宇宙はどう始まったのか――中田敦彦が語る、天才たちが繋いだ「宇宙創成」のバトン

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概要

宇宙はどうなっていて、いつ、どうやって始まったのか。中田敦彦はサイモン・シン著『宇宙創成』(青木薫訳、新潮文庫)を題材に、この問いに人類が挑んできた歴史をたどる。中田がこの動画で強調するのは、宇宙の謎はひとりの天才が解いたのではないという点だ。ある人が仮説を出し、別の人が修正し、さらに別の人が観測で裏付ける。その途中で、正しいことを言った人が嘲笑され、無視され、裁判にかけられることもあった。中田はこの過程を、天才たちのリレーとして語っていく。

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『フェルマーの最終定理』の宇宙版として

中田はまず、著者サイモン・シンを「最近大のお気に入り」と紹介する。歴史と科学を組み合わせて面白い物語にすることにかけては、シンの右に出る者はいないというのが中田の評価だ。以前に取り上げた『フェルマーの最終定理』では、数学界最大の謎を天才たちがバトンを繋いで解決した。中田によれば、『宇宙創成』は同じ構造を宇宙に当てはめた本である。

扱う謎は「我々がいるここはどこなのか」という問いだ。中田は現在の一般的な認識を確認するところから始める。地球は太陽の周りを回り、その太陽系は「天の川銀河」という銀河に含まれている。宇宙には他にも数多くの銀河がある。そして宇宙は、無が揺らいでインフレーションという膨張を起こし、そのエネルギーでビッグバンが起こり、元素やエネルギーが生まれ、それが銀河や星をつくった。その大きな銀河の中の太陽系の、ひとつの惑星が地球である。

理科の授業やテレビでなんとなく聞きかじったこの宇宙像が、実はつい最近まで謎に包まれていた。中田はその経緯を伝えたいと述べる。同時に、この話は『サピエンス全史』よりもさらに前の、いわば「宇宙全史」と呼べる規模の話だとも位置づける。ただし中田が断っているように、この動画が扱うのは宇宙そのものの歴史というより、宇宙がどうなっているのかを人間がどう考えてきたかの歴史である。

3:47

神話から観測と数学へ:紀元前6世紀のギリシャ

初期の社会では、太陽や月がなぜあるのか、地球がどうなっているのかは分からなかった。そのため、ほとんどが神や怪物によって説明されていたと中田は言う。例として挙げるのは、神がかき混ぜて日本列島をつくったという『古事記』の話や、巨人がバラバラになって大陸になったという古代中国の話だ。分からないものは怪物か神のせいにする。超自然の存在に全てを背負わせていた時代である。

これに「ちょっと違わない?」と疑問を持ったのが、紀元前6世紀頃のギリシャの哲学者・科学者たちだったと中田は説明する。彼らは想像ではなく観測し、それを数学で計算するという手法を始めた。中田はアリストテレス、アルキメデス、ピタゴラスの名を挙げ、三角形の面積や体積が計算できるようになったことが測量を発達させたと語る。

具体例として中田が示すのは、親指の爪と目線の角度、月の見かけの角度を使う方法だ。三角形を拡大し、角度を合わせれば遠くの距離が測れる。こうした手法によって、古代ギリシャの段階で地球・太陽・月の大きさとそれぞれの距離がおおよそ分かっていたという。中田はこれを「すごくないすか」と強調している。

6:00

地球は丸い――観測の積み重ね

それ以前の世界観について、中田は「平坦な大地の端から海の水が流れ落ち、その下に亀がいて、さらにその下に神がいる」といった神話的なイメージを冗談めかして描く。ギリシャの人々はそこから、地球は丸いらしいという認識に移っていった。

中田が面白いと語るのは、その気づき方だ。月も太陽も丸いのだから、地球も丸い可能性があるのではないか。船が水平線の向こうへ行くとき、帆がだんだん沈んでいくように見える。月食のときに月に映る地球の影が丸い。こうした観測が積み上げられた。

さらに中田は、歴史家ヘロドトスの記録にも触れる。北の方の人はよく寝ているという記録があり、それは寒く日照時間が短いからだ。地球が丸く、軸が傾いているとすれば、北の方は太陽の当たりが悪くなる。こうしたデータを集め、数学で距離を計算していくことで、地球は丸いという結論に至ったと中田は説明する。

7:59

「動いていない」という実感と地球中心説

ところが、ここまで見抜いたギリシャの天才たちにも大きな間違いがひとつあった。地球を中心に全ての天体が回っていると考えていたことだ。中田はその理由を、当時の人々の実感から説明する。もし地球がものすごいスピードで動いているなら、押し車を押したときのように向かい風を受けて髪がなびくはずだ。しかし髪はなびかない。だから地球は止まっている、という理屈である。

中田は、この認識が非常に長く尾を引いたと言う。そして実感としても受け入れやすかったと付け加える。太陽も月も星も地球の周りを動いて見えるし、自分たちが世界の中心にいると思った方が気持ちがいい。

9:08

「惑わす星」とプトレマイオスの辻褄合わせ

それでも、古代ギリシャには辻褄の合わない謎がひとつ残っていた。それが「惑わす星」、つまり惑星である。中田は、惑星がなぜ「惑星」と呼ばれるのかといえば、古代ギリシャの人を惑わしていたからだと説明する。

地球が自転しているので星は一様に動いて見え、公転によって季節ごとに見える星が変わる。冬にはオリオン座が見えるように、星の動きには決まりがある。ところが、同じく太陽系を回っている他の惑星は、遠くの恒星より地球に近いため、見かけの動きが大きく変わる。中田は、体を横に動かすと遠くの山はほとんど動かないが、目の前の指は大きく動くことにたとえる。地球が惑星を追い越すとき、周りの星がみな同じ方向に動いているのに、惑星だけがぐにゃりと逆行して見える。地球中心に全てが一律に動いているはずなのに、なぜ逆走するのか。

これに対してプトレマイオスが作ったのが、中田いわく「小手先理論」だった。地球を中心に太陽も他の星も動いているが、惑星は大きな円を描きながら、ところどころでさらに小さな円をくるくる描く。だから戻って見える、という説明である。

11:27

アリストテレスの功罪と、1500年無視されたアリスタルコス

なぜそこまで円にこだわったのか。中田はここも大事な点だとして、アリストテレスの存在を挙げる。アリストテレスは世界が美しい円でできていると考えていた。太陽も月も完全な円形であり、軌道も円である。

中田によれば、「万学の祖」と呼ばれたアリストテレスが見つけた理論は科学を大きく進歩させた。しかし尊敬されすぎたために、彼が陥ったミスまで1000年以上信じられてしまった。中田はこれをアリストテレスの「功罪」と呼ぶ。円で動くことは間違いないという前提のもとで、逆行は円の中の細かい円運動だという無理な理論を積み上げ、なんとか計算できるようにした。中田はこれを「プトレマイオスの辻褄合わせ」と表現する。人々も、円であることは疑わないものの、どこかごちゃついていて違う気がする、と感じていたという。

実はこの時代にも、アリスタルコスという人物が「本当は太陽中心なのではないか」と言っていたらしい、と中田は紹介する。しかしアリスタルコスは1500年間無視された。中田は、その理由を生活実感からかけ離れていたからだと説明する。「地球がすごいスピードで動いているなら、ジャンプしたら置いていかれるだろう」と言われれば、確かにそう思ってしまう。こうして違和感を抱えたまま、人類は長いあいだお手上げの状態にあった。中田は途中で数字を言い直し、紀元前6世紀から数えれば2000年弱だったと述べている。

13:42

コペルニクスの本はなぜ受け入れられなかったか

1500年後に現れたのがコペルニクスである。中田によれば、コペルニクスはアマチュアの天文家だった。ピタゴラスやアリスタルコスといった、ギリシャの少しマイナーな学問にまで通じた人物に師事し、そこで得た知識から「プトレマイオスは違う、これは太陽中心なのだ」と気づいた。大どんでん返しを意味する「コペルニクス的転回」という表現は、ここから来ている。

コペルニクスは理論を積み上げて本を出したが、まったく売れなかった。中田はその理由を三つ挙げる。一つ目は、コペルニクスが無名で実績がなかったこと。二つ目は、文章が難解で、一般の人が驚くような書き方ではなかったこと。三つ目、そして最大の弱点は、計算の精度が少し甘かったことだ。プトレマイオスの方が惑星の位置をきちんと計算できているではないか、と言われてしまった。

なぜずれたのか。中田は、これも「アリストテレスの呪い」だったと説明する。コペルニクスは、全ての惑星がきっちりとした円軌道で動いていると考えていた。そのために計算がずれていたのである。

16:19

ティコの「天の城」とケプラーの楕円軌道

この問題を改良したのがケプラーだった。中田は、ケプラーがデンマークの貴族ティコのもとに助手として赴いたエピソードを、かなりの時間を割いて語る。

中田の語るティコは、金持ちでデンマーク王にも気に入られた貴族で、「天の城」とあだ名される天文台を莫大な予算をかけて作った。宇宙を知りたくてたまらず、観測を続けて膨大なデータを集めていた。しかし、そのデータはいつか自分だけで発表しようと誰にも見せなかった。一方でパーティー好きでもあり、貴族たちを呼んで望遠鏡や大広間を見せびらかし、室内に鹿を放ち、その鹿に酒を飲ませたところ階段から落ちて死んだ、という話まで中田は紹介し、「パリピ」と評している。

そのティコが、しっかり計算できる人材としてケプラーを呼んだ。ティコはデータを見せつつも、自分の実績だから人には言うなと口止めしていたという。ところがティコは急死してしまう。中田の語るところでは、ティコより格上の男爵をもてなした席で、話の途中でトイレに立つのは失礼だと思い込み、長時間我慢し続けた。男爵が帰る頃には膀胱がパンパンになって出なくなり、その後高熱を出して亡くなったという。

残されたケプラーがデータを開封すると、膨大な観測データがあり、設備も整っていた。そこにはコペルニクスの本もあった。太陽中心は本当なのか、それならなぜずれるのか――とデータを計算するうちに、ケプラーは気づく。惑星の軌道は円ではなく楕円なのだ、と。さらに、コペルニクスは惑星が一定の速さで動くと思い込んでいたが、観測では速いときと遅いときがあった。惑星は太陽に近づくと速くなり、離れると遅くなる。中田はケプラーの心情に寄せて、「この速さのずれと楕円軌道がなかったから、コペルニクスはうまくいかなかったのだ」と語る。理論はここまでできた。あとは証明だけだった。

20:22

ガリレオの反逆:落下実験と最強の望遠鏡

そこで登場するのが、中田が「科学の父」と呼ぶガリレオ・ガリレイである。中田はこれを「万学の祖 対 科学の父」の戦いとして描く。

ガリレオが最初に挑んだアリストテレスの誤りのひとつは、重いものは軽いものより速く落ちるという考えだった。紙と鉄球を落とせば、鉄球はドンと落ち、紙はひらひら舞う。直感的にはそう思える。中田によれば、イタリアのピサ大学にいたガリレオは、これが理論的に誤っていると主張し、ピサの斜塔から物を一緒に落とす実験をして、落ちる速度は物の重さによらないことを示した。その結果、アリストテレスに反旗を翻すとは何事かと言われ、ピサ大学を去ることになったという。

その後ガリレオは、望遠鏡の精度が上がったという話をよそで耳にし、自分でも作り始める。光学をはるかに深く理解していたガリレオは、元の製作者を上回る望遠鏡を作り上げ、観測を始めた。中田によれば、ここでケプラーまでの理論を裏付けるいくつもの証拠が見つかった。

一つ目は、木星に衛星があったことだ。月が地球の周りを回っているように、衛星は惑星の周りを回る。全てが地球を中心に回っているという考えは、神が世界を作り、人間が最も尊い存在だとする宗教的な考えとも都合よく合っていた。ところが木星の周りを回っているものがある。中田はこれを「全員が俺たちの子分じゃない、あいつも子分を持っている」と表現する。

二つ目は、金星の満ち欠けである。月の満ち欠けは、地球と月と太陽の位置関係によって光の受け方が変わることで起こる。中田の説明では、プトレマイオスの理論のように金星が地球の周りを動いているのなら、金星は満ち欠けしないはずだった。満ち欠けが観測されたことで、プトレマイオスの説は観測によって打破された。

三つ目は、太陽の黒点と月のクレーターだ。アリストテレスは、天体は全てつるりとした完全な球体だと言っていた。ところが太陽にはほくろのような黒点があり、月はクレーターやひび割れででこぼこしている。ガリレオは観測によって、アリストテレスもプトレマイオスも誤っていることの証拠を示したのだと中田は語る。

25:15

対話形式のベストセラーと裁判

ガリレオはそれを本にまとめた。コペルニクスの本が難解だったのに対し、ガリレオは地球中心論者と太陽中心論者の会話形式で、中田いわく「漫才みたいに」面白く書いた。しかも太陽中心論者を格好よく、地球中心論者を愚か者のように描いた。中田はその場面を、「金星はこう動くとプトレマイオスさんが」「でも満ち欠けがあるんだ、いいからよだれを拭けよ」といった調子で再現してみせる。本はベストセラーになった。

中田は、ガリレオがここまで踏み込んだ本を出せたのには裏があったと言う。コペルニクスの本が売れなかったのは、出せば教会にどんな処刑をされるか分からなかったからでもある。実際、後の時代にコペルニクスの説を吹聴して裁判にかけられ、処刑された人もいたという。そのため出版の際には、「これはあくまでひとつのお話で、正しいかどうかは分からない」という序文が、コペルニクス本人の知らないうちに挟み込まれた。中田によれば、コペルニクスは出版直前に体調を崩し、死の間際に本をひと目見せてもらったところ、自分が書いていないその序文を目にし、人生をかけた本がなぜこんな目に、という思いで亡くなった。それほど、キリスト教の側から見て危険な主張だったということだ。

一方のガリレオは、後にカトリックの教皇となる人物と学友だった。中田の語りでは、ガリレオは教皇に会いに行き、教義的にまずいのは分かっているがこういう本を出したい、と持ちかけ、教皇も「話は分かった」と受け止めた。親友だから大丈夫だろうと、ガリレオは出版に踏み切った。

ところが、着想から出版まで数年かかるあいだに事情が変わっていた。三十年戦争が始まり、カトリックとプロテスタントの争いが絶えなくなった。教皇はカトリックの教義を守る立場から、教義に反することは許さないという姿勢になっていた。そこへガリレオの本が出てしまう。教皇は回収を命じたが、面白すぎてすでに売り切れていた。

さらに問題になったのが、地球中心論者を愚か者として描いたことだった。中田によれば、ガリレオを快く思わない教皇の側近たちが、「この愚か者の発言は、かつて教皇がおっしゃっていたことではないか。ガリレオは教皇を茶化している」と吹き込んだ。怒った教皇は裁判を起こし、ガリレオは間違いを認めさせられた。しかし最後に「それでも地球は動いている」と言って裁判所を後にした――中田はこれを「伝説的」な一言として紹介している。

30:25

世代交代で入れ替わった常識

ここまで証拠が揃っても、キリスト教の勢力が強く、太陽中心の考えはなかなか一般の人々にまで浸透しなかったと中田は言う。では、18世紀から19世紀にかけて、どうやって考えが入れ替わったのか。

中田の答えは「シンプルな話」だった。地球が中心だと言ってきた人たちが死んでいったのである。上の世代は、その理論で権威になってしまったために、今さら違ったとは認められなかった。その世代がいなくなるにつれ、「こっちが正しいのに」と思っていた若い科学者たちが力を持ち始め、新しい証拠も見つかっていった。教会側も、これだけ証拠が出ているのに否定し続ければ教会が愚かに見えると考え、少しずつ理解を示すようになった。こうして18〜19世紀をかけて、コペルニクス、ケプラー、ガリレオが示そうとした、太陽を中心に地球が回っているという宇宙の姿が明らかになったと中田はまとめる。

31:34

静的で永遠な宇宙から、「宇宙創成」の問いへ

中田は、ここでようやく次の問いが現れると強調する。宇宙の形は分かったが、それはいつからこうなったのか。宇宙創成という最大の謎である。

中田の説明では、19世紀まではキリスト教ともなんとか折り合いがついていた。神が最初に作り、最初から宇宙はこうだったという「静的で永遠な宇宙」の考え方があったからだ。宇宙は動かず、ずっと前からこうで、ずっと先もこうである。どこかから始まったとなると、神が始めたのではないような話になって大変なので、考えるのをやめておこう、という雰囲気だったという。この最大の謎に、20世紀の天才たちが動き出す。宇宙はある時点から始まった、神が作ったものではなかった――その戦いの幕を開けたのがアインシュタインだと中田は言う。

33:17

アインシュタイン対ニュートン:重力をめぐる争い

ガリレオがアリストテレスと戦ったように、アインシュタインが戦った相手はニュートンだったと中田は語る。争点は重力の計算方法だった。

ニュートンは、ペストで家に引きこもっていた1666年の「奇跡の年」に、光の分析、微分積分、重力などを次々に発見した革命児だと中田は紹介する。重力の理論によって、ロケットの軌道からボールの動きまで、さまざまなものが計算できるようになった。ところがアインシュタインは、ニュートンの計算式では辻褄の合わないケースがあることに気づいた。重力が非常に強い場合である。

中田は前提として光の速さの話に触れる。光は速すぎて無限の速さだと思われていたが、衛星の食がずれることなど、宇宙規模の観測によってようやく光の速さが計算できるようになった。光の速さと時間を扱ったのが特殊相対性理論で、それをさらに広げて時空と重力による歪みを考えたのが一般相対性理論だと中田は説明する。速く動くものほど時間がゆっくり進み、時間も空間も伸び縮みするという考えから、重力が空間を歪めるという発想に至ったという。

中田自身、このあたりは「異次元の話」でぱっと説明しても分からないものだと認めつつ、要点を次のようにまとめる。ニュートンの式は、地球周辺程度の重力では合う。しかし太陽クラスの巨大な天体は時空を歪めるので、ニュートンの式ではずれる。それを示したのが一般相対性理論であり、ブラックホールもこうした理論の中にある。

そのうえでアインシュタインは、強い重力で引き込み合うなら、宇宙は収縮しているのではないかと考えた。宇宙は静的ではなく動的だという発想である。しかしそれではそれまでの常識と合わない。そこでアインシュタインは、収縮を防ぐ何らかの作用として「宇宙定数」を置き、静的な宇宙という像をぎりぎり保った。中田はこれをアインシュタインの「限界」と呼び、とてつもない規模の理論を築きながらも、宇宙は動かないというところで止まってしまったと語る。

37:15

フリードマンとルメートルの膨張説、ハッブルの観測

その壁を越えたのが、フリードマンとルメートルだった。中田の語りでは、二人は宇宙定数は無理があるのではないかと考え、宇宙は収縮ではなく膨張しているとしたらどうか、という膨張説を唱えた。膨張しているなら、元々はとても小さかったものがドーンと広がり、今も広がり続けていることになる。

中田はここで、この話の面白さを改めて強調する。アイデアを出す人がいて、それを修正する人がいて、観測する人がいる。「宇宙は動いているのではないか」と言ったアインシュタインに対し、フリードマンとルメートルが「いや、膨らんでいるのだ」と修正し、次は観測の番になる。

観測を担ったのがハッブルである。中田は、ハッブル宇宙望遠鏡の名前の由来となった人物だと紹介する。背景として、1700年代にハーシェルが天の川銀河を示し、太陽系はその渦の腕のひとつの中にあるところまでは分かっていた。しかし、銀河が天の川銀河ひとつだけなのか、たくさんあるのかはまだ分かっていなかった。ハッブルは非常に遠いところに天の川銀河のものではない天体を見つけ、銀河はたくさんあることを明らかにした。中田はこれを1923年のことだとし、宇宙が銀河だらけだと分かったのはそんな最近のことなのだと驚きを込めて語る。

さらにハッブルが他の銀河を観測すると、どの銀河も少しずつ遠ざかっているらしいことが分かった。みんなが少しずつ離れている。これは膨張説だ、宇宙が少しずつ広がっているから銀河が離れていくのだ――と、膨張説とビッグバンにあと一歩まで迫った。

40:18

「光のこだま」とCOBE衛星

最後の一押しとして中田が挙げるのが、1940年代のガモフ、アルファー、ハーマンのチームである。彼らは他にもさまざまな発見をしたが、中田は「今日は面白いところだけ伝えたいから」と省き、「光のこだま」に絞って説明する。

中田の説明はこうだ。ぎゅっと詰まった状態からビッグバンが起こった後、光が通れるようになるまでにはかなりの時間がかかった。光が通れるようになった最初の時点の光の名残が、ビッグバンの名残の光である。

なぜそれが今も見えるのかについて、中田は光年を使って説明する。1光年は光が1年で進む距離であり、遠く離れたところの光は、ずいぶん昔に出た光が今届いているものだ。月も太陽も、私たちが見ているのは少し前の姿である。中田はこれを雷にたとえる。ピカッと光ってから3秒ほどしてゴロゴロと鳴るのは、光より音が遅く届くからで、そのずれで雷が遠いと分かる。地球上では光は一瞬で届くように感じるが、宇宙は遠いので光が届くまでに長い時間がかかる。だとすれば、非常に遠くを観測すれば、ビッグバンの名残の光が見えるのではないか。

そして1992年、COBE衛星がその名残を観測し、証拠が見つかって、ビッグバンが成立した――中田はそう話を結ぶ。後半はだいぶ駆け足になったと自ら認めつつ、理論があり、修正があり、観測がある、という流れを「理論・修正・観測」と繰り返して確認している。

43:01

理論・修正・観測、そして次のバトン

ここまで来てようやく、何もないところから宇宙が広がり、銀河ができ、その中の太陽系で地球が回り、その上に日本がある、という今の認識が分かった。中田は、それまでの道のりを「誤解に次ぐ誤解、仮説に次ぐ仮説」と表現する。

そのうえで中田が面白いと語るのは、常に「こうなんじゃないか」と思う人がいて、まったく違うと言われながらも、その後に望遠鏡や衛星といったテクノロジーが進化し、それが裏付けられてきたという点だ。今の理論にも、まだ辻褄の合わないところや分かっていないことがたくさんあり、それを今も調べている人たちがいる。カメラや衛星の精度も上がり続けている。中田は、宇宙や人類について「そうだったのか」と分かることがこれからも必ずあると語る。

そのとき、1500年無視されたアリスタルコスのように、「あいつの言っていたことは当たっていた」と思い出されることがあるかもしれない。今「何を言っているのか分からない」と言われている人や、まだ納得されていない説が、将来正しかったと証明される可能性がある。中田は、この動画を見ている人が次のバトンを引き継ぐ誰かかもしれないと述べ、「宇宙の謎を解いてみてください」と呼びかけて話を終えている。