラフ

グラフは報道以降、前後に揺れる線になっている。乙武氏は、体のことも『五体不満足』のことも整理がついているが、10年前の報道が結局プラスだったのかマイナスだったのかはまだ答えが出ていないので、グラフが描けなかったと話した。

ベテランちは当時を覚えているといい、乙武氏からすれば一人の男が至らないことをしただけだが、社会には「有名で変わった体の乙武さんがそんなことをしていたのか」という面白がりが乗っていたのではないかと指摘した。乙武氏も、他の芸能人の同様の件と比べて報道はずっと大きく扱われ続けたと認める。

乙武氏はここに二つの見方があるという。一つは、明るく前向きに生きる障害者として偶像崇拝されてきたからこそ、より大きく叩かれたという不満だ。もう一つは、障害者はこれまで決して叩いてはいけない存在だったのに、日本の歴史上「最もフルスイングで叩かれた障害者」になったという見方である。乙武氏はこれを冗談めかして「社会進出」と呼んだ。テレビの素敵な番組だけでなく、週刊誌で叩かれる側にも進出したというわけだ。学校の教科書に載り、週刊誌にも写真が載った人間は、障害の有無に関係なく自分くらいだろうとも笑った。

騒動をめぐるさまざまな声の中で、乙武氏が最も嬉しかったのは、NPO法人ホワイトハンズの経営者による文章だった。この団体は、自分で射精ができない重度の身体障害がある男性に向けて、風俗ではなくヘルスケアの一環として、性的でない形で定期的な射精を介助している。その経営者は、どんなに重度の障害があっても不幸だと決めつけず、人生を謳歌できる存在だと乙武氏は生涯をかけて伝えてきた、今回の騒動は批判を受ける形ではあるがそれを自ら証明してみせた、と書いた。乙武氏は、マイナスもプラスも丸ごと踏まえたありがたい総括だと感じたという。

全国的なバッシングの中で唯一、障害児を育てる母親たちからの評価は「微妙に上がった」とも乙武氏は話す。「女性として不倫を肯定することはできない。でも、うちの子は一生女性との交わりはないだろうと諦めていたが、育て方によっては可能性があると思えるようになった」という声が届いたという。

プラスとマイナスの中身は理解している、と乙武氏は言う。マイナスは、この10年、自分が実現したい社会のためにあまり力を尽くせなかったことだ。政治家になれず、メディアへの登場回数や扱われ方も10年前とは大きく変わった。プラスは、ずっと剥ぎ取りたかったメッキが剥がれ、本当の自分でいられるようになったこと。これは周囲が思う以上に大きく、人生は楽になったという。背負う荷物は軽くなったが、やるべきことをやれるチャンスは小さくなり、そこへのジレンマは大きくなった。乙武氏はこれを「プラスとマイナス」とまとめた。今年4月に50歳になったので、40代の10年が何だったのかを総括できるのはこれからかもしれない、とも語った。

「逃げているのだろう」:現在の立場と戦い方の難しさ

現在、乙武氏は小池百合子氏が率いる都民ファーストの会で代表補佐を務めている。ベテランちが「今度は選挙に出られるのでは」と振ると、乙武氏は、楽をしながら少し政策にも関われる緩めの立場は意外と美味しいのではないかと思い込もうとした時期があったと明かした。しかしそれはやはり逃げなのだろうと思い、「自分で行けよ」と思う人がいるように、自分自身もそう思っているのだと思う、と語った。

ここで乙武氏が難しさとして挙げたのは、世間からの見え方の変化だった。弱者の代表を背負わされるのは苦しかったが、ようやくその覚悟が芽生え始めた。ところが、表に出続けた年数が重なった結果、特に若者を中心に、乙武は弱者の代表ではなく、むしろ強者側・エスタブリッシュメント側と見られている。最近になってようやくそれを理解したといい、「これは戦い方が難しい」と話した。ベテランちは、マイノリティの声を届けるために出した本が500万部を超えた途端に「権威あるもの」になってしまうのは、文学にとって普遍的な問題だと応じた。

「ネクスト乙武」が現れない不健全さ

乙武氏はさらに話を続けた。スキャンダル後、2年ほどメディアから姿を消していた間、自分の後を継ぐ存在が出てきてほしいと思っていたし、出てくるとも思っていた。ほぼ同時期に「社会的な死」を迎えたベッキー氏の場合は、その空白によってホラン千秋氏や宮沢氏らいわゆるハーフタレントの活躍の機会が増えた。大御所の席が空いたことで若手が育ったわけだ。

ところが障害者の分野では、1年待っても2年待ってもそうした存在は現れなかった。それどころか、障害者に関する話題があると必ず乙武氏に取材依頼が来た。「何なんだこの不健全さは」と思い、親しいテレビマンに苦情がてら尋ねたことがある。返ってきた説明はこうだった。今のテレビ番組は多くがお笑い芸人中心で、芸人の仕事は面白おかしくすることだ。障害者の共演者がいれば絡みが生じるが、コンプライアンスの厳しい時代にはその絡みが「不謹慎」「障害者に対してあの物言いは何だ」とクレームになりやすい。その点、乙武さんならいじられても面白く返せるという安心感を視聴者が持っている。だから新しい人を起用するより、スキャンダルがあっても乙武さんになってしまう。

乙武氏は、仕事のことだけを考えれば独占企業でいられるのでラッキーだが、社会のことを考えるととても不健全だと話した。ベテランちは、自身が短歌を書いていることに触れ、マイナーな文学ジャンルで俵万智氏が長年代表を背負わされている状況と近いのではないかと重ねた。

ベテランちの「遠回り」:5回の留年と短歌

話はMCのベテランち自身に移った。ベテランちは東大医学部に在籍する27歳で、5回留年している。本業はYouTubeで、大学には出席が必須の授業だけ隙間を縫って通っており、あと1回留年すれば退学になるという。プロデューサーたちも半笑いで見ているといい、この番組も近いうちに終わるのではないかと思っているので、立派なスタジオで夢を見ないほうがいいと考えていると話した。ABEMA Primeなどに出る同世代の「若者代弁」的な人たちのようになりたいわけでもない、とも付け加えた。

乙武氏が「もう医者にはならないのか」と尋ねると、ベテランちは医師免許はとりあえず取るつもりだと答えた。医師になれば副業禁止の場合もあり、研修に入れば基本的に医師一本になるので迷いもあるが、一人前の医師になりたい気持ちも多少はあるという。乙武氏は、自分のスイッチが入るものが見つかっていないなら選択肢はなるべく多く残したほうがいいと助言した。この番組で乙武氏を含むさまざまな「変な大人」と話せるのは人生のマイナスにはならないだろう。一方で、後から医学をやりたくなって大学に入り直すのは、この番組の趣旨が「遠回りもいい」だとしても遠回りすぎる。だから今は頑張って卒業しておいたほうがいい、という考えだった。

ベテランちは、人生で一番、死後に残したいのは短歌や文章の仕事だが、本当に食えないと話した。食べていこうとすればエッセイや小説を大量に書く必要があり、そうなると濃度が薄くなるという。

これに対して乙武氏は一つ質問をした。俳句より短歌のほうが思いを込められるとはいえ、五七五七七に思いを込めるのは高度で繊細な技術だ。尺の制限がないYouTubeで喋るほうがはるかに楽で、伝えたい感情を喋って出してしまえば、限られた字数で自分を追い込まなくなるのではないか。YouTubeでの表現は短歌にとってプラスなのか、消費されてしまうマイナスがあるのか、それとも関係ないのか。

ベテランちの答えは、それはない、というものだった。むしろ普段のYouTubeで「雑に喋っている」という感覚が日々蓄積していく。また、面白いことを言わなければならないので、それこそ乙武氏が多少傷つくような話の振りも含めたセンサーが働いている。これは他の歌人にはない経験で、基本的にはプラスになっていると思う。だからYouTubeをやめて短歌一本にしようとも思わない、と答えた。乙武氏は、番組が終わってもYouTubeというプラットフォームに限りが見えても短歌は続けるだろうから、その時代ごとにちょうどいいものを見つけ、短歌や医学と合わせて2本、3本をスイッチを切り替えながらやっていくのが向いているのではないかと述べた。ベテランちも、そうなりそうな気がしていると応じた。

「遠回りとは、明確なゴールがある状態」

最後に「あなたにとって遠回りとは」と問われ、乙武氏は「明確にゴールがある状態」と答えた。明確なゴールがなければ、今歩いている道が遠回りかどうかも分からない。ゴールがあるからこそ近道が見え、自分の位置が遠回りだと実感できる。近道を歩けるほうがさらに幸せかもしれないが、遠回りをしているということは明確なゴールを持てているということなので、意外とハッピーな状態なのかもしれない、と乙武氏は話した。

ベテランちも、自分が留年を「遠回り」といじられるのは卒業という目標があるからで、社会に出てただふらふらしているだけなら遠回りとすら呼ばれない、と納得した様子だった。乙武氏は、目標を決めずに今ある自分を受け入れる哲学的な生き方ができる人はそのほうが幸せだと思うと認めつつ、自分は凡人なので、目標を持ち、そこに向かって努力し、失敗したり成功したりを繰り返すのだと語った。そして、自分の中でまた「ゴールした」という感覚が持てたとき、今の時期も遠回りだったと思えるようになるのかもしれない、と対談を締めくくった。10年前の報道をどう位置づけるかという問いは、ここでも答えが出ないまま残っている。