光を描いた反逆者たち:中田敦彦が語る印象派とゴッホの生涯
中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY「印象派」と聞くと身構える人は多い。中田敦彦はこの動画の冒頭で、その苦手意識は印象派が何なのかを知らないことから来ていると話す。中田によれば、印象派は権威的で堅苦しいものではない。当時のアート界に挑んだ若く活気のある挑戦者たちの運動だった。動画の前半では、印象派が生まれた背景と自主展覧会の経緯、モネとルノワールの対照的な歩みを追う。後半では、印象派の影響を受けた「ポスト印象派」のゴッホの37年の生涯をたどる。
それまでの絵画は何を描いていたのか
印象派が現れたのは19世紀、1800年代後半である。中田はモネ、ルノワール、セザンヌ、マネ、ドガ、ゴーギャンの名を挙げ、日本でも展覧会のたびに人気を集める画家たちが一つのムーブメントを作った時代だと位置づける。以前の動画で扱った15世紀イタリア・ルネサンスのダ・ヴィンチよりずっと後の話になる。
中田が印象派の第一の特徴として挙げるのは、テーマの新しさだ。印象派は自然と市民を描いた。今なら美術の時間に外へ出て街や木を描くのは普通だが、当時の美術は特別なものだったと中田は言う。画材が高く、お金がかかるので、取るに足らないものを描いている場合ではなかった。
それまでの絵画の中心はキリスト教の世界である。文字が読めない人にも神の世界を伝えるため、カトリックの布教に役立つ宗教画が描かれていた。中田によれば、ルネサンス以前の宗教画では、神聖さを保つために人間的な表情が避けられ、人物はのっぺりと同じ角度とポーズで描かれていた。そのため少し怖い印象を与える。そこに人間らしさを持ち込み、モナ・リザのように生きているかのような質感を描いたのがルネサンスだった。ただしダ・ヴィンチでさえ、描いたのはキリスト教の絵か、貴族から依頼された肖像画がすべてだったと中田は指摘する。
産業革命が生んだ余暇とチューブ絵の具
なぜ印象派の時代になって自然や市民の生活が生き生きと描かれるようになったのか。中田の答えは産業革命である。産業革命でヨーロッパに大きな豊かさがもたらされ、市民に暇な時間ができた。余暇を楽しむ市民の姿が描く対象になった。
技術の進歩は技法も変えた。中田が特に強調するのがチューブ絵の具の発明だ。それ以前は、顔料という色の塊を砕き、油や水で溶いてから塗っていた。この手間があるため、屋外では絵を描けなかった。チューブ絵の具ならパレットに乗せて外へ持ち出せる。画家は外に出て、自然を見たまま描けるようになった。中田は、ルノワールやモネの絵に光がきらきらと生き生きと描かれているのは外に出たからだと説明する。経済的な余裕と技術の進歩がもたらした絵画の革命だった、というのが中田の見立てである。
パリ万博と浮世絵:渋沢栄一とのつながり
中田がもう一つ面白い点として挙げるのが、この時期ヨーロッパに日本ブームが来ていたことだ。きっかけはパリ万博である。中田は以前のイギリス史の動画に触れ、国内や欧州規模の博覧会はそれまでもあったが、それを「万国」博覧会にしたのは、世界に見せつける余裕があるほどの財力と技術があったからだと話す。ロンドン万博の流れでパリ万博が開かれ、1867年、そこに日本が出展した。
1867年は、中田が日本史で覚えておくべき年号10個ほどのうちの一つに挙げる、大政奉還の年だ。江戸幕府が終わるこの年にパリ万博へ行った日本人として、中田は渋沢栄一を挙げる。尊王攘夷の志士だった渋沢は、ひょんなことから徳川慶喜の部下になった。すると慶喜が将軍になり、渋沢は万博の視察を命じられてパリへ渡った。帰国したときには幕府が滅びていた。渋沢はパリで見た株式会社の仕組みを日本に持ち込み、日本経済の発展につなげた。一方のヨーロッパは日本を面白がっていた。中田は、逆の側から見ると面白いと語る。
万博には江戸幕府や薩摩藩も出展し、浮世絵が出品された。写楽、北斎、歌麿らの江戸後期の浮世絵が新鮮に映った理由を、中田は次のように説明する。ダ・ヴィンチ以来、ヨーロッパでは遠近法が重視されてきた。ところが浮世絵は版画で、のっぺりしているのに色彩は鮮やかだ。描かれているのは江戸の町の普通の人々で、高いところから橋と人々を見下ろすような、ヨーロッパの文脈とまったく違う視点もあった。浮世絵とともにファッションも入ってきた。それが混ざり込んだのが印象派だ、と中田は言う。
サロンという既得権益への反旗
今でこそモネやルノワールの展覧会には行列ができる。しかし当時の彼らは若手であり、アート界の挑戦者だった。中田によれば、印象派は「自主展覧会」を起こしたグループで、それ自体が体制への反旗だった。
当時の美術界には「サロン」があった。そこに出品して大御所に認められ、入選すると、貴族のパトロンが紹介される。「我々のお墨付きの新人です」と推薦され、肖像画の依頼が来る。中田はこれを、貴族のお墨付きを背景にした強固な既得権益の構造として描く。印象派の画家たちは、大御所に認められないアートはアートではないのかと問いかけた集団だった。貴族の肖像画やキリスト教の絵ばかり描きたいわけではない。先輩に認められなくても、自分たちはこれが美しく、新しい時代を作ると信じている。だから自由に発表させてほしい。中田は彼らをそういう集団だったと説明する。
『印象・日の出』:悪口から生まれた名前
第1回の自主展覧会の主役は、モネの『印象・日の出』だった。印象派というムーブメントの名前はこの絵に由来する。中田が「印象派といえばモネ」と言うのはそのためだ。
中田の説明では、絵には港町の海がグレーにぼんやりと広がり、向こうにオレンジ色の朝日が上っている。輪郭を線でくっきり描くのではなく、油絵の筆のタッチを残して塗り重ね、光と水の揺らぎを表現している。今の私たちが見れば分かりやすい良い絵だが、当時の評論家は「よく分からない」「タイトルの通り印象でしかない」「こんなものは絵じゃない」と酷評した。つまり「印象派」はもともと悪口で、印象でしかないものを描いて喜んでいる連中、という意味の呼び名だったと中田は語る。評論家に酷評されたため、買い手も現れなかった。
第2回・第3回展:酷評の中で生まれた代表作
彼らは第2回を開く。モネが出したのは『ラ・ジャポネーズ』で、鮮やかな赤い着物を着た白人女性の絵だ。日本の文化を知ったうえで、ヨーロッパの雰囲気と組み合わせた作品で、中田は面白くて美しいと評する。
ルノワールは『陽光の中の裸婦』を出した。白い肌の女性が日の光を浴びてきらきらしている、いかにもルノワールらしい絵である。ところがこれも酷評された。ルノワールは光の感じを肌に映すため、肌色一色ではなくいろいろな色を混ぜ、ぼんやりと塗り足していた。引いて見ると美しいが、肌は均質な肌色ではっきり描くものだと教わってきた流派から見ると気持ち悪かったらしい。「緑や黄色が混じっていて、死体が腐っているみたいだ」とまで言われたという。
それでも第3回を開き、ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を描いた。広場でおしゃれな服を着た紳士淑女が踊る絵で、中田はこれを「THE 印象派」と呼ぶ。余暇、屋外、市民という要素がすべて詰まり、この第3回が印象派展の頂点で、最高傑作が出たと言われているという。それでも評価はなかなか上がらなかった。新しいものはすぐには認められず、認めたくない人も大勢いる、と中田は話す。
内紛と第8回までの展覧会
展覧会はその後、第8回まで続く。中田によれば、第4回あたりから仲間割れが始まった。第4回からルノワールが出なくなり、第5回あたりからモネも出なくなって、これは印象派なのかという状態になる。代わりにモネ・ルノワールとは別の一派のドガが自分のやり方で中心になったが、規模が小さくなり、第7回でドガが外された。サロンと戦っていたはずが内輪でもめていた、と中田は振り返る。第7回ではモネとルノワールが戻り、また印象派らしくなった。第8回は一区切りとして次の世代を入れるなどの試みがされた。1〜2年ごとに開かれるうちに、印象派は少しずつ浸透していった。
モネ:水と光、日本趣味、連作の集大成としての『睡蓮』
ここから中田は、日本でなじみの深いモネとルノワールの対照的な道のりを語る。
モネが光と掛け合わせたのは「水」だった。最初の『印象・日の出』から、モネは水に揺らぐ光が最も美しく、描くべきものだと考えていたと中田は言う。そこに日本趣味への傾倒が加わる。日本のデザインや文化は面白く、それをヨーロッパで描くから新しい、という発想だ。
モネが見出したもう一つの好みが「連作」である。同じ構図のモチーフを、時間をずらして何枚も描く。たとえば『積みわら』では、畑のわらの山を朝と夕方で描き、2枚並べて展示した。同じものでも光の当たり方だけでこれほど違うと示すことで、見る人の意識が光に向かう。さらにルーアン大聖堂を同じ角度から昼・夕方・夜の3枚で描き、色の移り変わりを表現した。
水と光、日本趣味、連作。そのすべてを一つの世界に収めようとしてモネが取り憑かれたのが『睡蓮』だった。中田によれば、モネは自腹で家と庭を買い、日本庭園を自分で作った。太鼓橋を架け、菖蒲などの日本の植物を植え、柳を垂らし、池に睡蓮を浮かべた。その庭で描いたのが『睡蓮』で、さらに連作として蓮の絵を描き続けた。
最後にモネは国家に壁画を残したいと考えた。第一次世界大戦が終わってフランスが落ち着いた頃、すでに地位を得ていたモネは首相と掛け合い、睡蓮の壁画を描かせてほしいと申し出る。それがオランジェリー美術館で、二つの大きな丸い部屋の壁を4つに区切り、すべてを睡蓮で埋めた。二部屋続きの最大の連作で、それを国家に寄贈した。中田はこれを、光と水と日本の庭園をヨーロッパで描いた古今東西の粋だと称え、モネが見つけたゴールだと語る。
ルノワール:女性と光、サロンでの成功、古典への回帰
ルノワールの歩みはまったく違う。第3回で傑作を描いた後、第4回に出なかった理由は、仲違いに加えて金に困っていたからだと中田は言う。サロンに認められれば貴族から仕事とスポンサーの資金が得られる。「金がすべてじゃない」と始めた自主展だったが、絵は売れなかった。
中田はルノワールを、印象派の中でも最も個性的な画家だと評する。モネらが自然を強調して描いたのに対し、ルノワールが美しいと考えたのは人だった。モネの「水と光」に対して、ルノワールは「女性と光」である。女性の肌に映る光がこの世で最も美しいと考えていた点が、モネとの決定的な違いだという。
裸婦を描き、次に優雅に踊る裕福な市民を描いたルノワールは、自分はサロン向けの絵も描けるのではないか、貴族の肖像画に向いているのではないかと気づく。実際に貴族が喜びそうなタッチの絵を描くと、サロンで評価された。中田は、反逆の印象派の中で唯一サロンに絶賛された男がルノワールだったと語る。
裕福になったルノワールは、モデルも選び放題で、生活のために描く必要もなくなった。好きなものを描くことにした彼は、モネが水と光を描き続けたように、自分の根源である裸婦に戻る。しかもそれまでの新しい技法から一転し、古典を研究して古典的な裸婦のタッチに回帰した。「これが印象派のルノワール?」と驚くような作風の変遷を経て、何種類もの裸婦を描いた。中田は、二人は全く違うものを追求したが、それぞれの原点は最初から現れていた、とまとめる。
逆輸入で認められた印象派
中田によれば、印象派は浮世絵と同じように「逆輸入」で認められた。フランス本国より先にアメリカで面白がられ、その評判を持って本国に戻り、人気が高まった。モネも晩年には高く評価されたが、最初は反逆児で、アメリカでの大評判を経て本国でも評価を得た。一方のルノワールは一足先に国内で絶賛されていた。中田はこの違いも面白いと話す。
ゴッホの魅力:短い生涯と、死後の評価との落差
そこに登場するのが、印象派の影響を受けた少し後の世代、「ポスト印象派」のゴッホである。中田は参考文献に従い、名前の表記をフィンセント・ファン・ゴッホとする。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは英語読みで、呼ぶなら「ファン・ゴッホ」がひとまとまりなのだという。
アートといえばピカソやダ・ヴィンチと並び称されるゴッホが、なぜこれほど魅力的なのか。中田はいくつかのポイントを挙げる。まず37年という短い人生。次に、生前と死後の評価の極端な落差だ。生前に評価されていたモネやルノワールと違い、ゴッホの絵は生前に数枚しか売れなかった。それが死後、『医師ガシェの肖像』は114億円、『ひまわり』は53億円で取引された。さらに耳を切った事件があり、生涯を閉じたのは自らの手だった。ダ・ヴィンチが「万能の天才」なら、ゴッホは「狂気の天才」と呼ばれる。中田は、そのイメージが本当なのかを詳しく見ていきたいと述べる。
二つの高額作品は、どちらも90年代にバブル経済の日本が落札した。中田は『医師ガシェの肖像』について、確かではないとしながら大昭和製紙の会長が落札したと言い、後に海外へ売られたと話す。『ひまわり』は今も損保ジャパンが所有し、日本で見られる。中田は、渋沢栄一や浮世絵、損保ジャパンの『ひまわり』まで、世界と日本は現実につながっているのだと強調する。
画商、伝道師、そして画家へ
ゴッホはオランダ南部の村に生まれた。父と祖父はともにプロテスタントの牧師だった。16歳で叔父の美術商会で働き始める。弟もこの美術商でずっと働くことになる。しかしゴッホは叔父とそりが合わず、ロンドン支社へ行かされた。その直前には、相手ははっきりしないが失恋もしていたらしい。失恋、家族との不和、異国への転勤、孤独で心を痛めたゴッホは、ロンドンで父と祖父の影響もあってキリスト教的な思想にのめり込んでいく。
中田はここでプロテスタントについて補足する。寄付を募り豪華な教会を建て、免罪符で天国行きを売るようなカトリックに抗議したのがプロテスタントで、質素倹約と聖書主義を掲げ、より清く正しくあろうとする流派だという。そうした信仰を持つゴッホにとって、価値が曖昧なアートに高値をつけて売る画商の仕事は耐えがたかった。中田は「誰々さんも絶賛しています、1000万はくだらないでしょう」といった商談を演じてみせ、ゴッホはそれに嫌気がさして反抗的になったと説明する。向いていないことが明らかになり、ゴッホは解雇された。
次に牧師を目指したが、試験が厳しく勉強も進まない。それでもやれることはあると、25歳でベルギーの貧しい炭鉱町へ行き、布教して回った。産業革命以降の厳しい環境で、リストラされた労働者や貧しい人が大勢いた。ゴッホは彼らに共感しすぎて私財をどんどん与え、自分も同じようにぼろぼろの格好になっていく。伝道師仲間からは、どちらが伝道師か分からない、キリスト教の威厳があるからやりすぎだと言われた。ゴッホは「それがキリストの教えでしょう」と譲らず、仲間から爪はじきにされた。
最後に残ったのが絵だった。アートに詳しく、絵がうまく、描くと喜ばれる。画家を志して習いに行くが、すぐにやめてしまう。貧しいまま、オランダのニューネンの実家に戻り、両親から小さなアトリエを与えられた。どうやって食べていくのかと叱られ、美術商で働く弟テオは「困ったら世話するけど大丈夫?」と気遣っていた。
この時期に描いた初期の代表作が『ジャガイモを食べる人々』である。食卓で農民がジャガイモを食べ、コーヒーを入れている無骨な絵だ。中田は、モネが最初から水と光を、ルノワールが最初から裸婦を描いていたように、何を表現したい人間なのかはデビュー作に現れる、と自身の考えを述べる。ゴッホの場合、それは貧しい農民の姿だった。兄を応援したいテオは、この絵を見て「今のトレンドとちょっと違う、暗すぎるかも」と言った。ゴッホは、部屋が暗かったから暗く描いた、自然の匂いのする、貧しい人の心が癒される絵を描きたいのだと答えたという。
パリでの衝撃:印象派と浮世絵
33歳でゴッホはパリへ行き、印象派と出会う。見たのは最後の印象派展となった第8回で、すでに新しい世代も印象派の手法で描くようになっており、ジャポニスムのブームも続いていた。オランダの田舎から来たゴッホは、光の絵画の新しい波に衝撃を受けた。
浮世絵にも驚いたゴッホは、取引をしていたテオに見せてもらい、模写した。それが『雨の大橋』で、歌川広重の絵を丸ごと写したものだ。中田によれば、遠くから見ると浮世絵だが、近くで見ると印象派風のタッチになっている。絵の外側の額縁部分には漢字まで一生懸命書き込まれている。
もう一つ中田が挙げるのが『タンギー爺さん』である。タンギー爺さんは貧しい画家を支援していた人物で、ゴッホは「まだ売れていないけど描かせてくれ」と、にっこり座る姿を描いた。背景には、テオやタンギー爺さんが扱っていた広重などの浮世絵がたくさん描かれている。中田は、パリの光と日本の浮世絵にゴッホがいかに衝撃を受けたかが分かる絵だと説明する。
アルルの黄色い家:光を得た「ハッピーな時期」
刺激を受けたゴッホは一つの理想に燃える。新しいアートを表現したい芸術家は大勢いる。気の合う仲間を集め、一つの場所に若い芸術家たちのサロンのような工房を作りたい。印象派のようなグループを自分たちも作りたい。テオは、多くはないけれど兄さんがそこまで言うならと資金を出し、南フランスのアルルに「黄色い家」を用意した。ゴッホは印象派展に来ていた人々にも声をかけ、仲間を集めようとした。
中田によれば、アルルに移ってからのゴッホは明るい。もともと自然が大好きなうえに光を覚え、祈るような無骨な絵に光が加わったことで、鮮やかで野性的なタッチが生まれた。この時期に『アルルの跳ね橋』が描かれ、黄色い家の中を黄色い花で埋めようと『ひまわり』も描かれた。
『夜のカフェテラス』もこの頃の作品だ。中田の説明では、当時フランスの町にはガス灯が普及し始めていた。夜でも安定して明るいガス灯は進歩と新時代の象徴で、ゴッホはそれに照らされたカフェテラスを描いた。夜の星も一つの光として描いた。『星降る夜』では、向こうに街とガス灯の明かりが並び、手前に男女の恋人が立ち、空に大きな星が描かれている。そこには大熊座が描かれているが、中田によれば実際にはその場所から大熊座は見えない。見えたら綺麗だろうと描いたのだという。中田はこの頃を「非常にハッピーな時期」と呼ぶ。
ゴーギャンとの衝突と耳の事件
ところが仲間は来なかった。唯一来たのがゴーギャンだったが、中田によれば、彼はテオの資金で場所がもらえるから来たのであり、ゴッホと特に気が合ったわけではない。ゴッホは「ついに仲間1人目が来る」と張り切ったが、二人はどうしても合わなかった。
中田は、ゴッホは曲げられない人だったと言い、これまでの経緯を振り返る。画商時代には絵をもっと安く売るべきだと主張し、伝道師時代には貧しい人と同じ格好をすべきだと譲らず、いずれも周囲と話が合わなかった。ゴーギャンとも絵の描き方をめぐって衝突し、思い詰めたゴッホはついにカミソリを振り回した。ゴーギャンにけがはなかったが、ゴッホは勢い余って自分の耳を切ってしまう。ゴーギャンは「もうこんなところにいたくない」と去った。
あれほど仲間を待っていたのに、また一人になった。ゴッホは血だらけの顔に包帯を巻き、自画像を描く。それが包帯を巻いた自画像である。病院に入った後、穏やかな田舎町アルルの人々は彼を白い目で見た。「カミソリを振り回して耳をちぎったらしい」「この町にふさわしくない」と言われ、居場所を失った。
サン=レミの病院からオーヴェールの最期へ
ゴッホはアルル近くのサン=レミの精神病院に、自ら入った。ここで描いたのが『星月夜』である。アルル時代の『星降る夜』がロマンティックな夢の町の星だったのに対し、『星月夜』は病院の窓から見た星で、夜空がうめき、自然が動いているような絵だと中田は対比する。昼には窓から見えるオリーブ園を描いたが、そこにも力強いうねりがある。たった一人で、祈るように創作に没頭していったと中田は語る。
やがて病院に居続けることに嫌気がさし、ゴッホは北フランスのオーヴェル=シュル=オワーズへ移る。宿の屋根裏の小さな部屋を借り、精神科医に相談しながら過ごした。その医師を描いたのが、後に114億円で取引される『医師ガシェの肖像』だ。しかしゴッホはガシェとも喧嘩し、仲違いしてしまう。
金色の畑が広がる田舎町の屋根裏で、ゴッホは移ってからの70日間、1日1枚以上のペースで描き続けた。中田は、ここに移ってから何かを考えたのかもしれないと推測する。そしてある日、宿の近くの畑で自分を撃った。頭ではなかったため死にきれず、行く場所もないまま宿に戻り、屋根裏のベッドに横たわった。異変に気づいた主人が駆け上がると血だらけで、医者が呼ばれ、ガシェも、テオも駆けつけたが、手遅れだった。
どうやって銃を手に入れ、なぜ死んだのかは分からないという。死の間際に描かれた『鴉の群れ飛ぶ麦畑』について、中田は、力強く鮮やかな金色の畑の上に青黒く暗い空が広がり、それまでの絵にはなかったカラスの群れが飛んでいると説明する。怖い闇と黄金の畑のコントラストを持つこの絵が、死を考えていたかもしれない数十日間の「毎日の1枚」として描かれたことに、中田はゴッホの壮絶さを見ている。
手紙が変えた「狂気の天才」像
中田は、ゴッホを語るうえで絵と並んで外せないのが手紙だと言う。ゴッホは弟テオが大好きで、膨大な手紙を書いた。それが後に公開され、研究者が読み込むと、ゴッホのイメージは大きく変わったという。
それまでゴッホは、短い人生の中で思い込みが激しく、病を抱えながら描いたからこそうねるような絵になった「狂気の天才」だと見られていた。しかし手紙には、次に描く絵の構図がきっちり書かれていた。なぜこのテーマなのか、たとえばこういうものにはエネルギーがあるから、糸杉が今自分の中でアツい、糸杉にはこういうものが含まれているはずだから描く、といった理由が記されている。スケッチを添え、ここの色はこうするという色の指定もあり、今は黄色の表現を研究したいといった関心も書かれている。一つ一つテーマを立て、設計図を描き、色を決め、それを報告しながら着実に制作していた。中田によれば、研究によって、ゴッホはアートを自分の中で着実に進化させていくタイプの芸術家だったことが分かった。
病院の記録を調べると、発作が起き幻聴が聞こえているときには一切絵を描かず、落ち着いているときだけ描いていたこともわかったという。そのため、ゴッホは描ける時間が短くなることをとても悔しがっていたらしい。手紙にはペンで描いた線のスケッチもあり、こんなに綺麗に描くのかという発見もある。手紙からは、ゴッホの短い人生と弟とのやり取りがよく分かると中田は話す。
残された問い:なぜ死んだのか
それでも、残された手紙をすべて読んでも、なぜ死んだのかだけは分からないという。何を抱えていたのかが分からないことが胸を締めつける、と中田は語る。光を追い求め、光に取り憑かれ、光を表現した印象派の画家たち。その象徴とも言えるゴッホについて、中田は「その光の代償である影は人一倍深かったのかもしれません」と結んでいる。
どうも中田敦彦です。早速行きましょう! エクストリーム偉人伝、印象派とゴッホ編! ひまわり! ありがとうございます! ゴッホといえば『ひまわり』ですよね。ゴッホを語る前に、印象派とゴッホ編ってしたのは、そことの流れも込みで面白かったからなんですよ。
印象派って言われると、皆さんどうですかって言われたら、「ちょっと……」ってなっちゃう人、多いと思うんですよ。それぐらい印象派っていう言葉、なんかアートっぽいなと。アートの中でよく聞くけど、なんかアートって苦手って思っちゃうのは、その印象派とかって言われると、よく分かんないってなるからだと思うんですよね。でも、それ一体何なのかっていうことが分かれば、印象派ってこうだよねと、理解さえすれば難しいことないんですよ。絵だから理解できるもんなんですよ。楽しむもんなんですよ。難しいもんなんかじゃないんですよ。
だからそれを今日はバーッと説明します。いかに楽しいか。めちゃくちゃ面白いですよ。もう時代の息吹を感じられますね、この印象派は。なんか堅苦しいと思ってる人? そんなことない。印象派ってのは、すごい新しくて活気のある奴らだったんですよ。それが面白いんですね。今回の参考文献こちら! 『印象派』、まさにですね。おしゃれですけどもね。
そんな中で、印象派っていつ頃の話なのっていうことなんですけど、19世紀、だから1800年代後半ですかね。印象派というのが現れまして、それがもう皆さん聞いたことのあるモネとか、ルノワールとかセザンヌ、マネ、ドガ、ゴーギャン。だからセザンヌとかルノワールとかモネなんて、何回展覧会やっても大人気なんですよ。日本人も大好きなんですよ。そういった人たちが一堂に会して、この印象派という1個のムーブメントを作り上げたという時代なんですね。ですから、15世紀とかのイタリア・ルネッサンスのダ・ヴィンチの話をしましたけども、それよりだいぶ後のお話でございますね。
じゃあ、どんな特徴があるの? 特徴があるんですよ。その時代を映してるんですね。時代の映し鏡です、アートは。まずはテーマが新しかった。どう新しかったの? 自然と市民を描いてた。それの何が新しいんですか? 今となっては、絵描いてくださいって言ったら何描いてもいいですし、学校で美術の時間って言ったら外出て、普通に街の絵描いたり、外の木描いたりするのって普通でしょ? でもこの頃の美術って、特別なもんなんですよ。なぜなら金かかるから。画材も高いし。しっかりしたものを描くっつったら、取るに足らないものなんて描いてる場合じゃないんですよね。
だからそれまでのアートってのは、言ったらキリスト教の世界ですよね。キリスト教の聖書の中の世界をこの現世の人に伝えるべく、カトリックの布教に役立つような、「すごいね! キリスト教! 神様ってこんななってんだ」っていうことを、言葉が分からない人、文字が読めない人にも伝えるべく絵を描いていた。キリスト教画ってのがあるわけですよね。そしてその中からでも、さらにちょっと人間味を帯びさせようとしたのが、ルネッサンスのダ・ヴィンチだったわけですよね。
それまではのっぺりしてたんですって。ルネッサンスって何がすごかったかっていうと、のっぺりして描かなきゃいけなかったんですって。なんでかっていうと、それで人間的な表情があったら神ではないと。神っぽさっていうのは、その神聖さっていうのは、ふざけてはいけないから、笑顔とか人間っぽい表情っていうの、おかしいでしょっていうのを、いやいや、そうじゃないでしょって。人間っぽさっていうのはまた魅力じゃないですか。何、のっぺりとして同じ角度で。だから、ルネッサンス以前の宗教画って、ぜひご覧いただきたいんですけども、のっぺりしててちょっと怖いんですよ。みんなポーズで、みんな同じ角度で、すごい怖いんですよ。それを『モナ・リザ』みたいに、まるで生きてるかのように、人間の質感を描いたルネッサンスということなんですよね。
人間らしさの再生ということでルネッサンスがあったんですが、やっぱりダ・ヴィンチ、レオナルド・ダ・ヴィンチでも描いているのは、キリスト教の絵か貴族から依頼された肖像画。それが全てだった。ところがこの時代は自然というものを生き生きとテーマに描くようになり、貴族ではない一般の市民の生活を描くようになった。なぜか? 余裕ができたんですよ、市民に。産業革命以降の世界なんですよ。産業革命によってヨーロッパには大きな豊かさがもたらされたわけですよ。それによって市民たちに余暇ができたんです。暇な時間ができて、そういう市民たちの生き生きとした風景が描かれた。そしてそれを描こうという流れが生まれてきたんですね。
この産業革命と技術進歩によって技法も変わりました。それらが相互に関わってくるんですよ。チューブ絵の具ができたんですよ。何がすごいのと。チューブ絵の具なんて、もう生まれた時から我々ありますよ。でもあれが発明だった時代があるわけですよ。それまでどうしてたの? 顔料という塊、色の塊を砕いて、油とか水で溶かして、それで塗るという、そういうめんどくさい時代ですよね。それだからこそ外で描けなかったの、絵が。皆さん、外でちょっと気持ちいいところで絵描きましょうってのは、パレットにチューブ絵の具を乗せれるからですよ。チューブ絵の具によって外に出れるようになったんですよ。だから自然を見たまま描けるようになった。
だからですよ。あんなに印象派のルノワールとかモネの絵ってのは、キラキラしてるイメージがあるでしょ。光がすごく生き生きと描かれてるのは、外に出たからなんです。それは経済的余裕と技術進歩によってもたらされた絵画の革命だったんですよ。価値観も変わりました。技術が変わりました。それによって絵の中にまばゆい光が入ってきたんですね。「こんなに世界は美しい」というルノワール、モネ、あります。
そしてさらに面白いのが、日本ブームがこの時ヨーロッパに到来してたんですよ! 日本ブームが? なんで急に? 実はこの時パリ万博が開かれたんです。万博というものの始まりも、まさに産業革命の賜物でしたよね。イギリスの歴史やった時に、「イギリスはこんなにすごいんだぞ!」ということを世界に知らしめるために、ヴィクトリア女王に「万博やりませんか!」と。それまでも小さい博覧会ってのは、ヨーロッパの中でとか国内でとか、好評を博してたんです。万国博覧会にしたのは、万国に見せつけても余裕あるぐらい財力と技術があるからなんですね。それを見せ始めた。そのロンドンの万博があって、その流れでパリ万博が開かれて、そこに日本が出展するんですよ!
時は1867年。1867年というのは、私が日本史の中で覚えておくべき年号10個ぐらいの中の1つなんですよ! 出ましたね、1867年。どういう語呂か! 「一夜や虚しき大政奉還」。そうなんです! 江戸幕府がまさに終わる年! ちょっと待って、つながってきましたよ。江戸幕府が終わる年にパリ万博に行った日本人、いますよね! 私、その授業したんですよ。その人こそが渋沢栄一だよ! 渋沢栄一がやってまいりました。
渋沢栄一って、元々は尊王攘夷の志士だったんだけれども、ひょんなことから徳川慶喜の方の部下になりまして。部下になります! なった後、いきなりその慶喜が将軍になるっていうね。それまで「討幕じゃ!」「尊王攘夷じゃ!」とか言ってたのに、将軍側にいつの間にかなってましたっていうね。「お前、その万博見てこい!」って言われて、万博行って、「すげえ! 世界はすげえ!」って言って帰ってきた時に、幕府が滅びてるって。こんな紆余曲折あるのということを話したんですけども、まさにここでつながるんですよ、世界と日本が。
渋沢栄一が、「すごいな、パリは! これを日本に持って帰らなきゃ!」。そこで見た株式会社というシステムを日本に持ち込んで、日本の経済がその後発展するんですが、ヨーロッパはヨーロッパで「日本面白い!」ってなってたんですって。逆側から見ると面白いですよね。このパリ万博、この江戸幕府も出展してたし、薩摩藩とかも出展してたよなんて話もしましたけれども、浮世絵が出たんだよ。浮世絵って江戸の後期の文化で、写楽とか北斎とか歌麿とか、ものすごい面白いわけですよ。
なんで面白かったかっていうと、それまでダ・ヴィンチの辺りから遠近法っていうものをすごい意識し出したでしょ。「遠近感が大事なんだぞ! 遠近法だ!」って言ってたのに、浮世絵って版画でのっぺりしてるんですよ。この歌舞伎の役者の大首絵っていうのも、全部のっぺりしてるわけ。だけど色彩は鮮やかなんですよ。なんだこれは? 色彩は鮮やかで、ちょっとのっぺりしてる。そしてここで描かれてる者たちっていうのは普通の人々なんですよね。江戸の町の人々なんですよ。面白いじゃないか、これは!
しかも描き方も、ちょっと高いところから見下ろした江戸の橋と人々とかって、よくあるじゃないですか。そういう、この位置からの視点で描くんだとか、全くヨーロッパの文脈と違うアートがここで入ってきて、ファッションもそこで入ってきて、「面白い!」ってなったわけなんですね。それが混ざっていたのが印象派なんですね。
この印象派ってのは、今でこそすごい人気のあるグループですよ。印象派って言ってあの時代ですよ。モネ、ルノワールなんつったら、みんな並びますよ、美術館。っていう、ちょっと権威的なものだと思ってるでしょ? そうじゃないんですよ。彼らは若手だったんですよ。アート界のチャレンジャーだったんですよ。この印象派というのは、自主展覧会を起こしたグループなんですね。この自主展覧会を起こすっていうことが、反旗を翻してる状態なんですよ。
なんでかというと、その頃は美術界が、サロンと言われる美術界隈ってのがありまして。そこの中で出品して、偉い人たちに「ああ、君たちいいね」って言われて入選したら、貴族たちのパトロンが来て、「なんかいい人たちいるんでしょ?」「彼が新人でね、我々のお墨付きの新人です。彼を使ってやってください」なんて言って、「じゃあ彼に1枚肖像画お願いしちゃおうかしら」。そういう世界なんですよ。もう貴族たちお墨付きのサロンがあって、その大御所たちが認めた若手、その若手にパトロンを紹介するという、1つの強固な既得権益ができてたんですね。
それに対して、「あの大御所たちに認められないアートはアートじゃないのか?」。こういう集団だったんですよ。「俺たちの描きたいもんがあんだよ。俺たちは貴族の肖像画ばっかり描きたいわけじゃないし、キリスト教の絵ばっかり描きたいわけじゃないし、なんせあの先輩たちに認められてなくたってさ、俺たちは信じてんだよ、これが美しいって。これが新しい時代を作るって信じてるから、それを自由に発表させてくれよ」っていう集団だったんです。
それで発表した第1回。そのモネの絵というのが『印象・日の出』という絵なんですね。もう印象派といえばモネなんですよ。なんでかっていうと、印象派というこのグループ、ムーブメントの名前の由来になったのが、このモネの絵だからなんです。『印象・日の出』というタイトルの絵が出ました。その絵は、この港町の海があって、それがちょっとグレー、ぼやっとしてるんですね。そして向こうにオレンジ色の朝日がポッと上ってる。そういう絵なんです。おぼろげな、「いい絵じゃないか」。我々にも分かりやすい感じで、いいねって我々は思いますよ。
でもこのぼやーっとした、言ったら、くっきりと輪郭を描いて線をたくさん描くようなものではなく、絵のタッチ、油絵のタッチをそのまま描くような。もう筆を濃く描いて、それを塗り重ねて、光と水の揺らぎを表現するようなその絵っていうのは、まさにこのモネのその後を決めていくんですけど。この『印象・日の出』、この第1回の主役ですよ。どう評価されたか。「なんかよく分かんねえな」って言われたんですよ。まさに「こんなものはタイトルの通り印象でしかない。こんなものは絵じゃない」って言われたんですって。
その評論家たちが見に来るわけですよね。「何やら新しい催しを始めたようですね。どれ、ちょっと見させていただきますね。『印象・日の出』? なんだこれは?」。こういうことですね。「ぼやけてる、なんかが。なんかぼやけてる。なぜこれを? 印象でしかない」。もう悪口だったんですよ。印象派っていうのは悪口なんです。印象でしかないものを描いて喜んでる奴ら、というグループだったんですよ。
「くそ、酷評か」と。買い手も現れないわけですよ。評論家に酷評されてるから。「なんか新しいグループが始めたらしいけど、なんかあんまりだったらしいね」とか、そういう評判立てられて、売れないと。「くっそ! どうすんだ!」「もう1回やるぞ」。またやるわけです、第2回。
そしたら今度は、モネが描いたのがまさに日本なんですよ。『ラ・ジャポネーズ』。これも面白い絵ですよ。鮮やかな赤い着物を着た白人女性の絵なんですよ。日本のカルチャーを知って、さらにそれとヨーロッパの雰囲気を足したんです。『ラ・ジャポネーズ』、面白いなと私は思います。美しいと思います。その上でルノワール来ましたよ、ルノワール! 『陽光の中の裸婦』。これは裸婦なんですよ。裸の女性なんですよ。だけど、いわゆるルノワールの美しい白い肌の女性が、キラキラと日の光を浴びている、そういう感じ。
これでどうだって我々思いますよ。綺麗じゃんって。ルノワールっていったらこれでしょうよ。モネの『ラ・ジャポネーズ』、面白いじゃん。どうよ! って思ったら、酷評されてしまうんですね。このルノワールの裸婦を描いてる感じの中に、要するに光の感じを肌に投影するために、肌の色もいろいろと、おぼろげな感じでファーッと塗り足していくわけじゃないですか。その中には肌色一色だけではなく、いろんな色混ぜてるわけですよね。それが引きで見ると、「美しい!」、我々は思うんです。
ところが、肌というのは均質に肌色でパキッと描くもんだというふうに教わってる流派からすると、なんかぼんやりしてる上でいろんな色混ざってる。これが気持ち悪いって思ったらしいんですよ。「何これ? 女性のこことここに、なんか緑混じってるよ。ここに黄色混じってんじゃん。こんなのさ、死体が腐ってるみたいなもんじゃない?」って、ものすごい悪口言われたんですって。そして買い手がなかなかつかない。「くそ! どうすんだ! でも俺たちの信じるもんがあるんだ!」。
第3回、開催しました。「まだ負けないぞ!」。ルノワールが『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』っていうのを描いたんです。これはもう、THE印象派。もうこの第3回印象派の展覧会は、この印象派展覧会の頂点を極めたと言われる、最高傑作が出たんじゃないか! これは、その町のムーラン・ド・ラ・ギャレット、広場のところで、おしゃれな服を着た紳士淑女が舞い踊っているというね。まさにこの余暇、外、市民、全てが詰まってる。この豊かなるヨーロッパ、産業革命以降の市民の、この外での光の渦の中を見よ! という、このムーラン・ド・ラ・ギャレット。むちゃくちゃいいんですけれども、ただ、やっぱり評価なかなか上がらんですね。
なぜだと。やっぱりどれだけ良くても、後世だんだん認められるっていうね。新しいものってなかなかすぐには認められないし、認めたくない人たちがいっぱいいるわけなんですよね。そんな中、その後4回、5回、6回、7回、8回まで行われるということがあるわけなんですね。ところがこの4、5、6、7、8、いろいろ、もうここら辺から喧嘩し出すんですね。「いや、お前がダメなんじゃん?」「いやいや、違う違う。お前のやり方が微妙に違うから」とか。不和が起こり始めて、4回目あたりからルノワールが出なくなっちゃうんですね。ルノワール出ない。5回目あたりからモネも出なくなっちゃって、「もうこれは印象派なのか?」っていう状態に1回なります。
その後、そのモネ、ルノワールと違う一派のドガの方が、「俺のやり方で行く!」みたいな感じになって、ドガ中心の方が行われるんですけど、それがちょっと規模が小さくなってしまったがために、7回目、ドガが外されるっていう。「サロンと戦ってたんじゃないの?」って言いながら、内輪でもうこんなになっちゃって。それで7回目で、このモネとルノワールが戻ってくるんですね。また印象派っぽいなというふうになったんですが、もうこれで一区切りだろうとなりまして、8回目はまた新しい次世代を入れてみるとか、そういうことをやってた。そうこうしてるうちに、これ1年ごととか2年ごとにやっておりますので、印象派ってのはだんだんと浸透していく。
そんな中でも、このモネとルノワールというのは、全く違う経緯を歩んでいくので、いろんな印象派いるんですけども、日本人、非常になじみの深い、この有名なトップ2、モネ、ルノワールの経緯をご説明したい。これ面白いですよ。モネというのは、『印象・日の出』で水と光。印象派の最も特徴的な光と、モネは何を掛け合わせたか? 水なんですよね。最初っから水なんですよ、モネってのは。「そうだ! 水に揺らぐあの光! あれが1番美しい。これだろ! 描くべきものは!」と考えたモネがいるわけですよ。
その上で日本趣味にもかなり傾倒しましたよね。『ラ・ジャポネーズ』、日本ってのは面白いねと。「こんな面白いデザインがあるだろうか? こんな面白い文化があるだろうか? これをヨーロッパで描くから新しいんだ」。そしてモネがもう1つ見いだした自分の中の好みっていうのが、連作ってやつなんですよ。これどういうことかというと、同じ角度、構図のモチーフの絵なんですが、何枚か時間軸をずらして描くんですよ。
例えば『積みわら』。わらが積んであるんですね。畑にわらが積んである牧歌的なところ。それが朝の風景と夕方の風景で、日の光の感じが違うでしょ? それを2枚並べて展示する。どうなるか? 余計、光に意識が行くでしょ。同じものだけど、光の当たり方だけでこんなに絵が違うんだということを、連作で。面白い試みですよ。それにはまって、今度はルーアン大聖堂という教会を描くんですよ。大聖堂を同じ角度から描くんですけど、今度は3枚! 昼があって、夕方があって、夜があるみたいなね。この色の移り変わり、また美しい。
このモネが、水と光、そして日本趣味、そして連作、この全てを集結させて取り憑かれていくのが『睡蓮』なんですね。モネといえば睡蓮、それぐらい有名なんですが、あの睡蓮、どうやって描いたと思います? ここが面白いんですよ。モネは、どうしても水、そして連作、日本趣味、この全てを1つの世界の中に収めようとした時に、彼は自腹で、元々売ってた家があるんですけど、そこの家を買って、庭も買って、そこを日本庭園として自分が作るんですよ。日本庭園を自分で作るんです。すごいでしょ?
日本庭園作って、太鼓橋と言われる特徴的なこういう橋。その日本の植物植えるんですよ。菖蒲の花とかね。ヨーロッパっぽくない、もうまさに柳が垂れてたりとか。日本庭園を作って、そこに睡蓮を浮かべて描いたのが、後の最高傑作『睡蓮』なんです。それはまさに日本趣味と水と光、その結集なんですよ。そしてさらにそれが連作になるっていうんだから、これはすごいですよ。蓮の絵を自分の庭で描きまくってたんですね。
そして最後はあれしかないっつって、「国家に壁画を残したい」って言って。その第一次世界大戦の頃なんですね。第一次世界大戦が終わって、フランスが落ち着いたという時に、首相と掛け合うんですよ。すごいですよ! もうこの時はモネ、偉くなってますからね。首相と掛け合って、「睡蓮の絵を描かしてほしい」「壁画を描かしてほしい」と言って。オランジェリー美術館ですね。二間、大きい部屋、4つの丸い壁。丸い部屋があって、それを4つに区切って、全部を睡蓮で埋めるんですよ。それを2つながり、2部屋。連作! 最大連作ですよ。水と光と日本趣味の最大連作ですから。それを国家に寄贈するという、もうとんでもないゴールを見つけたのが、このモネなんですね。
すごいですよ。このオランジェリー美術館の壁画なんつったら、光と水と、その日本の庭園をヨーロッパで描いたという、もうこの古今東西の粋みたいなね。人類の叡智みたいなね。自然の美しさ。これ、ぜひチェックしていただきたいなと思います。
じゃあ、ルノワールどうだったか? 全然違うんですよ。印象派のど真ん中といえばモネ、言いました。印象派という名前も『印象・日の出』から来てる。それぐらいモネといえば印象派、印象派といえばモネ。ルノワールどうなったか? ルノワールは第3回ですごいの作って、第4回出ないでしょ。なぜ出なかったか? 1つには仲違いがあったというのは言ったんですが、もう1つが、金に困ってたんですよね。金がない。何人かは、もうこの第3回で金が続かない。だってさ、サロンに認められたら貴族から仕事がもらえて、スポンサーからお金がもらえるわけじゃないですか。「あの野郎」と、「金が全てじゃない」っつって、「俺たちの現実がある」っつって、これ始めたんですけど、売れないわけですよ。「クソ! 金がない! どうしよう!」。
ルノワールは、しかしこの印象派の画家たちの中でも、最も個性的な人だというふうにも言える。なぜかというと、モネとかそれ以外の人たちは、より自然を強調して描いてたんですが、ルノワールが美しいのは人ですよね。そうなんですよ。彼はモネの水と光ではなく、ルノワールの個性は女性と光なんですよ。女性の肌に映る光がこの世で最も美しい。これがモネと全く違うところなんですね。そしてまずは裸婦を描いたわけですよね。そしてその次に、踊る裕福な市民たちを描いたわけですよ、優雅な。
「あれ?」と。「これ、サロン用の絵、描けるんじゃない?」。こうなってくるわけですね。「貴族たちの肖像画、向いてるんじゃない?」。こうなってくるわけですよ。描くんですよ、サロン用に絵を。貴族が喜びそうなタッチの、貴族の美しい絵を描くんですよ、ルノワールは。そこでなんと評価されてしまうんですね。「おーい! ルノワール!」「こっちもいいもんですよ」って言うわけですよ。反逆のあの印象派の中で、唯一サロンに絶賛された男。それがルノワールだったんですよ。
だから彼らがその後に印象派として、印象派っていうのは逆輸入で認められていくんですね。浮世絵に似てるんですけども、印象派ってのはヨーロッパのフランスの方というよりは、むしろアメリカに渡って、「おもしれー!」ってなって、その評判をもって逆輸入で本国でも人気が高まる。なので、じわじわ後年になっていって、だんだん認められてったという。だからモネも最後の方は評価がすごい高いわけなんですけども、最初は反逆児だった。逆輸入で、「すげえんだ! アメリカで大評判になってるらしいぜ!」ってなって戻ってきて、それで評価を得るのがモネなんですが、ルノワールは一足先に国内でもう絶賛されてるんですよ。すごいですよね。それはそれで面白いですよね。
この女性と光を描きました。そして特徴的な余暇の戯れを描きました。「じゃあサロンでも成功するじゃないか?」ということで貴族たちを描くようになって、裕福になっちゃうんですね。裕福になるんですよ。だからもうモデルも選び放題ですし、別に生活のために描かなくていいわけですから、「好きなもん描くか!」。どうなってったか? 彼はモネと同じように自分の根源に帰るんですよ。結局、モネは水と光を描き続けたし、ルノワールはずっと女性を描き続けるんですよ。原点、裸婦なんですよ。ずっと裸の女性を描くんですよ。
それも、それまで「新しい技法で描くぞ!」ってなってたこの印象派から全く逆に、サロンに行ったように、全く逆に古典に回帰して。古典の中でも裸婦がいろいろ描かれてるんですが、そういうタッチで、全然印象派とは違う。「これ印象派のルノワール?」ってみんなが驚くようなタッチの変遷を、古典研究して、もう何種類もの裸婦を描いていく。とにかく裸婦。面白いですね。全然違うものを追求するんですが、原点はもう現れていたということが、この2人の特徴なんですね。光、まばゆい光の中を駆け抜けましたね、モネ、ルノワール。
そんな中、ゴッホがやってくる。これが面白いんですよ。このゴッホという男、実は印象派の影響を受けた少し後の世代。印象派に影響を受けたポスト印象派という位置付けなんですね。ゴッホという1人の人間がどう生きたか? それが面白いから、ぜひ聞いてみてください。
ゴッホの出番でございます。ゴッホ、フィンセント・ファン・ゴッホっていうらしいんですね。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホってのは、英語読みらしいんですけどね。今はフィンセント・ファン・ゴッホで統一しようということで、本の中にはなっておりました。その上で「ファンゴッホ」って呼ぶらしいですよ。「フィンセント/ファン/ゴッホ」じゃないらしいんですって。「フィンセント/ファンゴッホ」なんですって。だからファンゴッホらしいんですよ。
ゴッホってのは、もうアートといえばゴッホ。ピカソとかダ・ヴィンチもいますけど、それと並び称されるぐらい、アートといえばゴッホでしょう! 皆さんの中にゴッホっていう名前は強烈に入ってると思う。それぐらいゴッホってのはすごいし、ゴッホって聞くと、なんかすごいよねという迫力がある。それなぜか? ゴッホというのがなぜこんなに魅力的なのかと言いますと、ポイントがあります。
まず37年という非常に短い人生。短いんですよ。37ですよ。それぐらい短い人生ですね。その上で、生前と死後のギャップがあまりにも激しい。なぜかというと、生前、ルノワールとかモネとか評価されてるわけじゃないですか。生前、数枚の絵しか売れなかったと。にもかかわらず、死後どうなった? ゴッホの『ひまわり』って何億円もしたよねってイメージあるよね。そうなんですよ。『医師ガシェの肖像』114億円、『ひまわり』53億円。何十億円? 100億円ですよ、1枚の絵が。死んだ後、評価が爆上がりしてこんなになっちゃってる。そんな人いる?
その上で耳を切ったっていう事件、有名ですよね。耳切る? その上で、なんとこの37年の短い生涯を閉じたのは、自らの手だったということなんですよ。この駆け抜けた暗い暗い人生を送った男が、死後なんと100億を超える金で取引されてる。このドラマチックなゴッホというのは、まさにレオナルド・ダ・ヴィンチが万能の天才という異名を持つのであれば、ゴッホは狂気の天才というふうに言われている。でもこの狂気の天才というイメージは、果たして本当なのかどうなのか? どういう人だったのか? もうちょっと詳しく見てみたいと思いませんか? それをこれからお話ししたいと思います。
しかもこれ面白いのが、この『医師ガシェの肖像』『ひまわり』、両方とも90年代、日本人が落札してるんですよ。落札したの日本なんですよ。90年代の日本がなんで落札したか? バブルだったんですね。バブル経済の日本が落札したっていうことで、我々日本人にも強烈に残ってるんですよ。「すげえ! こんな値段で? ゴッホすごい!」みたいなね。この『医師ガシェの肖像』というのは、大昭和製紙だったかな、の会長が落札したんですけども、海外にやっぱり売られました、それは。ところがこちら『ひまわり』、今も損保ジャパンが所有してるんですね。今も日本にあります。見れます。
リアルにつながってるんですよ。世界と渋沢栄一とか、損保ジャパンとか、『ひまわり』とか、つながってるんですよ。浮世絵とか、つながってる。それが面白いですよね。それが分からないと、「ゴッホ? 遠い昔の人かな?」。違う、違う。つながっているという話でございますね。
どんな人だったか? オランダ南部の村で生まれるんですね。父と祖父は共にプロテスタントの牧師さんなわけですね。そんな中、16歳、叔父の美術商会で働くと。叔父が美術を売る会社をやってるわけですよ。ゴッホ、弟がいるんですけど、弟もずっとこの美術商としてここで働くことになる。ところがゴッホはこの叔父とうまくそりが合わなかったんですね。そりが合わずに、ちょっとうまくいかずに、「ロンドンへ行け」と。ロンドン支社に行かされるんですね。
その直前に、ゴッホは誰だかはっきりしてないんですが、失恋もしてたらしくて。失恋、家族との不和、ロンドンへの転勤、孤独。ここでかなり心を痛めてしまってたらしいんですね。そのロンドンで、父と祖父の影響でしょうね、かなりキリスト教的思想に飲み込まれていくんですね。かなり入れ込んでいくんですね。「なんでこんな孤独なんだろう」と。家族ともうまくいかない、恋愛もうまくいかなかった。「俺、これからどうしよう?」。異国の地で、そういうことで非常に飲み込まれていく。
そんな中、キリスト教的な感覚に没頭していると、特にこのプロテスタントってのはカトリックよりもかなりシビアに、清く正しく生きようっていう流派でしたよね。カトリックっていうのが世界史上、いろいろと寄付を募ったり、豪華絢爛な教会を建てたり、そういうこと続けて、「この免罪符買えば天国行けるよ」なんて金で天国行きのチケットを売るとか、そういうことやってるのを見て、「ふざけんな!」、抗議したのがプロテスタントですね。プロテスタントってのは抗議っていう意味ですから。だからその代わり、質素倹約、聖書主義だということで。教会はそんな偉くない。聖書なんですね。これを原点、見るんですね。祈る。そういう流派ですから、より敬虔なんですよね、この時代特に。
そんな中、画商ってすごいビジネスですよ。だって値段とか価値があやふやなものを、お金つけて売るんですから。「このアーティストは素晴らしいですよ」「これどうなんですか?」「これはね、もう誰々さん、誰々さんも絶賛しておりまして、今もう人気が急騰しております。値段でいうと、大体1000万はくだらないでしょうね」「そんなにするんですか? すごいな」「人気ですから、もう今日でなくなってしまうかもしれません」「1枚ください」「ありがとうございます」。そういうことですよね。そういう商売なんですよ、画商ってのは。目利きして売る、目利きして売る。お金は、やっぱりアートですから、あってないようなもんです。それを高い値段で売る。それが仕事なんだ。
それに嫌気がさしてたらしいんですね。非常に反抗的になっちゃうらしいんですよ。そして元々叔父との不和がある中で、画商として働くことに向いてない。もう明らかになっちゃったところで、解雇されてしまうんですね。向いてなかった。それからどうしたかというと、キリスト教に没頭してますから、「聖職者になろう!」。牧師になろうとするんですけども、非常に厳しい試験がいっぱいあるんですって。いっぱい勉強しなきゃいけない! もう結構いい大人になってきた! どうする? 勉強進まない。いや、勉強して牧師にならなくても「やれることはある!」って言って。
25歳でベルギーの炭鉱町。貧しい町なんですよね。ものすごい労働者が肉体労働に勤しんでるんですけれども、結構リストラがあったりとか、産業革命以降ですから、いろいろ厳しいんです、労働者に。リストラがあったりとか、貧しい人がいっぱいいる中で、この人たちにキリストの教えを教えなきゃということで、布教して回るんですね。ところが、あまりにも貧しい人たちに共感しすぎて、自分の私財もどんどんあげちゃうんですよ。どんどん「これ食べなさい」「これどうぞ」って言って、その貧しい人たちと同じぐらいボロボロの格好になっていくんですね。
「これがキリストの教えですから」ってやるんですけど、他の伝道師仲間からは、ちょっとやりすぎだって言われてるわけですよ。「やりすぎだ。キリスト教の威厳とか伝統とかあるから、そんなボロボロの格好してたら、どっちが伝道師か分かんないぞ」「いや、どっちが伝道師か分からなくてもいいじゃないですか。これがキリスト教でしょ?」「いや、ちょっとやりすぎだと思うよ」。そういうことになるわけですよね。そんな中、「俺たちとはちょっと違うグループだ」。つまはじきにされて、ここでも伝道師として仲間に入れてもらえない。
どうしたもんかなってなってた時に、絵がうまい。アートには詳しい。絵うまい。喜ばれる。「画家になろう!」となるわけですね。「最後に残ったの、もう絵しかない! 俺は絵を描く!」。画家を志す。ちょっと習いに行って、「違うな……」、すぐやめてみたりとか、ボロボロの中、もう貧しいんですね、ずっと。ボロボロの中、実家戻るんですね。オランダのニューネンっていうところですね。その両親からちっちゃいアトリエを与えられて、そこで「絵でも描いたら。絵描きになるなら」と。でもいろいろと怒られるんですよ。「どうやって食ってくの? ずっと貧しいじゃん」みたいな。弟も美術商で働いてるから、「なんか困ったら世話するけども、大丈夫、兄さん?」みたいな、そういう感じなんですね。
そこで初期の代表作と言われるものを描く。それが『ジャガイモを食べる人々』っていうね。食卓で農民の人たちがジャガイモ食べてると。コーヒー入れてると。非常に無骨な絵なんですよ。でも、これをここも見ても分かると思いますけど、人間がどういうものを表現したいんだっていうのは、結構デビュー作に現れるっていうことが、僕は非常に面白いと思うんですよ。モネはもうすでに水と光を描いていたし、それはもう圧倒的に進化するんですよ。圧倒的に進化するんですが、ルノワールはもうすでに裸婦を描いてた。彼は貧しい農民がジャガイモを食べるというのを描いたんですね。面白いです。
それでテオに見せるんですね。テオは非常にこのゴッホ、フィンセントお兄さんのことを好きなので、なんとか応援したいって気持ちなんですけども、「今のトレンドとちょっと違うかもな」って言ってたんですね。「ちょっと暗すぎるかもね、兄さん」っていうこと言ってたんですって。「いや、でも暗かったから」って、こうなるわけですよ。部屋は暗かったから、暗いもの描いてたわけですよ。「でも描きたいのは、そういうすごい自然の匂いのするもの。そういう貧しい人が心癒される絵を描きたいんだ」っていうわけですよ。「こういうの良くないか?」「ちょっとトレンドとは違うんだよな」。そういうことになってた。
そんな中、ついに33歳でパリに行ってみるんですね。そこで印象派と出会う。彼が見に行ったのは、あの第8回、最後の印象派展だったんですよ。そこはもう印象派というものがだんだん普及してきて、新しい世代も印象派を描くようになっていた。まだジャポニズムのブームもあった。そんな中、パリという、オランダの田舎町から、「花の都パリですよ! なんかすごい印象派って新しいのが人気らしいぞ!」っつって。「見に行こう!」っつって行くんですよ。行ったら「なんだこれは!」。光の祭典ですよ! そう、光! 光の都で、光の絵画が新しいウェーブとして、「すごい! すごいぞ!」ってなって。それに衝撃を受けるんですね、このゴッホ。
そしてそのジャポニズムの浮世絵の文化も、ものすごいびっくりして、「浮世絵すごい!」っつって。そのテオにも相談して、「浮世絵を見せてくれ!」「あるぞ! 今人気だから取引してんだ」「それ見せてくれ!」。それを模写するんです。この『雨の大橋』っていうのを描くんですけど、それは歌川広重の絵を、まるまるゴッホがコピーして描いたって絵なんですね。面白いですよ。パッと遠くから見ると浮世絵なんですよ。「これが歌川広重だね」って思うんですが、近くで見ると印象派っぽいタッチなんですよ。その上で、周りに書いてある漢字、絵の外に書いてある額縁とかの漢字とかも書いてるから、そのゴッホが一生懸命漢字書いてる。これ非常に面白い作品。
そして有名なのは、この『タンギー爺さん』っていう作品なんですけども。タンギー爺さんっていうのは、この貧しい画家を支援してた爺さんですね。「タンギー爺さん、いつもありがとう。俺、まだ売れてねえけどさ、タンギー爺さん描かせてくれよ」っつって、タンギー爺さんを描くんですよ。にっこりして座ってる。このタンギー爺さんの裏に描かれてんのが、たくさんの浮世絵なんですよね。これも広重の浮世絵。だからテオとかタンギー爺さんが扱ってた浮世絵が、ここにいっぱい描かれてるって。これも面白い絵なんですね。いかに衝撃を得たか! 「面白い! パリ面白い! 光すごい! 浮世絵面白い! 日本すごい!」。こうなって描くわけですね。
それで1個の理想に燃えるんですよ、ゴッホは。「そうだ! 新しいアートってのはこんだけすごいし、新しいアートを表現したい芸術家いっぱいいるんだよ! じゃあ、そういう気の合う仲間を集めて、ひと所で工房、俺もサロンみたいな、こういう若い人たちのサロンを作りたいよ!」っていうふうになるわけですよ。「印象派みたいなグループ、俺たちも作りたい!」って言って。「テオ! 俺、作りたい!」って言ったら、「分かった、兄さん」って言って。テオは働いてるからお金持ってるんですね。「分かった、兄さん。俺もそんなに持ってるわけじゃないけど、兄さんがそんだけ言うんだったら、そういう人たちが集まれるアトリエ作ろう!」って言って。
南フランスのアルルというところで、パリから少し南ですよね。南フランス、アルルっていうところに黄色い家って建てるんですね。「ここだ! ここに気の合うアーティスト集めるんだよ!」って。印象派の展覧会に来てた人たちも声かけて、「僕やりますんで! こういう絵描いてるんですよ。一緒に集まりませんか!」って言って、集めようとするんですね。もうここに移ってからのゴッホは明るいんですよ。なんでかというと、もう自然が大好きでしょ。その上で光を覚えたんですよ。
なんとあの無骨なゴッホの、祈るような絵に光が加わったことで、ものすごい鮮やかな、そして野生的な、このゴッホのタッチが生まれる。あの『アルルの跳ね橋』は、まさにこの黄色い家に移って描くわけですね。「よし、これからアーティストが集まるぞ」って。
そして黄色い家の中を黄色い花で埋めようということで、そこで『ひまわり』を描いてたんですね。ひまわり描いて、このひまわりの絵で、この黄色い家を埋めて、アーティスト集めるんだ!
『夜のカフェテラス』ってのも非常に人気。これもこの頃描かれてる。この頃、このフランスの町にはガス灯というのが普及し出すんですよ。要するに夜でも安定して明るい。明かりが灯ってるっていうのは、この進歩と進化の象徴。その新時代の象徴であるガス灯に照らされた、鮮やかな夜のカフェテラスをゴッホは描くようになるんですね。
これは新しい時代なんだ! 新しい、みんなを集めるんだ! そして自然も大好き。灯! 俺なりの灯! 星だ! 夜の星も一つの光だ! 描くわけですよ。綺麗なんですね。
その『星降る夜』ってのはロマンティックですよ。パーっと向こうに街が描かれてるんですね。夜なんですよ。向こうにはガス灯の明かりがポッポッポと光ってる。そしてこちら側には恋人が二人立ってる。男女のカップルが立ってて、上にはいっぱい大きな星が描かれてて。その大きな星は、おおぐま座が描かれてるんですけども、本当はそこからおおぐま座見えないらしいんですよ。でもこっから見えたら綺麗だろうなって言って、そこにおおぐま座を描く。ロマンティックですよね。綺麗な星座描いて、恋人描いて、ガス灯並べてっていうのも描いてる。非常にハッピーな時期。
ところが! ところが! 来ないんですよ、仲間が! 孤独! もう全然来なくて。「なかなか来ないなあ」と。「あんなに集まってたじゃないか」と、みんな若手が。「なんで来ないんだよ!」。中で、一人だけ来たのがゴーギャンだったんですね。
このゴーギャンは、テオの資金で場所がもらえるよということで来たので、ゴッホとすごい気が合うってことではなかったんですよ。ゴーギャン来る! と。「ゴーギャンが来るぞー」「ついに仲間一人目が来ます!」って、一生懸命頑張ってたんですけど、ゴーギャンが来た後で、ゴーギャンとどうも気が合わないってなるわけですね。
このゴッホってのは、やっぱ曲げられないんですよ。だって今までもそうだったわけでしょ。画商? 「おかしいじゃないか? こんなん! 絵を! 絵をもっと安く売ったらいいんだ」「いや、アートってのは高く売るんだよ。高く売れるんだぞ、貴族には」「いや、でももっと安く売った方、こんなのずるいよ! こんな商売!」ってなってるし。「おい、伝道師なんだから、もうちょっとちゃんとした格好しろ」「伝道師だからこそ貧しい人たちと一緒の格好しなきゃダメでしょ」「お前、話合わねえな」。こうなってたわけですよね。
その上でゴーギャンとも話が合わないんですよ。ゴーギャンが「いや、こういうふうに描く絵がいいんだよ」「それは違うよ、ゴーギャン。それ違うんだよね」。ついに、やっぱ思い詰めちゃう人なんだよね、ゴッホは。ついにカミソリを振り回してしまうんですね。「ゴーギャン! お前は!」「おい、お前なんだ、お前? 急に!」と。カミソリ振り回して、結局ゴーギャンに怪我はなかったんですけど、もう勢い余って、自分の耳をそこで切ってしまうということなんですね。すごいですよ。
ゴーギャン的には「なんなんだ、お前。黄色い、何なんだよ。俺もうこんなとこいたくねえよ」って、そこでいなくなっちゃうんですよ。孤独ですね。こんなに仲間を待ってたのに、ゴーギャンいなくなったってなって。やることないから、もう血だらけの顔に包帯巻いて、自画像を描くんですよ。それがその包帯を巻いた自画像なんですね。もうあんな悲しいことあります?
血だらけだから一回病院入るんですけども、病院から出てきたゴッホは、周りの人も白い目で見るわけなんですよ。穏やかな田舎町ですよ。アルルの跳ね橋の町ですよ。「何するかと思ったら、カミソリ振り回して、なんか耳ちぎったらしいですよ! あいつ!」みたいな。「ちょっとうちの村にはふさわしくないじゃないですか?」ってみんなに言われるわけですね。それで「これ居場所ないな……」。居場所なくなって、南フランスのサンレミっていうとこあるんですけど、このアルルから近い場所の、これも精神病院なわけですね。そこにもう自ら入るわけですよ。
『星降る夜』って描いてるんですけど、こっち『星月夜』っていう、これも星の絵描くんですね。ところが、この星の絵は、あの夢見たフランスの町とまた違う星の絵なんですよ。それがあの病院の窓から見た星の絵ってやつなんですね。より絵に向かって没頭してくんですね。祈るように描いてくんですよ、星の絵を。だからこん時はなんとなくロマンティックな感じ。こっちは本当に夜空がうめくような、すごい『星月夜』なんですよ。なんか自然が動いてるぞ、夜の空が動いてるってこういう感じ。これもすごい名作。
この病院の中で、オリーブ園。窓から見える、今度は昼、オリーブ園描くんですよ。そしたらそのオリーブ園も、ものすごいうねりを、力強いんですね。もうたった一人、その創作に向かっていくんですね。没頭してくる、オリーブ園。
そんな中、病院にもだんだん飽きてくるわけですね。「ここにずっといてもなあ、ここにいたくない」と、こうなるわけですね。「北に行こう」って言って、北フランスに行くんですね。オーヴェル=シュル=オワーズという町の宿に行くんですね。宿がありまして、その上に屋根裏部屋、ちっちゃい部屋を借りるんですよ。「俺はもうここで過ごすから」って言って。
そこで、その精神科医の人とも上手く相談しつつ、その時の精神科医がこの医師ガシェなんですよ。だから晩年の、晩年というか、この間際の、最後の街での医師を描いたのが『医師ガシェの肖像』。これ114億円ですからね。医師ガシェを描いたんです。でも医師ガシェとも喧嘩しちゃうんですよ。相談してた医師ガシェとも喧嘩して、仲違いしちゃうんですね。
田舎町ですよ。金色の畑がバーっと広がる田舎町の、小さい宿の屋根裏部屋。そこで過ごしてるんですね。そしてそこで、ここに移ってから何かを考えたのかもしれないですね。ここに移ってから70日間、なんと一日に一枚以上のペースで描いてるんですよ。すごいペースです。もう毎日一枚ずつ描いていくんですよ、バーって。
そしてある日、この宿の近くの畑で、自分で自分を撃つんですよ。バーンって。撃って、死にきれなくて、どこを撃ったんでしょうね? 死にきれなくて、頭じゃないわけですよ、だから撃ったのは。バーンって撃って、うわあ、痛いんですけど死ねないわけですよ。グワーってなって、もう行く場所もないですから、そのまま宿に戻ったんですって! バーン撃って、「ああ、ああー、走れない」って、宿に戻るんですよ。
宿の主人が「おかえり。ん? おい、なんか体調悪いのかい?」。「うー」とか言って屋根裏戻るんですね。「おい! フィンセント!?」とか言って。「うー……」とか言って、そこのベッドに横たわるんです。ドーンって。「ああ、ハア、ハア……」ってなって。ハアハア言ってる? ご主人がバーっと上がっていって、「おい、フィンセント! フィンセント!」。ガーンって開けた。「お前、どう? 血だらけじゃねえか! お前!」「ハア、ハア……」「お前、銃で撃ったのか!? こんなバカなことしやがって。今すぐ医者呼んでやる!」って。医者呼んで、ガシェも来て、テオも呼んで、テオも来て。「兄さん! どうしたんだ?! おい!」。大パニックの中、「もうだめだ、手遅れです……」ってなって、ゴッホはそこで眠るという。なんという最後。
不思議なんですよ。「なんで死んだの?」と。どういうふうに銃を手に入れて、なぜ死んだのかというのは、わからないらしいんですね。わからない。でもその死の間際に描いたこの『鴉の群れ飛ぶ麦畑』ってのは、すごく目を惹く絵なんですよ。これもぜひ見ていただきたい。
金色の畑はもう鮮やかに金なんですね。ブワーって、すごい力強い金。でも空が青黒く暗いんです。そして今まで見たことないカラスたちが、向こうにブワーっと飛んでるんですね。すごい絵ですよ。なんだか怖い闇と黄金の畑が、もうすごいコントラストで。それを死ぬか死なないか考えてる中の何十日間、毎日の一枚として描いた。それは『鴉の群れ飛ぶ麦畑』という絵なんですね。壮絶なんですよ、ゴッホというのは。
ですが、ゴッホを語る上で外せないのが、絵、絵画作品だけじゃなくて、手紙なんですね! 実はゴッホ、むちゃくちゃ手紙書いてるんですよ。テオ大好きなんです、弟のテオが。弟のテオにむちゃくちゃ手紙書くんですね。それも公開されるんですよ、後に。これが面白いんですね。このメモを研究者が研究し始めるんですね。「だいぶイメージ変わったわ」と。
どういうことかというと、ゴッホっていうのは、ものすごい短い人生の中で、ものすごい思い込みが激しくて、いろいろ病を抱えながら絵を描いて、それゆえにうねるような絵だったんじゃないか? とか、狂気の天才だっていうふうに言われてたんですが、メモと手紙がすごいたくさん残ってるんですが、そこにはテオに「次はこういう絵を描こうと思う」っていう構図をきっちり描いてんですよ。
なぜこのテーマかというと、こういうものにはエネルギーがあるからだとか、「糸杉が今すごい俺の中で熱い」とか。「この糸杉にはこういうものが含まれてるはずなんだ。だから俺は描こうと思う」。スケッチを描いて、「ここの色はこうする、ここの色はこうする」っていう色指定もしてるんですよ。なぜこの色か? 「黄色には、今すごく黄色にはまってる」みたいな。「黄色はすごい好きなんだ。今、黄色の表現の研究がしたい」。だから一個一個自分の中のテーマを立てて、その設計図を描いて、色をちゃんと決めて、それを報告しながら着実に作ってたっていう。すごいきっちりとアートを自分の中で進化させてったタイプのアーティストだってことがわかったんですって。
そっから病院の人に調べても、すごい発作があって幻聴とかが聞こえてる時は、一切絵を描かないんですって。すごく落ち着いてる時にだけ絵を描いてた。だから絵を描く時間が短くなるっていうことが、非常に悔しいと言ってたらしいんですね。そのメモを見ると、だからもう本当に、このゴッホの短い人生と弟とのやり取りが非常にわかるんですね。いろんなものがわかります。
だからゴッホの、その絵のタッチしかないけど、そこにはペンとか線で描いてるタッチがあるから、「え!? こんな綺麗な感じで描くんだ!」とか。それも非常に面白いですよ。たくさんのことがわかります。どうですか? 印象派。そしてその印象派を受けたゴッホ。そのゴッホが表現したもの。なんでこうなってしまったんでしょうね。
この手紙、たくさん残ってる。全部公開されてる。それをすべて読んでも、結局なんで死んだかだけはわからないんですって。何を抱えてたのかわからないんですって。それがすごくなんだか胸を締めつけますよね。あれだけ光を追い求めて、光に取り憑かれて、光を表現した印象派の画家たち。そしてその象徴とも言えるゴッホ。その光の代償である影は、人一倍深かったのかもしれません。ではまた。
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