進歩主義者はなぜ保守に傾くのか:柏崎礼生氏が語る、DXで「変えないもの」を問う意味
国立情報学研究所 - National Institute of Informatics学術情報基盤オープンフォーラム2026の「大学DX勉強会」で、近畿大学情報学研究所・情報学部准教授の柏崎礼生氏は「進歩主義者が10年もすると保守主義に傾倒するのは腐敗か、それともそれ以外の何かか。」と題して登壇した。当初共有したタイトルから細かな修正を加えたうえで、柏崎氏はこの問いを他人への批判ではなく自分自身の変化として語った。そしてDXにおける「保守」とは何か、変化の中で何を守るべきかを論じた。
所属組織について:DXが「そこらで出てくる」文化
柏崎氏はまず免責事項として、自分は現在の所属でDX担当理事や本部長といった役職に就いていない一構成員であり、上司へのアピールのつもりもないと断った。そのうえで、近畿大学では外から見ればDXと呼ばれるような取り組みが個人単位であちこちから出てきており、それを発表する場も組織内にあると紹介した。柏崎氏によれば、同大学の意思決定は「おもろいかおもろくないか」という基準でかなり動いている。
柏崎氏は1年ほど前、100億円規模の資金が投じられるプロジェクトに巻き込まれかけたという。そのプロジェクトは最終的に立ち消えになったことをほのめかしつつも、そうしたワクワク感を理事長や事務局長が大切にしていると話した。柏崎氏は4年前に加わった自分がつくった文化ではなく、以前から連綿と続き、構成員が互いに刺激を与え合っているものだと述べた。
「10年前の自分」を見せられる感覚
DX勉強会では、レガシーと呼ばれるものを変えていこうとする野心的な取り組みを数多く見てきたと柏崎氏は言う。特に若い人が目を輝かせて「変わらないことの先には緩やかな死しか待っていません」と語るのを聞くと、10年ほど前に自分も同じことを言っていたと思い出し、直視したくないものを見せられているような感覚になるという。
タイトルを共有した際、ある登壇者から「これは俺のことか」と言われたエピソードも紹介された。柏崎氏はその意図は全くなく、自分自身が保守的になったことを指していると説明した。
保守主義者の定義:変化する現実に応答する人
柏崎氏は進歩主義者を否定しない。変化し続ける世の中で何を変えなければならないかを見続ける人は大事であり、かつての自分もそうだったと述べる。一方で、若い世代から見れば「この人がいるから変わらない」と目の上のたんこぶのように思われがちな保守主義者を、柏崎氏は精一杯好意的に擁護して「変化する現実に応答する人」と定義したいと語った。
その根拠として柏崎氏が挙げたのは、文明や文化が簡単に壊れるという点である。自分たちのイデオロギーと違うから不要だとすれば一瞬で壊せるが、再建は極めて困難だという。世界が変化し続けることは誰もが知っている。それを前提に、何を失ってはならないのか、何を守ろうとするのかを問い続ける人が保守主義者だというのが柏崎氏の考えである。そうする理由は次の世代に渡さなければならないものがあるからであり、柏崎氏自身も今の組織にいて、この文化と遺産を次の世代に受け継いでほしいと感じたという。
柏崎氏は、直前の登壇者の話とも結局同じところに行き着いたと述べた。示し合わせたわけでもないのに、DX勉強会のメンバーの間で「保守」という論点が共通して出てくるのは偶然であり、人はこうなっていくものなのだと感じたという。
「チェスタトンのフェンス」は誰の言葉か
組織体制やツールを変えるだけなら、金と権力があればよいというのが「ファイナルアンサー」になると柏崎氏は言う。非効率だ、形骸化している、ぬるま湯の安寧だ、前時代的だといった理由で何かを変えたいと考えるのは自然なことである。柏崎氏は他人を批判する強い表現は避けたいとして、これを自分ごととして語った。しかし、そこには本当に変えてよいのかという問いが残る。
ここで柏崎氏は、イギリスの文筆家チェスタトンの「なぜフェンスが立てられたのか分かるまで、フェンスを撤去してはならない」という警句を引いた。この言葉は保守主義者が進歩主義者に向ける決まり文句のように思われがちだが、チェスタトンは、知的な進歩主義者から現代的な進歩主義者への言葉としてこれを用いていると柏崎氏は説明する。言う側も言われる側も進歩主義者であることに留意したい、というのが柏崎氏の指摘である。
柏崎氏のDXの目的:純便益と制約条件
柏崎氏は、どうすればインクルーシブに、構成員を包摂して一緒に歩いていけるかを、DXの目的とまでは言わないが、DXの前後であってほしいことだと語った。
柏崎氏は自身のDXの目的について、最初は自分が美しいと感じる書き方でスライドにまとめたが、誰にも伝わらないと自分でツッコミを入れ、分かりやすく書き直したという。その中心は、構成員全体の純便益の変化を最大化することである。ただしそれだけでは、一部の少数派が大きな利益を得ることで全体の便益を最大化する形も許されかねない。そこで柏崎氏は、自分の考えでは必ず制約条件を付けたいと述べた。
一つは、純便益の変化がどの個人にとっても損失であってはならないという条件である。保守的すぎると思われるかもしれないと柏崎氏自身も認めている。もう一つは、本人が選択し合意していない変更によって降りかかる負担を、組織全体としてできる限り小さく抑えることである。本人が喜んで変わっていく分には構わない。当初は「最小化」と書いていたが、強すぎるためChatGPTの助言も受けて表現を柔らかくしたという。
遠くへ行くならみんなで:アドベンチャーレースの例
柏崎氏が最近大切にしているのは、「早く行きたいときは一人で進んだ方がいいが、遠くに行きたいならみんなで行った方がいい」という考えだという。柏崎氏はアドベンチャーレースやトレイルランニングを好んでいる。トレイルランニングは複数人で走る形式もあるが、競技としては基本的に一人で行う。これに対してアドベンチャーレースは4人程度のチームで行う。ロゲイニングのように進む方向を判断する人、先導する人、全員が消耗したときにバックアップする人など、さまざまな役割がなければ、1000kmに及ぶような道のりを進むのは難しいからだという。
柏崎氏はこの例から、みんなで行くためにスピードだけを求めても仕方がないと述べる。ビジネスでは速い判断が重要だとよく言われ、実際に良いこともある。しかしそれによって失うものもある。良い面と悪い面を両方見ながら決断していくことが、柏崎氏のDXにおける立場だという。
弁証法は「論破」ではない
柏崎氏はよく弁証法を取り上げるという。テーゼとアンチテーゼを戦わせてアウフヘーベンし、ジンテーゼという新たな次元に至るという説明は、議論で相手を論破すればよいという、すぐに便利な結論を求める風潮の中で誤解されることがあると柏崎氏は言う。柏崎氏の理解では、弁証法の本来の意味は論破ではない。対決の先に双方が納得できる未来はないと分かっている。だから、自分の得意なもので相手を打ち負かしても何も解決しない。別の多次元的な要素を持ち込み、どうすれば互いに歩み寄って合意を形成できるかに道を見いだすことこそ、弁証法が求めた統合ではないか。柏崎氏はそこを見直したいと述べた。
「仕方がない」に抗う
決断してある程度のものを切り捨てなければ進まない、仕方がない、という意見もある。柏崎氏は、まさにその「仕方がない」という言葉に最後まで抗いたいと語った。DXという名目のもとで「仕方ない」と切り捨てられたものにこそ眼差しを向けたい、というのが柏崎氏の立場である。
自分たちはどうありたいのか:「暇になりたい」
柏崎氏は、DX勉強会で得た知見は最終的に「自分たちはどうありたいのか」という地点に行き着くと述べる。DXによって、自分たちの組織がどこに行きたいのか、どうありたいのかが問われているのではないか、というのである。
柏崎氏は聴衆に対し、ありたい姿とは昇進することか、より大きな権力を得ることか、より高い給料をもらうことかと問いかけた。柏崎氏自身の答えは「早くもっと暇になりたい」だという。学生にも普段から、自分の研究やライフワークの目的は、自分や自分に同調する人の暇な時間を最大化することだと伝えているという。余裕がないと人は人に優しくなれない、自分は人に優しい人間でありたい、だから暇になりたい、という論理である。そうした価値観の人が柏崎氏のもとに集まってはくるが、その集まりは大きくなく、大きくしようともあまり考えていない。大きくなると自分が強くなったような気持ちになってしまうからだと柏崎氏は話した。
正しさは誰にも分からない、だから身を寄せ合う
まとめとして柏崎氏は、選択が正しかったのかをつい求めてしまうと語った。しかし、それは誰にも分からない。結果が自分を肯定することはあっても、それは正しさや正しい未来を担保するものではない。それでも人は寂しくなり、不安になり、茫漠と広がる広大な平原を前に足がすくんでしまう。
そのときに必要なのが、勉強会のような場で「寂しいよね」「わかる」と言い合える共感と連帯だと柏崎氏は述べる。方法論の正しさを認め合うのではなく、選択に迷う者同士が集い、身を寄せ合うことが大事ではないかという。一橋講堂に集まっている参加者もまさにそうした人たちだと柏崎氏は言う。そうする中で、自分たちはそもそも何を変えたくないのかを見いだした人が、保守主義者と呼ばれるようになっていったのだろう、と柏崎氏は推測する。
柏崎氏は最後に、DXによってさまざまなものを変えたところが実は始まりなのだと語った。そこに至るまでの変化の過程がDXであり、そこから本当のDXが始まるのだろうという言葉で、発表を締めくくった。
今、玉つくり先生のお話についてスライドでヤジを入力しようかなとやっていたら、唐突に私の発表に移ってあわあわとなっている柏崎でございます。よろしくお願いいたします。それでですね、ではスライドを移させていただこうと思います。
今タイトルはお前が読めという風に言われてしまったので、私が読もうと思うんですけども、実はこれをですね、タイトルとして共有した後、なんかちょっと違うなっていう風に思ってですね、本当に細かい修正なんですけども、こんな感じで、「進歩主義者が10年もすると保守主義に傾倒するのは腐敗か、それとも」というお話をさせていただこうと思います。
改めて言うまでもないことかもしれませんけど、一応、免責事項をですね、お話をさせていただこうと思います。ちなみに私は今の所属において別にDX担当理事とか本部長とか、そういった役職についているわけでもなく一構成員で、うちの組織を別に持ち上げて、もしかしたらどっかで聞かれてるかもしれない上司とかにですね、アピールをしようとかそういう意味ではないんだけども、うちの大学は本当にこう、個々人がいろいろ、多分よそから見るとDXだねっていう風に言われるようなことが、もう本当にそこらでこうポコポコポコポコ出てきているんですよ。でそれを発表する場も組織にあって、だから僕が何かするまでもなく、そういうカルチャーがそもそもある。
これはおそらく皆さんご存知かもしれませんけども、うちの大学ってその意思決定の方法が、おもろいかおもろくないかという、そういう判断基準で結構動いてるところがあります。こう配信されておきながらオフレコでっていうのはですね、いかにもナンセンスなんですけども、実は僕1年ほど前にですね、100億という金額が注ぎ込まれるですね、プロジェクトに巻き取られそうになって、最終的にぽしゃったんですよ、とは言いませんけども、なんだけども、そういうワクワク感があったり、そういうものを、すごくうちの理事長とか事務局長が大切にしてくれてるんですよね。それは高々4年前にジョインした僕がどうこうできるようなカルチャーではなくって、そういうものがずっとあった。そしてそれが連綿と今も続いていて、お互いに刺激を与え合っているっていう、そういうのがあったりいたします。で、すごいな、うちの組織っていう、そういうアピールをまずさせていただくんですけども、表題にもあった進歩主義者、DX勉強会をやっていく中で本当にいろんな様々な取り組み、今まであったいわゆるレガシーと呼ばれるものを変えていこうっていう風なお話を見てきていました。で、その中で、あ、すごいな、すごい野心的に取り組んでるなっていう風に思っていたりします。
特に、こういう言い方をするとお前も老いたなっていう風に言われそうな気がするんですけども、若い人たちが目をですね、輝かせながら「変わらないことの先には緩やかな死しか待っていません」っていう風なこと言われると、ああ、なんか10年ぐらい前に自分言ったわ[笑い]みたいな、ちょっとこう直視したくない何かを見せられてるような感じがあったりいたします。その瞬間に[笑い]、あ、ちなみにこれもディスクレーマーで言うべきだったんですけども、この発表タイトルを共有した時にやが先生がですね、これ俺のことかっていう風にですね、言ってきたんですよね。標的になったのは俺のことを揶揄しとるのかみたいなことを言ったも、そういう意味は全くございません。むしろ自分のことを言ってるわけなんです。自分はそんな感じで保守的になってしまったなという風な感じなんですけども。進歩主義者、僕はすごく大事ですし、かつての自分もそうだったし、変化し続けるこの世の中の中で何を変えなければならないのか、そこをずっと見ている人、そこがすごく大事と僕は思ったりするんですよね。じゃあ、こう、若い人から見ると、あのロートルがみたいな感じで、あの人間がいるからいろんなものが変わんないんじゃいっていう風に、こう、目の上のたんこぶのように考えられる保守主義者っていうのは、精一杯好意的に擁護させていただくと、変化する現実に応答する人だと僕は定義したいんですよね。
皆さんもご経験があるかもしれませんけども、文明や文化っていうのはいとも簡単に壊れてきます。これは必要ない、自分たちのイデオロギーと違うから、これはなくそうっていう風にしたら一瞬で壊すことはできます。そしてそれを再建することは極めて困難です。エントロピーのお話をするまでもなく、これは極めて難しいことです。世界が変化し続けるっていうのは、これは誰しも分かっている現実なんですね。これを前提として、何を失ってはならないのか、何を守ろうとするのか我々はっていう、それを問い続ける人が保守主義者なんだと僕は思ってるわけなんですね。それは取りも直さず、なんでそんなことをするのかって言うと、次の世代にこれを渡さなければならないっていう風に考えているからです。これはすごく価値があるものだと私はこの組織にいて思った。だから次の世代にもこのカルチャーを、この遺産を受け継いで欲しいっていう1つのメッセージなわけなんです。
で、DXにおける進歩と保守についてちょっとお話をしようとすると、これなんていうか、先ほどの玉つくり先生のお話にもすごく絡んで、結局同じところ見るわけかと思ったんですけども、その保守っていう風なお話がやはり出てきちゃうんですよね。そこにこのDX勉強会のメンツの中でですね、共通があるのは本当に偶然です。別にこう示し合わせたわけでも何でもないのに、こういう風な人にやっぱりなるんだなっていう風に思うんですよね。
で、DXっていうのが例えば組織の体制とか、あるいは様々なツール、そういったものを変えようっていうんだったら、それは金と権力があればいいんじゃないですかって話でファイナルアンサーになるわけなんですよ。でも、例えばね、変えたいと思う、変えた皆さんが、とは言いません。主語がでかいことと強い表現はなるべく使いたくない人間になってしまったので、自分ごととしてお話をさせていただきたいんですけども、例えば、あ、これは非効率的だなとか、こいつは陳腐化しているなとか、それから、あ、これってこのぬるま湯の安住と安心だよなとか、前時代的だよとか、色々とありますよね。こういったものも含まれていくわけな、こういったものを変えていきたいっていう風に考えるわけなんですよ。なんだけども、そこには本当にそれ変えちゃっていいのかっていうお話があったりするんですよね。皆さんも聞いたことがあるかもしれません。チェスタトンというイギリスの文筆家が書いた、「なぜフェンスが立てられたのか分かるまでフェンスを撤去してはならない」という警句があるわけなんですよね。
この言葉って実は、よくね、進歩主義者に対する保守主義者の言葉みたいなもんだと思われがちなんですけども、そうではなくて、チェスタトンは実はこの言葉を、現代的な進歩主義者に対して知的な進歩主義者からの言葉として使っていたりするんですね。実はこれを言ってる側も言われる側も両方とも進歩主義者であるっていう風なことは留意したいわけなんです。
で、僕的には、どうやったらインクルーシブに、どうやったら包摂してその構成員が一緒に歩いていけるのかっていう風なこと。これがDXの目的とか、そういう風に言うつもりはないんですけれども、DX前後であって欲しい事柄だったりいたします。それについて、あくまでも僕のDXの目的っていう風なものは何なのかって言うと、最初はこういうことを書いてたんですよ。僕にとってこういう書き方が美しいなと思ったからこういう風に書いていたんですけども、これじゃ全然誰にも分かってもらえない。そういうとこやぞと自分的にですね、ツッコミが入ってですね、ちゃんと分かりやすく描こう。目的っていうのはですね、1番大事なポイントは構成員全体の純便益の変化っていう風なものを最大化することでなければならない。だから一定数の人間、特に少数派の人間だけがものすごい利益を享受することによって、全体としてはこの便益を最大化するのもオッケーなのかっていう風な話にもなりかねないんですよね。
で、そこで僕はあらゆる表現においてはですね、あ、また主語、表現でけえな。表現が強いと思うんだけども、少なくとも僕におきましては、あらゆる表現においてある表現に対する制約条件を必ずつけたいという風に思ってるんです。この制約条件というのがちょっと厳しすぎるのではないか、ちょっと保守にすぎるのではないかと思われるかもしれませんが、純便益の変化はどの個人においても損失であってはならないと僕は思っているわけです。一方でなおかつ、本人の選択を、自分からそのDXによって喜んで変わっていく分についてはいいんですけども、選択や合意にない変更負担、すなわち降りかかった負担という風なものは、組織全体として最小化っていう風に言ってしまうとちょっと強いので、ここをなるべく柔らかくしたんですけども、柔らかくしろとChatGPTが言ってたんですけども、組織全体としてできる限り小さく抑えなければならないと僕自身のDXにおいては考えるわけなんです。
僕がもうここんところずっと大切にしているのは、早く行きたい時は1人で進んだ方がいいわけです。なんだけども、もしも自分たちが遠くに行きたいのであれば、みんなで行った方がいいよと。僕はアドベンチャーレースとかトレイルランニングとか大好きな人間なんですけども、確かに1人で行うものもあったりします。トレイルランニングを複数人でやるっていう風なやつもありますけれども、競技としては基本的に1人です。なんですけども、アドベンチャーレースっていうのは基本的に4人とかのグループで行います。それはロゲイニングといった、方向をどっちにすればいいのか、駆動していく時に先導する人間は誰か、最終的にみんなが消耗した時にバックアップをする人間は誰なのか。いろんな構成要素がなければ、例えば1000kmにわたる道のりを走っていくなんていう風なことが困難だからなんですね。みんなで行くっていう風なことをするためには、ものすごくスピードだけを要求していっても仕方がない。スピードのある判断がビジネスには重要っていう風によく言われますけども、その即座、即断、早い決断の先に何がありますかっていうところ。もちろん色々とあるんですよ。いいこともある。いいこともあるんだけども、それによって失ったものもありますよね。このプロス・アンド・コンズ、いいことと悪いこと両方とも一緒に見ながら色々と決断していきたいなというのが、僕のDXにおける立場なんです。
よくあるこの弁証法のですね、というのを僕はよく取り上げてしまうんですけども、つまり弁証法ってね、ベンサムが言った、このテーゼとアンチテーゼをこう戦わせると、ジンテーゼという風に言われますけれども、アウフヘーベンして新たな次元にっていう風な話があって、ああ、なるほどね、つまりこう議論して相手を論破すればいいんやろみたいな、こういう感じの極めてファストな議論というかですね、コンビニエントな、こう結論をすぐに見出したいっていう風なこの風潮という風なもので、そういう風に誤解されることもあるんですけども、そもそもの弁証法的な定義っていうのはそうではないですよね。論破するんではなくって、この対決の先にはちゃんとした両方ともが納得できる未来という風なものがないということが分かっている。だから今自分が持ち出してきてる自分の得意なものっていう風なもので相手をボコボコにしたところで、何も実は解決しないではないか。もっと違う多次元的な要素で、どうやったらお互いが歩み寄って合意形成ができる、そういう風な未来を紡いでいけるのかっていう風なところ、そこの部分に僕たちは道を見出さなければならないのか。それがそもそも弁証法が求めていたこのジンテーゼという風なもの、統合という風なものではないのか。そこをもう1回見直してみる、みたいなと僕は思うわけなんですね。
いや、そう言っても決断をしてある程度のものは切り捨てないとあかんで、そうしないと進まん、仕方ないっていう風に言う人もいます。で、僕はまさにそこなんです。この仕方がないっていう風な言葉に最後まで抗いたい。DXっていう風な1つの名目のもとでいろんなものを仕方ないっていう風に言って切り捨ててしまったもの、そのものに対して僕はまなざしを向けたいっていう風に思うわけなんです。
最終的には自分たちはどうありたい? またそういう話をするのかと思われるかもしれませんが、僕にとっては最終的にこのDX勉強会で得られた知見っていうのは、まさにここの地点になるわけです。僕たちは、特に自分の組織ですよ、自分たちの組織、自分たちはどうありたい、どこに行きたいのか、どうありたいのかっていう風なことが、実はDXという風なものによって問われてきているんではないんだろうか。それはどうでしょう? 皆さんにとっては昇進することですか? 組織においてより強大な権力を得ることか、より高いお給金をもらうことか。僕的には早くもっと暇になりたいという[笑い]。
僕はいつも学生さんにも言ってんだけども、自分の研究の目的、あるいは自分のライフワークの目的っていうのは、僕あるいは僕と同調する人間の暇の時間を最大化したいっていう風に思ってます。余裕がないと人は人に優しくなれない。僕は人に優しい人間でありたい。だから僕は暇になりたいっていう風な、こういう論理的な帰結です。そういう価値観がある人間がただ単に僕のところに集うんだけれども、それは決して大きいものではないし、大きくなろうともあんまり考えていない。大きくなると自分が強くなったような気持ちになってしまうので。
というところで、最終的に私のまとめになるわけなんですけども、選択をした時、その選択が正しかったんだろうかって、ついつい僕も求めてしまいます。この決断は良かったんだろうか? あん時にこの道を選んだことが良かったんだろうか。でも、そんなこと誰も知らないわけなんですよ。最終的にそれが結果論として、結果が何か自分を肯定するっていう風なこともあろうとは思うんですけども、それは正しさを担保してくれるものではないし、正しい未来になるっていうものを担保してくれるものではないです。なんだけども、でも僕たちは寂しくなりますよね。不安になりますよね。この茫漠と広がっているものすごい広大な平原っていう風なものを目の前にして、足がすくんでしまうものなんですよ。そん時に、こういう風な勉強会というところで、寂しいよね、寂しい、わかる、そういう風な共感、連帯っていうものはすごく多分必要なんです。方法論の正しさを認識し合うんじゃなくって、自分たちのこの心の選択肢としての僕たちが集うっていう風なこと。今ここのNIIに、一橋講堂に集まっている人間がまさにそういうことだと思うんですけども、その身の寄せ合いという風なものがすごく大事なんじゃないか。その中で、そうすることによって、じゃあ自分たちはそもそも何を変えたくないのか、そこを見出した人間がおそらく保守主義者と呼ばれる人間になっていったと思うんです。
僕はDXの勉強会、あるいはDXっていうのは、いろんなものを変えた、そこが実は始まりなんだと僕は思ってんです。そこに至るまでの様々な変化の過程がDXであり、そこから本当の、本当のっていう言い方もあれですけども、DXが始まるんだろうと思ってます。以上です。ありがとうございました。
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