西洋哲学史は「その時代の常識を疑う」営みだった:中田敦彦が語るソクラテスからアレントまで
中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY哲学と聞くと、多くの人は難解で自分とは無縁なものだと感じる。中田敦彦はこの動画で、そうした距離感を縮めるために、西洋哲学史を「その時代ごとの常識を疑ってきた歴史」として大づかみに語る。個々の用語を正確に覚えることよりも、各時代の人々が何に悩み、哲学者がそれにどう応えたかという流れをつかむことが大事だというのが話者の立場である。古代ギリシャのソクラテスから20世紀のアレントまでをたどり、最後に「現代の常識」にも同じ問いを向けて締めくくっている。
哲学とは何か:語源と「希哲学」
中田はまず言葉の由来から説明する。英語の「フィロソフィー」はギリシャ語の「フィレイン(愛する)」と「ソフィア(知)」に由来し、「知を愛する」という意味になる。中田自身も「漠然としてるよね」と認めている。この学問はギリシャからヨーロッパ、アメリカを経て、明治時代になってようやく日本に入ってきた。西周が「知ることを愛する学問」という意味で「希哲学」と名付け、のちに「希」が取れて「哲学」になったと中田は説明する。
日本人に哲学がピンとこない理由として、中田は哲学の歴史が長いあいだ日本の外で続いてきたことを挙げる。そのうえで、具体的な哲学者の話に入る前に、自分なりの結論を先に示す。世界はどうできているのか、社会はどうあるべきか、幸福とは何か、なぜ人は死ななければならないのか。人はこうした答えの出にくい問題について、その時代の「なんとなくの常識」に従って生きている。しかし、その常識は昔からずっと同じだったわけではない。「それって本当に合ってる?」と言い出すこと自体が学問であり、各時代・各国でそれを繰り返してきた歴史が哲学だ、というのが中田の見立てである。
科学・宗教・政治では答えが出ていない
こうした問いは科学や宗教や政治が扱うものだと考える人もいるだろう、と中田は先回りする。確かに私たちはそれらが進歩していると信じている。しかし中田は、答えは本当に出ているのかと問い返す。科学で解明できたことは多いと思われているが、解明できていないことのほうが多い。どの宗教が正しいかはわからない。政治も完璧ではない。そのどれに対しても「もっと良くならないか」と問いかけるのが哲学だという。
中田は、哲学は不況のときに人々が知ろうとするものだという話も紹介している。経済や国がうまくいっていないと国民が感じると、政治はおかしくないか、宗教もピンとこない、科学でも家族の病気は治らないのか、と人々は疑い始める。そうして「これはどうなっているんだ」と知りたくなったときに何度もムーブメントを起こしてきたのが哲学だという。だから哲学は最も古い学問であり、科学・宗教・政治すべての大元であり、いまだに答えの出ていない根源的な学問だ、と中田は位置づける。参考文献には、前半が漫画で哲学者を紹介し、後半が文章中心の解説になっている『使える哲学』(平原卓)が挙げられている。
ソクラテス:弁論術が流行した時代の「問答法」
古代ギリシャは都市国家の時代で、貴族と奴隷がいて、主に奴隷が働いていた。中田によれば、貴族のあいだではディベートで勝つための弁論術を教える「ソフィスト」という職業が流行していた。知識人は話術を磨いて相手を言い負かし、権力と財産を得ようとした。中田はこれを、出世や稼ぎ方や投資の方法を教える現代のセミナーになぞらえている。
そうした風潮のなかで、出世や金儲けだけが知識人の仕事なのかと言い出したのがソクラテスだった。頭が良いと評判だったソクラテスについて、知人が神殿で「ソクラテスより賢い者はいるか」と尋ねたところ、「いない」という神託が下りたという。しかしソクラテスは、自分はわからないことだらけだと考えた。中田はこの背景として、当時は基本的にギリシャ神話が世界のあり方を説明する物語だったが、貿易を通じてまったく違う世界観を持つ国と交流するようになったことを挙げる。ゼウスが世界を作ったと言っても通じない国がある。そうなると、自分たちは本当に何を知っているのかという問いが生まれる。
ここからソクラテスは「問答法」を始める。中田はこれを「ストリートファイト」にたとえ、街で頭が良いとされる人に次々と質問を投げかける様子として描く。たとえば「勇気とは敵を前にして逃げないことだ」と答えた人に対して、ソクラテスは「大軍に囲まれてたった一人のときでも逃げないのは勇気か」と問い返す。相手が「それは無謀だ」と答えると、「ではあなたの言う勇気とは無謀なことをすることか」と追い込み、相手は言葉に詰まってしまう。
中田は視聴者にも問いを投げる。「欺くことは悪か」と聞かれれば、多くの人は悪だと答えるだろう。では、親友が自殺しようとして自分を傷つけるためのナイフを置いているとき、そのナイフを隠して「知らない」と言うのは悪か。そう問われると、悪ではないかもしれないと誰もが考え直したという。こうした問答を通じて、人々は自分が何かを知っているふりをして暮らしていたことに気づかされる。そこからソクラテスは「無知の知」、つまりまず自分がまだ何も知らないことを知るところから始めようと説いた、と中田は説明する。
ソクラテスの死と、本を残さなかったこと
中田は、知識人を論破していくソクラテスの姿は現代人から見るとかっこよく映るだろうと言う。しかし恥をかかされた知識人たちは恨みを募らせた。ある戦争でギリシャが負けたとき、ソクラテスが若者に良くない教えを広めて堕落させたせいだと責任を押しつけられ、裁判にかけられた。弁明はしたものの恨みは強く、死刑を宣告された。
仲間たちは逃げるよう勧めた。しかしソクラテスは、裁判で言うべきことはすべて言った、そういう国に住み、そういう判決が出たのなら受け入れるのが市民の役目であり、逃げて生き延びるのは自分の正義とは違う、と考えて毒を飲んで死んだという。中田はこのエピソードによって、難しいことを聞いてくる人物という印象だったソクラテスが人間味を帯びて見えてくると語る。
プラトン:師の言葉を書き残し、「イデア」を説いた弟子
ソクラテスは自分では本を書かず、ひたすら問答をしていた。その老ソクラテスに憧れた若者がプラトンである。プラトンはソクラテスの言行を書き残した。中田はこれを、キリスト自身ではなく弟子たちが言行録を残し、それが新約聖書になった構図に似ていると説明する。プラトンはアカデメイアという、今でいうアカデミアのような学校を作り、ソクラテスの教えを伝えるとともに、それを発展させた自分の考えも教えた。
プラトンのキーワードは「イデア」である。中田はこれをコップで説明する。世の中にはいろいろなコップがあるのに、私たちは「これはコップ」「これはコップではない」と判断できる。それは「コップ」と聞いて頭に浮かぶ抽象的なコップ像があり、それに照らして判断しているからだ。この抽象的な概念がイデアであり、個別のものよりも概念について考えれば皆の考えを統一できるのではないか、とプラトンは考えたという。
そのなかで最も考えるべきなのが「善」や「美」のイデアである。水を入れられる、手で持てる、取っ手がついている場合もある、と皆でコップについて言い合えば「それは自分のコップと同じだ」と確かめられる。同じように善について話し合えば、全員が持っている善のイメージに近づけるのではないか。中田はこれがイデアという考え方だと説明する。「プラトニックラブ」の「プラトニック」はプラトンに由来し、肉体的ではない概念としての愛という意味で捉えられているらしい、とも付け加えている。
アリストテレス:個別のものへの関心、中庸、そして長すぎた権威
プラトンのアカデメイアに通っていた天才がアリストテレスである。ソクラテス、プラトン、アリストテレスは完全な師弟関係にある、と中田は強調する。アリストテレスは「万学の祖」と呼ばれ、さまざまな科学や物理学を研究した。一方で師のイデア論には反対し、イデアばかり考えすぎるのは良くない、目の前にある個別のもののほうが大事だとして研究を進めたという。アレクサンドロス大王の家庭教師でもあった。中田は、この時代は科学・宗教・政治のど真ん中に哲学があり、そのため後の時代にも科学者や宗教家、政治家が哲学者として語られることが多いと説明する。
アリストテレスの考えとして中田が紹介するのが「中庸」である。強さも強すぎれば乱暴になり、足りなければ軟弱になる。優しさも過ぎればおせっかいになり、なさすぎれば嫌なやつになる。そうしたバランスや調和、自然の中にあるものを見ようというのがアリストテレスの考えだったらしい、と中田は言う。根本的なことを語ったソクラテスやプラトンに比べ、だいぶ今に近い発想だという評価である。
ただし、アリストテレスがすごすぎたために、彼の言うことはすべて正しいとされる時代が何百年か続き、弊害も生んだと中田は指摘する。例として挙げられるのが落下の問題である。同じ形の金属の玉と木の玉を落とすと、重い金属のほうが先に地面に着くとアリストテレスは言っていた。実際には、空気抵抗を受ける形が同じなら重さに関係なく同じ速さで落ちる。この誤解は長く続き、ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔から物を落として覆したらしい、と中田は語っている。
中世:キリスト教の時代とアウグスティヌスの「悪の問題」
古代ギリシャの哲学者たちが「ギリシャ神話の物語だけではない世界を知りたい」と探求した時代のあと、世界を支配したのはキリスト教だった。中東で始まり、ローマ帝国が国教として認めたことでヨーロッパ全土に広まり、教皇の地位も高まっていった。中田によれば、この時代の哲学はキリスト教を補完するものだった。時代の常識が一気にキリスト教に塗り替わったからである。神が世界を作り、良い行いをすれば救われる。中田は以前の動画の内容に触れ、キリスト教をユダヤ教の「バージョン2.0」、つまりユダヤ人でなくても神を信じる者は救われる教えとして説明している。
中世の代表として取り上げられるのが、キリスト教の司教アウグスティヌスである。キリスト教で最も問題になるのが「悪の問題」だった。全知全能で絶対の神が人間を作ったのなら、なぜこの世には残虐な殺人や非人道的な拷問があるのか。神が悪を止められないなら全知全能ではないし、悪を容認しているなら絶対的な善ではないのではないか、という問題である。
中田によれば、アウグスティヌスは幼い頃はキリスト教徒ではなく、マニ教を信じていた。マニ教は神の軍団と悪魔の軍団がずっと戦争をしているという世界観で、神の軍団が劣勢のときに災いが起き、優勢のときに平和が訪れる。この世界観なら悪の存在は説明がつく。ところがキリスト教の世界観ではそれが矛盾になる。中田は、私たちはこの疑問をあまり口に出して議論したことがないが、キリスト教が絶対的な常識だった時代に疑問を抱くのは死活問題だったと強調する。
アウグスティヌスが出した答えが「自由意志」だったという。神には悪を止める力がある。しかし神が殺人者を止めてしまえば、人間は神の操り人形にすぎず、意志がないことになる。人間は水を飲むことも飲まないことも選べる。神は人間に自由な意志を与えたこと自体を善とし、その自由を与えられた人間が選択を誤っている状態が悪のある状態だ、とアウグスティヌスは説明した。中田はこれを、キリスト教の中にある矛盾をサポートするために考えられたものと位置づける。そして、宗教が世界の成り立ち、社会のあり方、幸福、死のすべてを定義していた時代に、そのほころびを哲学がサポートしていたという事実こそが重要だと述べている。
デカルト:数学者が疑い抜いた末の「我思う、ゆえに我あり」
近代に入ると、宗教戦争や自然科学の発達によってキリスト教の影響力は次第に弱まった。カトリックとプロテスタントがぶつかり合えば、どちらが正しいのか、どちらも正しくないのではないかという疑問が出てくる。自然科学が発達すれば、本当に神が作った世界なのかという疑問も生まれる。そうした時代に登場したのがデカルトである。
中田は「我思う、ゆえに我あり」を、多くの人が意味不明だと感じる言葉として紹介し、文脈から説明する。善悪は神が決めるというのがキリスト教の世界観だった。それに対して、善悪は神ではなく自分たちの中でも判断しているのではないか、それが理性ではないか、という議論が起こる。さらに、自分たちとは何なのか、すべて夢かもしれないという疑いも生まれた。
中田が注目するのは、デカルトが数学者だった点である。デカルトはX軸とY軸を考案した人物で、目を覚ましたとき天井に止まっていた虫の位置を人に説明する方法を考え、中心を決めて「右に5、上に4」と言えばわかりやすいと思いついたらしい、と中田は紹介する。数学で公式を見つけられるなら人間にも公式があるはずだと考え、デカルトは数学的・分析的に人間を捉えようとした。見えているものも幻覚かもしれない、悪魔が見せている夢かもしれない、と疑わしいものを省いていく。しかし、悪魔が夢を見せているとしても、それを夢かもしれないと考えている自分がいなければ夢は見せられない。だから考えている自分だけは確かに存在する、という結論に至った。
中田は、この言葉は今聞くと当たり前に思えるが、神がすべてを定義する世界観が長く続いたなかで、数学的・科学的に考えても自分は存在すると言った「叫び声」だったからこそ新しかったのだと説明する。問答から科学へ、宗教へ、そして再び科学へと戻ってきた流れとして中田は捉えている。
カント:理性と道徳に従うことこそが自由
続くカントも理性の時代の哲学者で、人間の中にある善や法則を捉えようとした。中田によれば、カントは道徳に則り、自分が良いと思った理性で行動を決めることが自由だと考えた。それは神からの自由でもある。眠いから寝る、腹が減ったから食べるという行動は自然法則によるもので、自分の意志とは関係ない。しかし人間はそれと関係ないことをすることも、しないこともできる。それを決めているのが人間の中の理性と道徳であり、道徳に基づいて行動することこそが自由だという。
中田は「定言命法」を、「何々だから何々する」という行動の決め方を否定する考えとして説明する。腹が減ったから食べる、得になりそうだから愛想よくする、というのは自然の摂理に近い。そうではなく、良いことだと信じているから理由なしにやる。だからカントは状況によって行動を変えることを許さず、嘘はどんな状況でも、誰かを守るためでもいけないとした。ソクラテスが「欺くことは悪か」を状況ごとに問い直したのとはまったく違う、と中田は対比している。
カントは朝5時に起きて夜10時に寝ることを守り、決まった時間に散歩していたため、人々はカントの散歩を見て時刻を判断していたらしい。中田はこれを今見ると滑稽にも思えると言いつつ、どの哲学者もその時代にわかっていることの範囲で格闘していたのだと語る。
ヘーゲル:他者との対話で上へ進む弁証法
カントが自分の理性で考えたのに対し、自分だけで考えるのは良くない、他者との関係が大事だと言い出したのがヘーゲルである。中田は「弁証法」を図形の例で説明する。ある人は丸に見えると言い、別の人は三角に見えると言う。どちらかが間違っているのではなく、話し合ってみると、それは上から見れば丸、横から見れば三角に見える円錐かもしれない。二人でそれに気づけば、より高い次元に進める。互いの矛盾や違いを話し合い、理性と理性を突き合わせることで上に行ける、相互承認していこうという考えだと中田は説明する。
中田は時代背景として、ナポレオン戦争やドイツの統一など政治の仕組みが激しく変わっていたことを挙げる。宗教戦争を経て神は正しいのかと問うているうちに、国家そのものが変わっていく。世界は変わるのだと実感した激動の時代に、神が世界を安定させているのではなく、答えは自分たちの中にあるかもしれないと人間に答えを求め始めた。デカルトの「我思う」、カントの「自分が決める」、ヘーゲルの「みんなで話し合う」は、そうした文脈で理解できるというのが中田の整理である。
キルケゴール:「私にとっての真理」と絶望
時代が進むと、問いの対象は「人間全体」から「個人」へ移っていく。これは自分の分析だと断ったううえで、中田は、人間とは何かという問いはもう関係ない、自分にとっての答えが欲しい、自分が幸福でありたいと言い出したのがこの世代だと説明する。その代表がキルケゴールで、「実存主義」とは実際に存在している今の私にとっての哲学、つまり「for me」の哲学だと中田は言い換える。キルケゴールは自分にとって真理であるような真理を知りたいと言った。
中田はキルケゴールの生涯を「運命の人」として紹介する。父と家政婦のあいだに意図せぬ形で子どもができ、父はそれを後悔して、自分は罪を犯して子を産ませたから自分の子は34歳までに死ぬだろうと予言した。父からそう言われて育ったキルケゴールは、自己肯定がなかなかできなかった。27歳で婚約したが、数か月後に自ら婚約を破棄した。理由は不明で、嫌いになったわけではない。予言のせいか、自分の考えによるものかはわからない、と中田は言う。その後もキルケゴールはずっとその相手を想い続けた。相手は別の男性と結婚し、だいぶ経ってから想いを伝える手紙を書いたが、新しい夫に破られて読まれなかった。死後、その想い人のおかげで本が出版されていったという。
代表作『死に至る病』は絶望とは何かを論じた本で、絶望してはいけないと説く。中田が強調するのは、キルケゴールの言う絶望の意味の広さである。「どうせ自分は金持ちになれない」と諦めるのも絶望だが、「自分は億万長者になる」と思うのも絶望だという。自分の能力にまったく見合わない夢を見ることも、能力をすべて諦めて捨てることも、自分をきちんと見られていない点で絶望だ。だから客観的に自分を見て、何ができて何ができないかを考えることが大事だとキルケゴールは言った、と中田は説明する。
中田はこのあたりから哲学が「今っぽく」なると言う。日本人はキリスト教が絶対だという土台を持たないため、神から人間全体へと移る段階の哲学は理解しにくい。しかし個人が社会より自分自身を見つめ、幸福とは何かを考える段階になると、だんだん共感できるようになるという。
ニーチェ:「神は死んだ」とキリスト教批判、超人
ニーチェの最も有名な言葉「神は死んだ」も、文脈の中で聞くとすごさがわかる、と中田は語る。キリスト教が絶対だった流れのなかで、はっきり「終わりだ」と言い切ったのであり、中田はこれを「グッバイキリスト教」と表現する。
ニーチェはキリスト教を批判した。キリスト教は弱き者を救うと説き、貧しい者や弱い者は幸せだと言う。しかし実際のキリスト教には序列があり、派閥に分かれて争い、結局は強い者が勝っているではないか。清く弱い者が天国に行けるという考え方は、強い者への妬みではないか。キリスト教の考え方は根本的に逆転していて、強い者が幸せになり弱い者は幸せになれないという現実を隠している。それを歪めているから問題が起きるのだ、とニーチェは言った、と中田は説明する。キリストを盲目的に崇めること自体がおかしく、皆が信じていても違うことを言っていい。そこでニーチェが打ち出したのが「超人」、つまりどれだけ批判されても自己肯定を続ける強い人間がこの時代には必要だという考えである。中田はこれを「マッチョ」と評し、絶望しないほうがいいと言ったキルケゴールに対して、個人がもっと強くなるべきだと言ったのがニーチェだと対比している。
バタイユ、そしてナチスによる曲解
ニーチェは大きな影響を与え、個人をもう一度見つめ直そう、キリスト教の倫理観だけが正しいわけではないかもしれない、という動きが広がった。ニーチェに影響を受けたフランスの哲学者として中田が挙げるのがバタイユである。バタイユはエロティシズムについて考えた。人間が性的なことをするのは繁殖のためだが、子どもを産むことがエロスなのかといえば違う。禁じられたものを破りたいという根源的な悪の欲求こそがエロスだ、とバタイユは言ったという。中田は、今ならなんとなくわかる考え方だが、当時はそれをはっきり言うことがなかったと説明する。キリスト教には堕胎や不倫など禁じられたものが多く、その中で「破るのがいい、それが人間らしさだ」と言い出し、そうした小説も書いた。価値観がだいぶ逆転してきた、と中田は述べる。
ところが、反キリスト教的な考えの中で最もインパクトのあったニーチェの超人思想や「強くあれ」という考え方を曲解し、悪用したのがナチスだと言われている、と中田は続ける。ゲルマン民族こそ最高の民族だと自己肯定し、強い者が正しいとして全体主義に向かっていった。キリスト教という絶対から解放されれば人間らしくなれるのかといえば、そうではなく、別の考え方がまた生まれてしまう。中田はこれを「難しいものですね」と受け止めている。
アレント:アイヒマン裁判と「凡人の悪」
ナチスとは何だったのかを考えたのがアレントである。中田はアレントを、もともとドイツに住んでいたユダヤ人で、アメリカに亡命した女性哲学者として紹介し、現代哲学者ハイデガーの元恋人でもあったと付け加える。
アレントの考えのきっかけとして中田が挙げるのが、アイヒマン裁判である。ナチスはユダヤ人を弱く悪しき民族だとし、ドイツ人がひどい目に遭っているのはすべて彼らのせいだとすることで人気を取り、ユダヤ人をガス室に送って大量に殺戮した。人々はどんな恐ろしい人間がそれをやったのかと注目した。しかしアイヒマンがしていたのは、収容所からガス室へユダヤ人を送るための列車のダイヤを作ることだった。作れと言われたから作った、という普通の人が出てきたことに、アレントは大きなショックを受けたという。悪は極悪人だけが行うものではなく、何も考えない凡人が何も疑わなかったときに、とんでもない悪を生む可能性がある。人間はとんでもない悪人ととんでもない善人だけでできているのではなく、時代によってこういうものも生んでしまう、とアレントは考えた、と中田は説明する。中田はさらに、宗教とは関係のない社会主義や全体主義の仕組みの中でスターリンのような暴君が現れたことにも触れ、人間はどうなったら人間らしいのかを問うたのがアレントだと位置づけている。
アレント:「労働・仕事・活動」と人間らしさ
戦後の哲学者であるアレントの考えは「だいぶ身近」だと中田は言う。アレントは人間の営みを「労働」「仕事」「活動」に分けた。中田の説明では、労働は食べるための生業、仕事は創作やクリエイティブな自己表現、活動は公共に奉仕することである。今の人間は労働ばかりしている。お金を稼ぐために働き、空き時間に消費し、稼いだ分を全部使う。そのあいだ何も考えていない。しかし人間らしさは仕事や活動のほうにあり、それを考えることで人間らしさを取り戻せる。考えなくなったら人間ではないのではないか、とアレントは言っているそうだ、と中田は伝える。
中田は、「お金のためだけに働いていませんか」という問いかけは最近の書店に並んでいそうなほど今っぽいと言う。そして、私たちがこの問いを聞いて「そうだそうだ」と納得するように、それぞれの時代の人々も哲学者の言葉に「そうだそうだ」と共感していたのだと語る。議論ばかりさせられていた時代には「自分たちはまだ何も知らない」という言葉が、科学に目覚めた時代には「アリストテレスの話を聞きに行こう」が、それぞれ響いた。その時代の悩みに答えてきたのが哲学者だというのである。
哲学者はなぜ同時代に評価されなかったのか
中田によれば、哲学者は基本的にマイノリティで、迫害されることも多かった。その時代の窮屈で混乱した古い常識に悩む民衆に対して、こう考えれば楽になれる、自分らしく生きられると新しい考え方を示してきたからだ。そのため、後の時代になって認められる人が多い。ニーチェやキルケゴールも、生きていた時代にはあまり評価されなかったと言われている、と中田は紹介している。
現代の常識を疑う
最後に中田は、現代の哲学はどうなっているのかという問いを視聴者に向ける。後の時代から見れば、今はこう言われるかもしれないと中田は語る。IT革命のあとで、5Gや自動運転、ブロックチェーン、仮想通貨とテクノロジーが発達し、宇宙を目指そうとしていた時代。その時代に最も信じられていた宗教は、一説によれば資本主義だった。神の話は物語だと思っていても、お金の価値は皆が信じ、稼げば稼ぐほど幸せになれると信じていた。政治では民主主義が最も優れたシステムとされ、選挙さえすれば正しい政治家を選べると思われていた。
中田は、今この時代に生きているからそれがすべてだと思うかもしれないが、それは今の時代の正義でしかないと言う。SNSで誰とでもつながり、どんな映像も見られ、キャッシュレスで支払える今は幸せか。資本主義でお金を稼ぐほど幸せだと言われる今は幸せか。民主主義で政治家を選んだ今は幸せか。古代ギリシャを古い時代だと鼻で笑っていたかもしれないが、私たちはそれから何千年分幸せになり、世界がなぜ存在するのか、社会はどうあるべきか、幸福とは何か、なぜ死ななければならないのかについて、何倍も知ることができたのか。その答えは出たのか。中田は、もし答えが出ておらず、自分は幸福ではないかもしれないと思うのなら、そのときは哲学の出番かもしれない、という問いかけで動画を締めくくっている。
どうも中田敦彦です。さあ、今日も早速参りましょう。エクストリーム哲学『西洋哲学史編』。なんのこっちゃ。ありがとうございます。
哲学っていうと、何のこっちゃっていう人が多分多いと思うんですよ。今回、大雑把にでもどういう学問だったのか、その全貌と歴史を知るだけでも、ええーって思いますよ。「あ、そういうことなの?だったら」っていう風にね。興味深いんですよ。むちゃくちゃ面白いんですよ。
これ、哲学、なんで日本人があんまりピンとこないかっていうと、実は歴史が日本の外でだいぶ長く続いてきたからなんですね。これ英語だとフィロソフィー。この語源はギリシャ語でフィレインですかね。フィレインとソフィア。フィレインっていうのは愛する、ソフィアが知。愛する知なんすね。なるほど、知を愛する。漠然としてるよね。
これ、ギリシャ、ヨーロッパ、アメリカから明治時代にようやく日本に入ってくるわけ。日本で、この西周っていう人がこれを、知ることを愛する学問だから「希哲学」って名付けた。希哲って、希むってね、Wantですよね。哲は知ることね。だからほぼ一緒ですよね。希哲学から希がなくなって哲学になったと。
だけど、哲学ってのは歴史を見てみると、僕の最初にイメージと結論言っとくよ。じゃないと、いきなりソクラテスって言われた時に、うわあってなると思うから。知らない、ソクラテス。聞いたことあるけど何度も挫折した名前。ソクラテス分かりません、なると思う。
僕のイメージなんだけど、多分、世界ってどういう風にできてるんだろうとか、社会ってどうあるべきなんだろうとか、幸福って何だろうとか、なんで死ななきゃいけないんだろうっていう、いわゆる答えのない問題、答えの出づらい問題に対して、人ってさ、その時代時代のなんとなくの常識で生きてるわけですよ。今のこの時代のこの日本では、なんとなくこうやって世界はあるべきだし、こういう社会がいいと思われてて、こういう人が幸福だって思われてて、こういう風に死ぬのが普通って考えてる。でも、これがずっとそうだったわけじゃないわけですよ。今この時代のこの国だからそうなんですね。
そんな時に、でもさ、その考え方が合ってるかどうかを疑うっていうことなんですよ。「それって本当ですか」。これを各時代で各国でやってきた歴史が実は哲学なの。「これって本当に合ってる?」って言い出すっていうこと自体が学問なんです。知りたい。幸せについて知りたい。なんで死ななきゃいけないの?何、この世界。何これ、これ何、これだよね。
だから、これが何かっていうものを、きっと今、皆さんは「いや、それは科学の仕事じゃない?」とか、「幸福?死?いや、宗教の仕事でしょう」って思ってるかもしれないし、社会のあり方、「いや、それ政治の仕事でしょう?」って思ってるかもしれない。だけど科学や宗教や政治は進歩していると我々は信じている。だけど、答え出てるんだろうか。ここなんですよ。
だって全部さ、科学でも解明できてないことむっちゃ多いじゃん。正直、俺たちは科学で解明できてることめっちゃあるって思ってるけど、解明できてないことの方が多いんだよ。宗教、どれが正しい宗教かって分かんないですよね。政治?完璧ですか。今これなんですよ。全部完璧じゃない。それに対して「もっと良くならないですか?」。こういう風に問いかけるということなんですよね。
哲学が面白いのが、不況の時にみんな知ろうとするんですって。要するに経済とか国がうまくいってないって国民が感じた時に、ここを疑い出すのよ。「いやいや、ちょっと待てよ。今の政治おかしいよね。え?宗教でもなんかあんまりピンとこないんだけど。科学で結局解決しないの?うちの家族の病気治らないんですか?」とかね。「なんでこんなことができないんすか?」とかなった時に、「いや、待ってくれよ。これどうなってるんだよ」ということで、知りたくなった時に何度も何度もムーブメント起こしてきたのがこの哲学なんですって。
だから、一番古い学問にして、全ての科学、宗教、政治の全ての大元であり、いまだに答えの出ていない学問という根源的な学問なんですよ。スケールでかい。
さあ、今回の参考文献がこちら『使える哲学』。これ、ポップなんですよ、むちゃくちゃ。漫画で前半、こんなキャラクターだよって哲学者の方を紹介してくれて、後半は結構文章多めで詳しい参考を書いてくれてます。結構難しい本が多い中で、ここまで柔らかくざっくり全部を紹介してくれてる本はなかなかないと思うので、おすすめです。
その上で、古代、中世、近代、現代と何をテーマにしてきたかで、人類の問題意識、何を知ろうとしてきたか、これを知ると面白いんですよ。古代ギリシャから始まりますね。なんとなく分かりますね。ギリシャからだよね、ソクラテス。ソクラテスおもろいんすよ。
この古代ギリシャの時代ってどういう時代かって言うと、都市国家ができて、貴族がいて、その奴隷もいるんですよ。奴隷が主に働いてて、貴族で流行ってたのが、弁論術っていうものを教えてくれるソフィストっていう職業が流行ってたんだって。とにかくディベート。ディベートで勝つわけですよ。「それは違う」とか言って。「君は間違っている」「私はそう思わない」「異議あり」とか言ってですね。「いや、異議ありの言い方はもっと強く」とか言ってね。「すいません」とか。「そんなんじゃ出世できないよ」なんて、そういう感じの職業が結構隆盛してたんですって。
だから知識人たちは、とにかく喋りをうまくして相手に勝って、その上で権力を握り、財をもらうと。お金をもっともっと稼ごうよっていうのが流行ってたんだよね。今となんか似てるよね。今だってさ、いろんなセミナーで出世の仕方とかお金の稼ぎ方とか投資の仕方とかやってるでしょう。ああいう感じの、この頃から流行ってたわけですよ。
そんな中で、出世したりお金儲けしたりすることだけが勉強、知識人の仕事ですか?という風に言い出したのが、このソクラテスなんだね。このソクラテスってのはむちゃくちゃ頭がいいって評判だったのよ。その上で御神託を受けるんですよ、神殿で。なんかギリシャ神話っぽいよね。神託受ける世界なんですね。
「ソクラテスより頭のいい者はいますか?」っていうね。ソクラテスは頭がいいから、それをソクラテスの知り合いが聞いたらしいんですよ。「ソクラテス頭がいいです。ソクラテスより頭がいい者はいますか?」と聞いたら、神殿で神託が下りたらしいんですよ。「いません。ソクラテスより賢い者はいない」って言われたらしいんですよ。「ええ」つって。「ソクラテスさん」「何?」つって。「あなたが世界で一番頭いいらしいですよ」「マジで?」って。でもそれをソクラテスは「そんなことはないだろう。私、何もかも分かってるわけじゃないよ。分からないこといっぱいあるよ。この世界がどうなってるかも知らない」。
この頃、要するにギリシャ神話の世界観が基本的にストーリー、世界のあり方だったんだけど、他の国とも色々貿易をしていくと、ギリシャ神話の世界と全く違う世界とも交流するようになるんですよ。「世界ってゼウスが作ったんですよね。ウラヌスとゼウスとクロノスで」みたいに言った時に、「はぁ?」みたいに言われる国もあるわけ。「いや、うちではこういうストーリーで世界できてますけども」みたいな。「え、何それ。世界の作られ方のストーリーって違う考え方あんの?」。そういう風に言われた時代で、「一体俺たちは、一体何を知ってるんだろうか」。そういう風に言われたんですよ。「世界はこうやってできてるって言われて俺たちは育ったけど、他の国ではそうだって教わってないらしい。本当だろうか?」。
そんなことを考えた時に、「私は知識人と言われてるが、本当だろうか?」って言って、そっから問答法ってのを始めるんですよ。どういうことかというと、街で頭良いって言われてるやつに色々疑問を吹っかけるんですね。だからストリートファイトみたいな感じですよ。「あんちゃん、ちょっといい体してんじゃねえか。やってやろうぜ」つって、パンパンパンみたいな。ソクラテスがやって来て、「あんた頭良さそうだね」とか言って、「俺の質問に答えれるかい?」なんていうやつをやるわけですよ。みんな自信満々ですから。「俺は弁論術で何千人の生徒を教えてんだぜ」なんてね、というやつとも話すわけですよ。
そしたら、「勇気とは何かを私は知っている」っていう、そういうやつがいたらしいんですよね。勇気ですよ。勇気を持ってますか?勇気100%。「勇気は何ですか?」「勇気とは敵を前にして逃げないことだ」って言われたらしいんですよ。そしたらソクラテスがもう一度返すんですよ。「なるほど、敵を前にして逃げないことですか。では、大軍に囲まれてたった一人であなたがいる時に、それでも逃げないのは勇気ですか?」って言うわけですね。「うーん、それはちょっと無謀だな」って言ったらしいんですよ。「ちょっと無謀だな、それは。囲まれていて一人だったら、そこで戦えってことですか?いや、それはちょっと無謀だと思う」って言った時に、「ということは、あなたが言う勇気は無謀なことをするということですか?」って言って、うーんってなっちゃったらしいんですね。
だから、勇気とはこうだって思っても、それが通用しないシチュエーションをポンって言うと、「あれ?そうだっけ?」ってなっちゃうんですよね。例えば「欺くことは悪か?」っていう質問。これどう思います?皆さんもちょっと考えてみてください。ソクラテスが現れるんですよ。皆さんが家出たら、「ちょっと一言よろしいですか?欺くことは悪ですか?」と言われるわけですね。皆さんきっと答えると思うんですよ。「いや、悪でしょう」言うわけですよ。「いや、欺くことは悪ですよ」みたいな。そしたらみんなが集まってくるんですよ。「なんかソクラテスと〇〇さんが始めたぞ」とか言ってね。「どう答えるんだろう?」とかね。緊張感が高まるわけですよ。
「欺くことは悪ですか?」「欺くことは悪だね」「では、あなたの親友がもう自殺したいと言って、自分を傷つける、自分を刺すナイフをそこに置いていたとしてね、あなたがそのナイフを友人の手元から隠すっていう行為をした時に、それは悪でしょうか?」って聞くんですって。あなたは親友を助けたい、親友が自殺をすることを食い止めたいと思って、親友の持っている刃、ナイフをどこかへ隠した。親友は「どこだ?ナイフはどこだ?」。「いや、知らない。ナイフなんてない」。そういう時の欺きは悪ですか?って言われた時に、「それは悪じゃないかもしれない」って、やっぱみんななったらしいんですね。
それで、私たちは何かを知ってるようなふりをして暮らしてるわけですよ。でも本当に、それはどうですか、どうですかって問答をしていくと、「あれ?俺って何を知ってたんだっけ。俺って本当に物をいっぱい知ってる人間なんだっけ?」ということが突きつけられる。ソクラテスは言うわけです。有名な言葉です。「無知の知」ね。我々はまだ何も知らないということを知ることから始めようじゃないかということを、ソクラテスは言ったわけなんですよ。
すごい。でも、この人、その後も大変で、こんなことやってったらさ、俺らとすればかっこいいじゃないですか。なんかかっこいいなとね。知識人を論破してくわけですよ。「君は」とか言って、やっていくわけですよ。だけどそれで、たくさん恥をかいた知識人たちが恨みを持ってたんですって。「ソクラテス、あの野郎、腹立つわ。勇気とは何かの時、俺めっちゃ決め顔で言ったのに、あの後赤っ恥だよ」とか言って。「あの後むちゃくちゃよ。いろんなやつに笑われてよー」とかっていうのが、恨み買ったんだって。
それで、ある戦争でギリシャが負けた時に、その責任をソクラテスのせいだって言い出したんですって。「ソクラテスが若者たちに良くない教えを広めた。堕落させた。強い弁論術とか言ってね、勝つんだとかって言う方がいいんだよ。なんであんな勇気とはとか言ってね。あいつのせいですよ」とか言って、わーって言われた時に、裁判にかけられちゃったんだって。それでソクラテスも弁明したんですが、その恨みの強さが激しくて、死刑にされちゃうんですよ。死刑宣告受けるんです。
ソクラテスの仲間たちが、「ソクラテスさん、もう逃げた方がいいっすよ。これおかしいっすよ。明らかに逃げた方がいい」って言うんですけど、ソクラテスは「いや。裁判で言うべきこと全部言った。その上で、そういう国に住んでて、そういう判決が出たんだとしたら、それを受け入れるというのが私の中では市民の役目である。これを破る、逃げる、私が生き延びる。それは私の中の正義とは違う」って言って、毒を飲んで死ぬという。すごいんすよ。壮絶でしょう、ソクラテス。
それ聞くと、ちょっとだんだん人間味を帯びてきましたよね。ソクラテスって言われると「やめて」ってね、難しいこと聞きたくないと思ってたけど、ちょっと魅力的なやつかもしれないという風に思うわけですよ。
そのソクラテスっていうのは、本を残さなかったんですね。自分で書かずに問答ばっかしてました。喋りのやつなんですよ。喋って喋って、そのソクラテス、おじいちゃんだったソクラテスに憧れてた若者っていうのがプラトンなんですよ。「あの人すっげえ」つって。「ソクラテスさん、本出してないんすか?」みたいな。「俺は喋る一方で残さねえタイプだ」とか言って。「じゃあ俺、残します」つって残すっていう。
だから後のキリストみたいなもんですよね。キリストも聖書を残したわけじゃなくて、キリストの言行録を弟子たちが残してって、それがキリスト教の聖書になったわけじゃないですか、新約聖書。そういう感じで『ソクラテスの弁明』とか、ソクラテスがこう言ったっていうのをプラトンが書き残している、教えていく。
プラトンはアカデメイアという、今のアカデミアみたいな学校ですよね、を作って、「ソクラテスさんはこう言ってたんすよ」とかっていうのを教える。さらに自分の意見としても、そこからさらにアップデートしたものを、自分の意見も教えるということをやってたらしいんですね。
プラトンの中で一番キーワードになってるの、イデアね。すごい嫌でしょう?イデアって言われたらさ、「ああ、すっごい分かんない。抽象的すぎる」ね。これ、どういうことか。一応、今回は超ビッグネームとめっちゃメジャーな用語について書いてますんで、それをなんとなくエクストリームにざーっと知らせていきますんで、全部を詳しく知ろうなんて思わないでください。それよりも大事なことは、どういう歴史の流れだったか、大事なんで。
イデアっていうのは、例えばコップあるでしょ。コップって言って、これがコップです、コップじゃないとかって言うのって、皆さんは判断できるわけじゃないですか。「これはコップじゃないですよね」。そう言った時に、コップにはいろんなコップがあるのに、でも全部これはコップでこれはコップじゃないって判断できるってことは、コップって聞いた時に皆さんが想像してるコップらしきものっていうものがあるわけですよ。それに当てはめて、それと同じだ、同じじゃないってやるから、コップかどうかってのを判断してる。その皆さんが頭にコップって言われた時に想像してる、この抽象的なコップというものがイデア、概念というもので、それについて考えることが大事なんじゃないかってことをプラトンは言ってるわけですよ。個別のことよりも、その概念について考えれば、みんなの考えが統一して考えれるんじゃないかと。
その中で、コップとかについてのイデアじゃなくて、一番考えなきゃいけないものが善。良いこととか美しいものとか。みんながさ、じゃあ今度はコップのイデアがあるとして、善のイデアで考えてるものっていうのは一体何なのか。悪と善があるんですって。それの善っていうものはみんな一緒なんだろうか、それとも違うんだろうか。一緒なんだとしたら、それを話し合って聞いてってさ。「あなたにとっての善って何?あなたにとってのコップって何?」つったら、「こうなっててですね。なんかこうなってて、水とか入れれるんすよ。手で持てるんすよ。これはコップじゃないっす。これはほぼドラム缶なんで、これコップじゃないんですけど、取っ手が付いてたりする場合もあって」とかっていう風に言えば、みんなで「それ俺のコップと一緒」って言えるわけじゃないですか。
だから「これ俺の善なんすよ」って言った時に、「ああ、それ俺の善に近い」とかってやってけば、人間全員が持ってる善のイメージに近づけるんじゃないかっていうのが、このイデアっていう話なんですよ。なんかそれっぽいよね。確かに話聞いてったら、みんながイデアを持っている。そのイデアについて話し合うことで中核になる思想が分かるというお話なんですね。その善とか美について考えようということ言ってました。
よくプラトニックラブって言いません?プラトニックな愛とかね。だからそのプラトニックのプラトンってこれなんすよ。面白いですよね。だから概念的なっていう意味で多分捉えられてると思うんですけど、愛を肉体的なものじゃなくて概念としてのラブ、プラトニックラブ、そういう風に捉えられてるらしいんですよ。美とは何か、善とは何かっていうものをイデアから考えたいという思想。これだけ覚えていただければ。
プラトンはソクラテスの弟子でした。そして、そのプラトンのアカデメイアに通っていた天才というのがアリストテレスなんすよ。このソクラテス、プラトン、アリストテレスっていうのは古代ギリシャのすごいメジャーな哲学者なんですけど、師弟関係なんです。ばっちり師弟関係なんですよ。このアカデメイアに通っていた若きアリストテレスっていうのが、実は万学の祖って言われてるんですね。あらゆる科学とか物理とか、いろんなものをやってた。
アリストテレスってのはプラトンのイデア論に対しては反対を唱えてたんですよ。「いや、プラトン先生、ちょっと違いますね」やってたんすって。「プラトン先生、ちょっと違うな。イデアについてあんまり考えすぎても良くない。個別のものの方が大事だよ。だからコップ、このコップ、あのコップの方が大事だし、今あるこのものの方が大事だよ」って言って研究した。
そしてこのアリストテレスは、世界史でも出てくるアレクサンドロス大王っていうね、若き天才軍略大王、アレクサンドロス大王の家庭教師やってた。すごくない?すごいよね。そこ繋がるんだ、みたいな。ギリシャ神話からそのアレクサンドロス大王まで繋がるという。だから本当に頭良い人の代表格だったんですよね。この頃は、要するに科学、宗教、政治のど真ん中に哲学があったという時代なわけですよ。だから科学者とか、その後も宗教家とか政治家も哲学者として語られることが多いわけですよね。
アリストテレスは色々見て、中庸という、あまりやりすぎると多分、善とか美から外れると。だから強さっていうのも、強すぎると乱暴になっちゃうし、強くなさすぎると弱い、軟弱になっちゃう。優しさってのもやりすぎるとおせっかいになるし、なさすぎたら嫌なやつじゃないですか。そういうバランスとか調和とか、その自然の中にあるものを見よう。これがアリストテレスの考えだったらしいんですね。
アリストテレスは、だからここを見てもさ、かなり根本的なことを言ってたソクラテスやプラトンよりだいぶ今に近いよね。この万学の祖がすごすぎて、アリストテレスは言ってることは全部正解だっていう時代が、結構何百年か続いたんですって。「いや、アリストテレス言ってるからね」つったら、「すいませんでした」とか言って。「なんとかってこうらしいよ」「いや、嘘だろ」「それアリストテレスが言ってるからな」「すいませんでした。アリストテレスさんが言ってんだったら、それ間違いないすわ」。それぐらい信頼感があったんだって。だけどそれも結構弊害生んでるらしくて、アリストテレスが言ってた科学理論の中でも、何個か間違ってるのって結構あったらしいんですよ。
例えば金属と木があったとして、金属と木って言ったらどっちが重いかって言ったら、金属の方が重いわけですよね、物質としては。じゃあ同じ形の金属と木の玉を、金属の玉と木の玉をポーンって落とすとするよ。どっちが早く地面に着く?って言った時に、「いや、重いから金属の方が地面に着く」。これを言ってたのがアリストテレスなんですよ。だけど重い軽いに関わらず、物は一定のスピードで落ちるんです、実は。空気抵抗とかを受ける形が違えばね、ファーなったら違うよ。ファーなったら違うけど、同じ球体だったらさ、重かろうが軽かろうが一緒なんですよ。どすん、本当はね。
だけどアリストテレスさんの言う通り時代が長くて、それはだいぶ長いこと誤解されてたんだって。それを「いや、違いますよ」って言ったのが、ガリレオ・ガリレイらしいんですよ。ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔に登って、「これ見ててください」って。「おい、お前ガリレオ、お前、恥かくぞ」とか言って。「お前、アリストテレスさんにそんなこと言うて」とか言って。「いや、でもマジなんで」とか言って、ピュンってやったらドンって落ちて、「うわー」つって。「アリストテレスが言ってたのにね」という風になったのがガリレオ・ガリレイの時代。それぐらい科学についてもかなり大きい位置を示したのが、このアリストテレスなんですって。
古代ギリシャだいぶ分かってきましたね。「俺たちはこの世界を知りたいんだ」って言って、「なるほど、そっすね」つって。「その善とか美についても考えたいっすね」「いや、善とか美だけじゃなくて、科学とか物質について考えた方がこの世界が分かるんじゃないすか」っていう、この三人の哲学者なんですね。なんとなく流れ分かりました。
そんな中で、ギリシャ神話のストーリーだけじゃない、この世界を俺たちは知りたかった編が終わりまして、その後何が世界を牛耳るかというと、これキリスト教なんすよ。キリスト教の隆盛はすごかったですね。中東の方から始まりまして、それがヨーロッパ全土にブワっと広まる。ローマ帝国が国教として認めたことで一気にその教えが広まり、そしてそのローマ帝国の中で宗教というものの位置がどんどん上がっていって、教皇がどんどん偉くなっていって、そういう時代でございます。
そんな中の中世の哲学のあり方という、実はキリスト教の時代の補完としてあるわけなんですよ。つまりこれって最初に言いましたよね。この時代の常識に疑問を投げつける学問だって時に、この時代の常識が一気にキリスト教に塗り替わったわけですよ。神がこの世界を作っているんだよと、汝、隣人を愛せよと。絶対に正しい神がいて、それ色々あって我々が生まれていて、我々は神にとって良き行いをすればきっと救われる。信じる者は救われる、そう言いましたよね。
キリスト教というのはユダヤ教のバージョン2.0。ユダヤ人は救われるがユダヤ教。ユダヤ人じゃなくても神を信じる者は救われる、これがキリスト教でした。信じる者は救われる。神は全知全能にして唯一の完璧な存在である。こういう話ですよね。そんな時に、それに対して疑問ってのもやっぱりいっぱいあるわけですよ。
アウグスティヌスっていう人を今回、中世で取り上げます。それを悩んでたんですよ。「本当か?」こうなったわけですね。この人はキリスト教の司教なんですよ。だけど、キリスト教において一番問題になる点、それが悪の問題ってやつなんですよ。全知全能にして絶対の神がいるわけですよね。そしてその神が人間を作りたもうてるわけですよね。にも関わらずですよ、なぜこの世には残虐な殺人や非人道的な拷問があるのか。ここなんですよ。
神の力があるのであれば、その殺人者がわーって人を殺す前にね、ふっつって「やめなさい」つって、「やめますね」すればいいじゃん。それをさ、バシュってやっちゃう。拷問とかとんでもないことやってる。悪はあるじゃないか。神は何をしてるんだ。この問題なんですよ。神はその悪を止められないのだとしたら全知全能ではないし、その悪を容認しているのであれば、それは絶対的な善の存在ではないんじゃないか。こういう問題らしいんですね。
このアウグスティヌスっていうのは、幼少の頃はキリスト教の人じゃなかったんですって。お母さんキリスト教で、違う宗教を信じて、それがマニ教っていう宗教だったんですよ。そのマニ教ってのは世界観がまた面白いんですね。神の軍団と悪魔の軍団がずっと戦争してるっていう世界観なんすって。だからその神の軍団が劣勢の時には災いが起きるし、神の軍団が押してる時は平和が訪れるっていう世界観だから、悪があることはその世界観ではなんか分かるでしょう?「今、悪魔が押してんすね」つって。「神の軍団がちょっと押されてるから、こんなに疫病と不作でも」みたいなね。「あと犯罪がこんなにはびこって、神の軍団頑張れ」。こういうことなんですけど、このキリスト教の世界観だと、それがちょっとおかしいじゃないか、言われるわけ。
この疑問ね。でもさ、我々キリスト教についてなんとなく知ってたけど、この疑問持ったことあります?あんまりないですよね。確かになんか一瞬ふっとよぎるけど、声高にみんなと議論したことないじゃないですか。「神がいるならさ」とかってさ、あんま言ったことないでしょう。でもこの時代って、キリスト教の考え方がばっちりみんなに絶対的な常識としてあったから、それを疑って疑問に思っちゃったら、死活問題なわけですよ。本当なのかと。
その上で、アウグスティヌスが考えたのは自由意志っていう話らしいんです。これどういうことかと言うと、神に悪を止める力はある。しかし例えばどうだろう。実際に殺人者を見つけて、それを神が止めたとしたら、「やめろ」つってバジーンなって、「やめますわ」。ビーってなった時、その場合、人間ってのは神の前で操り人形に過ぎないんじゃないかと。要するに人間には意志がないんじゃないか?それは神がこうだと思った行動しかできない。
人間は、例えばこの目の前の水を飲もうと思えば飲むことができるし、飲まないと思うこともできる。それ、自由な意志がある。神は人間に自由な意志を与えることでまずは善とし、その人間、自由を与えられた人間が選択を誤っている状況が悪のある状況だという風に言ったわけですね。ちょっと「そうなの?」みたいな感じなんですけど、要するにこの時代はキリスト教の中にある矛盾をなんとなくサポートするために考えられていることを、哲学と言ったわけなんですね。
ただ、このサポートしてるっていう時代があったことがすごい大事なんですよ。宗教っていうものが、要するに幸福になるための、社会を規定づけるための、世界を構築している、死を定義している、全てだったわけじゃないですか。世界は神が作った。社会は人間が助け合って神にとって良いことをするためにやろうね。幸福ってのは神様にお祈りを捧げたりすることだよ。死ぬのは天国に行くんだよ。全部決めてくれてるでしょう?でもそれが時々綻びる時に、哲学が顔出してそれをサポートしてた。そういう時代らしいんですよ。
そしてそれがさらに時代進みます。この頃、近代、宗教戦争や自然科学の発達でキリスト教の影響力っていうのは次第に弱まってったんですよ。つまりカトリックやプロテスタント、違うキリスト教の考え方がバンバンぶつかってる。「え?どっちが正しいの?ていうかどっちも正しくないんじゃない?大丈夫?」言ってる間に自然科学が発達して、「あれ?これ本当に神が作った世界?それともちょっと違うの?それ物語で、自然科学の方が正しいの?」。こういう世界観、時代に基づいた常識と、それを疑う哲学が流行ってくるわけなんですよ。
だいぶ進んできましたよ。出ました、デカルト。「我思う、ゆえに我あり」。意味分かりません。チンプンカンプンでございます。皆さん、「我思う、ゆえに我あり」は聞いたことあるよね?「私は考えている。だから私がここにいる」って言われた時に、わけわかんねえなって、やっぱみんな思ったと思うんですよ。
でもこれどういうことなのかと言いますと、神がその全てを決めてるわけですよ。善か悪か、それがキリスト教の世界観でしょう。そんな中で「神じゃないかもな。良いこと、悪いこととかっていうのって、神じゃなくて自分たちでも思ったりしない?」っていうことなんですよ。自分たちの判断で、これは神が禁じてるからやるなって言われたから、全部それをやめてる?そうじゃなくて、自分の中で「いや、これは良くないでしょう」って思う時と、「これはいいよね」って思う時がきっとあると思う。それが理性なんじゃない?そういう話なんですよ。人間の中に存在してんじゃない?その善とか悪とかが、っていう議論が、その理性っていう話なんですけど。
そんな中で、「いや、待てよ。その人間ってさ、神が作ったストーリーの一個で、別に人間がその中心ってのはおかしいんじゃない」とか、いろんな議論があって、それで色々疑い出すわけですよ。疑問。「だから俺たちって何なんだろうね?」なって、「全部夢かもしんない」みたいな議論があるわけですよ。そういうのってありません?夢を見て、現実みたいな夢見てさ、「あ、夢だった」って言ってるこれも夢だったりして、みたいな時あるじゃないですか。
その時にデカルトは色々考えたくなった時に、実はこのデカルトが面白いのは、数学者なんですよ。この自然科学発達の時代の数学者で、この人すごいものを発明してて、X軸、Y軸ってあるでしょう?二次関数とかの。X軸、Y軸作った人なの。天才でしょう。なんで思いついたんすか?ってなった時に、寝ててパッて目開けたんだって。そしたら天井に虫が止まってたんだって。その虫の位置を人に説明するにはどうしたらいいかなって思った時に、X軸とY軸っていうのを決めて、中心を決めて、右に5、上に4みたいに言えば分かりやすいね、みたいな。そこから考案したらしいですよ。X軸、Y軸の考案者、これデカルトだったんすよ。
この人はいろんな、要するに数学で数式とか公式とか見つけてきたわけですよ。見つけれるんなら、これ人間の中にも公式あるやろと。だから数学的な立ち位置で分析的に捉えてたんですね。「よし、分析してみよう。数学で人間考えてみよう。哲学考えてみよう。人間いる?まず人間いる?」。ここ。「人間って存在してんの?これ」っていう時に、全部そうじゃないってもの省いていこうってやったんすって。「私が見てるからこれがあるの?いや、幻覚ってのもあるじゃないですか。こうなってるからある。夢だったら脳が見てるのかな?」とかってやって、「これはないかもしれないんだよ、ないかもしれないんだよ」ってやってた時に、例えば全部夢かもしれない。それ、悪魔が我々に見せてる夢かもしれないっていうことがあるわけじゃないですか。だからこれもないかもしれない、あれもないかもしれない。
でも今、その夢かもしれないって思ってる状態に、悪魔が夢を見せてるとして、俺がいないと悪魔は夢見せれないでしょう。だから今それ考えてるとこの俺だけはいるっていう風になったんですって。「俺いる」ってなったらしいんですよ。これは数学的に考え始めたことが画期的なんですよ。意味分かんないでしょう。「我思う、ゆえに我ありは当たり前やないかい、寝ろ」っていうね、みんな思ってると思うけど、それは神が全てを定義づけているのがこの世界だっていう、長らくにわたるこの世界観に対して、数学的に科学的に考えても、やっぱり私は存在するねという風に言った叫び声だから、新しかったんですよね。
なるほど。だから人と話して問答をしていくっていう中で、そこから科学が見つかって、さらにもう一回宗教になって、やっぱ科学戻ってきたわけですよ。面白いと。その上でカントって人もいるわけですね。これもだから理性の時代で、人間とはってやつなんですよ。人間の中にある善とか法則を捉えようとしてた。
このカントってすごい面白いんですよ。道徳に則って、自分がいいと思った理性で行動を決定するのが自由なんだ。その自由って、みんな分かんないかもしれない、複雑かもしれない。要するにこれも神に決められて俺たちは何かしてるんじゃないんだ。俺たちは自分たちの意志と理性で、自分たちの行動を選択している。その自由を俺たちは持ってるっていう意見なんですよ。神からの自由なんですよ、これ。
だから自然法則でね、眠い、だから寝るっていうのとか、腹減った、食うっていうのは自分の意志と関係ないわけですよ。「くそー、神」って思ってるわけですよ。神がそう作ったんだからってなってるわけ。でも俺はそれと関係ないこともするし、関係ないことをやらないこともできる。それが人間の中にある理性と、それが決めてる道徳。その道徳に基づいて行動することこそが自由なんだ、カントは言うわけですよね。
それで定言命法って言葉があるんだけど、この言葉は難しすぎるよね。これどういう意味かって言うと、何々だから何々するっていう行動の決め方は良くないと言うわけですよ。腹が減ったから飯を食うとか、得になりそうだからあいつにはいい顔をするっていうのは、その自然の摂理っぽいんですよ。じゃなくて、自分の中で道徳、これはいいことなんだって信じてる、だからやるってことには、何々だからっていうのは存在しない。「助ける」みたいなね。「なぜなら」「なぜならじゃない、助ける。それが理性が、俺が判断してる。助ける。何の理由もなく常に助ける」。
だからその状況に応じて行動を変えるとか、絶対許さない人だったの、カントって。助けるって決めたんだから、人間ってのは助けるし、嘘は良くないんだからどんな状況でも嘘ついちゃ良くない。だからカントは、その他のソクラテスの時の、欺くことはどうだとかって色々やってた感じとは全然違うんですよ。「嘘は絶対良くないんで、嘘は絶対ダメです。どんな状況でもダメです。守るためでもダメです。道徳がそう言ってるから」って言って、頑なに行動変えなかった。「それが俺の自由。神じゃない。それ俺が決めてるから」。そういうことなんですね。
朝5時に起きて夜10時に眠るっていうのを絶対に守ってたんすって。「これは俺が決めてるから。神と関係ないからね」つって。必ず同じ時間に散歩してたんですって。だからカントが散歩してるのを見て、みんな時間を判断してたらしいんです。鳩時計みたいになった、途中で。「カントさんまた来たよ。ぴったりだね、歩数も」みたいなね。そういうことやってたんだって。
今見ると滑稽なことにも思えるじゃないですか。でもその時代その時代で、イデアがあるんだとかさ、いや、これは無知の知なんやとかやってるのが、その時代に分かってることの範囲の中で戦ってるわけですよ。「キリストが絶対なんだ。キリスト教絶対なのに、なんでこんなことになってんだよ」つって、わあーと格闘してる。ここで格闘してる。
ヘーゲルってのは、カントが自分の理性とかどうのこうのって考えてた中で、「いや、自分だけで考えててもこれは良くないでしょう。他者との関係なんすよ。人となんすよ」って言い出したのが、このヘーゲルね。それで弁証法。これも言葉難しいよね。どういうことかって言うと、これは私は丸だと思うっていう人と、私は三角だと思うよっていう人がいたとして、それを、じゃあどっちかが間違ってるっていうことじゃなくて、お話をするわけですよ。「丸なんだよ。どうしても丸に見えるんだ、俺から見たら」「でも私から三角に見える」。でもそれがもしかしたら円錐かもしれないっていうわけですよ。横から見てるから三角で、上から見たら丸でしょう?円錐って。それだけの違いかもしれない。
それが円錐だっていうことに二人で気づくことができたら、より高い次元に進むことができるじゃないと。お互いの矛盾点とか違いを話し合って、お互いが妥協できるところとか、たどり着ける場所がもっと上のところかもしれない。だから自分の中で決める、自分がある、それ以上に、自分の中の理性と理性を突き合わせて、お話し合いすることでもっと上に行けるよ。相互承認していこう。
このヘーゲルの時代ってのは、ナポレオン戦争とかドイツの統一とか、ものすごい激しく政治の仕組みが変わってたんですよ。だからこういう宗教戦争とかの後で、この神は正しいんだろうかって言ってる間に、国家が変わってくわけですよ。ナポレオンが革命を起こしたよとかね、ドイツが統一したぞみたいな、プロイセン統一みたいな。世界っての変わるんだと。そういう激動の時代で、もしかしたらキリスト教が定義してきた神っていうものが世界を全部安定させてるんじゃなくて、自分たちの中に答えがあるかもしれないという風に、人に答えを求め始めた。内面を反省した。そのスタートがこれなんですよね。
だから文脈が分かると意味分かるでしょう。神じゃない、我思う、ゆえに我ありなんだということを言ったし、俺が決めたから、みんなで話し合えば、そういう風に言ってた。そういう時代でございます。なるほど、分かってったよ。
さあ、そこからさらに時代が進むとどうなるか?これなんですよ。今度は社会のあり方か、個人のあり方か。これ僕の分析なんですけど、要するにこれって人間全体を考えてるじゃないですか。「人とは」みたいな。でも「人とは」っていうことは、もはや関係ないって言い出したのがこの世代なんですよ。「人とはじゃねえ。俺にとっての答えが欲しい。俺が満足する答えが欲しいんだよ。俺が幸せでありたいんだよ。人間全体が善であったり美であったりとかに俺は関係ない。俺が幸福であればいい。俺の幸福とはどこだ?」。これを考え出したのは、このキルケゴールあたりなんですね。
実存主義って言われると意味分かんない。みんな言葉むずい。何なんだ?勘弁してくれ。ふにゃふにゃ哲学っていうのを誰か出してくれ。そういうぐらいですね。ふにゃふにゃにすると、実存ってのは実際に存在している今、私にとっての哲学って意味なんですよ。実存主義ってのは私にとっての、for me。これが実存主義なんですよ。for me、only for me、no public。そういうことですね。「私にとって真理であるような真理が知りたいんです」と言ったんですね。
このキルケゴールってすごい運命の人なんですよ。父と母の間に生まれたというか、父と、家政婦がいまして、意図せぬ形で家政婦が妊娠したらしいんですね。この親父がそのことを後悔して、「俺がやったことは悪事だった」ってなって、とんでもない予言するんですよ。「俺はとんでもない罪を犯して子供を産んだ。だから俺の子は34歳までに死ぬだろう」って謎の予言するんですよ。だからこのキルケゴールは自己肯定とかなかなかできないわけですよね。だって親父に「俺が悪いことして産んだんだよ」って言われてるわけなんですよ。
うわあなって、27歳の時に婚約者と婚約するんですけど、理由は不明なんですが、その数ヶ月後に自ら婚約破棄するんですよ。嫌いになったわけじゃないんですよ。好きなんだけど、予言のせいでしょうか、それとも自分の考えなんでしょうか。婚約破棄するの。「え、なんで?キルケゴールさん、なんで?」「いや、すまんすまん」って。「だめだ」って。
27歳で婚約破棄するんです。そこから死ぬまでずっと、その婚約破棄した相手のことを想ってるんですよ。その婚約破棄された相手は結婚するんですね、他の男と。その後に、「やっぱり」と言って、だいぶ経ってから想いを届ける手紙を書いたらしいんですけど、新しい夫に破られて読まれることも叶わず、またずっと1人。そして死んでから、その婚約破棄した想い人のおかげで本が出版されてったっていう、そういう人らしいんですよ。ドラマチックでしょう。
このキルケゴールが「私のための真理が知りたい」って言って研究して、「自分にとって」が大事なんだよと言ってですね。これね、『死に至る病』っていう本がすごい有名で、絶望とは何かっていうことを言ってるわけですよ。絶望してはいけないっていうことですね、キルケゴールは言うわけですよ。
でもね、これ絶望っていうと、我々のイメージ、希望があって絶望みたいな、なんとなくそんな感じじゃないですか。「諦めます」みたいな。だけどその絶望にはいろんな形があって、「俺なんかどうせ金持ちになれないよ」、これも絶望なんですけど、「俺は億万長者になる」っていうのも絶望らしいんですよ。ここが難しいんですね。
つまり、客観的に自分のことを見て、自分にとってこれはできる、できないっていうことをしっかり考えるっていうことが大事で、自分の能力と全く見合わない夢を見たり、自分の能力を全部諦めて全てを捨てたりすること、全てが自分をきっちり見えていないということで絶望なんだっていうふうに言ってんですね。だからすごく自分を見つめてんですよ、むちゃくちゃ。
でもこの辺りから、分かるでしょう。なんとなく今っぽいよね。本出てそうだもんね。テレビとかもね、コメンテーターで出てそうだね。「絶望には2種類ありまして」とか言って、「そうなんすね」みたいな感じで。今、ここら辺はだいぶさ、ちょっと難しかったかなっていうか、話が広いじゃん。ここら辺から個人の話になってくるから、だいぶ近いんですよ。だから結構ね、哲学って言って「うー」ってなっちゃうのはここら辺かなって僕思ってます。
このキリスト教的世界観から人間全体に、神から人への時に、どうしても我々日本人はキリスト教のベースがないでしょう? キリスト教が絶対だってベースが我々ないから、ここがちょっと理解しづらいんですよ。でもところがこの時代になってくると、個人の中で社会よりも自分自身を見つめて、幸福ってのは何だろうってやってくるから、だんだん共感できるようになってくるんですよね。だからここら辺から面白い。
そしてニーチェだね。もう哲学者といえばって言ったらもうニーチェ。まずニーチェね。まずニーチェで1番有名なセリフがこれ、「神は死んだ」。これですよね。ニーチェ、神は死んだ、哲学、ニーチェ、神は死んだ、もうこれだけですよ。どういう意味?って分かりませんけども、ニーチェが言ったらしいですよ。「神死んだらしいですけどね」とかっていうね、こういうことなんですけど。
これはね、すごい言葉なんですよ。これ「我思う、ゆえに我あり」がいかにすごいかっていうのは、文脈で言うと分かったんですね。「神は死んだ」ってこの文脈の中で聞くとすごくないですか。はっきり言っちゃうんすよ、もう終わりだって。グッバイ、キリスト教なんですよ。これだからすごいことなんですよ。だから衝撃的なグッバイ、キリスト教っていうのね、これやって。
それでね、キリスト教というのは一体どういう宗教かっていうことで批判するんですね。言ったらキリスト教批判です。キリスト教というのは弱き者を救うということをやってきたわけですよね。「汝、隣人を愛せ」とね。その上で、弱くても信じる者は救われる、これだったよね。「弱いけど貧しい者は幸せです」っていうこと言ったり、「弱い者は幸せです」って言ったりするわけですよ。「本当かよ」とニーチェは言うわけですよ。
色々やってきたけど、キリスト教ってのは序列がすごいあって、その上で色々派閥で分かれて争い事があって、その上で結局強いもんが勝つんじゃないのか。そういう時代じゃん。結局そうじゃんね。キリスト教の考え方自体が歪んでんだよと。だって弱い方が救われんの? なんで清くて弱くて、わーなってるやつが天国行けて、強いやつへのそれは妬みじゃないのか? こう言ったわけですよ。
キリスト教の考え方は根本的に逆転していて、強いやつが幸せになれて弱いやつは幸せになれないんだっていうことを隠蔽している。それを歪めているから色々問題があるんだと。その聖なるキリストをわーっと崇めていること自体がおかしくて、それに盲目的になってる全体が良くない。信じるなと。みんなが信じてたとしても、それとは違うこと言っていいんだ。
超人ってものを作ったんですよ。どんだけ批判されても自己肯定を続ける、そういう強い人間、超人がこの時代には必要なんだっていう理論。マッチョだよね、すごいよね。だからその個人に対して、絶望しない方がいいって言ったのがキルケゴールで、個人がもっと強くなるべきだって言ったのがこのニーチェなんですよ。神とかそういうことじゃなくて、社会とかそうじゃなくて、私。もう「神は死んだ」まで言ったのがニーチェ。すごいですよね。
でもね、これニーチェってすごいインパクトだったから、むっちゃ影響与えるんですよ。個人をもう1度見つめ直そう、キリスト教の倫理観だけじゃないかもしれないっていうふうになって、ニーチェを読んで影響を受けたフランスの哲学者がバタイユっていう人なんですよ。この人はエロティシズムについて考えた人。
エロいって何だ? なんで人間は性的なことをするか。これは言ったら繁殖するためだね、子供を産むためだと。でもそれがエロスなのかと。子供を産むということがエロスなのか。いや違うと。実はですね、禁じられているものに対して破りたいという根源的な悪の考え方があるわけですよ。それこそがエロスなんだっていうことを言ったんですね。
今から言うと、なんとなくそうですよねみたいな感じじゃないですか。ちょっとダメなことする方がエロいみたいな、分かる。だけどこの時代は、そういう考え方をはっきり言うってことがなかったわけですよ。子供を作るか作らないかとかじゃなくて、禁じられてるものを破る。それがエロいし、みんな破ってきてる。
キリスト教のこの考え方って、禁じられてるものめっちゃあるんですよ。堕胎がダメ、不倫がダメ、これ絶対ダメなわけですよ。そんな中で、破るのがいいんだ、言い出したね。それでね、そういう小説とかを書いたりしたんですね。それが人間らしさだと。だいぶと逆転してきましたよね。人らしいって何だろう。
ところがですね、このアンチキリスト教っていうものの考えの中で1番インパクトのあったニーチェのこの超人思想とか、強くあれ、そういう考え方っていうものを曲解して、さらに悪用したのがあのナチスって言われてるんですよ。ナチスドイツっていうのは、我々ドイツ人、ゲルマン民族の自己肯定ですよね。ゲルマン民族こそが最高の民族である、自己肯定した上で、強いものが正しいんだということで、ナチズム、全体主義に向かっていったというふうに言われています。難しいもんですね。
だからキリスト教ってのが絶対なところから解放されたら人間らしくなるのか? いやそうじゃない。それ以外の考え方がまた生まれてしまうわけなんですよ。ナチスがそれを生んでしまった。それは一体何だったんだ? それを考えたのがこのアレントっていう人なんですよ。
この人はユダヤ人なんですね。元々ドイツに住んでたユダヤ人だったんですが、亡命してアメリカに行ったという方なんですね。この人女性なんですよ、女性哲学者。現代哲学者のハイデガーって、聞いたことあるかもしれない。このハイデガーの元恋人らしいんですね。哲学にのめり込んで、ナチスって何だったんだろう、こういうことを考えたのがアレントらしいんですね。
このアレントの考え方面白いんですよ。悪とは何だっていうね。なんでナチスみたいなこと起こったかっていう時に、話題になったのがナチスのアイヒマン裁判っていうのがあったらしいんですね。そのアイヒマンっていう人は、ナチスはものすごいとんでもないことを行ってるわけですよと。ユダヤ人は全員、弱き民族であるし、悪しき民族であると。ドイツ人がこんな目に遭ってるのは全部あいつらが悪いんだっていうふうにすることによって人気を取って、その上でそのユダヤ人を、とにかくガス室に送り込んで大量に殺戮をするということをやったわけなんですよ。
そんな中ですね、ナチスってなんて恐ろしいことやってんだっていうことで、全員がどんな奴らなんだろうってなってたんですけど、このアイヒマンっていうのは何をしてた人かって言うと、実はそのナチスドイツの収容所があって、そこからユダヤ人の方々をガス室まで連れてかなきゃいけないわけですよ。ガス室に送り込むための列車のダイヤを作ってたんだって。作れって言われたから作ってた。
アイヒマンとしては「いや、作れって言われてたんで作ったんです」っていう普通の人が出てきたことが、アレントはすごいショックだったんだって。悪事とか悪っていうものは、極悪人のとんでもないやつだけが行うものではないんだと。何も考えない凡人が何も疑わなかった時に、それはとんでもない悪を生む可能性もあるんだと。個人の人間がこういうものも生み出してしまっていた。
人間とは、とんでもない悪人、とんでもない善人だけではなくて、時代によってこういうものも生んでしまう。こういうこと言って、人間って何だろうねっていうことを考えてるんですよ。この神のキリスト教の世界、その後に社会主義とか全体主義って言って、宗教とは関係ないけど社会の仕組みの中でさ、とんでもない暴君が現れたわけでしょう。社会主義の後でスターリン。なんで? これどうなってんの。人間はどういうふうになったら人間らしいんだろうねって言ったのがアレントで。これね、だいぶ身近ですよ。だいぶ身近な考え方。戦後ですからね。
労働と仕事と活動っていうものがあるって言うんですよ。人間は労働と仕事と活動、全部一緒に聞こえるじゃないですか。そのうちね、労働ってのは食うためにやる仕事なんだって。食うためにやる生業。仕事ってのはクリエイティブな自己表現とか創作活動。活動ってのは公共のためにやること、公共に奉仕すること。
そんな中で今ね、人間って何しかしてないかって言うと、労働ばっかりしてると。あんま考えてない。お金を稼ぐために労働ばっかりしていて、空き時間に消費ばっかりしてる。お金を食うために稼いで全部使う。考えてないんだと。人間らしさってのは実は、その創作活動とか公共への奉仕、仕事とか活動の方にあるんだよと。それを考えることで人間らしさが取り戻せる。考えなくなったらそれは人間じゃないんじゃないか。人間らしさってのはそこにあるんじゃないかっていうことをアレントは言っているそうなんですね。
だいぶ今っぽくなったよね。なるほど、皆さんお金のためだけに働いてませんかってね。最近の本屋とかでも売ってそうでしょう。そういうふうな悩みになるとだいぶ分かるわけじゃん。へえ、そうだそうだ。でもこの感じっていうのが、よりこの時代の人たちにとっては、そうだそうだそうだそうだ、これの連続だったわけですよ。
そうだよ、なんで俺たち生きづらいかって言うと、議論ばっかさせられてたんだよ。そうだよ、俺たちまだ何も知らねえじゃんとかね。科学が分かるとめちゃめちゃ気持ちいいじゃん、アリストテレスさんの話聞きに行こうとかね。そうそうそう、みんなで話し合った方がいいじゃんとかね。俺のこと考えたいんだよとか。その時代その時代の悩みに答えてったのが哲学者ってやつなんですよ。だから基本的にマイノリティで迫害されてるんですよね。
なんでかと言うと、その時代の窮屈になったガチャガチャしている古い常識っていうものに対して悩んでいる国民とか民衆がいて、そこに新しい「こんな考え方したら楽になれるよ、こんな考え方したら自分らしく生きれるよ」、そういうことを言ってきたから、後の時代に認められる人が多いんですよね。だからニーチェとかキルケゴールとかも、その時代時代はあんまり評価されなかったりとか、そういう人も多かったというふうに言われております。
じゃあそんな中ですよ、現代の哲学ってどうなってんのって思いません? いやいや現代に哲学必要ないよって、もしかしたら思ってた皆さん、ここまでの話聞いたらちょっと現代の哲学に興味ありませんか? そうですよね、ってなった時にですよ、現代の世界、社会、幸福、死とか、科学、宗教、政治ってどうなってる?
後の世からこう言われるかもしれない。あの時代はIT革命が行われた後で、テクノロジーは5Gだとか自動運転だとかブロックチェーンだ、仮想通貨だ、ものすごい発達していた。科学はここまで来ている。宇宙も目指そうかなんて言ってる時代だ。そんな科学の時代に1番信じられてる宗教、これは一説によると資本主義だと言われてますね。
お金を稼いだら幸せになれる、そういうふうにみんなが信じてる時代。みんな神様のことはストーリーだと思ってるけど、お金という価値に関してはみんな信じてるよね。お金を稼げば幸せになれるんだ、稼げば稼ぐほど幸せになれるんだ、そういうふうに信じていた時代だった。その上で政治で最も優れた政治システムは民主主義と言われている時代だった。選挙さえすれば正しい政治家が選べる、そういうふうに思われている時代だった。
この時代この時代で、いろんな正しい、今最先端だと言われてるところを歩いてた。今みんなこの時代に生きてるから、これが全てだと思ってるかもしれない。でもこれは今の時代の正義でしかない。ITで全てがSNSで繋がって、スマホで電波でどんな映像も見れるようになって、キャッシュレスでお金が払えるようになって、何でもできるようになったことが幸せですか? 資本主義でお金を稼ぐほど幸せだと言われてる今は幸せですか? 民主主義でみんなで政治家を投票して選んだ今っていうのは幸せですか?
そう言われた時に、あれ、どうだろうと思いませんか? 古代ギリシャを皆さんちょっと鼻で笑ってたかもしれない。古い時代だなって思ってたかもしれない。その時代に比べて我々は何千年分か幸せになったんでしょうか? 何倍も何倍もここについて知れたんでしょうか? 世界がなんで存在するのか、社会はどうあるべきなのか、幸福って何なのか、そして我々はなぜ死ななきゃいけないのか。それについての答えは出たんでしょうか? 出てないんだとしたら、皆さんが幸福じゃないかもしれないと思うんだとしたら、哲学の出番かもしれません。ではまた。
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