戦国から江戸を「イノベーション」と「平和の仕組み」で読む:中田敦彦のエクストリーム授業・日本史③

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概要

中田敦彦による「エクストリーム授業」日本史シリーズの第3回は、戦国時代から江戸時代の終わりまでを一気に扱う。暗記や年号が嫌いで日本史から離れた人に向けて、細部を大胆に省き、大まかな流れをつかんでもらうのがこの授業の方針だ。

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この回で中田が示す視点は二つある。一つは、傑出した人物がどんなイノベーションを起こしたのかを見ること。もう一つは、平和な時代がなぜ平和でいられたのかを見ることだ。歴史好きにはバトル好きが多く、学生時代は平和な時代の学習を退屈に感じがちだった、と中田は言う。そのうえで、どちらが強いか、どちらが騙したかではなく、なぜ平和が続いたのかを学ぶほうが「大人の歴史」として面白いのではないか、と問いかける。参考文献は河合敦『早わかり日本史』である。

2:36

織田信長:「バイオレンス&イノベーション」の三つの特徴

中田は織田信長を一言で「バイオレンス&イノベーション」と表現し、その特徴を軍事改革、仏教の弾圧、合理的な人事の三つにまとめた。

一つ目の軍事改革には二つの面がある。まず鉄砲という新兵器の採用だ。騎馬に強い武田軍に対して、新しい技術で対抗したという話である。もう一つが傭兵の活用で、中田はこちらも大きな革新だったと説明する。当時は領地の農民がそのまま兵士になる兼業兵士が多く、農作業が忙しい時期には戦いにくかった。農民は国内経済の担い手でもあるため、意外と動員しづらく、戦は農業の閑散期に行われることが多かったという。信長はこれを分け、金で傭兵を雇って戦闘専門の部隊を作った。新しい技術と新しい兵の雇い方、これが一つ目の柱だと中田は整理する。

4:03

仏教の弾圧と、日本史における仏教の流れ

二つ目の特徴である仏教弾圧を説明するため、中田はシリーズでたどってきた日本と仏教の関係を振り返る。仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が争い、推進派の蘇我氏が勝った。そこから権力と仏教が結びつき、そのピークが大仏を造った奈良時代である。その結果、道鏡が天皇の位をうかがう事態まで起きた。桓武天皇はこれを受けて、権力から離れた場所で修行させる方向に転じ、最澄と空海が登場する。すると今度は、修行した一部の人しか救われないのではないかという不満が生まれ、鎌倉新仏教が現れた。

中田が注目するのは、一度念仏を唱えればよいと説いた浄土真宗の勢力拡大である。彼は「1日5分でいい」「1錠飲めばいい」というダイエットの宣伝にたとえ、楽な方に民衆の気持ちが傾くのは自然だと語る。信者が集まって一向宗と呼ばれる武装集団になり、一向一揆を起こし、寺の周りを囲んで自治国のようになる例もあった。それまでの権力者は、仏罰を恐れてなかなか手を出せなかった。

武士はそうした勢力にも立ち向かっていく流れにあったが、信長はその最たる存在で、焼き払うような徹底した弾圧を行った。中田は、庶民が団結する側のほうが漫画なら正しそうに見えるのに、それを全部焼いてしまう。信長が「魔王」と呼ばれる所以は印象的にはこのあたりだろう、と述べる。

6:59

合理的人事と、京都に近いという地理的条件

三つ目の特徴は合理的人事、つまり成果主義だ。中田は会社にたとえ、創業以来の古参でも成果が出なければ社長室に呼ばれてクビになるような人事だったと説明する。人のつながりより成果を重視した。暴力的でありながら新しかったことが、信長の勢力拡大につながったという。

中田はさらに、信長が有利だった理由として一つの説を紹介する。戦国時代には武田、上杉、伊達など有力者が大勢いたが、彼らはまだ地方同士の争いで手一杯の地方勢力にすぎなかった。その中で「天下布武」を掲げ、天下統一を公然と口にした信長が重要人物と目されている。それが言えたのは京都に近かったからだという。遠方の大名が上洛すると、リーダー不在の間に領地を潰されかねず、容易には領地を出られない。領地が京都に近く、しかもイノベーションを起こしていたため、信長は天下統一を視野に入れやすかった、と中田は説明する。

8:44

本能寺の変:バイオレンスに飲み込まれた信長

しかし中田によれば、そのバイオレンスがやがて信長自身を飲み込んでいく。合理的な人事に魔王のような振る舞いが重なれば、周囲は怖い。理由には諸説あるとしつつ、中田は本能寺の変を語る。明智光秀は比較的新参の部下だったが、成果を次々に上げて重臣に出世した。中田は、途中入社なのにいきなり専務になったようなものだと表現する。その光秀が「敵は本能寺にあり」と反乱を起こし、京都の本能寺に泊まっていた信長を囲んだ。信長は「人生50年」と舞ったとされ、中田は創作かもしれないと留保しつつ、自害して焼かれたという話を紹介している。

9:58

豊臣秀吉:「スピード&コミュニケーション」と中国大返し

続く豊臣秀吉について、中田はまず、草鞋を温めた話と「猿」というあだ名ばかりが有名だが、草鞋だけで出世したわけではないと指摘する。農民という最下層の身分から上り詰めた秀吉を、中田は「スピード&コミュニケーション」の人と位置づける。判断が速く、しかも人を動かすのがうまい、という意味だ。

速さの象徴が中国大返しである。本能寺で信長が討たれたとき、秀吉は中国地方で有力な毛利氏を攻めていた。拮抗した戦いの最中である。中田が「面白い」と強調するのは、秀吉が単に撤退したのではなく、信長の死を隠したまま毛利氏とすぐに和睦した点だ。信長が死んだから和睦したいと言えば、隙につけこまれる。そこで死を感じさせずに仲直りを持ちかけ、攻められていた毛利側もそれを受け入れた。秀吉はその足で猛スピードで京都に戻った。

中田は、主君への思いもあっただろうが、その後の権力争いまで見通していたのではないかと思えるほど判断が速かったと評する。秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、光秀は逃げる途中で討たれた。当時、秀吉は信長陣営の一番弟子ではなかった。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益ら大御所が並んでいたが、勝家は上杉方を攻めていてすぐには戻れなかった。秀吉は一番早く動いた。

13:32

清洲会議:三法師を抱いて現れる

清洲会議を、中田は信長の後継者を決める会議として紹介する。内部の経緯には諸説あるとしたうえで、一説として次の話を語った。長男はすでに亡くなっており、次男と三男のどちらを立てるかで揉めていた。三男のほうが優秀だったとされ、柴田勝家は実力のある三男を推していた。最初から結果は決まっていたという説もある、と中田は付け加える。

次男か三男かで議論が続く間、秀吉は裏で根回しをしていた。そして持ち出したのが、亡くなった長男の子、つまり信長の孫である三法師だ。こちらのほうが正統ではないかと言われると、周囲は「そうかもしれない」と傾いた。さらにうまいのは後見人の決め方だったと中田は言う。秀吉は普段から三法師をあやしていた。後見人を決める場には、三法師を抱いて現れた。全員がひれ伏すその光景は、秀吉がすべてコントロールしたものだった、という説明である。

これで勝家派と秀吉派は一触即発となり、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家に勝った。中田は、秀吉は自分が一番強いという自信がないからこそ頭を使い、根回しを重ねたのだと解釈している。

16:36

家康との対峙と、関白という「ウルトラC」

その秀吉の前に立ちはだかったのが徳川家康で、両者は小牧・長久手の戦いでぶつかった。家康は手強く、戦いは拮抗した。中田によれば、秀吉はここで武力で制圧する路線を捨て、朝廷に近づいて権威を借りた。

中田は秀吉の最大のコンプレックスを農民出身であることだと語る。当時は源氏や平氏の流れをくむ家柄が重んじられ、そうでなければ将軍にはなれないとされていた。秀吉は将軍にはなれないと見られていたが、朝廷に近づいて太政大臣、関白の地位を得た。中田はこれを「ウルトラC」と呼ぶ。朝廷の権威を持つ最有力者となった秀吉が、関白として、もう戦争はいらないと言う。家康は従うしかなくなったが、それでも様子をうかがい続けていた、と中田は語る。

中田は秀吉の特徴として、負けた相手を潰さなかった点も挙げる。信長なら全部奪い尽くすところを、秀吉は最後まで抵抗した小田原の北条氏に対しても、命を助けて配下にした。逃げ場所を用意しておく、この加減のうまさが秀吉という男だという。

19:09

朝鮮出兵と秀吉の最期

秀吉は朝鮮出兵の最中に病死した。なぜ急に朝鮮に兵を出したのか、と疑問に思う人も多い。中田は、秀吉にはもっと広い視野があったようだと説明する。属国になれという要求は朝鮮だけでなく中国や東南アジアにも出しており、アジア全域を押さえようと考えていたらしい。明が揺らいでいる事情を見透かしていたともいう。

中田の説明では、一度目は朝鮮半島からソウルを押さえ、中国にも入るところまで進んだが、相手の抵抗が強く拮抗し、いったん和睦した。その後、中国側から逆に属国にならないかという挑発的な書状が来て、二度目の出兵に踏み切る。しかし相手は準備万端で戦いは難航し、加藤清正らが苦しむ中で秀吉が病死し、撤退となった。天下を統一したうえにさらに夢を見たことが敗北を決めた。その様子をずっと見ていたのが家康だった、と中田は話をつなぐ。

21:06

徳川家康:「パーフェクトコントロール」と関ヶ原

中田は、信長の「バイオレンス&イノベーション」、秀吉の「スピード&コミュニケーション」に続く家康の能力を「パーフェクトコントロール」、つまり徹底管理と名づけた。

秀吉の死後、合議制の中で、武力で台頭してきた武断派のトップである家康と、事務方として文治でやってきた石田三成が対立した。中田によれば、三成の西軍は10万ほどと大きく、家康はむしろ劣勢だった。そこで家康がとったのが手紙作戦だという。味方についてほしいという手紙を大量に出し、それが後からじわじわ効いて、西軍から次々と裏切りが出た。合戦が始まってからも裏切るかどうか迷っていた小早川に対して、家康側が圧力をかけて寝返らせ、戦局が変わった。最後までぎりぎりの戦いを制したのが関ヶ原だったという。三成は「運が悪かっただけだ」という負け惜しみのような言葉を残したとされ、中田は本当にそうだったのではないかと思えるほど拮抗していたらしい、と述べている。

豊臣家の滅亡と真田幸村

家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開いたが、豊臣家はまだ残っていた。中田によれば、家康は当時60歳ほど。秀吉の息子・秀頼に会いに行ったところ、秀頼が非常に優秀そうに見え、潰しておかなければまずいと考えたらしい。そこで、秀吉を祀る建物の改修にあたって、自分を悪く言う文字が書かれているという言いがかりをつけ、堀を埋めろなどと要求した。一度争い、和睦したと見せかけて再び言いがかりをつけ、大坂夏の陣に至る。

関ヶ原とは違い、夏の陣は圧倒的に徳川有利とされていた。そこで活躍したのが真田幸村である。中田は、負けると分かっている豊臣側についた点に幸村の人気の理由を見て、判官贔屓という言葉と義経の人気を引き合いに出す。真田家の家紋の六文銭は、三途の川の渡し賃が六文だという逸話に由来し、死ぬ覚悟を示したものだと中田は説明する。幸村は油断していた家康の本陣まで突っ込み、家康をぎりぎりまで追い詰めた。一説では家康は何度も「腹を切る」と言うほど慌てたが、すんでのところで助けられたという。中田は、ここはあまり触れないつもりだったが結構触れてしまった、と笑いながら本題に戻る。

27:21

江戸300年を五つに分ける:「タイト・ルーズ・タイト・ルーズ・ジ・エンド」

中田が強調するのは、家康のパーフェクトコントロールを分析して初めて江戸時代が面白くなる、という点だ。江戸時代は長く、「〜の治」「〜政治」「〜改革」と用語が多くて嫌になる。そこで中田は、江戸がどう続いたかを五つの時期だけに分けて示した。

  • 初代から3代家光まで:武断政治。厳しく締め上げる(タイト)
  • 4〜7代:反発を受けて緩める(ルーズ)
  • 8〜10代あたり:再び締め上げる(タイト)
  • 11〜13代あたり:その反動でかなり緩やかになる(ルーズ)
  • そして終わりを迎える(ジ・エンド)

「タイト、ルーズ、タイト、ルーズ、ジ・エンド」と覚えれば簡単だ、と中田は言う。そして最初のタイトの時期にパーフェクトコントロールが発揮され、それがうまくいったからここまで続いたのではないかと言われている、と説明する。

28:56

武士へのコントロール:配置・監視・財力と武力の削減

中田は家康の統治を、武士と農民の二つに対する「ダブルコントロール」として説明する。

武士に対しては、まず配置と監視がうまかった。後から味方になった外様大名は遠くに配置し、その近くに幕府の直轄地を置いて見張る。中田は、シンプルだがそれまでは誰もやらなかった方法だと評価し、遠くに引っ越させたうえで監視カメラをつけているようなものだとたとえる。

次に財力の削減である。金を持てば反抗するので、適度に削る。中田は「生かさず殺さず」という言葉がまさに当てはまると言う。代表例が家光の頃に完成したとされる参勤交代で、江戸まで行列を組んで挨拶に来させ、莫大な費用を使わせた。もう一つが普請役で、幕府の建物の修理費を大名に負担させた。中田はこれを、みんなのための生徒会だから費用を出し合おうという理屈にたとえている。

さらに武力の削減として一国一城令がある。一つの国に城は一つしか置けないという決まりで、中田はこれを核不拡散条約のような、武力を限定する取り決めになぞらえた。

中田は、ここに歴史の教訓が生かされていると読む。公地公民制が崩れて墾田永年私財法で土地の私有が認められた結果、強い者と弱い者が現れ、弱肉強食が始まった。江戸幕府はそうさせないために、全員を「程よく疲れさせる」仕組みを作った、という解釈である。

32:12

農民へのコントロールと、お取り潰しの多発

農民に対しても同じ発想が見られると中田は言う。土地売買禁止令によって、特定の人が大量の土地を持つ状況をなくした。分割相続を禁じることで、子どもが5人いれば土地を5分割するような形で零細農家が増えるのを防いだ。さらに五人組制度で互いに密告させ、連帯責任を負わせた。中田は「うまくできている」と評している。

武断政治のもう一つの特徴は、お取り潰しの多さだった。武家諸法度というルールに少しでも違反すると、百数十もの家が潰されたり強制的に移されたりした。城は厳しく管理され、許可なく少し修繕しただけでも謀反の気ありとされる。見せしめとして次々に潰す、一罰百戒のやり方だった。

その反動として起きたのが由比正雪の乱だと中田は説明する。この時期の「牢人」は、お取り潰しで没落した武士たちを指すという。中田は、オフィスのトイレを直しただけで支社ごと潰された支社長が集まって不満をぶつける、といったたとえでその心情を表現する。乱は鎮圧されたが、やりすぎたかもしれないということで、幕府はよりルーズな文治政治へ移っていく。

35:05

文治政治と儒学:赤穂浪士はなぜ喝采されたか

文治政治で用いられたのが、新井白石に代表される儒学である。中田は、儒学が江戸で重んじられた理由を、権力の維持に非常に合っていたからだと説明する。目上の人に逆らわない、礼儀を重んじる、年功序列や仁義を大事にする。そうした教えが体制にとって都合がよかった。

なぜ仏教ではなく儒教だったのか。中田の見方では、仏教は過激化し、信長に徹底的に弾圧されたことで、武士とは水と油になってしまったからだという。儒教の中でも、体制側の朱子学と、それより反体制寄りの陽明学があり、幕府には朱子学がぴったり合った。その結果、「武士は武芸に励め」から「武士は忠義の者であれ」へと武士像が変わっていったと中田は述べる。

その延長として中田が挙げるのが赤穂浪士の討ち入りだ。主君のために家臣が尽くすことが正義とされ、それが行き過ぎた形が主君の敵討ちだった。お上も知っていて黙認していたという説がある、と中田は紹介する。民衆にも大受けしたのは儒学が浸透していたからだ、と説明している。

37:38

財政難の時代:吉宗から家斉まで

締めたり緩めたりを繰り返すうちに、じわじわ厳しくなったのが財政だった。中田は、大名を潰し、無駄に金を使わせて弱体化させてきたがゆえに、全体を盛り上げる必要が出てきたと説明する。そこで登場するのが徳川吉宗の享保の改革である。この時代は財政再建の時代であると同時に、家康が伝説の人になって薄れてきた徳川の権威を取り戻す時代でもあった、と中田は位置づける。

しかし、うまくいかない状態は続く。吉宗も、田沼意次も、松平定信も頑張った。倹約を強いても、田沼が重商主義で金持ちを優遇しても、再び松平が倹約を進めても、なかなかうまくいかなかった。

とどめを刺したのが徳川家斉だと中田は言う。中田は家斉を「むちゃくちゃ面白い」「なんか好き」と語り、妻が40人、子どもが55人いたと紹介する。将軍職を退いた後も権威を保ち、長く浪費を続けた。倹約してもうまくいかないなら飲もう、という「パリピ」だったと中田は表現する。この家斉の時代に大きなダメージを受け、江戸幕府はボロボロの時期に入った、というのが中田の整理である。

40:13

「鎖国」ではなかった貿易とペリー来航

家斉の次の家慶のあたりでペリーが来航する。中田はその前提として、現在の教科書ではあまり「鎖国」とは言わないと説明する。幕府直轄の長崎を含め4か所ほどの貿易の窓口があり、アイヌ、中国、オランダ、琉球と貿易していた。日本人の海外渡航の禁止などの統制はあったが、貿易自体はしていた。閉じながらも窓口を作って開いていた点で、これもパーフェクトコントロール、つまり「コントロール貿易」だったと中田は言う。

最初に来たのは大航海時代のスペインとポルトガルだったが、早い段階で締め出された。両国の貿易にはキリスト教の布教がセットになっていたからだ。中田の語りでは、後から来たオランダが「うちは布教しなくていい」という特典を示し、さらにキリスト教の布教は国の治安を乱すという噂を流した。日本はスペイン・ポルトガルとの交易を禁じ、オランダが日本との貿易を独占したという。

その窓口をこじ開けたのがアメリカのペリーである。中田の説明では、当時のアメリカは産業革命で油を大量に使っており、その一つが鯨油だった。捕鯨船は日本近海まで来ていたが停泊地がなく、補給地として開国を求めたのだという。

「諸説あり」とコメント欄への向き合い方

鎖国の話に関連して、中田はこのシリーズのコメント欄に「こちらが新しい説だ」という指摘が大量に寄せられることに触れる。新しい説が正しいのかもしれないとしつつ、少し勘弁してほしい部分もあると本音を漏らした。参考にしている本は初版が1997年、2014年に第13刷が出たもので、古い説が含まれている可能性もあるという。

例として中田は、信長の鉄砲の三段構えは実はなかったかもしれない、3000丁と言われる鉄砲は本当は1000丁だった、あの日は嵐で整列できなかったはずだ、といった指摘を挙げる。そのたびに「諸説あり」と言わなければならないが、諸説あるのは前提だとし、視聴者には自分で選び取ってほしい、コメント欄とセットで見ると面白いかもしれない、と語った。そのうえで、皆さんの力を借りて真実に近づきたい、と述べている。

大政奉還の先へ:北海道・沖縄はまだ日本ではなかった

最後に中田は、大政奉還を経て日本の姿がまったく変わっていくことを予告する。江戸時代、北海道と沖縄はまだ日本ではなかった。蝦夷地では松前藩が貿易相手として関わり、琉球では薩摩の島津氏が首里城を一時占領するなど、爪はかかっていた。それでも、どう扱うかは決まっていなかった。北海道や沖縄が日本になっていくのは明治からであり、洋服も入ってくるなど、明治政府がすべてを変えていく。

中田は、明治維新による日本の近代化が東南アジアや中国にも衝撃を与え、世界史的にも大きな影響を持ったと述べる。北海道、沖縄、そして洋服と、いま自分たちが見ている日本の形がここから現れてくる。令和もまた日本史の中にあり、自分たちも日本史の登場人物だという実感がじわじわ湧いてきたのではないか。そう問いかけて、中田は次回へと授業をつないだ。