光を描いた反逆者たち:中田敦彦が語る印象派とゴッホの生涯

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概要

「印象派」と聞くと身構える人は多い。中田敦彦はこの動画の冒頭で、その苦手意識は印象派が何なのかを知らないことから来ていると話す。中田によれば、印象派は権威的で堅苦しいものではない。当時のアート界に挑んだ若く活気のある挑戦者たちの運動だった。動画の前半では、印象派が生まれた背景と自主展覧会の経緯、モネとルノワールの対照的な歩みを追う。後半では、印象派の影響を受けた「ポスト印象派」のゴッホの37年の生涯をたどる。

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それまでの絵画は何を描いていたのか

印象派が現れたのは19世紀、1800年代後半である。中田はモネ、ルノワール、セザンヌ、マネ、ドガ、ゴーギャンの名を挙げ、日本でも展覧会のたびに人気を集める画家たちが一つのムーブメントを作った時代だと位置づける。以前の動画で扱った15世紀イタリア・ルネサンスのダ・ヴィンチよりずっと後の話になる。

中田が印象派の第一の特徴として挙げるのは、テーマの新しさだ。印象派は自然と市民を描いた。今なら美術の時間に外へ出て街や木を描くのは普通だが、当時の美術は特別なものだったと中田は言う。画材が高く、お金がかかるので、取るに足らないものを描いている場合ではなかった。

それまでの絵画の中心はキリスト教の世界である。文字が読めない人にも神の世界を伝えるため、カトリックの布教に役立つ宗教画が描かれていた。中田によれば、ルネサンス以前の宗教画では、神聖さを保つために人間的な表情が避けられ、人物はのっぺりと同じ角度とポーズで描かれていた。そのため少し怖い印象を与える。そこに人間らしさを持ち込み、モナ・リザのように生きているかのような質感を描いたのがルネサンスだった。ただしダ・ヴィンチでさえ、描いたのはキリスト教の絵か、貴族から依頼された肖像画がすべてだったと中田は指摘する。

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産業革命が生んだ余暇とチューブ絵の具

なぜ印象派の時代になって自然や市民の生活が生き生きと描かれるようになったのか。中田の答えは産業革命である。産業革命でヨーロッパに大きな豊かさがもたらされ、市民に暇な時間ができた。余暇を楽しむ市民の姿が描く対象になった。

技術の進歩は技法も変えた。中田が特に強調するのがチューブ絵の具の発明だ。それ以前は、顔料という色の塊を砕き、油や水で溶いてから塗っていた。この手間があるため、屋外では絵を描けなかった。チューブ絵の具ならパレットに乗せて外へ持ち出せる。画家は外に出て、自然を見たまま描けるようになった。中田は、ルノワールやモネの絵に光がきらきらと生き生きと描かれているのは外に出たからだと説明する。経済的な余裕と技術の進歩がもたらした絵画の革命だった、というのが中田の見立てである。

6:40

パリ万博と浮世絵:渋沢栄一とのつながり

中田がもう一つ面白い点として挙げるのが、この時期ヨーロッパに日本ブームが来ていたことだ。きっかけはパリ万博である。中田は以前のイギリス史の動画に触れ、国内や欧州規模の博覧会はそれまでもあったが、それを「万国」博覧会にしたのは、世界に見せつける余裕があるほどの財力と技術があったからだと話す。ロンドン万博の流れでパリ万博が開かれ、1867年、そこに日本が出展した。

1867年は、中田が日本史で覚えておくべき年号10個ほどのうちの一つに挙げる、大政奉還の年だ。江戸幕府が終わるこの年にパリ万博へ行った日本人として、中田は渋沢栄一を挙げる。尊王攘夷の志士だった渋沢は、ひょんなことから徳川慶喜の部下になった。すると慶喜が将軍になり、渋沢は万博の視察を命じられてパリへ渡った。帰国したときには幕府が滅びていた。渋沢はパリで見た株式会社の仕組みを日本に持ち込み、日本経済の発展につなげた。一方のヨーロッパは日本を面白がっていた。中田は、逆の側から見ると面白いと語る。

万博には江戸幕府や薩摩藩も出展し、浮世絵が出品された。写楽、北斎、歌麿らの江戸後期の浮世絵が新鮮に映った理由を、中田は次のように説明する。ダ・ヴィンチ以来、ヨーロッパでは遠近法が重視されてきた。ところが浮世絵は版画で、のっぺりしているのに色彩は鮮やかだ。描かれているのは江戸の町の普通の人々で、高いところから橋と人々を見下ろすような、ヨーロッパの文脈とまったく違う視点もあった。浮世絵とともにファッションも入ってきた。それが混ざり込んだのが印象派だ、と中田は言う。

10:15

サロンという既得権益への反旗

今でこそモネやルノワールの展覧会には行列ができる。しかし当時の彼らは若手であり、アート界の挑戦者だった。中田によれば、印象派は「自主展覧会」を起こしたグループで、それ自体が体制への反旗だった。

当時の美術界には「サロン」があった。そこに出品して大御所に認められ、入選すると、貴族のパトロンが紹介される。「我々のお墨付きの新人です」と推薦され、肖像画の依頼が来る。中田はこれを、貴族のお墨付きを背景にした強固な既得権益の構造として描く。印象派の画家たちは、大御所に認められないアートはアートではないのかと問いかけた集団だった。貴族の肖像画やキリスト教の絵ばかり描きたいわけではない。先輩に認められなくても、自分たちはこれが美しく、新しい時代を作ると信じている。だから自由に発表させてほしい。中田は彼らをそういう集団だったと説明する。

12:09

『印象・日の出』:悪口から生まれた名前

第1回の自主展覧会の主役は、モネの『印象・日の出』だった。印象派というムーブメントの名前はこの絵に由来する。中田が「印象派といえばモネ」と言うのはそのためだ。

中田の説明では、絵には港町の海がグレーにぼんやりと広がり、向こうにオレンジ色の朝日が上っている。輪郭を線でくっきり描くのではなく、油絵の筆のタッチを残して塗り重ね、光と水の揺らぎを表現している。今の私たちが見れば分かりやすい良い絵だが、当時の評論家は「よく分からない」「タイトルの通り印象でしかない」「こんなものは絵じゃない」と酷評した。つまり「印象派」はもともと悪口で、印象でしかないものを描いて喜んでいる連中、という意味の呼び名だったと中田は語る。評論家に酷評されたため、買い手も現れなかった。

14:24

第2回・第3回展:酷評の中で生まれた代表作

彼らは第2回を開く。モネが出したのは『ラ・ジャポネーズ』で、鮮やかな赤い着物を着た白人女性の絵だ。日本の文化を知ったうえで、ヨーロッパの雰囲気と組み合わせた作品で、中田は面白くて美しいと評する。

ルノワールは『陽光の中の裸婦』を出した。白い肌の女性が日の光を浴びてきらきらしている、いかにもルノワールらしい絵である。ところがこれも酷評された。ルノワールは光の感じを肌に映すため、肌色一色ではなくいろいろな色を混ぜ、ぼんやりと塗り足していた。引いて見ると美しいが、肌は均質な肌色ではっきり描くものだと教わってきた流派から見ると気持ち悪かったらしい。「緑や黄色が混じっていて、死体が腐っているみたいだ」とまで言われたという。

それでも第3回を開き、ルノワールは『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を描いた。広場でおしゃれな服を着た紳士淑女が踊る絵で、中田はこれを「THE 印象派」と呼ぶ。余暇、屋外、市民という要素がすべて詰まり、この第3回が印象派展の頂点で、最高傑作が出たと言われているという。それでも評価はなかなか上がらなかった。新しいものはすぐには認められず、認めたくない人も大勢いる、と中田は話す。

内紛と第8回までの展覧会

展覧会はその後、第8回まで続く。中田によれば、第4回あたりから仲間割れが始まった。第4回からルノワールが出なくなり、第5回あたりからモネも出なくなって、これは印象派なのかという状態になる。代わりにモネ・ルノワールとは別の一派のドガが自分のやり方で中心になったが、規模が小さくなり、第7回でドガが外された。サロンと戦っていたはずが内輪でもめていた、と中田は振り返る。第7回ではモネとルノワールが戻り、また印象派らしくなった。第8回は一区切りとして次の世代を入れるなどの試みがされた。1〜2年ごとに開かれるうちに、印象派は少しずつ浸透していった。

18:58

モネ:水と光、日本趣味、連作の集大成としての『睡蓮』

ここから中田は、日本でなじみの深いモネとルノワールの対照的な道のりを語る。

モネが光と掛け合わせたのは「水」だった。最初の『印象・日の出』から、モネは水に揺らぐ光が最も美しく、描くべきものだと考えていたと中田は言う。そこに日本趣味への傾倒が加わる。日本のデザインや文化は面白く、それをヨーロッパで描くから新しい、という発想だ。

モネが見出したもう一つの好みが「連作」である。同じ構図のモチーフを、時間をずらして何枚も描く。たとえば『積みわら』では、畑のわらの山を朝と夕方で描き、2枚並べて展示した。同じものでも光の当たり方だけでこれほど違うと示すことで、見る人の意識が光に向かう。さらにルーアン大聖堂を同じ角度から昼・夕方・夜の3枚で描き、色の移り変わりを表現した。

水と光、日本趣味、連作。そのすべてを一つの世界に収めようとしてモネが取り憑かれたのが『睡蓮』だった。中田によれば、モネは自腹で家と庭を買い、日本庭園を自分で作った。太鼓橋を架け、菖蒲などの日本の植物を植え、柳を垂らし、池に睡蓮を浮かべた。その庭で描いたのが『睡蓮』で、さらに連作として蓮の絵を描き続けた。

最後にモネは国家に壁画を残したいと考えた。第一次世界大戦が終わってフランスが落ち着いた頃、すでに地位を得ていたモネは首相と掛け合い、睡蓮の壁画を描かせてほしいと申し出る。それがオランジェリー美術館で、二つの大きな丸い部屋の壁を4つに区切り、すべてを睡蓮で埋めた。二部屋続きの最大の連作で、それを国家に寄贈した。中田はこれを、光と水と日本の庭園をヨーロッパで描いた古今東西の粋だと称え、モネが見つけたゴールだと語る。

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ルノワール:女性と光、サロンでの成功、古典への回帰

ルノワールの歩みはまったく違う。第3回で傑作を描いた後、第4回に出なかった理由は、仲違いに加えて金に困っていたからだと中田は言う。サロンに認められれば貴族から仕事とスポンサーの資金が得られる。「金がすべてじゃない」と始めた自主展だったが、絵は売れなかった。

中田はルノワールを、印象派の中でも最も個性的な画家だと評する。モネらが自然を強調して描いたのに対し、ルノワールが美しいと考えたのは人だった。モネの「水と光」に対して、ルノワールは「女性と光」である。女性の肌に映る光がこの世で最も美しいと考えていた点が、モネとの決定的な違いだという。

裸婦を描き、次に優雅に踊る裕福な市民を描いたルノワールは、自分はサロン向けの絵も描けるのではないか、貴族の肖像画に向いているのではないかと気づく。実際に貴族が喜びそうなタッチの絵を描くと、サロンで評価された。中田は、反逆の印象派の中で唯一サロンに絶賛された男がルノワールだったと語る。

裕福になったルノワールは、モデルも選び放題で、生活のために描く必要もなくなった。好きなものを描くことにした彼は、モネが水と光を描き続けたように、自分の根源である裸婦に戻る。しかもそれまでの新しい技法から一転し、古典を研究して古典的な裸婦のタッチに回帰した。「これが印象派のルノワール?」と驚くような作風の変遷を経て、何種類もの裸婦を描いた。中田は、二人は全く違うものを追求したが、それぞれの原点は最初から現れていた、とまとめる。

逆輸入で認められた印象派

中田によれば、印象派は浮世絵と同じように「逆輸入」で認められた。フランス本国より先にアメリカで面白がられ、その評判を持って本国に戻り、人気が高まった。モネも晩年には高く評価されたが、最初は反逆児で、アメリカでの大評判を経て本国でも評価を得た。一方のルノワールは一足先に国内で絶賛されていた。中田はこの違いも面白いと話す。

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ゴッホの魅力:短い生涯と、死後の評価との落差

そこに登場するのが、印象派の影響を受けた少し後の世代、「ポスト印象派」のゴッホである。中田は参考文献に従い、名前の表記をフィンセント・ファン・ゴッホとする。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは英語読みで、呼ぶなら「ファン・ゴッホ」がひとまとまりなのだという。

アートといえばピカソやダ・ヴィンチと並び称されるゴッホが、なぜこれほど魅力的なのか。中田はいくつかのポイントを挙げる。まず37年という短い人生。次に、生前と死後の評価の極端な落差だ。生前に評価されていたモネやルノワールと違い、ゴッホの絵は生前に数枚しか売れなかった。それが死後、『医師ガシェの肖像』は114億円、『ひまわり』は53億円で取引された。さらに耳を切った事件があり、生涯を閉じたのは自らの手だった。ダ・ヴィンチが「万能の天才」なら、ゴッホは「狂気の天才」と呼ばれる。中田は、そのイメージが本当なのかを詳しく見ていきたいと述べる。

二つの高額作品は、どちらも90年代にバブル経済の日本が落札した。中田は『医師ガシェの肖像』について、確かではないとしながら大昭和製紙の会長が落札したと言い、後に海外へ売られたと話す。『ひまわり』は今も損保ジャパンが所有し、日本で見られる。中田は、渋沢栄一や浮世絵、損保ジャパンの『ひまわり』まで、世界と日本は現実につながっているのだと強調する。

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画商、伝道師、そして画家へ

ゴッホはオランダ南部の村に生まれた。父と祖父はともにプロテスタントの牧師だった。16歳で叔父の美術商会で働き始める。弟もこの美術商でずっと働くことになる。しかしゴッホは叔父とそりが合わず、ロンドン支社へ行かされた。その直前には、相手ははっきりしないが失恋もしていたらしい。失恋、家族との不和、異国への転勤、孤独で心を痛めたゴッホは、ロンドンで父と祖父の影響もあってキリスト教的な思想にのめり込んでいく。

中田はここでプロテスタントについて補足する。寄付を募り豪華な教会を建て、免罪符で天国行きを売るようなカトリックに抗議したのがプロテスタントで、質素倹約と聖書主義を掲げ、より清く正しくあろうとする流派だという。そうした信仰を持つゴッホにとって、価値が曖昧なアートに高値をつけて売る画商の仕事は耐えがたかった。中田は「誰々さんも絶賛しています、1000万はくだらないでしょう」といった商談を演じてみせ、ゴッホはそれに嫌気がさして反抗的になったと説明する。向いていないことが明らかになり、ゴッホは解雇された。

次に牧師を目指したが、試験が厳しく勉強も進まない。それでもやれることはあると、25歳でベルギーの貧しい炭鉱町へ行き、布教して回った。産業革命以降の厳しい環境で、リストラされた労働者や貧しい人が大勢いた。ゴッホは彼らに共感しすぎて私財をどんどん与え、自分も同じようにぼろぼろの格好になっていく。伝道師仲間からは、どちらが伝道師か分からない、キリスト教の威厳があるからやりすぎだと言われた。ゴッホは「それがキリストの教えでしょう」と譲らず、仲間から爪はじきにされた。

最後に残ったのが絵だった。アートに詳しく、絵がうまく、描くと喜ばれる。画家を志して習いに行くが、すぐにやめてしまう。貧しいまま、オランダのニューネンの実家に戻り、両親から小さなアトリエを与えられた。どうやって食べていくのかと叱られ、美術商で働く弟テオは「困ったら世話するけど大丈夫?」と気遣っていた。

この時期に描いた初期の代表作が『ジャガイモを食べる人々』である。食卓で農民がジャガイモを食べ、コーヒーを入れている無骨な絵だ。中田は、モネが最初から水と光を、ルノワールが最初から裸婦を描いていたように、何を表現したい人間なのかはデビュー作に現れる、と自身の考えを述べる。ゴッホの場合、それは貧しい農民の姿だった。兄を応援したいテオは、この絵を見て「今のトレンドとちょっと違う、暗すぎるかも」と言った。ゴッホは、部屋が暗かったから暗く描いた、自然の匂いのする、貧しい人の心が癒される絵を描きたいのだと答えたという。

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パリでの衝撃:印象派と浮世絵

33歳でゴッホはパリへ行き、印象派と出会う。見たのは最後の印象派展となった第8回で、すでに新しい世代も印象派の手法で描くようになっており、ジャポニスムのブームも続いていた。オランダの田舎から来たゴッホは、光の絵画の新しい波に衝撃を受けた。

浮世絵にも驚いたゴッホは、取引をしていたテオに見せてもらい、模写した。それが『雨の大橋』で、歌川広重の絵を丸ごと写したものだ。中田によれば、遠くから見ると浮世絵だが、近くで見ると印象派風のタッチになっている。絵の外側の額縁部分には漢字まで一生懸命書き込まれている。

もう一つ中田が挙げるのが『タンギー爺さん』である。タンギー爺さんは貧しい画家を支援していた人物で、ゴッホは「まだ売れていないけど描かせてくれ」と、にっこり座る姿を描いた。背景には、テオやタンギー爺さんが扱っていた広重などの浮世絵がたくさん描かれている。中田は、パリの光と日本の浮世絵にゴッホがいかに衝撃を受けたかが分かる絵だと説明する。

40:58

アルルの黄色い家:光を得た「ハッピーな時期」

刺激を受けたゴッホは一つの理想に燃える。新しいアートを表現したい芸術家は大勢いる。気の合う仲間を集め、一つの場所に若い芸術家たちのサロンのような工房を作りたい。印象派のようなグループを自分たちも作りたい。テオは、多くはないけれど兄さんがそこまで言うならと資金を出し、南フランスのアルルに「黄色い家」を用意した。ゴッホは印象派展に来ていた人々にも声をかけ、仲間を集めようとした。

中田によれば、アルルに移ってからのゴッホは明るい。もともと自然が大好きなうえに光を覚え、祈るような無骨な絵に光が加わったことで、鮮やかで野性的なタッチが生まれた。この時期に『アルルの跳ね橋』が描かれ、黄色い家の中を黄色い花で埋めようと『ひまわり』も描かれた。

『夜のカフェテラス』もこの頃の作品だ。中田の説明では、当時フランスの町にはガス灯が普及し始めていた。夜でも安定して明るいガス灯は進歩と新時代の象徴で、ゴッホはそれに照らされたカフェテラスを描いた。夜の星も一つの光として描いた。『星降る夜』では、向こうに街とガス灯の明かりが並び、手前に男女の恋人が立ち、空に大きな星が描かれている。そこには大熊座が描かれているが、中田によれば実際にはその場所から大熊座は見えない。見えたら綺麗だろうと描いたのだという。中田はこの頃を「非常にハッピーな時期」と呼ぶ。

43:52

ゴーギャンとの衝突と耳の事件

ところが仲間は来なかった。唯一来たのがゴーギャンだったが、中田によれば、彼はテオの資金で場所がもらえるから来たのであり、ゴッホと特に気が合ったわけではない。ゴッホは「ついに仲間1人目が来る」と張り切ったが、二人はどうしても合わなかった。

中田は、ゴッホは曲げられない人だったと言い、これまでの経緯を振り返る。画商時代には絵をもっと安く売るべきだと主張し、伝道師時代には貧しい人と同じ格好をすべきだと譲らず、いずれも周囲と話が合わなかった。ゴーギャンとも絵の描き方をめぐって衝突し、思い詰めたゴッホはついにカミソリを振り回した。ゴーギャンにけがはなかったが、ゴッホは勢い余って自分の耳を切ってしまう。ゴーギャンは「もうこんなところにいたくない」と去った。

あれほど仲間を待っていたのに、また一人になった。ゴッホは血だらけの顔に包帯を巻き、自画像を描く。それが包帯を巻いた自画像である。病院に入った後、穏やかな田舎町アルルの人々は彼を白い目で見た。「カミソリを振り回して耳をちぎったらしい」「この町にふさわしくない」と言われ、居場所を失った。

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サン=レミの病院からオーヴェールの最期へ

ゴッホはアルル近くのサン=レミの精神病院に、自ら入った。ここで描いたのが『星月夜』である。アルル時代の『星降る夜』がロマンティックな夢の町の星だったのに対し、『星月夜』は病院の窓から見た星で、夜空がうめき、自然が動いているような絵だと中田は対比する。昼には窓から見えるオリーブ園を描いたが、そこにも力強いうねりがある。たった一人で、祈るように創作に没頭していったと中田は語る。

やがて病院に居続けることに嫌気がさし、ゴッホは北フランスのオーヴェル=シュル=オワーズへ移る。宿の屋根裏の小さな部屋を借り、精神科医に相談しながら過ごした。その医師を描いたのが、後に114億円で取引される『医師ガシェの肖像』だ。しかしゴッホはガシェとも喧嘩し、仲違いしてしまう。

金色の畑が広がる田舎町の屋根裏で、ゴッホは移ってからの70日間、1日1枚以上のペースで描き続けた。中田は、ここに移ってから何かを考えたのかもしれないと推測する。そしてある日、宿の近くの畑で自分を撃った。頭ではなかったため死にきれず、行く場所もないまま宿に戻り、屋根裏のベッドに横たわった。異変に気づいた主人が駆け上がると血だらけで、医者が呼ばれ、ガシェも、テオも駆けつけたが、手遅れだった。

どうやって銃を手に入れ、なぜ死んだのかは分からないという。死の間際に描かれた『鴉の群れ飛ぶ麦畑』について、中田は、力強く鮮やかな金色の畑の上に青黒く暗い空が広がり、それまでの絵にはなかったカラスの群れが飛んでいると説明する。怖い闇と黄金の畑のコントラストを持つこの絵が、死を考えていたかもしれない数十日間の「毎日の1枚」として描かれたことに、中田はゴッホの壮絶さを見ている。

51:33

手紙が変えた「狂気の天才」像

中田は、ゴッホを語るうえで絵と並んで外せないのが手紙だと言う。ゴッホは弟テオが大好きで、膨大な手紙を書いた。それが後に公開され、研究者が読み込むと、ゴッホのイメージは大きく変わったという。

それまでゴッホは、短い人生の中で思い込みが激しく、病を抱えながら描いたからこそうねるような絵になった「狂気の天才」だと見られていた。しかし手紙には、次に描く絵の構図がきっちり書かれていた。なぜこのテーマなのか、たとえばこういうものにはエネルギーがあるから、糸杉が今自分の中でアツい、糸杉にはこういうものが含まれているはずだから描く、といった理由が記されている。スケッチを添え、ここの色はこうするという色の指定もあり、今は黄色の表現を研究したいといった関心も書かれている。一つ一つテーマを立て、設計図を描き、色を決め、それを報告しながら着実に制作していた。中田によれば、研究によって、ゴッホはアートを自分の中で着実に進化させていくタイプの芸術家だったことが分かった。

病院の記録を調べると、発作が起き幻聴が聞こえているときには一切絵を描かず、落ち着いているときだけ描いていたこともわかったという。そのため、ゴッホは描ける時間が短くなることをとても悔しがっていたらしい。手紙にはペンで描いた線のスケッチもあり、こんなに綺麗に描くのかという発見もある。手紙からは、ゴッホの短い人生と弟とのやり取りがよく分かると中田は話す。

残された問い:なぜ死んだのか

それでも、残された手紙をすべて読んでも、なぜ死んだのかだけは分からないという。何を抱えていたのかが分からないことが胸を締めつける、と中田は語る。光を追い求め、光に取り憑かれ、光を表現した印象派の画家たち。その象徴とも言えるゴッホについて、中田は「その光の代償である影は人一倍深かったのかもしれません」と結んでいる。