道徳と金儲けは両立するか――中田敦彦が読む渋沢栄一『論語と算盤』

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概要

中田敦彦は「エクストリーム日本史」の一編として、渋沢栄一の『論語と算盤』を取り上げた。中田はこの本を、これまで紹介した書籍の中で「中田的ナンバーワン」と呼び、今後10年の自分のバイブルになるとまで言う。動画の中心にある問いは、本の大テーマとして中田が示すものと同じで、「人がより良く生きるにはどうすればいいのか」である。同じように国のために働き、同じように大きな実績を残しても、人から慕われる人とそうでない人がいる。その差はどこから生まれるのか。中田は渋沢の経歴と本の各章を順にたどりながら、道徳と経済を一体として捉える渋沢の考え方を紹介し、ところどころに自分の受け止め方を加えていく。

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孫子から論語へ、そして渋沢栄一へ

中田がこの本を選んだきっかけは、以前の回で『孫子の兵法』を扱ったことだという。西洋の教えの方が現代的に思えて古代中国の思想は後回しにしていたが、孫子が非常に面白かったため、侮れないと考えて孔子と論語に進もうとした。ただ、孔子そのものに取り組む前に、渋沢栄一が論語を扱っていたことを思い出したという。

参考書籍として中田は2冊を挙げる。1冊目は漫画版の『論語と算盤』である。論語と算盤の一節を渋沢がセリフとして口にしながら生涯をたどる構成で、本の内容をがっつり解説するというより、セリフの中に教えが織り込まれている。渋沢だけがかっこよく描かれ、ほかの人物はかなり悪く描かれているので、感情移入しやすいと中田は評する。2冊目は角川ソフィア文庫版で、見た目は硬いが非常に面白く、過去にないほどメモを取ったという。中田は、漫画版でざっと内容をつかんでから文庫版を読む順番を勧めている。

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攘夷志士から財界人へ――渋沢栄一の経歴

中田によれば、渋沢は江戸末期から明治初期に活躍した人物で、経歴そのものが面白い。もともとは外国を打ち払い、幕府も倒そうという攘夷志士だった。ところが、ひょんなことから、まだ将軍になる前の徳川慶喜の下で働くことになる。その慶喜が将軍になったため、倒そうとしていた幕府の中核に入ってしまった。

優秀だった渋沢はパリ万博に送られ、フランスの先進的な文化に衝撃を受ける。ところが帰国すると幕府はすでに倒れていた。それでも能力を買われて明治政府の大蔵官僚として働いたが、思うところがあって民間に移り、経済界を盛り上げる道を選ぶ。

財界人としての渋沢が導入したのが、パリで見てきた株式会社の仕組みである。多くの人が出資して大きな資金を集め、大きな事業を行い、利益を分配する。中田の説明では、当時の日本では商人が自分の資本で自分の商売をするのが普通で、この考え方はまだ根付いていなかった。渋沢はこの仕組みで次々と会社を作り、中田は今のみずほ銀行、アサヒビール、サッポロビール、東京海上、帝国ホテル、東京ガス、王子製紙などを渋沢が手がけた企業として挙げる。維新志士から幕臣、官僚、財界人へと立場を変え、しかも長生きした。中田は、渋沢を人生経験が非常に豊かな人物として描く。

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漫画版の冒頭――山縣有朋の亡霊

中田が特に面白いと紹介するのが、漫画版の冒頭場面である。老いた渋沢が教え子や子どもたちとゲームに興じたあと書斎に戻ると、山縣有朋の亡霊が待っている。

中田は山縣を、名前は知られていても非常に人気のない人物として説明する。軍の中枢を握ってトップまで上り詰め、総理大臣も経験したが、頭が良い一方でずる賢く、そのやり方が正しかったのか疑問視されたという。中田が漫画の描写として挙げるエピソードは二つある。一つは、クーデターが起きると知りながら、止めようとする部下に起こさせろと命じた話である。軍の改革を伊藤博文に認めさせるには一人か二人死ぬ必要がある、という理屈だった。もう一つは、公金を特定の商人に無担保で融資し、裏でキックバックを受け取っていた疑惑である。証拠をすべてその商人に押し付けて自殺に追い込み、商人は軍の省庁内で自殺して大事件になった、と中田は語る。

二人の評価の差がはっきり表れたのが葬儀だったという。渋沢の葬儀には関係者だけでなく民間人も大勢集まり、何千人もがその死を悼んだ。一方、山縣の葬儀は日比谷公園での国民葬として1万脚の椅子を用意したものの、来たのは軍関係者約1000人で、9000席が余ったらしい。「民のいない国民葬」と言われ、死んだこと自体が社会貢献だとまで言われた、と中田は紹介する。

漫画の中で山縣の亡霊は、自分も軍の頂点に立って強い日本を作り、国のために尽くしたのに、なぜこれほど差がついたのかと渋沢に詰め寄る。渋沢は山縣の功績も立派かもしれないと認めたうえで、「私には論語があったのです」と答え、若き日の渋沢の物語が始まる。この比較こそが本の大テーマだと中田は位置づける。成功したい、名を知られたい、金持ちになりたいと願う人は多いが、山縣と渋沢の違いを考えることが、人がより良く生きるための鍵になるという。

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孔子と論語、そして分断された道徳と経済

続いて中田は論語の背景を説明する。孔子は中国の春秋時代の人物で、乱世の中で国の治め方や人のあり方を説いて回ったが、当時の政治家にはほとんど受け入れられず、生前はあまり成功しなかった。それでも教えは高く評価され、最終的に3000人の弟子を持ち、中国の長い歴史の中で受け継がれて儒学・儒教の体系の元になった。

日本では江戸時代に儒教が広く取り入れられた。年功序列や親子関係、仁義といった、多くの人が持つ儒教のイメージはこの江戸時代のものだと中田は言う。そして、そのイメージ自体が実は違うことをこの本は教えてくれる、というのが中田の強調点である。

タイトルの秀逸さについても中田は説明する。論語は道徳、算盤は商人の道具であり経済を指す。道徳と金儲けという正反対のものを一つのタイトルに入れているのである。中田は自分の受験経験を引き合いに出し、道徳は受験に出ないので役に立たないと思われ、点数配分の高い教科を優先するよう教わってきたと話す。「役に立つが卑しい」とされる実学と、「ありがたいが役に立たない」とされる道徳は、江戸時代からはっきり分かれていたという。

中田によれば、江戸時代には働かないが偉い侍が儒教の教育を受けた。その儒教は、宋の時代に朱子が体系化し、徳川が取り入れて普及させた朱子学だった。一方、農工商はお金を稼ぐが、それは尊いことではないと教えられた。朱子学では金儲けをしてはならないという考え方が強く、中田はそのイメージを「中国のキリスト教」に近いと表現する。迫害されながら弟子を連れ、弟子たちが言行を書き残した点も聖書に似ている、と中田は言う。

この分断のまま明治維新が起き、侍がいなくなる。中田は日本の統治思想の流れを整理する。飛鳥時代に仏教を輸入して国を治めたが、権力との結びつきが行き過ぎ、戦国時代には寺を壊しながら新たな秩序が作られた。徳川幕府は儒教で治めたが、それも明治維新で壊され、そのあとに西洋の科学と技術が入ってきた。渋沢の見方では、西洋では道徳教育をキリスト教やイスラム教などの宗教が補っており、その土台の上に科学がある。ところが日本では道徳が失われた空白に技術だけが入り、金儲けばかりを目指す日本人しかいなくなっていた。そこで渋沢は経済と道徳を合体させ、失われた日本の精神教育を自分が教えると考えた。これがないと、たとえ成功しても山縣のような望ましくない成功になってしまう、というのが本の出発点だと中田は説明する。

国民から慕われ、官と民の両方を知る人物が書いたからこそ説得力がある、と中田は言う。経済だけのビジネス本なら大したことはないが、この人が論語を語るから面白いのだという。

本の構成――重要なことは最初の3章に詰まっている

中田によれば、本はおよそ10章で構成される。最初の3章に重要な考え方が凝縮されており、4章から9章は儒教への誤解の修正や細かなエピソードといった「おかず」の部分にあたる。そして最後に人生とは何かという結論が置かれている。時間のない人は1〜3章だけ読んでも面白いと中田は勧める。

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処世と信条――士魂商才と神君遺訓

第1章「処世と信条」の主張は、論語と算盤は遠いようで近い、むしろ一緒でなければ意味がない、というものだ。ここで示されるのが「士魂商才」である。侍の魂を持ちながら商人の能力で戦う、これが新しい日本人のビジョンだという。

中田は、この言葉が菅原道真の「和魂漢才」のパロディだと説明する。大和の魂を持ちつつ、当時先進的だった中国の知識も備えるという意味で、道真は大和魂の大切さを説いた。渋沢は道真を非常に好んでいたという。中田は、本には山縣対渋沢のような「誰対誰」の構図がたびたび登場すると指摘する。道真を左遷した藤原時平は山縣の側、道真は渋沢の側に置かれる。士魂商才で大事なのは、大和魂だけでも商才だけでもなく、両者が合わさっていることだという。

論語が役に立つことを示す例として、中田が「ものすごく響いた」と話すのが「神君遺訓」である。神君とは徳川家康のことで、家康の遺訓とされる短い文章を指す。人生は重い荷物を背負って長い道を行くようなもので急いではならない、という一節から始まり、怒りは敵だ、苦しいときは困窮していた頃を思い出して耐えよ、と忍耐を説き、「及ばざるは過ぎたるに勝れり」で終わる。中田は、日光東照宮にも刻まれるほど有名な教えだと紹介する。家康の作ではなく光圀が書いたのではないかなど諸説あるが、渋沢は家康作という説を採っているという。

中田によれば、この遺訓は論語の寄せ集めで、同じ言葉がすべて論語に出てくる。家康は孫子の教えを武将に配るほどの勉強家で、儒教・仏教・神道もすべて学んでいたという。つまり侍にこそ論語が必要であり、これからは商売にも必要だ、というのが渋沢の主張だと中田はまとめる。

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人を見抜く「視・観・察」

中田が特に面白かったと紹介するのが、人間観察法としての「視・観・察」である。

まず「視」は、その人の外側、つまり外部に現れた行動を見ることである。何をしている人で、どのように見えるかを確かめる。次の「観」では、その行動の動機を見る。中田は近所を掃除している人の例を挙げる。掃除しているという事実だけでは評価できない。いつもではなく6月だけ掃除しているのは、偉い人がその地域に来るからかもしれない。偉い人に気に入られたくて掃除するのと、皆のために掃除するのとでは意味が違う。

さらに深いのが「察」で、その人が何に満足し、何に喜びを感じているかを見ることだという。賢い人は動機さえ立派に語れるからである。中田は、町を良くしたいと語る政治家が、実際にはホストクラブでシャンパンを開けてSNSに投稿している、という仮の例を出す。何をしているときに楽しそうかを見れば、口で語る動機との乖離がわかる。

漫画の中で渋沢は、この枠組みを山縣の亡霊に当てはめる。国を強くして守りたいという動機も、軍のシステムを変えたことやトップに上り詰めたという行動も見ていた。しかしあなたは本当は、と察の段階に進む。中田は、山縣が批判された例として椿山荘を挙げる。椿山荘は山縣が別荘として作った土地の跡地らしく、役人でありながら広大な日本庭園を造って浪費していた。本当に国を強くしたかったのか、金儲けや出世、偉ぶることが目的ではなかったのか、と問われたという。

中田は現代のビジネスパーソンにも当てはめる。時価総額や運営サービスを語る「視」、国を良くしたい、人にチャンスを与えたいと語る「観」を固める人は多いが、実際には女優と付き合っているだけ、雑誌でかっこつけているだけという人もいる。察まで見ると面白い、と中田は言う。

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蟹穴主義――分をわきまえるということ

では、どうあるべきか。渋沢が説くのが「蟹穴主義」だ。蟹は自分の甲羅の大きさに合った穴を掘って住む。同じように、身の丈に合った夢と生活を志せ、という教えである。

中田は、これが「どうせ夢なんか叶わない」と言う諦めた人の言い訳とは違うと強調する。大きな実績を残した人が自らの分をわきまえている、という点に重みがあるという。渋沢は官僚時代に国の政治に力を尽くそうとしたが、上司の井上馨と内閣の争いなどもあり、政治は自分に向いていないかもしれないと考えて実業の道を選んだ。そこで成果を出すと、日銀総裁や大蔵大臣にならないかと誘われた。気持ちは揺れたが、自分の分ではないとして日銀総裁を断った。中田はこれを蟹穴主義の実践として紹介する。

自分の得意を極めて社会に貢献することが満足であるべきで、分や才能を超えて手を出すのは名誉心や功名心から来るものではないか、それは人に察せられる、というのが渋沢の主張だと中田は説明する。

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立志と学問――志は年齢で決まらない

第2章では志の立て方が扱われる。何をやりたいかわからないと悩む人は多い。論語には「十五にして学に志し」「四十にして惑わず」といった年齢の区切りがあるが、渋沢はそんなに単純なものではないと言う。

渋沢自身、若い頃は国を変えてやると血気盛んだったが、自分の能力に気づくまでには時間がかかった。自分に何が向いていて、どこにニーズがあるのかに気づいたのは明治の初め、大蔵省を辞めたときで、そのとき初めて志を立てたと思う、と渋沢は書いているという。中田によれば、そのとき渋沢は33歳だった。十五で学に志すというのは「いっぱい勉強しよう」程度の漠然としたものでよい。自分の向き不向きや長所短所がわかり、何で社会に貢献するかが見えたときが立志のタイミングであり、何歳かは問題ではない。中田はこの部分をビジネス書的だと評する。

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常識と習慣――智情意と「完き人」「偉き人」

志を立てたあとに必要なのは何か。第3章「常識と習慣」で渋沢は、必要なのは「常識」だと答える。中田はこの常識を、核となる品格のようなものと捉えればよいと説明する。常識を備えるには「智・情・意」、すなわち知恵・情愛・意思が必要である。中田はこれを頭脳とハートとウィルと言い換え、視観察と智情意の二つを覚えるだけでも渋沢から多くを学べると言う。

順序としては、まず意思がある。意思のない者は何もできない。しかし意思だけでは役に立たないので、知恵が乗らなければならない。だから勉強しろ、と渋沢は言う。意思と知恵があれば実績は出せる。ところが情愛がなければ、必ず何らかのトラブルに巻き込まれる。結果を出せば嫉妬されるかもしれないし、ライバルを蹴落とせば恨まれるかもしれない。利益を分配せず独占すれば糾弾されるかもしれない。意思を持つ者が知恵を身につけ、情愛をもって分け与える。これができて初めて「完き人」になれるのだという。

渋沢はこの「完き人」と「偉き人」を区別する。三つのどれかが欠けたまま結果を出した者は偉き人である。情愛がなくても結果は出せるし、才能がなくても優しさと意思があって周囲に助けられることもある。意思がなくても、優しく才能のある人が引っ張り上げられて結果を出すこともある。しかし、それは完き人ではない。

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秀吉と家康の比較

この違いを示す例として、渋沢は秀吉と家康を比べる。渋沢は秀吉を、とてつもない勉強家で才能の人だと評価しているという。中田の説明では、草履を温めるところから始まり、小部隊を任されれば完璧に仕事をし、さらに大きな部隊を任されてもまた完璧にこなし、柴田勝家や丹羽長秀と肩を並べる幹部になった。毛利攻めの最中に光秀の謀反を聞くとすぐに和睦し、数日で引き返して、本能寺の変から約3年で天下人になった。意思と知恵は申し分ない。それでも、自分が手にした領域を治めきれなかったことが秀吉の敗北だという。

一方の家康には、神君遺訓に表れているとおり論語の研究があった。いかに国内を治めるかという適材適所が完璧で、外様・親藩・譜代の配置や五人組制度など、反乱を起こさせない人の統制ができていた。渋沢は家康を日本史上で最大限に絶賛している、と中田は言う。

中田自身、信長・秀吉・家康の評価が「好み」の問題のように扱われることに問題意識を持っていたという。若い頃は信長がかっこいいと思い、大人になると貧しい身分から成り上がった秀吉のすごさに気づく。秀吉は調略や事前の調査を重んじ、なるべく戦わずに勝つ点で孫子的だった。それでも朝鮮出兵で無理をし、力をうまく継承できずに三成は敗れた。何が違ったのかと考えながら、家康のすごさを漠然と感じていたので、渋沢がそれをはっきり書いていて嬉しかったと中田は語る。

習慣がすべてをつくる

智情意はすぐに身につくものではなく、毎日の習慣によって着実に作られる、と渋沢は言う。人は成功者を羨み、失敗者をほくそ笑むが、成功者がどれだけ努力してきたかを理解していないと、良い習慣を始めようとは思えない。一発逆転や運で成功したという考えがどこかにあるから、地道な努力ができない。成功が日々の積み重ねでしかないとわかれば、今日からでも良い習慣を始めよう、というのが渋沢の主張だと中田は紹介する。

中田は1〜3章をこう要約する。才能だけでは駄目で、道徳を学ばなければならない。才能も道徳も勉強によって積み上げていくものである。その中で得意と不得意を見つけ、蟹穴のように自分に求められることをきちんとこなして社会に奉仕する。我欲のために何かを犠牲にすれば必ず見抜かれ、穴に落ちる。だから私とあなたは違うのだ、と渋沢は山縣に告げる、という構図である。

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仁義と富貴、理想と迷信――孔子に立ち返れ

第4章「仁義と富貴」で渋沢は、金儲けを汚いものとみなす考え方に憤慨していると中田は言う。儒学もキリスト教も仏教も、金を稼ぐことと善いことを別物と扱いがちである。しかし孔子は、汚いことをして稼ぐくらいなら貧しい方がいいと言っただけで、正しいやり方で儲けるのは構わないという考えだった。正しく儲け、正しく分け与えることが人間の活動にとって非常に大事である。「よく集め、よく散ぜよ」の「散ぜよ」は散財しろという意味ではなく、国を良くすることや設備投資、新しいサービスづくりのような良いことに使え、という意味だと中田は説明する。仁義道徳がなければ富貴利益は長続きしない、という主張もここで繰り返される。

渋沢は、儒学を変質させた朱子学をかなり攻撃しており、元祖である孔子に戻れと言っている、と中田は言う。では古い教えで良いのか。第5章「理想と迷信」で渋沢は、科学技術のように進歩するものもあるが、人がどうあるべきかという道徳は日進月歩で変わるものではないと答える。道徳はすでに完成しており、それを骨身に染み込ませるかどうかが問題だ、というのである。

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修養と人物の見方――松平定信、西郷隆盛、乃木希典

第6章「人格と修養」で渋沢は、手本となる3人の人物を挙げる。

一人目は江戸中期の老中、松平定信である。渋沢によれば、定信は10歳ほどで世界で戦いたいと言い出し、12〜13歳で本を書き、14歳ほどで和歌を詠み始めた天才だった。意と智はそろっている。ところが情の面では、10代の頃は非常に短気で、キレていないときがないほどだったという。それでも後の定信は精神の安定した老中として評判になった。修養、つまり自ら学んで身を治めることで人は変われる。中田はこれを「ユー・キャン・チェンジ」と表現し、引っ込み思案もキレやすさも変えられるというメッセージだと読む。

二人目は西郷隆盛である。中田は、このエピソードが何を示しているか考えてほしいと前置きして紹介する。大蔵省が全国一律で村や町の収支の制度を改めようとしたとき、ある町から苦情が出た。その町はかつて二宮尊徳(二宮金次郎)に救われていた。尊徳は過去十数年分の歳入と歳出を分析して平均を出し、支出を切り詰め、平均を上回った年の分は貯蓄と投資に回すといったルールを作っていた。町の人々はそれを失いたくないと西郷に訴えた。西郷はなんとか残したいと思ったが、大久保利通や大隈重信は聞き入れそうになく、井上馨には怒鳴られそうだと考え、まだ大した地位になかった渋沢のもとを訪ねた。

渋沢が「二宮のルールがどういうものかご存じですか」と尋ねると、西郷は全く知らないと答えた。渋沢はルールの中身を説明し、町の経済にとって悪いルールではないと認めたうえで、こう述べたという。大蔵省は国全体のルールを整備し、西欧に恥じない近代的で豊かな国を目指している。一つの町のために改革をやめたり特例を作ったりすれば、その町の利益にはなっても全体の利益にはならない。自分たちが背負っているのは国家ではないのか、と。西郷は黙ってうなずき、文句も言わずに帰った。渋沢はその姿を見て、西郷を信頼できる人だと思ったという。

中田はこれを、西郷の人柄をよく表す話として読む。のちに武士の不満を背負って勝てない戦いに向かったのも、勝てるからではなく、頼まれたから自分にできることをしようとしたのではないか。中田は、意と智の人と対比して、情愛の非常に強い人物をここで示したのだと解釈する。

三人目は乃木希典である。中田は乃木を、天皇の崩御後に自宅で自害し、殉死を選んだ陸軍大将として紹介する。渋沢は、その死がセンセーショナルに扱われているが、殉死だけを論じても乃木を論じたことにはならないと述べているという。渋沢によれば、乃木は清廉の人として知られていた。撃たれて傷が膿んだ身分の低い兵の膿を、最も地位の高い乃木が自ら吸い出した。その兵は後に命がけで乃木を守った、という逸話が有名らしい。それを、恩を売れば命がけで守るだろうと計算した行動だと見る人もいた。しかし、乃木は偉くなる前からそうしたことをしていた、という話も残っているという。そういう人が、自分が尽くすと決めた存在を失ったときに自害した。その文脈まで含めて考えれば、殉死の是非だけでなく乃木がどういう人物だったかが理解できる。行動だけでなく背景や何に満足するかまで見ることが人を見ることだ、と渋沢は言う。中田は、歴史上の人物を視観察と智情意で分析できるかもしれない、と受け止めている。

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孔子とキリスト――勝って、優しくする

中田が「そこまで言ってくれるのか」と驚いたのが、孔子とキリストの比較である。渋沢は両者が似ていると認める。ただし孔子は紀元前の人物で、宗教として教えを作ったわけではなく、乱世における生き方を説く政治学・哲学・道徳から出発した。キリスト教はユダヤ教の一派として宗教として始まった。出発点は違うが、迫害されながら多くの弟子を持った雰囲気は似ている、という。

それでも渋沢は、自分はキリストより孔子だと言う。右の頬を打たれたら左の頬を出せ、という博愛主義は違う、勝たなければならない戦いはある、というのである。智情意を備えた完き人となって勝つべき勝負には勝ち、その勝利を皆のために使う。それが渋沢の正義であり、競争そのものを否定するのではなく、良き競争か悪しき競争かが大事だという。

中田はここで、自分の意見だと断って語る。道徳はただ優しくしろと説くが、勝たなければならない場面や、優しいだけではつけ込まれる場面がある。守りたい人がいても、弱い人間には守れない。しかし強い人間はしばしばずるく、優しくない。ナポレオン、ヒトラー、毛沢東、スターリン、ルーズベルトといった強い人々は本当に優しかったのか。大量に殺し、大量に破壊した人が偉人と言えるのか。ただ一瞬偉かっただけの悪名高い人ではないのか。中田はそう考えてきたという。その問いへの答えが、視観察、智情意、完き人と偉き人の区別であり、とりわけ「勝って優しくする」という孔子対キリストの議論が自分に深く響いた、と中田は語る。

教育と情誼――知育と徳育を一緒にする

渋沢は、儒学は侍だけのものではなく、「武士は食わねど高楊枝」のように心だけ立派で金を稼がないという教えでもないと繰り返す。これからは欧米と張り合わなければならないのだから金を稼げ、そのうえで優しくあれ、という主張である。知能だけを育てても強いだけの悪い人間が育つ。侍には道徳を、農工商には金儲けを、と別々に教えてきたのが間違いで、知育と徳育を一緒にして初めて皆のために金を稼げる人材が育つ。ここから話は教育に移る。中田は、70歳を超えた渋沢がこれから教育を考えたいと述べていると紹介する。

渋沢は、儒学を親孝行の宗教と見るのも誤解だと言う。親が子に孝行を強いるのは地獄であり、親が言うべきことではない。孝行の形はさまざまで、親の世話をすべてするのも孝行かもしれないが、何もせず親に面倒を見させる子が、親にとって嬉しいならそれも孝行かもしれない。子が親を尊敬するあり方さえあればよい。目上に逆らうなといった考え方は江戸の朱子学が行き過ぎたもので、儒学の基本概念ではない、という。さらに渋沢は、この時代にすでに女性教育の重要性を説き、女性が担う役割の大きさを理解すべきだと述べていたと中田は紹介する。

一方で、中田が「シビアな一面」と呼ぶ指摘もある。かつての教育は、吉田松陰のような優れた師のもとに、実績を慕う者が自らの意思で弟子入りする形だった。少数の天才を生む教育である。明治になって学校ができ、誰もが教育を受けられるようになると、真面目に受けない生徒が増え、落語や講談を見に行くような感覚で「今日の先生は面白くない」と言って帰るようになった。渋沢はそれでいいのかと問う。皆に一定の教育をすれば全体の水準は上がるかもしれないが、誤解してはならない。才能には差があり、できない人はできない。だからこそ蟹穴主義が大事で、できないならできないなりに、できるならできるなりに社会に貢献することが幸福であり、成功することが幸福なのではない。同じ教育を受けたから全員が同じ成功を収めるはずだと考えるのは、間違いと苦しみの始まりだ、と渋沢は述べているという。

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成敗と運命――本当の成功とは何か

最終章で渋沢は、成功と失敗とは何かに行き着く。ここで再び菅原道真が登場する。中田の説明では、道真の時代には和魂漢才をめぐる議論があった。中国の知識は大事だが、莫大な費用と人命をかける遣唐使は形骸化しており、今は和魂を大事にすべきではないか。そう訴えて遣唐使の廃止に関わった道真は恨みを買い、右大臣と左大臣として争っていた藤原時平によって大宰府に左遷され、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」と詠んだ。しかし後世、時平を尊敬する人がいるだろうか。道真は天満宮に学問の神として祀られ、受験生が参拝に訪れる。どちらが成功したのか、と渋沢は問う。

もう一つの例が足利尊氏と楠木正成である。尊氏は南北朝の動乱の中で寝返りを重ね、最終的に室町幕府を開いた。しかし尊氏をかっこいいと言う人がいるだろうか。一方で、ぶれずに忠義を貫いた正成は非常に人気があった。この世での成功は一瞬だが、その人がどう生きたかは案外残る。それこそが本当の成功ではないか。そう考えれば、小さな成功や失敗は残りかすのようなものだ、と渋沢は言う。

大事なのはどう生きるかであり、それが天命だという。自分が何を志し、誰のために生きるのか。それさえぶれなければ、成功しようが失敗しようが関係ない。皆のために自分ができることをやろうではないか。これが論語と算盤を合わせた結論だと中田はまとめる。

中田の結論――「これは聖書なのではないか」

中田は読み終えたとき、この本が自分のバイブルになると思い、さらに「これは聖書なのではないか」と感じたという。日本で失われた道徳を、現実の経済に即して教えることで、現代の聖書を作り出している。渋沢は相当すごい人物だ、というのが中田の評価である。

一方で、中田は欠点がないか探したとも述べ、渋沢は女性関係にだらしないところがあり、娘たちからかなり言われていたそうだ、と付け加える。そして、誰のためにどう生きるのかを各自で考えてほしい、と視聴者に問いを投げかけて動画を締めくくっている。