新選組はなぜ人気があるのか――中田敦彦が語る「破れる美学」と試衛館の青春群像劇

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概要

中田敦彦は「エクストリーム日本史」の一回として新選組を取り上げ、なぜこの集団がこれほど人気を集めるのかを問う。中田の答えは、新選組が「負けた側」であり、しかも「仲間たちの集団」だという点にある。敗者の物語と青春群像劇が重なる場所に新選組がある、というのが中田の立場だ。最盛期には数百人いた隊士を、今回はほぼ6人に絞って物語として語っている。

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判官贔屓と「負けた側」のスター

中田はまず「判官贔屓」という言葉から話を始める。判官とは源義経の役職名で、義経に肩入れすることから転じて、弱い者や負けた側を応援したくなる日本人の気質を指すと説明する。頼朝より義経、藤原時平より菅原道真、勝った徳川軍より真田幸村というように、日本史上の人気者は負けた側に多い、と中田は指摘する。

新選組もその系譜に連なる「負けた奴ら」であり、そこに仲間たちの青春群像劇が加わる。中田はこれを「破れる美学と青春群像劇の交差点」と表現し、人気の理由をここに見ている。

一方で、新選組のイメージは最初から良かったわけではないとも語る。明治政府に与せず幕府側につき、新政府を苦しめた集団だったため、明治に入ってすぐは「ならず者集団」「人殺し集団」と見られていた。それが時間をかけて人気を取り戻し、「時代と共に散っていった美学の男たち」として語られるようになった。歴史上のイメージは時代によって変わるという点も、中田はこの話の面白さとして挙げている。

なお中田は、新選組のファンには「なぜあの人物がいないのか」と思う人もいるだろうと断ったうえで、今回は新選組の名前は知っているが中身はよく知らない人に向けた入門として、登場人物をかなり絞っていると説明している。参考文献は『マンガ 面白いほどよくわかる!新選組』である。

4:07

試衛館と農民の子・近藤勇

物語の舞台は、江戸の市谷あたりにあった試衛館という道場から始まる。黒船が来航し、泰平の世が揺らぎ始めた幕末の話である。

この道場に、宮川勝五郎という農民の子がいた。中田が紹介するのは、勝五郎の家に夜中に窃盗団が入ったときの逸話だ。兄がすぐに取り押さえようとするのを勝五郎は止め、泥棒は入った直後は気が立っているが、出ていく瞬間には気が緩むから、そこを狙うべきだと言う。実際にその瞬間に斬りかかって何人かを叩きのめし、兄が逃げる者を追えと言うと、今度は「窮鼠猫を噛む」と言って深追いを止めた。この押し引きの判断が村中で評判になったという。

この話を聞いた試衛館の3代目師範・近藤周助は、勝五郎を4代目に指名し、養子に迎える。農民の子でありながら武士道を分かっている、という評価だった。この勝五郎こそ、後の新選組局長・近藤勇である。中田は、近藤が農民の子であり、武士道に強い憧れを持っていたことを「ここ大事」と強調する。

近藤の人望のもとには、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一など、さまざまな流派の者が集まっていた。新選組ができてから徐々に人が集まったのではなく、小さな道場に主要な面々が最初から揃っていた。中田はこれをドラマチックだと語る。彼らは身分が低く、侍に憧れながら、いつか名を成したいと稽古に励んでいたというのが中田の描く試衛館の姿である。

8:50

浪士組の募集と「壬生浪士組」の成立

そこに訪れたのが浪士組募集という機会だった。将軍・徳川家茂の上洛にあたり、その護衛となる者を身分を問わず募集するという話である。中田は、家慶・家定・家茂・慶喜と並べて家茂が最後から2番目の将軍だと整理している。試衛館の面々は、身分を問わず将軍を守れると沸き立った。

ただし中田は、身分を問わず募集しなければならないほど徳川家が衰えていたことの表れでもあると指摘する。11代将軍・家斉のころから浪費が進み、求心力と財政が崩れていったという見方だ。

京都に集まると、試衛館以外にも腕自慢の若者が大勢いた。ところが、浪士組を募集した張本人が時勢を見て方針を変え、集めた武力を将軍警護ではなく朝廷の警護に使おうとした。話が違うと帰る者もいれば、朝廷警護でもよいという者もいた。近藤たちは、徳川を守ると決めて来た以上、いきなり鞍替えするのは侍のすることではないと考え、その一派とは決別しつつも京都に残った。

このとき近藤に近づいてきたのが芹沢鴨である。中田によれば、芹沢はかつて天狗党に関わって一度捕まり、恩赦で出てきた腕自慢の男だった。そこへ京都守護職の会津藩主・松平容保が登場する。中田は京都守護職を「京都県警の長官」のようなものと例える。当時の京都は尊王攘夷派によるテロが多く、警備がいくらあっても足りなかった。幕府を守りたいと言って離脱した者たちがいると聞いた容保は、彼らを自警団として使うことにする。こうして「壬生浪士組」が生まれ、近藤派と芹沢派のツートップ体制となった。

14:51

八月十八日の政変と「新選組」の名

空気を変えたのが八月十八日の政変である。中田は、尊王攘夷・公武合体・佐幕・討幕といった言葉の意味が時期によって入れ替わるため幕末は分かりにくいと前置きし、「立場がぐるぐる変わる」とだけ覚えておけばよいと話す。最初は外国船も幕府も打ち払い天皇中心でいこうという考えだった長州や薩摩が、後に外国を打ち払うのは無理だと悟り、幕府打倒へと方向を変えていく。

政変の当時は、天皇と幕府が提携する公武合体路線が主流で、皇女和宮を将軍に嫁がせるような融和策が進められていた。その中で過激な長州が京都から追放される。壬生浪士組もこれに動員されて働き、評価された結果、朝廷から「新選組」という名を与えられた。ただの道場の若者たちが役割と名を得たことを、彼らは非常に喜んだという。

17:33

だんだら羽織と局中法度に込められたもの

この頃に作られたのが、あの有名な羽織と法度である。中田は、羽織の色と柄を読み解けばこの集団がどういう集団か分かると語る。

ギザギザのだんだら柄は赤穂浪士に憧れたものだと中田は説明する。赤穂浪士は主君のために復讐する物語であり、儒教を背景に、命を捨てても忠義を取れという教えの最たる例だ。つまり新選組は最初から「現代版赤穂浪士」の意気込みだったという。浅葱色については「一説によると」と断ったうえで、切腹のときに着る色だとし、死ぬ覚悟の表明だと解釈する。中田はこれを真田幸村の六文銭になぞらえる。三途の川を渡る船賃が六文だという仏教の伝承から、六文銭の旗は死ぬ準備ができているという意味だと説明し、赤穂浪士の忠義と真田の命知らずの両方が羽織に込められていると読む。背中の「誠」の字も、儒教や武士道の忠義から来ていると中田は見る。農家の子供たちにとって侍がどれほどの憧れだったかの集大成のような服だ、というのが中田の評価である。

局中法度については、「士道に背くまじきこと」を含めて五箇条とする説と、含めず四箇条とする説があると紹介する。四箇条は、局を脱することを許さない、勝手に金策をしない、勝手に訴訟を扱わない、私闘をしない、というもので、中田は要するに「トラブル御法度」だとまとめる。隊士たちがざわついたのは、違反者に切腹を命じると定められていたからだ。切腹は武士が誇りを持って死ぬ方法であり、平民はしない。中田は、切腹を罰とすること自体が「俺たちは武士だ」という強い宣言だったと読む。

22:28

芹沢鴨の暗殺

新選組となった後、問題になったのが芹沢の素行だった。中田の描く芹沢は、近藤を見下しつつも、リーダーシップとカリスマ性を持つ人物である。しかし酒乱の気質があり、酔うと壬生浪士組の名を語って放火したり金を脅し取ったりしていたという。

公式の組織になった以上このままではまずいと近藤側が容保に訴えると、容保は芹沢の処遇を彼らに任せた。中田は、近藤が殺すことをためらい、土方が「あんたがトップじゃないと困る」と背中を押す場面を演じている。新選組の最初の仕事は、ツートップのもう一人を殺すことだった。

遊女と宴会をして酔って寝ていた芹沢の部屋に近藤派が踏み込み、天才剣士・沖田総司が斬りかかる。中田は沖田を、普段は陽気でやや病弱だが若くして剣の天才という人物として紹介する。最初の一撃で芹沢は死なず反撃したが、土方らが加わり暗殺は成功した。

26:55

池田屋事件と沖田の喀血

その後新選組は京都で過激派の取り締まりを進める。捕らえた一人を拷問すると、尊王攘夷派が集まって京都に火を放ち、京都守護職の松平容保を殺し、孝明天皇を誘拐して長州に連れ帰り、長州を官軍にするという計画が明らかになった。中田はこれを「未曾有のテロ」と呼ぶ。

決行前の集会がある旅館を探すため、新選組は近藤・沖田のチームと土方らのチームに分かれて旅籠を一軒ずつ改めた。池田屋を見つけたのは近藤・沖田のチームで、そこから1〜2時間に及ぶ斬り合いになった。近藤の愛刀・虎徹は、この後ノコギリのようにギザギザになっていたという。土方たちも駆けつけ、何人かを討ち取り、残りを捕縛した。

中田がドラマチックな場面として挙げるのが、斬り合いの最中に沖田が血を吐く場面だ。斬られていないのに血が出ている。これが後の悲劇を予感させるシーンとしてよく描かれる、と中田は紹介している。池田屋事件で新選組の名は京都に轟き、入隊希望者が増えて組織は拡大した。

31:27

山南敬助の脱走と切腹

しかし組織の拡大とともに、内部のごたごたも増えていく。中田はこれを「光が影を生む」と表現する。

副長は土方と山南敬助の二人いた。山南は法度を定めたときから切腹は厳しすぎないかと言い、土方は烏合の衆をまとめるにはこれくらい必要だと応じていた。近藤が注目されるにつれ、勝気な永倉新八は近藤が天狗になっていないかと揉めがちだった。

そこに入ってきたのが伊東甲子太郎である。別の流派で腕利きとして鳴らし、水戸学を極めた文武両道のエリートだった。伊東には尊王思想があったが、当時は公武合体の最中で、過激派でなければ尊王と佐幕はそれほど乖離していなかったと中田は説明する。ところが入ってみると新選組は完全に幕府側の空気で、伊東は違和感を覚える。しかし脱退すれば殺される。腕の立つ伊東は入ってすぐ、副長とほぼ同格の参謀に就いた。

これに気を病んだのが山南だった。土方とはやり方で衝突しており、しかも病を患い始めて池田屋事件に参加できず、立場を失っていた。そこに伊東が参謀として入り、自分はいなくてもいいのではと思うようになった。ある日、山南が何日も戻らないことが発覚する。脱走である。

近藤は、山南と一番仲の良かった沖田に捜索を命じる。沖田は山南を見つけ、自分が土方に話すからと連れ帰るが、土方は鉄の掟だとして切腹を求め、山南もそれを受け入れる。山南は介錯に沖田を指名した。幹部であっても武士道に違反すれば死ぬことを、友が友の首を斬る形で見せつけたのである。中田は、新選組の群像劇は討幕派との戦いだけでなく、芹沢や山南のような「完全なる仲間内」の争いが多く、そこが悲しく、目が離せないところだと語る。

38:50

薩長同盟と孝明天皇の崩御

池田屋事件の後、時代の流れが大きく変わる。中田は、教科書で薩長同盟を見ても「仲良くなったんだ」くらいにしか思わないだろうが、実は画期的なことだったと強調する。

長州は朝廷とも幕府とも対立する「反逆児」だった。長州も薩摩もそれぞれ外国と揉めて、勝てないと悟った。外国を打ち払う路線がないなら、外国の武器を買って力をつけ、日本を内側から変えて外国から守るしかない。当時、清が列強に分割統治されていくのを見て、日本も英仏に分割統治されるという強烈な恐怖を薩長は抱いていた、と中田は説明する。こうして薩長は攘夷から討幕へと意思を統一した。

同時に新選組に逆風が吹く。孝明天皇の崩御である。中田によれば孝明天皇は穏健派で、公武合体で国内を穏便に治めようとしていた。だからこそ新選組は朝廷からも幕府からも公式の団体と認められていた。後ろ盾を失うのと、ライバルが手を結ぶのが同時に起きたのである。

41:41

伊東甲子太郎の離脱と油小路事件

この状況で動いたのが伊東だった。中田によれば、伊東は先が読める人物で、このまま幕府側にいれば殺されると考えていた。しかし抜ければ山南のように殺される。そこで伊東は、朝廷を守る御陵衛士という部隊を組織し、その任を命じられるよう調整した。朝廷からの命令なら抜けても御法度ではない。近藤も朝廷の命に反するとは言えず、了承した。すると伊東は、志を同じくする者も連れていきたいと言い出し、15人を引き連れて離脱する。そこには試衛館以来の主力の一人・藤堂平助や、斎藤一も含まれていた。

ところが伊東も楽ではなかった。朝廷側の勢力から、幕府の犬と言われる新選組に数年いた者が本当に朝廷の味方なのかと圧力をかけられる。忠誠を示すため、伊東は近藤暗殺を計画する。近藤さえ殺せば新選組は烏合の衆になり、御陵衛士に流れてくるだろう、という読みだった。

この計画を近藤に知らせたのが斎藤一である。斎藤は実は近藤の指示で御陵衛士に入っていたスパイだった。中田は斎藤を、普段は寡黙な仕事人だが、三番隊隊長を任され、剣の腕は沖田や永倉と並び、誰が一番かは意見が分かれるほどの実力者として紹介している。

近藤は伊東を飯に誘い、新選組は伊東がいなくなってボロボロだとあえて弱く見せて酒を飲ませる。帰り道の油小路で土方や沖田が待ち伏せし、伊東を斬った。新選組は遺体をあえて路上に放置し、駆けつけた御陵衛士を襲撃する。何人かが殺され、何人かは逃げた。これが油小路事件である。中田は、黒船も来て外国が迫っているのに内乱ばかりしていて悲しい、と語る。

48:58

大政奉還と王政復古の大号令

次の転換点が大政奉還である。中田は、これを薩長の武力討幕を鎮めるための徳川慶喜の「苦肉の大作戦」と解釈する。徳川家も朝廷の家臣の一つという形にし、幕府をなくしてしまえば、薩長が幕府を潰す理由がなくなる。しかし朝廷は長く政治をしていないので実務はできず、形式上は返しつつ実際には徳川が仕切る、という狙いだったと中田は語る。

これに対して薩長は「返す刀の大技」として王政復古の大号令を出した、と中田は説明する。名目だけでなく、徳川の領地と役職も没収するという内容で、中田はこれを大政奉還封じであり「攻めすぎ」だと表現する。その背景として、関ヶ原で味方しなかった藩を遠くに置き、参勤交代で毎年江戸まで来させた徳川の支配体制への、長州・薩摩の約300年の恨みがあったと中田は語る。

中田によれば慶喜自身はかなり冷静だったが、周囲が収まらず、大坂城にいた慶喜の側と新政府軍の戦いが始まる。これが戊辰戦争の始まりである。

53:05

鳥羽・伏見から甲州勝沼、流山へ

鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は銃を持ち、戦いにならなかった。しかもこのとき近藤は、油小路事件の後あたりに路上で過激派に肩を銃で撃たれ、戦線を離れていた。沖田は体が弱っていき、当時不治の病とされた肺結核だと分かる。近藤と沖田を欠いた新選組を、土方が率いて戦った。装備の差は桁違いで、決着はあっという間だった。さらに戦いの最中、慶喜は松平容保を連れて船で江戸に逃げていたという。

次に新選組は、山梨の甲府城を先に押さえて盛り返す作戦に向かう。しかし中田によれば、幕府側から甲府行きを命じられた時点で、甲府はおそらくもう駄目だという状況だった。それでも行かせたのは「お前らはどうでもいい」というメッセージでもあったらしい、と中田は語る。慶喜は平身低頭で次の時代を生き延びたいと考えており、江戸城も無血開城する。その慶喜と、幕府に命を懸ける新選組とのあいだにはギャップがあった、というのが中田の見方だ。

甲府城はすでに板垣退助率いる1300人の新政府軍に取られていた。対する新選組の残党は200人。病床の沖田を残して近藤は出陣したが、最新兵器に撃たれて撤退する。士気は崩れ、永倉は会津へ行って立て直そうと提案するが、近藤は指示を受けていないと退ける。新選組は「甲陽鎮撫隊」と改称させられ適当な扱いを受けていると永倉は反発し、近藤が鳥羽・伏見にいなかったことまで持ち出して口論の末に離脱する。一番隊の沖田は病気、二番隊の永倉は離脱という状態になった。

近藤にとって最後の戦いは下総流山だった。すぐに包囲され、近藤は切腹を覚悟するが、土方は近藤だけは生きてくれと頼む。「誠」は近藤についていくという忠義なのだから、その字を消さないでくれ、という趣旨である。土方は、近藤には「大久保大和」という偽名で捕虜になってもらい、自分は新政府軍にも顔が利く幕臣・勝海舟に会って解放を働きかける、という策を立てた。

59:36

近藤勇と沖田総司の死

土方は勝海舟のもとへ走り、大久保大和という侍を助けるよう嘆願書を書いてもらう。しかしその間に、牢を見回っていた兵士の一人が近藤の顔に気づく。油小路で逃げ延びた元御陵衛士が新政府軍に加わっていたのである。

近藤は大悪人として処刑される。切腹は許されず、農民の出だろうと言われ、斬首されてさらし首になった。武士になりたいと願い、切腹を武士の証とした近藤が、最後に切腹を許されなかったという結末である。

中田はここで、鳥羽・伏見で多くの者が心を折られた理由として錦の御旗を挙げる。真っ赤な地に金色の日の丸、金色で天照大神と書かれた旗で、朝廷に仇なす者を討つ部隊に朝廷が与えるものだと説明する。日本を守ろうとしていたはずの自分たちに、なぜその伝説の旗が向けられているのか。侍に憧れ、「誠」を掲げていた者たちが逆賊とされたことを、中田は悲しい死と表現する。

さらに悲しいのが沖田だと中田は続ける。沖田は近藤の死を知らされないまま療養を続け、時を同じくして亡くなった。土方は、勝の手紙を握りしめたまま、後に二人の死を知る。

1:03:38

会津、そして箱館五稜郭

永倉もおらず、近藤も沖田もいない。土方と斎藤は松平容保の会津藩へ向かい、会津戦争が始まる。新政府軍の攻勢で会津は落城寸前となり、土方は仙台へ行って東北の連合に援軍を求めようと斎藤を誘う。だが寡黙な斎藤は初めて自分の意見を言い、ここまで育ててくれた松平容保の藩を守って死ぬと告げる。こうして土方と斎藤も別れ、試衛館の仲間は全員ばらばらになった。

仙台に渡った土方は、旧幕臣の榎本武揚と出会う。新政府はやりすぎだ、蝦夷地で不満を持つ者を集めて新しい国家を樹立する、という榎本の計画に乗り、北海道へ渡る。新政府軍は英仏から得た武器で最後まで手を緩めなかった。最後に土方は箱館五稜郭に立てこもり、撃たれて死ぬ。中田はその場面を、土方が近藤に会いに行くと言って死ぬ形で演じている。逆賊・新選組は全滅し、恐ろしい人殺し集団として悪名が流布された。

1:06:32

斎藤一と永倉新八が生き延びた後

しかし話はそこで終わらない、と中田は続ける。斎藤一は生きていた。会津落城後、名前を変えて降伏し、警視庁に入って明治政府の配下となり、西南戦争で西郷軍と戦い、その後は学校の教員や剣術の指南役をして、静かに年を取って亡くなったという。

もう一人の生存者が永倉新八である。明治の世で、新選組がいかにひどい集団だったかという悪評を聞きながら老いていく。寡黙な斎藤と違い、勝気な永倉は黙っていられなかった。小樽でひっそり暮らしていた永倉は、老人になってから新聞で連載を始め、新選組とは何だったのかを語り出す。中田は、その連載のサブタイトルが「昔は近藤の友達、今は小樽で隠居中」という陽気なものだったと紹介している。

この連載をきっかけに、新選組は単なる人殺し集団ではなかったと人々が興味を持ち始めた。中田が皮肉として強調するのは、名誉回復の足がかりを作ったのが、近藤と反りが合わず喧嘩ばかりし、途中で松平容保に近藤の行き過ぎを訴える嘆願書まで出し、最後には離脱した永倉だったという点である。

時代に乗り移れなかった「不器用な男たち」

最後に中田は、新選組が何者だったのかについて自分の解釈を示す。彼らは天皇に反旗を翻そうとしたわけでも、日本を潰そうとしたわけでもない。中田によれば、江戸時代以前は仏教と神道の習合したものが国民の倫理を形づくっていたが、江戸時代には儒教と侍道が倫理を担った。主君に尽くして死ぬのが侍だと徹底的に教え込まれた子供たちが、その倫理のど真ん中にいた。教えを守りきった結果、いつの間にか逆賊になっていた。あまりにも侍だったために時代の大きな変化に乗り移れなかった不器用な男たち、という見方が、その後の日本人の心を打ったのではないか、と中田は語る。

そして中田は、これは現代にも通じる話だとする。ある時までは正しかったことが、時代が変わると古い、駄目だと言われる。自分が間違っているのか、信じるものを守り通すべきなのか、と揺らぐ人は多い。価値観が揺らいでいる今の日本で、今の価値観を守り通すのか、時代に合わせて乗り移るのかを選ぶための一つの教科書に、新選組の物語はなっているのかもしれない――中田はそう問いかけて話を締めくくっている。