侵略と内紛の2000年からイギリスを読み解く 中田敦彦の「エクストリーム世界史」イギリス史編

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概要

中田敦彦は、自身の講義シリーズ「エクストリーム世界史」でイギリス史を取り上げた。参考文献は『一冊でわかるイギリス史』(小林照夫、河出書房新社)である。前回扱ったアメリカ史と同じシリーズで厚さも同じくらいだったため、同じ調子で臨んだが「地獄でした」と中田は振り返る。アメリカが約250年の歴史なのに対し、イギリスには2000年以上の歴史がある。民族が入れ替わり、国内の地域どうしが支配し支配され、ようやく落ち着いたかと思えば王家の中で争いが始まる。その連続だったからだという。

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そのため今回は「何世」という王の名前をほとんど出さない方針をとった。産業革命以降のイギリスは近現代史でよく知られているが、それ以前にどう成り立ち、国の歴史にどんな個性があるのかを大づかみに伝える。これが講義の狙いである。

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「イギリス」ではなく「ユナイテッド・キングダム」

中田はまず現在の領土を確認する。「イギリス」と呼ぶのはほぼ日本人だけで、ある時期の呼び方の名残りにすぎないと中田は言う。正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」、つまりユナイテッド・キングダム(UK)である。中田は「イギリスと呼んでいる限り、イギリスのことは正式には理解できない」と述べる。

構成するのはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドだ。アイルランドは何度もイギリスに統治されたが、ある時に独立し、北の部分だけが現在もイギリスに残っている。日本人はサッカーのイングランドとウイスキーのスコットランドだけを覚えがちだが、ウェールズと北アイルランドも忘れないでほしいと中田は念を押す。

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ローマの属州ブリタニアとロンディニウム

この島には、もともとケルト人などさまざまな民族が住んでいた。そこへ古代ローマがやってくる。中田によれば、南ヨーロッパが古代ギリシャの影響を強く受けたように、ギリシャの時代が終わるとローマがヨーロッパのすべてをつくる時代になった。

最初に攻めてきたのはカエサルである。その頃はこの地域が島なのかどうかもはっきりせず、ブリトン人が住んでいることから「ブリタニア」と呼ばれていたという。カエサルは国内の事情で引き揚げるが、のちに皇帝クラウディウスが南半分ほどを攻め取り、イングランドあたりまでを属州ブリタニアとして押さえた。この時期にローマの主要都市として整備されたのがロンディニウムで、意味は「沼地の砦」だという。これがのちのロンドンになる。中田は、この頃からロンドンの場所は良い土地と見なされていたと話す。

6:25

ドーバー海峡30キロ 侵略され続ける島

その後、ローマ帝国は東西に分かれて弱体化し、ゲルマン民族の大移動が起きる。西ローマの力が弱まるとローマはブリタニアから手を引き、入れ替わりに海を越えてゲルマン系の人々が渡ってきた。

中田はここを、日本と比べるうえでのポイントとして強調する。イギリスと日本はユーラシア大陸の両端にある島国で、どちらにも王室・皇室がある。共通点は多いが、大陸との距離が大きく違う。中田によれば、日本と大陸の間は海で50キロほどあるのに対し、ドーバー海峡は30キロしかない。ドーバー海峡を泳いで渡る企画はたびたびあるが、釜山まで泳ぐ企画はあまり聞かない。日本が海の向こうからの侵略を本気で意識したのは元寇くらいだったが、イギリスには何度も侵略者がやってきた、と中田は対比する。

8:22

アングロサクソン七王国と「イングランド」という名前

渡ってきたゲルマン系の人々がアングロ人やサクソン人、いわゆるアングロサクソン人で、イングランドのあたりに七つの王国を築いた。もとからいたブリトン人はウェールズへ追いやられ、両者の間でまったく違う文化が育った。ウェールズの人々には古くから追いやられてきた恨みがあり、その後もイングランドが中心で、スコットランドはライバルとして反発し続け、ウェールズは押しやられ続ける。これが以後の基本的な構図だと中田は整理する。

中田はこの構図を国旗でも説明する。ユニオンジャックは、白地に赤十字のイングランド、青地に白の斜め十字のスコットランド、白地に赤の斜め十字のアイルランドを重ねたものだ。そこにウェールズの要素はない。中田によれば、ウェールズはかなり早くからイングランドに支配されていて、「合体」という扱いにすらならなかったからだという。

「イングランド」という名前の由来も、この時代にさかのぼる。語源は「アングロランド」、つまり一つの民族の名前である。そのためアングロ人ではないスコットランドやウェールズの人々にとって、アングロランドからイングランド、イングリッシュ、そして「イギリス」とひとまとめに呼ばれるのは勘弁してほしい。そういう国民感情がここで生まれたと中田は説明する。イギリスは一つの国ではなく、その名前自体に争いの歴史が含まれている。これを理解しているかどうかが、イギリスの微妙な関係性をつかむうえで非常に大事だという。

10:23

ゴディバ夫人とアーサー王物語

七王国どうしの攻防は激しく、一つの王国が優位に立つとすぐ状況が変わった。中田はこの時代の話として、チョコレートメーカーの名前にもなったゴディバ夫人の逸話を紹介する。

ゴディバ夫人は七王国のある領主の妻だった。領主が民に重い税を課していたので、夫人は民を代弁して税を下げるよう夫に求めた。すると領主は、本気で民のことを思っているなら裸で馬に乗って町を一周してこい、そうすれば聞いてやる、と言い放つ。夫人はそれを実行した。羞恥心を捨てて領民を守った英雄的な女性として、その姿がゴディバの社名とロゴ(馬に乗った女性)になっている、と中田は語る。町の人々は夫人の裸を見てはいけないと皆目を伏せたが、トムという男だけが覗き見た。これが「ピーピング・トム」という言葉の由来になった話だという。

一方、ウェールズに追いやられたブリトン人にも物語が残っている。中田によれば、彼らが劣等感を晴らしたくて生んだのがアーサー王と円卓の騎士、ランスロットらの物語だという。

14:23

ヴァイキング襲来と「北欧の一部」だった時代

七王国がやがて一つにまとまり、統一が見えた頃にヴァイキングが襲ってくる。中田は、ヴァイキングは専業の海賊ではなかったと補足する。北欧では農民や漁師として暮らしていた人々が、船で侵略や略奪に出るときにそう呼ばれた。デンマーク、ノルウェー、スウェーデンなどから次々に押し寄せ、この時代はとにかく来ては追い払うことの繰り返しだったという。

ところがある時イングランドは敗れ、非常に強い北欧の王のもとで、ノルウェーやデンマークと同じ支配圏(北海帝国)に組み込まれてしまう。「一回北欧になるんですよ、イギリス」と中田は驚きを込めて話す。北欧とイギリスは無関係に見えるが、それは違うのだと。しかし北欧側でも後継者争いが激しく、支配は長く続かなかった。スタンフォード・ブリッジの戦いでようやく北欧勢力を退け、以後北欧が攻めてくることはなくなった。

17:27

マクベスとシェイクスピアの政治感覚

同じ頃、スコットランドでも王位継承をめぐる争いが続いていた。その中で現れたのがマクベスである。のちにエリザベス1世の時代にシェイクスピアが戯曲『マクベス』を書くが、その題材はイングランドが北海帝国に組み込まれていた時期のスコットランドの王位争いだったと中田は説明する。

戯曲のマクベスは王になってすぐ王子に討たれる。しかし中田によれば、実際には20年近く名君として統治していたらしく、戻ってきた王子に倒されたという史実をもとにシェイクスピアが脚色した。

中田は、シェイクスピアが受けた理由をこう読む。台詞回しや筋の面白さに加え、イギリスの人々にとって王位継承の争いが身近でリアルなゴシップだった。しかもイングランドにいるシェイクスピアがスコットランドの揉め事を描けば、イングランド国内の対立には触れずに済む。最後はイングランド王に攻められて終わるので、観客にとって受け入れやすい。時の権力者が喜ぶ枠組みの中で面白いものを作った政治的配慮の巧みさこそ、天才と呼ばれるゆえんだと中田は評する。

19:29

ノルマン・コンクエストと封建制の持ち込み

北欧から国を取り戻した直後に、今度はフランスから侵略される。これがノルマン・コンクエストである。中田は、第二次世界大戦のノルマンディー上陸作戦で知られるフランス北部のノルマンディーから攻めてきた、つまり逆方向の「上陸作戦」だったと説明する。イングランドは完全に征服され、ノルマンディーの王がイングランドの王を兼ねる時代が始まった。

中田によれば、これで文化の流れが変わった。北欧の一国のようだった状態から北欧との交流が断たれ、以後はヨーロッパの一国という雰囲気になる。この出来事がなければ「ヨーロッパと北欧とイギリス」という別の文化圏になっていたかもしれない、と中田は推測する。

ノルマン人は大陸の仕組みも持ち込んだ。税をうまく取るために土地台帳を作り、土地を与える代わりに税を納めさせる。日本の御恩と奉公にも似た封建制の基礎が、ここでイギリスに入ってきたと中田は説明する。ローマに支配され、七王国ができ、北欧に組み込まれ、フランスに征服されて封建制が始まる。この流れは中田にとって「非常に意外」で、「ここからイギリスっぽい」のだという。

21:00

百年戦争・薔薇戦争・ペスト、そして絶対王政へ

フランス王とイングランド王を兼ねるような入り組んだ状態から起きたのが百年戦争である。英仏戦争と呼ばれることもあるが、中田によれば、国家と国家ががっちり戦ったというより、有力な貴族や領主どうしの争いだったらしい。その後に起きた薔薇戦争は、白薔薇の貴族と赤薔薇の貴族の血みどろの争いだった。この争いで封建領主が弱体化し、のちの絶対王政につながる。

侵略に耐え、封建制が始まり、泥沼の争いを経て絶対王政が来る。中田はこれを、この講義で「エクストリームに」押さえてほしい流れだとまとめる。

この頃はペストも大流行し、国民の半分ほどが亡くなるような事態だったと中田は話す。そしてニュートンもこの時期の人物として登場させる。ペストが流行する都市部から逃れて研究し、リンゴが落ちるのを見て発見をした、という話だ。中田は「ゴディバここ、マクベスここ、ニュートンここなんだ」と、知っている人物を年表に置いていく面白さを語る。

22:40

ヘンリー8世の離婚と英国国教会

絶対王政の時代に、イギリスならではの出来事が起きる。キリスト教はローマ帝国の影響で早くから伝わっていた。ローマは一度キリスト教を弾圧したが、防ぎきれずに国教化した。その後ローマ教皇が布教し、イギリスでもカトリックが急速に広がった。

ヨーロッパではやがて宗教改革が起きる。中田は二つの流れを説明する。一つはルターで、カトリックが免罪符を売って金儲けしていることに抗議し、そんなものは買わなくていいと唱えた。これがプロテスタントである。もう一つはカルヴァンの予定説で、誰が天国に行くかはすでに決まっているから教会にへつらう必要はない、真面目に働いてお金を稼げ、と説いた。

しかしイギリスのカトリック離脱は、ルターやカルヴァンとはまったく違う経緯で起きたと中田は強調する。現在のイギリスの主要なキリスト教である英国国教会をつくったのは、離婚したかったヘンリー8世だった。

中田によれば、背景には王位継承の問題があった。王妃との間に男子が生まれず、焦ったヘンリー8世は王妃の侍女と子をもうけようとした。カトリックでは離婚できないが、当時の貴族は「そもそも結婚が成立していなかった」とローマ教皇に認めてもらい、婚姻を無効にする手をよく使っていたという。結婚から10年以上経っていても、この方法なら離婚の禁止に違反しない。しかもヘンリー8世は、ルターが宗教改革を始めた際にルターを批判し、教皇から感謝されていた。だから自分の件は裏ルートで無効にしてもらえると考えていたらしい。

ところが当時、教皇は神聖ローマ帝国の捕虜のような立場にあり(経緯は分からないと中田は断っている)、その神聖ローマ帝国の皇帝はヘンリー8世の王妃の甥だった。叔母が王妃の座を失うことを甥が認めるはずがない。教皇は自分の身が危ないとして、婚姻の無効を拒んだ。そこでヘンリー8世が新たにつくったのが英国国教会である。

カトリックでは教皇が頂点にいるが、英国国教会では王が頂点に立つ。中田はこれを「発明」と呼ぶ。ルターやカルヴァンと同じ時期に分かれたので思想が違うのかと思いがちだが、実態は「王が主導しているカトリックのようなもの」で、流れとしてはカトリックだという。

ちなみに中田は、この王妃と甥の関係程度で複雑だと言っていたらイギリスは語れないとこぼす。同じ名前の人物が何人も出てくる系図に「目が白くなった」、「マチルダがマチルダにNOを突きつけた」という記述に「ふざけんな」と言った、と勉強中の苦労を明かしている。

三つ巴の宗教対立とブラッディ・メアリー

英国国教会は、カトリックの残党とも、プロテスタントのカルヴァン派(ピューリタン)とも対立することになった。前回のアメリカ史で扱ったように、このピューリタンが逃れてアメリカをつくる。

その後の宗教をめぐる揉め方は「えぐい」と中田は言う。カトリックの女王が即位すればカトリックに、プロテスタントの王が即位すればプロテスタントに変わり、血筋の争いと重なって殺し合いが繰り返された。ヘンリー8世の後に即位したカトリックのメアリーは、プロテスタントを次々に処刑したため「ブラッディ・メアリー」と呼ばれた。

29:50

エリザベス1世の黄金時代

メアリーの後に即位したのがエリザベス1世である。それまで王や女王はころころ代わっていたが、エリザベスの治世は長く、黄金時代と呼ばれる。この頃からイギリスはヨーロッパで存在感を増していく。スペインの無敵艦隊を破り、東インド会社をつくって大航海に乗り出したのもこの時代だ。

平和が続くと文化が栄える。中田は江戸の元禄文化や浮世絵、落語、歌舞伎を例に挙げ、戦争ばかりしていたら芝居など見ていられない、文化が花開くのは余裕がある時だと言う。イギリス・ルネサンスと呼ばれるこの時代に現れたのがシェイクスピアだった。

31:14

議会政治と産業革命、二度の「大ブレイク」

絶対王政の絶頂と大航海時代を経て、イギリスはいち早く議会政治に移っていく。中田はここを手短に扱う。英国国教会による弾圧への反発であるピューリタン革命や、血が流れなかったことから名づけられた名誉革命など、王に対する議会の革命を経て議会政治が生まれた。

続く産業革命について、中田は「大英帝国」の時代はそれほど長くなかったと指摘する。産業革命は技術の躍進なので、ドイツやフランスもやがてその技術を取り入れて伸び、最初のリードは追いつかれていく。中田はこれをIT革命で中国が追いついてきたことや、スマートフォンを「うちでも作れる」と各国が言い出す状況になぞらえ、技術が流出して100年もリードし続けることはできないと述べる。

それでもイギリスは二度大きく飛躍した、と中田は整理する。エリザベスの頃から海洋王国となってスペインを超え、インドなど広大な領土を持った。アメリカを失った時に衰えたと思われがちだが、その後にオーストラリアやニュージーランドを手に入れ、さらに産業革命で再び跳ね上がった。つまり産業革命は黄金時代の「後」の二度目のブレイクで、その時の女王がヴィクトリアだという。

日本人にとってエリザベスとヴィクトリアがきらびやかな印象を持つのは、二度の大ブレイクの時のトップだったからだ、と中田は見る。反対に王の名前はあまり記憶に残らない。獅子心王と呼ばれたリチャード1世も十字軍に出たがエルサレムを取り戻せずに終わるなど、王にはぱっとした人物が少なく、イギリスはなぜか女王の時代に花開くのだと中田は語る。

ヴィクトリアの時代には万博が開かれた。中田によれば、蒸気機関や製鉄、石炭の技術を見せつけ、イギリスが技術でナンバーワンだと示すためだったという。あまりに強かったので、他国と提携を組む必要もなかった。

34:37

ドイツの台頭と二つの世界大戦

その均衡が崩れ、世界大戦の足音が近づく。中田は、英仏露の三国協商は強そうに見えるが、この流れで見ればイギリス一強の時代が終わり、手を組まざるを得なくなっていた表れだと解釈する。新たなライバルはドイツだった。ドイツは産業革命の技術を取り入れて急成長し、独墺伊と英仏露が戦った第一次世界大戦のあたりで、イギリスの勢いははっきり折れたと中田は言う。第一次大戦の終わりには、アメリカが非常に強い立場になっていた。

戦後、イギリスはアメリカへの借金を返すためにドイツから賠償金を取り立てた。中田によれば、経済学者ケインズはドイツへの賠償金は大きすぎて危険だと批判していたが、アメリカから莫大な借金をしていたため受け入れられなかった。ドイツを追い詰めた結果としてナチスが現れ、パリを一気に奪う。この危機を抑えたのがチャーチルである。日本ではエリザベスやヴィクトリアほど知られていないが、イギリスでは大ピンチを救った人物としてチャーチルの人気は非常に高いという。

ただし中田は、終戦間際のチャーチル、ルーズベルト、スターリンの会談をめぐる話も紹介する。ソ連が北から日本に攻め込み北方領土を取ったが、そのことをスターリンはルーズベルトには伝えていたのに、チャーチルには知らせていなかったらしい。戦後はアメリカとソ連の二強で仕切るという認識がすでにできており、イギリスは辛くも勝ったものの、この時点でソ連に軽んじられていた、と中田は読む。

37:55

戦後の後退、ビートルズ、そしてブレグジット

戦後は冷戦の時代になり、基軸通貨はドルになってポンドはその座から外れた。植民地もインドをはじめ次々に独立していく。中田はその理由を二つ挙げる。一つは押さえ込むお金がなかったこと。もう一つは世論の支持がなかったことで、第二次大戦で領土拡大をはかるドイツや日本を激しく批判した以上、自分たちだけが領土を持ち続けるのは無理だった。イギリスの圧倒的なピークとピークアウトがここで来たのだという。

その中で中田が取り上げるのがビートルズである。大ヒットしたビートルズは国から栄誉ある賞を受けたが、中田によれば、それは外貨を稼いでくれたからだった。戦後の疲弊したイギリスにとってそれほど大きかったという話で、国力が一段落ちていたことを示す例として紹介されている。

その後、世界の中心だったはずのヨーロッパは、争いすぎた結果アメリカとソ連の時代を迎えてしまった。対抗するためにまとまろうとしてつくったのがEUだと中田は説明する。しかしイギリスは「栄誉ある孤立」的な志向と国内の揉め事を抱え、ヨーロッパと一つになりきれなかった。ずっと揉めてきたからこそ今も「一つではない」という思いがあり、その複雑な揉め事の連続が現在まで続いた結果がブレグジットだと中田は位置づける。この歴史を知れば、ブレグジットをめぐってイングランド、スコットランド、アイルランド、ウェールズの人々がそれぞれ違う思惑を持っていることが分かってくるという。

中田は「プリンス・オブ・ウェールズ」の呼び名にも触れる。皇太子を意味するこの称号は、ウェールズを完全に支配下に置いた記念に第一王子をそう呼ぶようにしたもので、ウェールズは子分だという意味合いも持つ仕組みだと説明する。今も各地域には「自分たちはイギリス人ではなく、ウェールズ人であり、イングランド人であり、スコットランド人であり、アイルランド人だ」と考える人々がいる。その人たちが今、EUではなくUKであろうとしている。中田はこれを「ダイナミックなお話」と締めくくる。

40:51

覇権の陰りが争いを呼ぶ 中田の問いかけ

最後に中田は、歴史から一つの構図を引き出す。一つの大きな国が治めている間は平和だったが、そうでなくなると大きな争いが来る。ローマによる平和があり、イギリスによる平和があった。それが陰ると各地が次の覇権を狙い出す。世界の警察を務めてきたアメリカが陰り始め、「アメリカ・ファースト」を言い出している今は、イギリスの覇権が揺らいだ時期に似ているのではないか、「怖い」と中田は語る。この構造が分かっていれば、この後どうなるかも分かるはずだという。

動画の末尾には、2026年時点の補足が加えられている。収録された2019年から7年が経ち、最後に語った覇権国アメリカの陰りと新たな争いの予感は、残念ながら現実になりつつあるという。そのうえで、歴史を学ぶのは怯えるためではなく、過去の構造を知って現在のニュースの本質を見抜き、感情に流されず知性で時代に向き合うためだ、という言葉で動画は終わる。