ウクライナとロシアの関係史:「ウクライナはロシアの一部」という認識はどこから来たのか

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概要

ロシアの人々はウクライナをロシアの一部だと考え、ウクライナの人々はウクライナはウクライナだと考えている。ニュースからうかがえるこの食い違いは、いつ始まったのか。中田敦彦はこの問いから講義を始める。参考文献は、ウクライナに駐在して仕事をした人物が物語形式で書いた『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』(黒川祐次)である。中田はこの本を読み、ウクライナが世界史の中心的な役割を担っていたのではないかと思うほどの「歴史の交差点」だったことに驚いたという。

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講義は二部構成で進む。前半では、ウクライナがなぜロシアのものと見なされるようになったのかをたどる。後半では、その上下関係のもとでウクライナがどのような悲劇に遭ってきたのかを扱う。中田のねらいは、日本人にとって最も理解しにくい東ヨーロッパの歴史を押さえ、終わりの見えない現在の戦争のニュースを読み解けるようにすることである。

2:02

黒海の北という土地に焦点を当てる理由

最初に中田が強調するのは地理である。ウクライナは内海である黒海の北に位置し、ロシアの西、ヨーロッパの東にあたる。つまりロシアとヨーロッパの真ん中であり、同時に黒海の北でもある。黒海からイスタンブールの海峡を抜ければ、その先でギリシャのアテネにたどり着く。それ以外の方向はすべて陸であり、陸路でヨーロッパを抜けるか、南の中東へ向かうしかない。そのためロシアにとって、この地域は海への入り口であり、どうしても押さえておかなければならない場所だと中田は説明する。

中田はこの講義を「民族」ではなく「土地」を軸に語ると宣言する。この土地はさまざまな民族や国家に占領され、奪われてきたため、一つの統一された国家や民族の物語にはならないからだ。日本は基本的に日本民族という枠組みでやってきたが、ウクライナでは何度も別の国になり、民族も混ざったり分かれたりを繰り返してきた。日本人にはそこが理解しにくい、というのが中田の見立てである。そこで講義では、黒海北部というエリアにどのような人々が現れたのかを順に見ていく。

3:47

スキタイ人と「撤退焦土作戦」

古代の話として最初に登場するのは、ギリシャの歴史家ヘロドトスが『歴史』に記したスキタイ人である。紀元前7世紀ごろから数百年間、この地にいたとされる。中田は余談として、『寄生獣』の作者・岩明均の漫画『ヒストリエ』がヘロドトスの『歴史』をもとにしており、主人公がスキタイ人の末裔という設定であることを紹介する。また、中国の司馬遷が『史記』に記した異民族「匈奴」と、ヘロドトスの書くスキタイ人は、おそらく同じ民族を指しているだろうと参考書には書かれている、とも述べる。

中田によれば、スキタイ人は移動式の家を持つ遊牧民族であると同時に、非常に激しい戦闘民族だった。殺した相手の顔の皮を剥いでコレクションし、ぶら下げていたという。大きな墓、古墳のようなものを築き、遺体とともに埋葬された副葬品はきわめて芸術的で、豪華な暮らしをしていたことがうかがえる。

中田が特に重視するのは、スキタイ人の戦い方である。追われると撤退し、撤退しながら町などを破壊する。追ってきた相手は奪えるものが何もない土地を進むことになり、疲弊したところをスキタイ人が叩く。中田はこれを「撤退焦土作戦」と呼び、この時点でウクライナという土地の個性がすでに表れていると語る。

中田は、ウクライナがこの作戦の大きな舞台に歴史上2度なったと述べる。ナポレオンとヒトラーのときである。ナポレオンがロシアに攻め込んだとき、ロシアは町を破壊しながら逃げ、冬将軍がナポレオン軍を襲ったところで反撃した。ヒトラーに対しても同じことをし、フランスとナチス・ドイツを撤退させた。その舞台になったのがウクライナだ、と中田は言う。スキタイ人の時代の焦土は規模が小さかったが、近代の焦土作戦では町全体が破壊される。スキタイ人の存在は、この土地のその後の悲劇を予感させる、というのが中田の解釈である。

その後スキタイ人は、勝利を重ねて豪華な暮らしをするうちに戦闘民族として弱体化したとされる。そして、見せびらかすことをしない質素な別の遊牧民に取って代わられたらしい。ただしその遊牧民は質素すぎて、記録も埋葬品もほとんど残っておらず、存在感が薄いのだという。

8:54

遊牧民の時代の終わりとスラブ人の拡大

遊牧民の時代の次に来たのは、農耕民族の時代である。農耕によってウクライナの土地に一気に広がったのがスラブ民族で、のちのロシア、ベラルーシ、ウクライナの民族のルーツになったと中田は説明する。

中田によれば、スラブ民族の拡大は不思議なものとされている。戦闘民族同士が争えば殺し合いになり、勢力争いの痕跡が残る。ところがスラブ民族は、歴史上の区切りが分からないまま一気に広がった。殺し合うより農耕をした方がお互い豊かになれる、という形でふわっと広がっていったらしい、というのが中田の紹介する説明である。

9:55

キエフ・ルーシ大公国:両国が共有する起源

このスラブ民族と、スウェーデンやノルウェーなど北欧から来た「ルーシ」と呼ばれる人々がつくったのがキエフ・ルーシ大公国である。ここでようやく大きな国が登場する。中田の説明では、「キエフ」はスラブ系の有力者だった兄弟の長男の名前に由来し、それにルーシが加わって「キエフ・ルーシ」となった。

「大公国」という呼び名についても中田は解説する。公国は一般に、王国より一段低い、王子や貴族がつくった国を指す。ではキエフ・ルーシの上に王国があったのかというと、そうではない。この地域の言葉で王を意味する語を王子たちが多用しすぎたために、のちに誤用されて公国扱いになっただけで、実質的なステージは王国だった。だから特殊な国として「大公国」と呼ばれているらしい、と中田は語る。

中田は、このキエフ・ルーシ大公国こそがロシアとウクライナの不和の中心にあると言う。中世ヨーロッパで最盛期には最大の版図を誇った、伝統と栄光の王国であり、ロシアもウクライナもルーツをここに求める。それ以前の遊牧民はそもそも別の民族なので、スラブ系の自分たちの国の起源としてはキエフ・ルーシにさかのぼることになる。

そして、その首都キエフは現在のウクライナの首都でもある。スラブ系の人々にとって憧れの国の首都が、今はウクライナにある。当時キエフ・ルーシには多くの公国が含まれていて、その一つがモスクワ公国だった。キエフ・ルーシが分裂していく中で、モスクワは一支店にすぎなかったが、のちに地位が爆発的に高まり、中心になっていく。

京都と東京のたとえ

この関係を日本人に分かりやすく伝えるため、中田は「不適切だったら申し訳ない」と断ったうえで、京都と東京にたとえる。日本史のルーツはほとんど京都で始まっており、関東はむしろ端の方だった。しかし江戸時代以降、首都は江戸、そして東京になり、今では東京が日本の主役のような顔をしている。それでも京都の人からすれば「日本といえば京都でしょう」となるし、東京の人も原点としての京都に憧れを持っている。キエフを持っているのがウクライナで、のちにメインになったのがモスクワ、という関係だと中田は言う。

京都も東京も同じ日本だから、どちらの文化も日本のものだと言える。しかし、もし京都と東京で国が分かれたらどうなるか。ルーツはどちらのものなのか、という問いは非常に難しくなる。ウクライナの人はキエフはウクライナのものだと思っているが、ロシアの人はその気持ちが分からず、キエフはロシアだと思っている。中田は、ここからすでに認識がずれていくのだと説明する。

14:47

正教の受容と西ヨーロッパとの距離

農耕によって人口が増え、キエフ・ルーシ大公国の統治が難しくなる中で、ロシアとウクライナの運命を決める出来事が起きた。中田によれば、それがキリスト教の国教化である。

キリスト教はカトリックやのちのプロテスタントなど宗派に分かれていくが、キエフ・ルーシが採用したのはギリシャ正教で、これがのちにロシア正教になっていく。黒海から出るとまずイスタンブールという大都市があり、そこを経てギリシャへ向かうのが外へ出る基本ルートだった。東ローマ帝国を引き継ぐビザンツ帝国もギリシャも正教の文化圏だったため、キエフ・ルーシもそれを受け入れた、と中田は説明する。

中田は、この選択がのちの運命を左右したと見る。正教はローマ・カトリックとは文化の流れが違うため、ヨーロッパとロシアは水と油のように混ざりにくい。ロシアはヨーロッパの一員になりたいのに、西ヨーロッパはロシアを同じものとして捉えない。中田はここで、トルコがEUに入りたいと望みながら加盟が難航している例を挙げ、その大きな理由の一つが宗教だと述べる。カトリックやプロテスタントのヨーロッパと、イスラム教や正教の文化は違う。これが歴史の大きな分かれ目だったのではないかと参考書には書かれている、と中田は紹介する。

17:17

後継者争い、モンゴル支配、そして分割統治

キエフ・ルーシ大公国はやがて衰退する。中田によれば、原因は王位継承のルールが曖昧だったことにある。兄弟で継ぐのか、親子で継ぐのかがはっきりせず、後継者争いのたびに公国が細かく分かれていった。キエフの力は小さくなり、他の公国の力が大きくなって争いが起き、弱体化したところをモンゴルが制圧した。

ただし中田は、モンゴルがすべての文化を破壊したわけではない点を強調する。モンゴルは合理的で、お金を納めて「モンゴルが親会社だ」と認めれば文化には手を出さなかった。反抗すれば全員始末するが、そうでなければ文化は壊さない。むしろモンゴルの統治下で、この地のキリスト教文化は完成したらしい、と中田は語る。

モンゴルの勢いが衰えると、分割の時代に入る。中田は、ウクライナがキエフ・ルーシまでさかのぼりたがる理由をここに見る。その後のウクライナはずっとどこかの国に分割されて支配されており、まるごと一つの国家だった時間は短い。キエフ・ルーシの時代が、ウクライナが一つの国で、首都がキエフだった最も分かりやすい時期なのだという。

モンゴルの次に来たのが、ポーランドとリトアニアという二つの王国による分割統治である。中田は、同じ民族でありながら分かれている北朝鮮と韓国の例を挙げ、分割によって歴史が複雑になることを説明する。この時期には農業が定着し、豊かになる人が現れて、貴族と農奴に分かれる貧富の差が生じた。カトリックでヨーロッパ寄りのポーランドは正教を弾圧し、カトリックになれと文化を押し付けたが、リトアニアはそうではなかった。統治者によって宗教のあり方にも濃淡が生まれた、と中田は述べる。

20:08

「ウクライナ」という地名をめぐる対立

中田によれば、「ウクライナ」という地名が現れたのはこの分割統治の頃らしい。ルーシという名前ははるか昔の憧れの名前になり、代わってウクライナという地名が出てきた。そしてこの名前もまた、両国の不和のポイントになっていると中田は言う。

争点は語源である。ロシア語で調べると、語源は「辺境」、つまり田舎や外れの場所という意味になる。ロシアの人々はウクライナを辺境の意味だと言うが、ウクライナの人々には受け入れがたい。ウクライナの人々は、エリア、土地、国という意味だと主張する。言葉には複数の意味があるが、辺境の意味で取っているのはロシアの人々だ、と中田は説明する。

中田はさらに、「ウクライナ」が一般名詞として辺境を意味することがあるため、ウクライナの人々は英語で「the」などの冠詞をつけてほしくないのだと語る。大文字で始まるウクライナなら国名だが、「the Ukraine」と言うと辺境の意味になってしまう。そこが国民感情を逆なでするらしい、というのが中田の紹介である。こうした分割統治のもとで、モスクワ公国が力を強め、キエフの地位は低下していった。

22:29

コサックとフメリニツキー

この頃、ウクライナのアイデンティティとなるもう一つの存在が現れる。コサックである。コサックダンスはロシアの文化だと思われているが、調べればすぐ分かるようにコサックはウクライナのものだ、と中田は言う。ロシアのものだと思われているものが実はウクライナのものだというパターンは多く、それがウクライナの国民感情を刺激する。中田はこれを、川崎のものが横浜のものになっていたり、三重県のものが名古屋のものになっていたりする例にたとえ、近くの強い都市がすべての名誉を持っていってしまう現象だと説明する。

中田によれば、コサックとは本来、武装した集団のことである。ポーランドやリトアニアに虐げられていたウクライナの人々が、正教がカトリックに脅かされないように、自分たちの自治を訴えるために、そしてウクライナ人を保護するために武装した。中田はこれを鎌倉時代の武士のようなものだとたとえる。コサックは最初、ポーランドに雇われて戦争に駆り出されたり、登録制にされたりと、いいように扱われていたが、逆にポーランドと争うこともあった。自分たちがウクライナの人間であることを示そうとした存在だったため、キエフ・ルーシに次いでウクライナの人々が大事にしているのがコサックの文化なのだという。

コサックの中から現れた強力なリーダーがフメリニツキーである。中田によれば、フメリニツキーは、モンゴルの侵攻後にこの地に残ったモンゴル系の人々であるタタールと手を組み、共同作戦でポーランドと戦って一度勝利した。中田はこれを、貴族に対して武士が戦って勝つようなものだとたとえる。こうしてコサック国家ができ始めるが、ポーランドもタタールを買収して裏切らせ、巻き返しを図った。

大国ポーランドとの戦いでこのままでは国家を守れないと考えたフメリニツキーは、勢力を伸ばしていたモスクワに助けを求め、守ってもらう協定を結んだ。中田はこれが、ロシアとウクライナの関係をこじらせたもう一つのポイントだと言う。ウクライナの独立や民族を守ろうとした団体のリーダーが、モスクワに守られる立場を始めてしまったからだ。フメリニツキーはウクライナで英雄として崇められている一方、彼のせいでモスクワに取り込まれたと言う人もいる。中田はこれを非常に複雑な事件だと評する。

しかも、モスクワの当時のライバルは北欧のスウェーデンだった。モスクワはポーランドと戦っている場合ではないと考え、ポーランドと和平を結んで北欧と戦おうとした。フメリニツキーは、ポーランドと戦うためにモスクワに頭を下げたのに話が違うと思いながらも、状況を覆せないまま死去した。その後モスクワはさらに強大になり、コサックはモスクワの管理下に置かれていく。

28:05

ピョートル1世と「ルーシ」の名

それを決定づけたのがピョートル1世、のちのピョートル大帝である。中田によれば、ピョートル1世は中央集権化を進めてモスクワの政治と軍事のレベルを上げ、大北方戦争でスウェーデンを破った。これによって、ヨーロッパでの存在感は北欧よりロシアが大きいという関係が決まった。ピョートル1世は、ロシアを帝国にしていく最初の人物だったと中田は言う。

中田はピョートル1世を今回の戦争にも欠かせない人物と見る。プーチン大統領が部屋に飾っている肖像画がピョートル1世だからだ。それ以前の指導者は別の人物の肖像を飾っていたが、プーチンは権力を握ってからピョートル1世の絵を飾るようになった。つまり強い皇帝に憧れているのだ、と中田は解釈する。

さらに中田は、ピョートル1世が「ロシア」という名前をつくり、ウクライナから「ルーシ」を取ってしまったと語る。キエフ・ルーシと一体だったルーシの名は、ウクライナのアイデンティティだった。しかし当時のウクライナは、ポーランドに奪われ、モスクワに守られ、コサックのリーダーも死去して弱体化していた。そこでロシアは、ルーシの名とともに正統性を引き継いだ形になった。

ピョートル1世はさらに、ロシアを「大ロシア」、ウクライナのエリアを「小ロシア」と名付けた。スウェーデンを下して北欧に敵がいなくなったことで、ロシア帝国として名乗りを上げ、自らを「大ロシアおよび小ロシアの皇帝」とした。中田はこれをウクライナにとってさらに屈辱的なことだと表現する。

30:28

正統性をめぐる双方の論理

中田は、ここで両国の主張がはっきり分かれると整理する。ロシア側の論理では、キエフ・ルーシ大公国の正統な後継者はロシアである。ピョートル大帝のときにルーシの名を受け継ぎ、文化も引き継いでいる。一方のウクライナは一度断絶して消えている、というのが根拠だ。

ウクライナ側の論理は異なる。当時のモスクワは非スラブ系で構成された連合の中の一公国にすぎず、その後のロシア帝国やソ連はキエフ・ルーシの文化とまったく違うルーツを持つ。システムも違い、ルーツとしても亜流なので、正統な後継者ではない、という主張である。

中田は、国名そのものが火種になっていると指摘する。栄光のキエフ・ルーシの名を取ったのがロシアで、辺境を語源とされたのがウクライナ。それでもロシアにとってキエフは重要である。ルーツであり、黒海への入り口でもあるからだ。ピョートル大帝が憧れの対象になるのは、それ以前にはポーランドやリトアニアに分割され、さらに前はウクライナを中心とするキエフ・ルーシだった土地を、すべての敵を蹴散らして自分のものにしたからだと中田は言う。ウクライナの人々からすれば1000年以上このテーマで争っており、それを許せない。一方でロシアの人々はプーチンのそうした姿勢に理解を示している、と中田は前半を締めくくる。

33:51

8対2の分割、クリミア戦争、急速な工業化

後半は、ロシアとウクライナが強い上下関係になったことで生じた悲劇の連続を扱う。中田によれば、ピョートル大帝以降もロシア帝国がウクライナ全体を治めたわけではなく、ロシア帝国が治めたのは現在のウクライナの約8割で、残りの2割はオーストリア帝国が治めていた。かつてのポーランドとリトアニアによる分割と同じく、この8対2の分割がのちに大きな悲劇を生むと中田は予告する。

その後ロシアは壁にぶつかる。クリミア戦争である。黒海に突き出たクリミア半島は、押さえれば黒海を押さえられ、イスタンブールやギリシャへの海のラインにつながる要所だ。ロシア帝国はトルコに勝てると考えたが、トルコの後ろにはイギリスとフランスがついた。中田は、島国であるイギリスはヨーロッパを離れた位置からコントロールするのが巧みで、ドイツが強くなればフランスを応援し、フランスが強くなればドイツをけしかけて弱らせる、と説明する。今回はトルコを支援し、フランスも参戦して、ロシアは敗れた。

ピョートル大帝以来、東欧では無敵だと思っていたロシアは、この敗北でイギリスとフランスの科学技術の進歩に愕然とする。産業革命と工業化の時代が来ていたのに、ロシアはまだ貴族と農奴の世界だった。そこでロシアは鉄道を敷き、工場をつくって追いつくことを大きな目標にした。

中田は、これこそがロシアに大きな悲劇を生んだと語る。それまでロシアのパン倉庫と呼ばれる穀倉地帯だったウクライナにも工場が次々と建てられ、労働者としてロシアの人々が大量に流れ込んだ。急速な工業化は、劣悪な労働環境と、資本家と労働者の格差を生んだ。貴族と農奴の時代以上のスピードで、貧しい労働者と搾取する資本家への分化が進み、それがのちのロシア革命につながったと中田は説明する。

38:02

第一次世界大戦とロシア革命、独立の挫折

ロシアが革命と第一次世界大戦に巻き込まれたのは同じ時期だった。中田が注目するのは陣営である。第一次世界大戦では、クリミア戦争で戦ったイギリス・フランスとロシアが組み、ドイツとオーストリアが組んだ。つまりロシアとオーストリアが敵同士になった。ウクライナの8割はロシア、2割はオーストリアの支配下にあったため、自国の中で争い合い、戦場のど真ん中になってしまった。中田は、ヨーロッパとロシアのはざまにあることがウクライナのすべての悲劇を生んでおり、第一次世界大戦はそれが顕著に表れたものだと述べる。

戦争に国家がお金を使って揺らいでいるところで、労働者の不満が爆発し、ロシア革命が起きる。レーニン率いるボリシェヴィキが登場し、共産主義を掲げた。中田は共産主義を、自由な商売を続ければ金持ちと貧乏人に分かれて格差が広がるので、自由な商売をやめて国家主導で生産し、全員に平等に分配すればよい社会になるのではないか、という考え方だと説明し、マルクスの『資本論』がその背景にあると触れる。この革命でロシアの帝政は崩壊した。

同じ頃、ウクライナでもラーダというグループが現れる。ロシア帝国の崩壊に乗じて、ウクライナの民族的なナショナリズムが台頭し、ウクライナはウクライナだと独立できる可能性があった。しかしボリシェヴィキとラーダの戦いになる。ウクライナは重要地点なので失いたくない、独立は許さない、というのがボリシェヴィキ側の立場だった。ドイツも巻き込んだ血みどろの争いの末、最終的にはボリシェヴィキが勝った。

中田は、ウクライナが「今なら独立できるのでは」という場面で何度も阻まれてきたと強調する。コサックのときもそうだった。参考書の著者は、ウクライナ側にカリスマ的リーダーが不足していたこと、そしてロシア側には前回はピョートル大帝、今回はレーニンという圧倒的なリーダーがいたことを理由に挙げている、と中田は紹介する。

第一次世界大戦後には民族自決の流れがあり、ウクライナの8割は戦勝国側のロシアにあったのだから独立できそうに思える。だが他の東欧諸国が独立していく流れにも乗れず、ボリシェヴィキに押さえられて、ロシアの中の一地域のままだったらしい、と中田は語る。

42:55

スターリン時代:農業集団化と大飢饉

レーニンらがつくった国家がソビエト連邦である。連邦である以上、当初は抜けることもできるという雰囲気があったらしい。しかしレーニンの後を継いだスターリンがそれを阻み、ソ連を一つの国にまとめる中央集権体制を固めた。

中田によれば、スターリンは社会主義と工業化をさらに進める一方で、農業に過酷な政策を取った。それが農業集団化である。農民がそれぞれの土地を耕していた状態をやめさせ、全員が土地を捨てて国家の管理する集団農場で、監督のもとで働くようにした。嫌がって土地を離れたくない農民は処刑、拘束、逮捕された。その結果、農業は大混乱に陥り、大飢饉が起きた。

スターリンはシステムを混乱させただけでなく、ウクライナから大量の穀物をモスクワへ調達させた。作れないうえに奪われるという状況で、膨大な数の人が飢饉で亡くなった、と中田は語る。これがウクライナとソ連の関係にひびを入れ、ウクライナの人々にとってソ連時代は地獄のような爪痕になっているという。

中田は文化面の破壊にも触れる。ソ連の共産主義は宗教を認めないため、正教やキリスト教の流れも否定され、ソ連文化が浸透させられた。モンゴルは金さえ納めれば文化に手を出さなかった。ポーランドはカトリックを押し付けてきたが、コサックが守るなどしてまだなんとかなっていた。しかしソ連によって文化は徹底的に破壊された、というのが中田の対比である。

45:54

第二次世界大戦と独ソ戦

ソ連体制から大きなダメージを受けていたウクライナは、第二次世界大戦で再び戦場になる。ナチスがやってくると、当初ウクライナはスターリンが怖すぎたために、むしろナチスを歓迎したという。

ところがナチスが行ったのはユダヤ人の大虐殺だった。ウクライナには、他の地域で迫害を受けた人々が集まってきており、多くのユダヤ人が住んで混ざり合って暮らしていた。そこで大虐殺が行われた。一方のソ連は、スターリンのもとで焦土作戦を取り、工場や建物を潰した。飢饉でぼろぼろになっていたウクライナは、ナチスによる虐殺と、ソ連の焦土作戦による破壊の両方を受け、独ソ戦で甚大な被害を被った、と中田は説明する。その後スターリンが巻き返し、ナチス・ドイツが敗れて大戦は終わる。

中田は、戦後体制を話し合ったヤルタ会談の場所がクリミアだったことも運命的だと語る。ルーズベルト、チャーチル、スターリンが集まった場所が、まさにこの地域だった。第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、ソ連とナチスのはざまでも、ウクライナは常にど真ん中に置かれていたというのが中田の見方である。

48:08

冷戦、チェルノブイリ、そして巻き込まれての独立

戦後、ソ連はアメリカとの冷戦に入るが、無理な競争の中で社会主義の矛盾が浮き彫りになり、経済的な混乱に陥る。最後のバトンを受け取ったゴルバチョフは、ペレストロイカとグラスノスチを掲げ、情報を開示して社会主義の矛盾を明らかにし、改革しようとした。しかしそれは、隠していたことが次々と明らかになることでさらなる混乱を生んだ。

その流れの中で起きたのがチェルノブイリ原発事故である。中田によれば、チェルノブイリはキエフの北100キロにあるウクライナの街だ。そして恐ろしいのは、事故がグラスノスチが実際に行われる前に起きたことだと中田は言う。ソ連の隠蔽体質のため、原発が爆発したにもかかわらず2日間諸外国に報告されず、避難勧告も出されないまま大量の放射性物質がまき散らされた。

原発は爆発し、経済は崩れ、アメリカには勝てない。ゴルバチョフはもはや抑えきれず、ロシアのエリツィンらがゴルバチョフを倒して独立していく流れの中で、ウクライナも初めて独立する。中田は、ウクライナの独立によってソ連が解体したこと、つまりソ連解体の最後のピースがウクライナだったことを「くしくも」と表現する。

ただし中田は、この独立もまた、ロシアの独立に巻き込まれる形でロシア、ベラルーシ、ウクライナが独立したものであり、ウクライナには独立の英雄がまたしてもいないと指摘する。ずっと巻き込まれ続け、独立も巻き込まれての独立だった、というのが中田の見方である。

独立はしたものの、ウクライナが自力でやっていけるのかという中で、ロシアは虎視眈々と狙い続けていた。中田は、ロシアの言い分はずっと同じだと言う。あそこは小ロシアであり、辺境の地であり、我々が守り続けてきた海への出口である、という主張だ。独立後のロシアでは、エリツィンが経済を立て直せず、プーチンが登場した。プーチンは新興財閥を押さえ、原油高で経済を立て直し、中央集権化を進めて再び力を持ち、またウクライナへと歩みを進めた。それが現在だ、と中田は結ぶ。

スキタイから現在まで、すべてが一本の線につながる

最後に中田は、かなり端折ったところがあると認めたうえで、スキタイ人から語り始めた理由を説明する。すべてのルーツは歴史の中に埋め込まれている、ということを伝えたかったのだという。

あの頃から焦土作戦が行われていたこと。ルーシという名前があったこと。ポーランドとリトアニアに分割されていたこと。ウクライナという国名が「辺境の地」として始まったとされること。ローマ・カトリックではなくギリシャ正教を採用したこと。コサックがモスクワに保護を求めたこと。大ロシアと小ロシアという呼び名があったこと。ボリシェヴィキに勝てなかったこと。中田は、こうした歴史の一つ一つのポイントがロシアとウクライナの関係をこじらせにこじらせてきた結果として、現在の戦争があると語る。

第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも、ウクライナはその真ん中にあった。我々はどこに向かっていて、何を目撃しているのか。中田は、現在起きていることを理解するには歴史を理解することが大事であり、自分たちは世界史の中にいるのだと自覚してほしいと述べる。しっかり勉強して何が起きているのかを知ることは人類の使命だと考えている、と語って講義を終えている。