大政奉還から高度経済成長まで――中田敦彦が「なぜ戦争に向かったのか」を三つの政治の流れで読み解く

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概要

中田敦彦による日本史シリーズの第4回は、大政奉還から戦後の高度経済成長までの近代史を扱う。中田は冒頭で、近現代史は捉え方や説が人によって大きく異なり、教える側に立つと難しさがよく分かると語る。そのため今回は、自分の説を「絶対にこうだ」と主張するのではなく、参考書(河合敦『早わかり日本史』)に準拠して授業をすると前置きしている。別の本に基づくテーマ史や人物史も今後扱うので、諸説があることを知ったうえで、まず知るきっかけにしてほしいというのが中田の立場である。

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中心にある問いは、「近代化を目指した日本が、なぜあれほど戦争を重ねることになったのか」だ。中田はこれに答える鍵として、藩閥政治・政党政治・軍部政治という三つの流れを示し、加えて日本が常にイギリス、ロシア、中国、アメリカといった大国の思惑に巻き込まれていたという見方を繰り返し提示する。

2:00

開国前の揺れと、大政奉還の本当の狙い

中田はまず、黒船来航がペリーから始まったわけではないことを確認する。最初にロシア、続いてイギリスの船が来ており、その間に幕府の対応は二転三転した。撫恤令によって来航船をもてなしていたが、イギリス船が湾内で揉めて帰っていった事件をきっかけに、大砲で撃退する方針に変わる。しかしアヘン戦争で、蒸気船を持つイギリスが中国にどれほどの打撃を与えたかを見て、簡単に撃ち返せば大戦争になると考え、再びもてなす方針に戻った。中田はこれを「もてなす、大砲、もてなす」と表現し、幕府がぐらついていたことを強調する。

その結果として徳川慶喜が大政奉還を行うが、中田が「面白い」と感じたのは慶喜の本当の思惑である。中田によれば、大政奉還は敗北宣言ではなかった。慶喜は徳川家への反感をかわしつつ、新政府になった後も徳川家がトップに立ち続けることを狙っていた。薩長の倒幕の大義名分は「朝廷に反旗を翻すのか」という点にあったが、政権を朝廷に返してしまえば、その名分が失われる。中田はこれを、先手を打った「高度な作戦」と呼ぶ。

これに対し、新政府でも徳川の言いなりになるのは冗談ではないと考えた薩長が打ち出したのが王政復古の大号令だった。大政奉還と王政復古の大号令は教科書ではさらっと流されがちだが、中田は両者を「技と技のぶつかり合い」の大攻防戦として捉え、王政復古の大号令は徳川排斥の動きだったと説明する。

6:02

戊辰戦争――京都から五稜郭まで

大政奉還で一件落着したような印象を持たれがちだが、中田は「そんなことない」と言い切る。江戸という太平の時代が終わってから、日本はずっと揉め続けているという認識が必要だという。

戊辰戦争は複数の戦いの連なりである。まず鳥羽・伏見の戦いで新政府軍が京都を押さえ、新政府のやり方に異を唱えた彰義隊を上野で潰す。問題になったのが会津藩だった。会津藩は新政府に従うと申し出たにもかかわらず、新政府はそれを許さなかった。中田はその理由として、長州がかつて蛤御門の変で会津に打ち負かされており、強い復讐心を抱いていたことを挙げる。トップの首を差し出すまで許さないという要求に対し、東北の諸藩が「同じ東北として、それはやりすぎだ」と会津をかばったことで、東北戦争へと発展した。中田は、この時代の「首を出せ」は比喩ではなく本当に首を切ることを意味しており、まだ戦国の名残があったと述べる。

会津が潰された後、榎本武揚や土方歳三ら旧幕府軍の残存勢力は北海道まで押され、最後に立てこもった五稜郭も陥落して完全制圧に至る。中田によれば、兵の数では幕府軍の方が多かった。それでも負けたのは、薩長の背後にイギリスがつき、新式装備による近代化された軍を持っていたからであり、テクノロジーで負けていたのだという。

9:41

廃藩置県・廃刀令・徴兵令の意味

明治政府が樹立されると大改革が始まる。中田が特に重要だと強調するのは廃藩置県である。それまで各藩は自治政府のようなものだったが、中央政府がそれを作り直し、役人を送り込む体制に変えた。

中田はこれを日本史全体の流れの中に位置づける。天智天皇の公地公民制は、豪族の土地をすべて朝廷のものとした。中国でいえば、始皇帝が春秋戦国の諸国を統一して郡県制を敷いたのと同じ発想だという。しかしその「全部ひとつ」の体制は、税をうまく徴収できなくなって墾田永年私財法で崩れ始め、荘園が生まれ、荘園を束ねる貴族、それを守る武士が現れ、武士が台頭して乱世を争い、最後に徳川家康がまとめた。それでも各地の自治は続いていた。公地公民の崩壊以来ずっと侍によって分割されてきた土地を、廃藩置県で一気に一つに戻した。中田は日本史を「土地をどう使うかの争い」としてダイナミックに見ると面白いと語る。

廃刀令についても、秀吉の刀狩など前例はある。ただし中田によれば、刀狩りが農民兼兵士のような人々の反抗を防ぐためのものだったのに対し、廃刀令は侍という特権の排除だった。徴兵令と合わせ、藩に兵を出してもらうのではなく、全員を日本の兵士として中央が使えるようにする。これも中央集権であり、目的は近代化だったと中田は説明する。天智天皇の時代に中国の圧力の中で国を固めたのと同じように、欧米列強に潰されないために自分たちの国を作らなければならないというのが、薩長の新政府の大命題だった。

13:45

西南戦争――近代化の正義と侍の正義

しかし、その結果として侍の特権が失われた。中田は、近代化したいという正義と、これまでの侍をどうするのかという正義がぶつかり合ったと整理する。天智天皇の改革の後に壬申の乱があり、始皇帝も急激な変更で反発を受けたように、急激な変化は大きな反発を生む。

そこで登場するのが西郷隆盛である。刀を失い、商売もうまくいかない侍たちの不満を聞き、もともとは打開策を考えていたものの政府と決裂し、最終的には侍たちに担がれて西南戦争に至った。中田は、大政奉還がその後に戊辰戦争と西南戦争という二つの大きな戦争を生んでいる以上、決して幕末の終わりではないと強調する。

この戦いでも明治政府が圧倒的に強かった。中田は、産業革命がもたらしたテクノロジーにいち早く気づいた人々と、まだ江戸のままでいたかった人々との戦いだったと位置づけ、テクノロジーを備えた軍隊には勝てなかったと述べる。

15:54

藩閥政治――大日本帝国憲法と不平等条約改正

ここで中田は、近代の戦争を理解するための枠組みとして、藩閥政治・政党政治・軍部政治の三つを示す。戊辰・西南の両戦争で、力では政府に歯向かえないと分かったことから、中から変えていこうという流れが生まれる。

大日本帝国憲法を主導したのは長州出身で吉田松陰の弟子である伊藤博文だった。ヨーロッパで学び、フランス式やイギリス式などの案がある中で、日本に最もフィットするのはドイツやオーストリアのような君主権の強い憲法だと判断し、天皇から与える欽定憲法の形をとった。中田はこれをバランスを見た判断だろうと推測している。

中田によれば、法治国家にしたのは思いつきではなく、法治国家でなければ列強に認められないからだった。幕末に井伊直弼やハリスのもとで結ばされた日米修好通商条約などの不平等条約には、治外法権や関税自主権の欠如があった。近代的な軍備と法律を整え、列強と同じ最新の国だと示さなければ条約は改正できず、日本は虐げられ続ける。不平等条約の改正が大きな命題だった。

それでも政府の中枢は薩長出身者で占められ続けた。中田は受験期に覚えた歴代首相の語呂合わせ「いくやまいまいおおやいかさかさか」を披露し、伊藤、黒田、山県、松方といった名前が繰り返し出てくること、「さかさか」は西園寺と桂が交互に務めたことを示し、薩長ばかりだったと説明する。

19:51

政党政治の登場と「我田引鉄」

武力での変革が無理だと分かったため、選挙の仕組みを整え中から変える政党政治へと動き出す。中田は、近代国家の流れとしてはこれは正しく、一見良い流れに見えると認める。大隈重信や板垣退助のように薩長以外の人物が首相になり、政党も作られたが、揉めてなくなるなど長続きしなかった。その後、平民宰相と呼ばれた原敬も出てきて、薩長以外の首相が徐々に増えていく。

ただし中田は、政党政治には問題点があったと指摘する。それを表すのが、この時期に言われ始めた「我田引鉄」という言葉だ。薩長は戦争に勝った権力者として独占的に物事を決められたが、政党政治では有権者の支持が必要になる。当時の有権者はまだ限られた金持ちであり、地元の有力者の支持を得るために鉄道を引くことが行われた。そのため当時の鉄道はぐにゃぐにゃに曲がっている場合があるのだという。中田は、政党同士が争って内輪揉めに終始すること、人気取りの政策に偏ることという政党政治の難しさが早くも表れていたと述べ、それが未熟だったのか、今でも同じなのかという問いも投げかけている。

22:27

ロシアの南下と、日清・日露戦争を動かしたイギリス

対外関係について、中田はこの時代の日本が英・米・露・中に囲まれ、それぞれの思惑を読みながら選択を重ねていく状況にあったと説明する。江戸時代は貿易をしていても侵略はほとんどなかったが、産業革命で欧米列強がアジアに進出し、インドや中国が大変な目に遭う中で、日本も開国した。ゲームが一気に国際的になり、プレイヤーが増え、すぐに選択を迫られるようになったという。

その中でロシアが南下してくる。中田の説明では、理由は「とにかく寒い」ことに尽きる。港が凍るため不凍港を欲し、地中海に出ようとしてはイギリス、フランス、ドイツに阻まれてきた。そこで逆サイドの中国や日本の方面に目を向けた。日本にとっては、中国と朝鮮半島をロシアに押さえられるのが最もまずい。そこで朝鮮半島をめぐってまず日本と清が争ったのが日清戦争であり、中田はこれを、日本のロシア警戒と清の支配維持との戦いだと位置づける。日清と日露がなぜ立て続けに起きたのかという疑問に対しても、両者はロシアの南下警戒という一つの目的でつながっていると答える。

日本が両方に勝てた理由として、中田が強調するのはイギリスである。幕末に薩長に武器を与えたのも、インドや中東を動かしたのもイギリスであり、日清・日露もイギリスの存在が大きかった。ロシアの南下を防ぎたいイギリスが日本を支援し、日本はイギリスの了承を得て清と戦い、イギリスから得た近代軍備で勝った。その後日英同盟を固めたうえでロシアとぶつかり、ロシア国内で革命が起きるなど相手が自滅気味の中で講和に持ち込み、「ギリギリ」勝ったと中田は説明する。こう見るとずっとイギリスの思惑通りだったと思えるかもしれない、とも付け加えている。

日露戦争の後には韓国併合が行われる。中田は、ロシアに対する防備という面と、領土を広げたいという面の両方があったと考えている。この時期は非常に遺恨を残しており、反日の動きの中で初代総理大臣の伊藤博文が韓国で暗殺されたことは大きな事件だったと述べ、こうした流れを押さえておきたいとしている。

27:58

第一次世界大戦の好景気から、四連発の恐慌へ

第一次世界大戦への参戦も、中田によれば日英同盟の流れによるものだ。ヨーロッパの戦争で日本には本来関係がなかったが、イギリス側について参戦した。戦地はヨーロッパなので日本への直接の影響はなく、イギリスなどに商品を売り、さらにヨーロッパ製品が撤退したアジア市場にも売り放題となって、日本は大好景気に沸いた。

ところが中田は、これが後に大変なことになったと話す。政党政治から軍部政治への移行を理解するうえで、ここが最も重要だという。中田はこれを「四連発のパンチ」にたとえる。まず大戦が終わるとヨーロッパの商品がアジアに戻り、売れていたものが売れなくなって在庫を抱える戦後恐慌が起きる。次に関東大震災で関東一帯が壊滅状態になり、震災恐慌が起きる。関東大震災がいつだったか曖昧な人が多いが、戦後恐慌の後だと押さえておくとよいという。さらに大臣の失言や政策の失敗によって金融恐慌が起きる。ジャブ、右フック、アッパーを受けてふらふらになったところに、全世界を飲み込む世界恐慌が襲い、日本では昭和恐慌としてとどめを刺され、リングの外に吹き飛ばされた、と中田は描写する。

31:32

政党政治への失望と軍部の台頭

この時に政権を担っていたのが政党政治だった。藩閥政治は良くないと自由民権運動を経てようやく成立し、イギリスやアメリカのような二大政党になったところで、日本経済がボロボロになった。国民は「お前らのせいだろう」と政党政治を責め、国家の危機に失言の揚げ足取りや地方への鉄道誘致をしているからダメなのだという強い逆風が生まれた。

そこで軍の発言力が増していく。中で争っていても仕方がない、外をしっかり押さえるべきだという軍の主張に、今までの政党政治から変えてくれるかもしれないと国民の世論が動いた。中田は「国民が選択していった」と表現している。

内閣の支持率が低く軍の人気が高い中で、陸軍と海軍は指揮系統も異なり、上層部がばらばらになっていった。そこで関東軍が暴走して満州事変を起こす。中田の説明では、満州に国を作って領土を広げることで、ボロボロの日本を救おうとした陸軍の一派がいた。それを制御できなかった内閣が総辞職するなど、パニックの状態だったという。

その深刻さを示す例として中田は五・一五事件を挙げる。軍の将校が首相官邸を襲い、犬養毅が「話せばわかる」と言ったのに対し、若い将校が「問答無用」と撃った。中田は個人的には一度話してみてほしかったと述べ、「話せばわかる」への回答として怖すぎると感想を語っている。五・一五事件、二・二六事件と軍のクーデターが続き、鎮圧はされたものの軍の影響力の拡大は止められなかった。

35:33

日中戦争、ABCD包囲網、そして真珠湾

その中で日中戦争に進む。当時の中国は列強にずたずたに占領されていた。満州では張作霖が爆殺され、張学良が「内乱をやっている場合ではない」と呼びかけて国共合作が成立し、戦いが始まった。

中田が注目するのは、ここで初めてアメリカが本格的に登場する点である。朝鮮半島や台湾までは布石だったが、日本が満州まで食い込んだ時、アメリカは自分たちの権益も侵されるのではないかと考え、日本はやりすぎだとNOを突きつけた。石油などの対日輸出が禁止され、ABCD包囲網による経済制裁が始まる。中田は、そもそも経済的に苦しいことが大陸進出の理由の一つでもあったのに、さらに経済的に締めつけられたと説明する。日本は国際連盟などから脱退し、本当に追い詰められたのだろうと中田は推測する。輸出を止められるならもう無理だと、先手を打ってアメリカを攻撃したのが真珠湾であり、中田はこれを宣戦布告ではなくいきなり石を投げるような状態だったとし、勝てるはずのない国力差に飛び込んでいったと述べる。

一方で中田は、当時の日本が台湾、朝鮮半島、東南アジアなどを押さえ、大東亜共栄圏と呼ばれる広大な占領地を持っていたことにも触れる。世界史上の最大領土といえば大英帝国やモンゴル帝国、ロシア帝国などが挙がるが、大日本帝国も上位に入り、ベスト20ぐらいに入る広さだったという。当時の地図を見ると我々の知っている日本とは違って驚くはずだと勧めつつ、それがどういう状態だったのかは推測するしかないとも述べている。

39:07

敗戦と原爆投下をめぐる一つの説

太平洋戦争は奇襲攻撃で最初は優勢だったが、アメリカが準備を整えると負け始め、ミッドウェー、ガダルカナルを経て、沖縄がやられた時点で敗北は確定していた。中田はここで「最大のミステリー」として、なぜ負けが確定していたのに広島と長崎に原爆を落とす必要があったのかという問いを立てる。

中田は、参考にした2冊の本のどちらだったかははっきりしないと断ったうえで、書かれていた説を紹介する。戦争の後半、ソ連が日本に宣戦布告し、日本はもう無理だとポツダム宣言を受諾した。アメリカはソ連の参戦を予期しており、ソ連と一緒に日本を降伏させれば単独で占領できなくなる。そのためアメリカ単独で早めに日本にとどめを刺した、という説である。中田は、実験だったのではないかという説などいろいろあると断りつつ、この説によれば終戦前からすでに米ソ冷戦の構図が予感されていたことになると述べる。日本はイギリスに翻弄され、中国を巻き込み、ロシアに翻弄され、アメリカに翻弄され、さらに米ソ対立に巻き込まれていく、というのが中田の整理だ。

41:16

占領政策、財閥解体の中断、朝鮮特需

戦後にはマッカーサーが来る。中田によれば、その統治は日本が韓国併合で行ったやり方とは大きく異なった。大日本帝国は日本語を習わせたり宗教の自由をめぐって制約を設けたりと強い支配を行ったが、マッカーサーは日本を完全に潰すか、トップに戦争責任を取らせるかなどを含めて意見を聞き、日本を完全に潰すのは歴史上まずいと判断して、天皇制を維持した間接統治を選んだという。その代わりに財閥解体と民主化を進めた。

しかし中田は、これが中途半端に終わったと話す。財閥とはもともと政府と密接に関わる商人である政商であり、日露戦争後の重化学工業の発展の中で、政府と強く結びついた三井・三菱・住友などが大きく伸びたものだった。その解体が途中で止まった理由が朝鮮戦争である。中田は朝鮮戦争を朝鮮の内乱ではなく米ソの代理戦争と位置づけ、ソ連が北朝鮮を、アメリカが韓国を作り、その覇権争いによって北緯38度線で分断され、今も分かれたままだと説明する。アメリカは日本をアジアの基地にする必要があったため、潰すのをやめて味方にしておく方針に変えた。そして朝鮮特需によって、日本は皮肉にも高度経済成長を迎えていく。

43:53

正義はどこにあったのか

中田は最後に、潰されたかと思えばまた持ち上げられ、戦争の影響で高度経済成長を迎えるという激動を振り返り、「誰が悪いのか、何が正義なのか」はこの流れを見ると分からなくなると語る。大政奉還の後、日本は海外に負けない立派な国を作りたかった。しかし巻き込まれていった。政治は政治だけでなく、経済や国際外交と密接に関わっており、自分たちの決定だけではどうにもならない経済的・国際的な環境がそれぞれの動きを決め、時代を作っていく、というのが中田の結論である。

授業は参考書がここで終わっているため、高度経済成長で完結する。ただ中田は、現代の経済や社会、イーロン・マスクやジェフ・ベゾスといった人物を扱っているのも同じ問題意識からだと説明する。今起きているのはどことどこの覇権争いで、自分たちはどこに巻き込まれているのか。その問いを考えるベースにしてほしい、受験勉強の足しにしても、ニュースを見るときの考えの材料にしてもよい、と締めくくっている。