戦国から江戸を「イノベーション」と「平和の仕組み」で読む:中田敦彦のエクストリーム授業・日本史③
中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY中田敦彦による「エクストリーム授業」日本史シリーズの第3回は、戦国時代から江戸時代の終わりまでを一気に扱う。暗記や年号が嫌いで日本史から離れた人に向けて、細部を大胆に省き、大まかな流れをつかんでもらうのがこの授業の方針だ。
この回で中田が示す視点は二つある。一つは、傑出した人物がどんなイノベーションを起こしたのかを見ること。もう一つは、平和な時代がなぜ平和でいられたのかを見ることだ。歴史好きにはバトル好きが多く、学生時代は平和な時代の学習を退屈に感じがちだった、と中田は言う。そのうえで、どちらが強いか、どちらが騙したかではなく、なぜ平和が続いたのかを学ぶほうが「大人の歴史」として面白いのではないか、と問いかける。参考文献は河合敦『早わかり日本史』である。
織田信長:「バイオレンス&イノベーション」の三つの特徴
中田は織田信長を一言で「バイオレンス&イノベーション」と表現し、その特徴を軍事改革、仏教の弾圧、合理的な人事の三つにまとめた。
一つ目の軍事改革には二つの面がある。まず鉄砲という新兵器の採用だ。騎馬に強い武田軍に対して、新しい技術で対抗したという話である。もう一つが傭兵の活用で、中田はこちらも大きな革新だったと説明する。当時は領地の農民がそのまま兵士になる兼業兵士が多く、農作業が忙しい時期には戦いにくかった。農民は国内経済の担い手でもあるため、意外と動員しづらく、戦は農業の閑散期に行われることが多かったという。信長はこれを分け、金で傭兵を雇って戦闘専門の部隊を作った。新しい技術と新しい兵の雇い方、これが一つ目の柱だと中田は整理する。
仏教の弾圧と、日本史における仏教の流れ
二つ目の特徴である仏教弾圧を説明するため、中田はシリーズでたどってきた日本と仏教の関係を振り返る。仏教の受け入れをめぐって蘇我氏と物部氏が争い、推進派の蘇我氏が勝った。そこから権力と仏教が結びつき、そのピークが大仏を造った奈良時代である。その結果、道鏡が天皇の位をうかがう事態まで起きた。桓武天皇はこれを受けて、権力から離れた場所で修行させる方向に転じ、最澄と空海が登場する。すると今度は、修行した一部の人しか救われないのではないかという不満が生まれ、鎌倉新仏教が現れた。
中田が注目するのは、一度念仏を唱えればよいと説いた浄土真宗の勢力拡大である。彼は「1日5分でいい」「1錠飲めばいい」というダイエットの宣伝にたとえ、楽な方に民衆の気持ちが傾くのは自然だと語る。信者が集まって一向宗と呼ばれる武装集団になり、一向一揆を起こし、寺の周りを囲んで自治国のようになる例もあった。それまでの権力者は、仏罰を恐れてなかなか手を出せなかった。
武士はそうした勢力にも立ち向かっていく流れにあったが、信長はその最たる存在で、焼き払うような徹底した弾圧を行った。中田は、庶民が団結する側のほうが漫画なら正しそうに見えるのに、それを全部焼いてしまう。信長が「魔王」と呼ばれる所以は印象的にはこのあたりだろう、と述べる。
合理的人事と、京都に近いという地理的条件
三つ目の特徴は合理的人事、つまり成果主義だ。中田は会社にたとえ、創業以来の古参でも成果が出なければ社長室に呼ばれてクビになるような人事だったと説明する。人のつながりより成果を重視した。暴力的でありながら新しかったことが、信長の勢力拡大につながったという。
中田はさらに、信長が有利だった理由として一つの説を紹介する。戦国時代には武田、上杉、伊達など有力者が大勢いたが、彼らはまだ地方同士の争いで手一杯の地方勢力にすぎなかった。その中で「天下布武」を掲げ、天下統一を公然と口にした信長が重要人物と目されている。それが言えたのは京都に近かったからだという。遠方の大名が上洛すると、リーダー不在の間に領地を潰されかねず、容易には領地を出られない。領地が京都に近く、しかもイノベーションを起こしていたため、信長は天下統一を視野に入れやすかった、と中田は説明する。
本能寺の変:バイオレンスに飲み込まれた信長
しかし中田によれば、そのバイオレンスがやがて信長自身を飲み込んでいく。合理的な人事に魔王のような振る舞いが重なれば、周囲は怖い。理由には諸説あるとしつつ、中田は本能寺の変を語る。明智光秀は比較的新参の部下だったが、成果を次々に上げて重臣に出世した。中田は、途中入社なのにいきなり専務になったようなものだと表現する。その光秀が「敵は本能寺にあり」と反乱を起こし、京都の本能寺に泊まっていた信長を囲んだ。信長は「人生50年」と舞ったとされ、中田は創作かもしれないと留保しつつ、自害して焼かれたという話を紹介している。
豊臣秀吉:「スピード&コミュニケーション」と中国大返し
続く豊臣秀吉について、中田はまず、草鞋を温めた話と「猿」というあだ名ばかりが有名だが、草鞋だけで出世したわけではないと指摘する。農民という最下層の身分から上り詰めた秀吉を、中田は「スピード&コミュニケーション」の人と位置づける。判断が速く、しかも人を動かすのがうまい、という意味だ。
速さの象徴が中国大返しである。本能寺で信長が討たれたとき、秀吉は中国地方で有力な毛利氏を攻めていた。拮抗した戦いの最中である。中田が「面白い」と強調するのは、秀吉が単に撤退したのではなく、信長の死を隠したまま毛利氏とすぐに和睦した点だ。信長が死んだから和睦したいと言えば、隙につけこまれる。そこで死を感じさせずに仲直りを持ちかけ、攻められていた毛利側もそれを受け入れた。秀吉はその足で猛スピードで京都に戻った。
中田は、主君への思いもあっただろうが、その後の権力争いまで見通していたのではないかと思えるほど判断が速かったと評する。秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、光秀は逃げる途中で討たれた。当時、秀吉は信長陣営の一番弟子ではなかった。柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益ら大御所が並んでいたが、勝家は上杉方を攻めていてすぐには戻れなかった。秀吉は一番早く動いた。
清洲会議:三法師を抱いて現れる
清洲会議を、中田は信長の後継者を決める会議として紹介する。内部の経緯には諸説あるとしたうえで、一説として次の話を語った。長男はすでに亡くなっており、次男と三男のどちらを立てるかで揉めていた。三男のほうが優秀だったとされ、柴田勝家は実力のある三男を推していた。最初から結果は決まっていたという説もある、と中田は付け加える。
次男か三男かで議論が続く間、秀吉は裏で根回しをしていた。そして持ち出したのが、亡くなった長男の子、つまり信長の孫である三法師だ。こちらのほうが正統ではないかと言われると、周囲は「そうかもしれない」と傾いた。さらにうまいのは後見人の決め方だったと中田は言う。秀吉は普段から三法師をあやしていた。後見人を決める場には、三法師を抱いて現れた。全員がひれ伏すその光景は、秀吉がすべてコントロールしたものだった、という説明である。
これで勝家派と秀吉派は一触即発となり、秀吉は賤ヶ岳の戦いで勝家に勝った。中田は、秀吉は自分が一番強いという自信がないからこそ頭を使い、根回しを重ねたのだと解釈している。
家康との対峙と、関白という「ウルトラC」
その秀吉の前に立ちはだかったのが徳川家康で、両者は小牧・長久手の戦いでぶつかった。家康は手強く、戦いは拮抗した。中田によれば、秀吉はここで武力で制圧する路線を捨て、朝廷に近づいて権威を借りた。
中田は秀吉の最大のコンプレックスを農民出身であることだと語る。当時は源氏や平氏の流れをくむ家柄が重んじられ、そうでなければ将軍にはなれないとされていた。秀吉は将軍にはなれないと見られていたが、朝廷に近づいて太政大臣、関白の地位を得た。中田はこれを「ウルトラC」と呼ぶ。朝廷の権威を持つ最有力者となった秀吉が、関白として、もう戦争はいらないと言う。家康は従うしかなくなったが、それでも様子をうかがい続けていた、と中田は語る。
中田は秀吉の特徴として、負けた相手を潰さなかった点も挙げる。信長なら全部奪い尽くすところを、秀吉は最後まで抵抗した小田原の北条氏に対しても、命を助けて配下にした。逃げ場所を用意しておく、この加減のうまさが秀吉という男だという。
朝鮮出兵と秀吉の最期
秀吉は朝鮮出兵の最中に病死した。なぜ急に朝鮮に兵を出したのか、と疑問に思う人も多い。中田は、秀吉にはもっと広い視野があったようだと説明する。属国になれという要求は朝鮮だけでなく中国や東南アジアにも出しており、アジア全域を押さえようと考えていたらしい。明が揺らいでいる事情を見透かしていたともいう。
中田の説明では、一度目は朝鮮半島からソウルを押さえ、中国にも入るところまで進んだが、相手の抵抗が強く拮抗し、いったん和睦した。その後、中国側から逆に属国にならないかという挑発的な書状が来て、二度目の出兵に踏み切る。しかし相手は準備万端で戦いは難航し、加藤清正らが苦しむ中で秀吉が病死し、撤退となった。天下を統一したうえにさらに夢を見たことが敗北を決めた。その様子をずっと見ていたのが家康だった、と中田は話をつなぐ。
徳川家康:「パーフェクトコントロール」と関ヶ原
中田は、信長の「バイオレンス&イノベーション」、秀吉の「スピード&コミュニケーション」に続く家康の能力を「パーフェクトコントロール」、つまり徹底管理と名づけた。
秀吉の死後、合議制の中で、武力で台頭してきた武断派のトップである家康と、事務方として文治でやってきた石田三成が対立した。中田によれば、三成の西軍は10万ほどと大きく、家康はむしろ劣勢だった。そこで家康がとったのが手紙作戦だという。味方についてほしいという手紙を大量に出し、それが後からじわじわ効いて、西軍から次々と裏切りが出た。合戦が始まってからも裏切るかどうか迷っていた小早川に対して、家康側が圧力をかけて寝返らせ、戦局が変わった。最後までぎりぎりの戦いを制したのが関ヶ原だったという。三成は「運が悪かっただけだ」という負け惜しみのような言葉を残したとされ、中田は本当にそうだったのではないかと思えるほど拮抗していたらしい、と述べている。
豊臣家の滅亡と真田幸村
家康は征夷大将軍となって江戸幕府を開いたが、豊臣家はまだ残っていた。中田によれば、家康は当時60歳ほど。秀吉の息子・秀頼に会いに行ったところ、秀頼が非常に優秀そうに見え、潰しておかなければまずいと考えたらしい。そこで、秀吉を祀る建物の改修にあたって、自分を悪く言う文字が書かれているという言いがかりをつけ、堀を埋めろなどと要求した。一度争い、和睦したと見せかけて再び言いがかりをつけ、大坂夏の陣に至る。
関ヶ原とは違い、夏の陣は圧倒的に徳川有利とされていた。そこで活躍したのが真田幸村である。中田は、負けると分かっている豊臣側についた点に幸村の人気の理由を見て、判官贔屓という言葉と義経の人気を引き合いに出す。真田家の家紋の六文銭は、三途の川の渡し賃が六文だという逸話に由来し、死ぬ覚悟を示したものだと中田は説明する。幸村は油断していた家康の本陣まで突っ込み、家康をぎりぎりまで追い詰めた。一説では家康は何度も「腹を切る」と言うほど慌てたが、すんでのところで助けられたという。中田は、ここはあまり触れないつもりだったが結構触れてしまった、と笑いながら本題に戻る。
江戸300年を五つに分ける:「タイト・ルーズ・タイト・ルーズ・ジ・エンド」
中田が強調するのは、家康のパーフェクトコントロールを分析して初めて江戸時代が面白くなる、という点だ。江戸時代は長く、「〜の治」「〜政治」「〜改革」と用語が多くて嫌になる。そこで中田は、江戸がどう続いたかを五つの時期だけに分けて示した。
- 初代から3代家光まで:武断政治。厳しく締め上げる(タイト)
- 4〜7代:反発を受けて緩める(ルーズ)
- 8〜10代あたり:再び締め上げる(タイト)
- 11〜13代あたり:その反動でかなり緩やかになる(ルーズ)
- そして終わりを迎える(ジ・エンド)
「タイト、ルーズ、タイト、ルーズ、ジ・エンド」と覚えれば簡単だ、と中田は言う。そして最初のタイトの時期にパーフェクトコントロールが発揮され、それがうまくいったからここまで続いたのではないかと言われている、と説明する。
武士へのコントロール:配置・監視・財力と武力の削減
中田は家康の統治を、武士と農民の二つに対する「ダブルコントロール」として説明する。
武士に対しては、まず配置と監視がうまかった。後から味方になった外様大名は遠くに配置し、その近くに幕府の直轄地を置いて見張る。中田は、シンプルだがそれまでは誰もやらなかった方法だと評価し、遠くに引っ越させたうえで監視カメラをつけているようなものだとたとえる。
次に財力の削減である。金を持てば反抗するので、適度に削る。中田は「生かさず殺さず」という言葉がまさに当てはまると言う。代表例が家光の頃に完成したとされる参勤交代で、江戸まで行列を組んで挨拶に来させ、莫大な費用を使わせた。もう一つが普請役で、幕府の建物の修理費を大名に負担させた。中田はこれを、みんなのための生徒会だから費用を出し合おうという理屈にたとえている。
さらに武力の削減として一国一城令がある。一つの国に城は一つしか置けないという決まりで、中田はこれを核不拡散条約のような、武力を限定する取り決めになぞらえた。
中田は、ここに歴史の教訓が生かされていると読む。公地公民制が崩れて墾田永年私財法で土地の私有が認められた結果、強い者と弱い者が現れ、弱肉強食が始まった。江戸幕府はそうさせないために、全員を「程よく疲れさせる」仕組みを作った、という解釈である。
農民へのコントロールと、お取り潰しの多発
農民に対しても同じ発想が見られると中田は言う。土地売買禁止令によって、特定の人が大量の土地を持つ状況をなくした。分割相続を禁じることで、子どもが5人いれば土地を5分割するような形で零細農家が増えるのを防いだ。さらに五人組制度で互いに密告させ、連帯責任を負わせた。中田は「うまくできている」と評している。
武断政治のもう一つの特徴は、お取り潰しの多さだった。武家諸法度というルールに少しでも違反すると、百数十もの家が潰されたり強制的に移されたりした。城は厳しく管理され、許可なく少し修繕しただけでも謀反の気ありとされる。見せしめとして次々に潰す、一罰百戒のやり方だった。
その反動として起きたのが由比正雪の乱だと中田は説明する。この時期の「牢人」は、お取り潰しで没落した武士たちを指すという。中田は、オフィスのトイレを直しただけで支社ごと潰された支社長が集まって不満をぶつける、といったたとえでその心情を表現する。乱は鎮圧されたが、やりすぎたかもしれないということで、幕府はよりルーズな文治政治へ移っていく。
文治政治と儒学:赤穂浪士はなぜ喝采されたか
文治政治で用いられたのが、新井白石に代表される儒学である。中田は、儒学が江戸で重んじられた理由を、権力の維持に非常に合っていたからだと説明する。目上の人に逆らわない、礼儀を重んじる、年功序列や仁義を大事にする。そうした教えが体制にとって都合がよかった。
なぜ仏教ではなく儒教だったのか。中田の見方では、仏教は過激化し、信長に徹底的に弾圧されたことで、武士とは水と油になってしまったからだという。儒教の中でも、体制側の朱子学と、それより反体制寄りの陽明学があり、幕府には朱子学がぴったり合った。その結果、「武士は武芸に励め」から「武士は忠義の者であれ」へと武士像が変わっていったと中田は述べる。
その延長として中田が挙げるのが赤穂浪士の討ち入りだ。主君のために家臣が尽くすことが正義とされ、それが行き過ぎた形が主君の敵討ちだった。お上も知っていて黙認していたという説がある、と中田は紹介する。民衆にも大受けしたのは儒学が浸透していたからだ、と説明している。
財政難の時代:吉宗から家斉まで
締めたり緩めたりを繰り返すうちに、じわじわ厳しくなったのが財政だった。中田は、大名を潰し、無駄に金を使わせて弱体化させてきたがゆえに、全体を盛り上げる必要が出てきたと説明する。そこで登場するのが徳川吉宗の享保の改革である。この時代は財政再建の時代であると同時に、家康が伝説の人になって薄れてきた徳川の権威を取り戻す時代でもあった、と中田は位置づける。
しかし、うまくいかない状態は続く。吉宗も、田沼意次も、松平定信も頑張った。倹約を強いても、田沼が重商主義で金持ちを優遇しても、再び松平が倹約を進めても、なかなかうまくいかなかった。
とどめを刺したのが徳川家斉だと中田は言う。中田は家斉を「むちゃくちゃ面白い」「なんか好き」と語り、妻が40人、子どもが55人いたと紹介する。将軍職を退いた後も権威を保ち、長く浪費を続けた。倹約してもうまくいかないなら飲もう、という「パリピ」だったと中田は表現する。この家斉の時代に大きなダメージを受け、江戸幕府はボロボロの時期に入った、というのが中田の整理である。
「鎖国」ではなかった貿易とペリー来航
家斉の次の家慶のあたりでペリーが来航する。中田はその前提として、現在の教科書ではあまり「鎖国」とは言わないと説明する。幕府直轄の長崎を含め4か所ほどの貿易の窓口があり、アイヌ、中国、オランダ、琉球と貿易していた。日本人の海外渡航の禁止などの統制はあったが、貿易自体はしていた。閉じながらも窓口を作って開いていた点で、これもパーフェクトコントロール、つまり「コントロール貿易」だったと中田は言う。
最初に来たのは大航海時代のスペインとポルトガルだったが、早い段階で締め出された。両国の貿易にはキリスト教の布教がセットになっていたからだ。中田の語りでは、後から来たオランダが「うちは布教しなくていい」という特典を示し、さらにキリスト教の布教は国の治安を乱すという噂を流した。日本はスペイン・ポルトガルとの交易を禁じ、オランダが日本との貿易を独占したという。
その窓口をこじ開けたのがアメリカのペリーである。中田の説明では、当時のアメリカは産業革命で油を大量に使っており、その一つが鯨油だった。捕鯨船は日本近海まで来ていたが停泊地がなく、補給地として開国を求めたのだという。
「諸説あり」とコメント欄への向き合い方
鎖国の話に関連して、中田はこのシリーズのコメント欄に「こちらが新しい説だ」という指摘が大量に寄せられることに触れる。新しい説が正しいのかもしれないとしつつ、少し勘弁してほしい部分もあると本音を漏らした。参考にしている本は初版が1997年、2014年に第13刷が出たもので、古い説が含まれている可能性もあるという。
例として中田は、信長の鉄砲の三段構えは実はなかったかもしれない、3000丁と言われる鉄砲は本当は1000丁だった、あの日は嵐で整列できなかったはずだ、といった指摘を挙げる。そのたびに「諸説あり」と言わなければならないが、諸説あるのは前提だとし、視聴者には自分で選び取ってほしい、コメント欄とセットで見ると面白いかもしれない、と語った。そのうえで、皆さんの力を借りて真実に近づきたい、と述べている。
大政奉還の先へ:北海道・沖縄はまだ日本ではなかった
最後に中田は、大政奉還を経て日本の姿がまったく変わっていくことを予告する。江戸時代、北海道と沖縄はまだ日本ではなかった。蝦夷地では松前藩が貿易相手として関わり、琉球では薩摩の島津氏が首里城を一時占領するなど、爪はかかっていた。それでも、どう扱うかは決まっていなかった。北海道や沖縄が日本になっていくのは明治からであり、洋服も入ってくるなど、明治政府がすべてを変えていく。
中田は、明治維新による日本の近代化が東南アジアや中国にも衝撃を与え、世界史的にも大きな影響を持ったと述べる。北海道、沖縄、そして洋服と、いま自分たちが見ている日本の形がここから現れてくる。令和もまた日本史の中にあり、自分たちも日本史の登場人物だという実感がじわじわ湧いてきたのではないか。そう問いかけて、中田は次回へと授業をつないだ。
どうも中田敦彦です。今日はついにやってきました、戦国・江戸時代編。ありがとうございます。やってまいりました、戦国・江戸時代編。これは日本史ファンにとって、とてつもなく熱くなる時代ですよね。ほとんど大河ドラマって戦国か江戸幕末か、こればっかりでしょ。ほぼ持ち回りでしょ。ここばっかりでしょ。あんまり縄文やんないでしょ。「次の縄文は」みたいなのやんないんですよ。やっぱり戦国・江戸末期は盛り上がるんですよ。
その上で今回、エクストリーム授業なんですよ。エクストリーム授業って何なのか、もう一度ご説明したいんですけど、暗記だとか年号だとか、人名だとか地名だとか、そういうのばっかり覚えさせられて、「やだやだ、もう日本史なんて大嫌い、世界史なんて大嫌い」という人のために、「あれって何だったの?」っていうのをズバーンと、ものすごい勢いで駆け抜けることで、「大体こんな感じだったのね」って分かってもらう授業なわけですよ。だから今日もズバッと一気に戦国から江戸終わりまで行くっていう。なので省くところ、ガン省きします。
これ、歴史物とかで好きな人にとって、結構バトル好き多いんですよ。だから今の『キングダム』見てる人とかも春秋戦国時代でしょ。バトルが好きなんですよ。だけど僕が「大人のための日本史、世界史って何? 大人の歴史って何?」って言う時に、その傑出した人物が一体どんなイノベーションを起こしていたかっていうのが一つ。そしてもう一つは、逆に平和な時代はなぜ平和だったのかっていうのを学ぶ方が面白いんじゃないかなって僕は思ってるんですよ。バトルでどっちが強い、どっちが騙しただけじゃなくて、なんで平和が続いたか。
平和な時代って、学生の頃学ぶの、なんかだるかったでしょ。「はい、平和ね。はいはいはいはい。バトル来たー!」ってなるんだけど、逆に江戸の平和な方とかをグッと見ると面白いんじゃないの? 人物をグッと見て、強い弱いじゃなくて、どんなイノベーションがあったかを見ると面白いんじゃないのっていうことで、ギュッとした授業をお届けしたいと思いますので、ぜひお付き合いください。
まず行きましょう。見てよ、もう本能寺の変から書いてあるからね。「信長死ぬの?」って。前回あんだけ「魔王がやってくるぞ、信長がやってくる」って、なんで死んでんのよっていうね。でも、この信長っていう人が一体どういうイノベーションだったかっていう。各種エピソードいっぱいあるじゃないですか。銃がどうとかね。あれをもう一回まとめて考えて、織田信長とは、一言で言うと、俺は「バイオレンス&イノベーション」。特徴、三つにまとめました。
まずは軍事改革ですよ。鉄砲を使ったよね。要するに武田軍が馬が強かったっていうところに対して、鉄砲という新兵器を使った。新しい技術を使った。プラス、これ傭兵って書いてある。何がすごかったか。その当時、自分の治めてる領地の農民が兵士になるっていう、農民&兵士っていうのは多かったんですよ。これ何が問題かというと、農業に忙しい時あんまり戦えないっていう兼業兵士なんですよ。
だから、「今、戦ですか? でもこれ、トマトなくなりますね」。トマトは育ててない。トマトじゃないと思うけど、なんか大根が、とかね。そういう野菜が大事なんで。野菜も大事じゃないですか。穀物とかも大事じゃないですか。お米とかも。それ育ててないと国内が回んなくなっちゃうから、国内経済の担い手が、外部を攻める兵士でもあったっていうことで、意外と動かしづらかったんですって。だから意外と戦っていうのは農業の閑散期に行われることが多かったんですって。ちょっと悠長っちゃ悠長だけど、そうせざるを得ない。人がいないからね。
ってやったところで、織田信長が「いや、それはそれで分けよう」っていうね。傭兵をお金で雇って戦闘専門部隊を作ったというところがイノベーションだったらしいんですね。新しい技術と新しい傭兵の仕方をしたよというのが一つ。
そしてもう一つが、有名ですよね、仏教の弾圧。これ仏教って、今まで古代からぐわーっとやってきたじゃないですか。どういうふうに日本で使われてきた。それはもう日本の始まりから仏教との関わりは切っても切れなかったですよね。最初はだって、もう輸入するかしないかで蘇我氏が揉めるところから日本史始まるんだよ。いきなり卑弥呼がいたのかいないのかっていうところから、いきなり蘇我氏が出てくるっていう。その間の空白の4世紀を経て、いきなり蘇我氏が出てきて物部氏をやっつけたのが、仏教を輸入するよっていうことを推進してた派閥ですよね。
そこから権力と仏教を結びつけて考えて育っていって、ピークが奈良時代ね。大仏作って仏教で治めますよ。その結果、道鏡が現れてね、「仏教で一番偉いから天皇もやっちゃおうかな」なんて。「神託見えました」なんてね。「嘘だ」「それは嘘っぱちだ! ダウト!」なんていう、そういう時代があって。そこから桓武天皇が、最澄と空海で「修行させなさいよ」とね。「権力とは外れたところで修行してなさい」となって。
そしたら修行したら修行したで、「もう一部の人しか救われないんじゃない? 修行してない俺たちは救われねえぜ」っていうところに、鎌倉ニュー仏教6が現れるわけですね。「みんな救っちゃうよ」みたいな。「一回だけ唱えてごらん」っていうね。「嘘ー! 一回でいいんですか?」みたいな。「南無阿弥陀仏、儲けー!」みたいなね。そういうのが現れて。でも、その一番「一回だけ唱えてください」って言ったのが浄土真宗。その浄土真宗の派閥がむちゃくちゃ勢力が拡大するわけですよ。一回でいいんだもんね。もうとにかく入れるわけですよ。
でも、だってダイエットとかもそうじゃないですか。「一日5分でいいよ」って言われても、「一日5分はなー」みたいな。「一錠飲めばいい」「え、一錠でいいんですか? 一錠飲めばいいんですか?」みたいな。それはやっぱりそっち食いつくもんね。だから楽な方に民衆の気持ちが傾いて、「浄土真宗最高」みたいな。「俺たちでも救われるんだもんな。悪くても救われるんだもんな」って、わあ集まって。わあ集まると勢力が拡大して、一向宗と言われる、要するに武装集団になっていくわけですよ。
その「俺たちも救われるんだー!」がどんどん集まると、どんどん武装集団になっていって、「俺たちを脅かすな」という一向一揆とかね、そういう集団になったりとか、お寺の周りをどんどん囲んで自治国になったりするっていう。それはもうそれまでの権力者はなかなか手出しできなかったんだ。「仏罰が下りますぞ」とか言ったら、なかなか手出しできなかったね。そういう人たちに対しても武士はやっていくっていう方向だったけど、それの最たるもので、もうとにかく焼き払うみたいなね。「もう全員焼いちまえ!」みたいな、むちゃくちゃするんですよ。
だから魔王の魔王たる所以っていうのは、この辺りだろうね、印象的にね。仏教を庶民が信じて、わあなんて結託して、「俺たちがやっていくんだー!」とか言ってね。漫画で言ったらそっちの方が正しそうじゃないですか。それを「焼いちまいな」なんて言ってくるわけですよ。怖いですよね。その全員に弾圧しちゃうっていうね。これもぶっ潰すっていうね。
さらに合理的人事。これ、部下に対しても厳しかったね、非常に。それまで関係が深くても古参であっても、「お前、最近成果出してないね」なんてね、社長室に呼ばれて、「君、クビ!」ってなるわけですよ。「ええー、創業以来からの仲じゃないですか、社長。創業以来から私やってきた。信長さん、あの時のビール、うまかったですよね」「うるさいうるさい。データ見てみ。AIが言ってるもん、君クビ」っていう、そういうタイプの人事をね。だから人の繋がりというよりも成果主義なんですね。徹底して暴力的でありながら新しかった。「バイオレンス&イノベーション」っていうことで、グッと勢力を拡大する。
そしてもう一つ、信長が有利だったと言われてるのは、戦国時代ってとにかくすごい人いっぱいいるじゃん。武田とか上杉とかもいるし、伊達とか色々いるじゃないですか。それがいるから、いっぱい全員の中を見ちゃおうとするんだけど、でも一説によると、そういう人たちはまだ地方同士で争うので手一杯だったって話なんです。地方勢力に過ぎなかった。「天下布武」って言ってね、天下統一をもう大っぴらに言ったのが、やっぱりこいつは重要人物だっていうことで目されてるんですね。
じゃあ、なんで天下布武、天下統一を言えたかっていうと、京都に近かった。なんで京都に近いといいかっていうと、要するに京都まで上洛して「よっしゃ、天下だー!」って言うためには、上洛してる間に、遠くの地方だったら潰されちゃうかもしれない。「リーダーがいないから潰しちまえ!」。だからなかなか容易に自分の領地を出られなかったんだって。そんな中、領地は近い。そしてイノベーションが起きてるっていうことで、天下統一を視野に入れやすかったというところが、この織田信長のすごいところなんですよ。
ただ皆さんも知ってる通り、このバイオレンスが彼を飲み込んでいってしまうんですよね。合理的人事に、しかも魔王のような振る舞いでしょ。やっぱり怖いわけですよ。それはなぜか、諸説あるんですが、やはり史実にある通り、本能寺の変は起きてしまうんだよね。明智光秀という、どちらかというと新参の部下だったんだよね。でも結構ポンポンポンと成果を出して出世していって、もうあっという間に重臣に。能力主義だからさ。後半に入社してきたんだけど、いきなり成果上げて、「あいつ優秀だな」ということでね、もう専務に急になっちゃうみたいなね。専務の会議にね、「あいつ早いのになあ、光秀かあ」みたいな、そういう状態の時に、この光秀が反乱を起こす。「敵は本能寺にあり」。これですよね。
有名なシーンですけども、京都の本能寺宿泊中に取り囲まれるわけですよね。バンッ。旗を見たら光秀の旗。「はあ」。それで、人生をなぜ舞うのか分かりませんけど、「舞うぞ!」なんてね。「人生50年」みたいなね。分かりません。私、最期を覚悟した時に舞おうとはなかなか思いませんけれども。「人生50年」。どこかの創作かもしれませんけど、そういうことを言って、自害して焼かれたということがあるわけなんですよ。
ここから出てくる、この豊臣秀吉。彼は一体何がすごかったの?って話なんだよ。有名なのは草鞋あっためたって話じゃない? あれがとにかく有名じゃない。もうとにかく草鞋あっためてて、あだ名「猿」のやつっていう、もうそればっかり有名じゃない。でも、もっと広範に彼の個性はあるかなと思ってるんですよ。要するに農民出身で、一番下の身分からガーンと登り詰めたっていうところと、あだ名が猿、草鞋温めてた。だから、ずっと草鞋あっためて最終的に出世したわけではないですよ。草鞋だけで行ったやつではないですよね。その前も出世の間に、一夜城とか城攻めとか色々あるんだけれども。
そんな中でも、この人はじゃあ一言で言うと何か。信長が「バイオレンス&イノベーション」だとしたら、この人は「スピード&コミュニケーション」の人だと俺は思うんですよ。早い。そしてうまいんです。とにかく何が早いかというと、もう判断が早いですよね。この中国大返し、これ有名なんですけれども。
要するに信長が光秀に討たれた。本能寺で殿がやられたって言ってる時に、どこにいたかっていうと、もう山口県の辺りかな。その毛利を攻めてたんだね。中国地方の毛利を攻めていたわけですよ。うわあーって。毛利氏っていったら、もうこっちの西では有力者ですからね。かなり拮抗した戦いで、もう少し時間かかるかなーとかやってる間に、「殿が死にました!」ってなって、「嘘でしょ」ってなった上で、そこで面白いの、すごい判断だよね。そこで毛利氏との戦いから撤退するじゃないんですよ。
いきなり死んだっていうニュースを隠したまま、一回毛利氏と和睦、すぐするんですよ。「いやあ、ごめんなさいね」なんて。死んでる感じさせないんだよ。「信長が死んだから和睦しましょう」なんて言ったら隙につけ込まれるから、「いやいや、毛利殿すいません。ここでちょっと仲直りしませんか?」と言って。「何、急に?」。向こうも攻められてる立場だから、もう攻めるのやめてくれるんだったらそれでいいよってね。「もう僕が間違ってた」とか言ってね。「攻めてたけども間違ってたと思う」とか言って、「一回仲直りー」とかって握手したその足で、ものすごいスピードで京都の方に戻るんですね。「うわー、殿の敵討つぞ!」。
でも、これ殿への思いもあったと思うけど、その後のことまで全部考えてたんじゃないかなっていうぐらい早い判断なんですよ。殿がやられた、じゃあ行かなきゃ。なぜ行かなきゃいけないか。その後の権力争いがあるからでしょう。そこも全部見えてた。一番早かった。そして山崎の戦いというところで明智光秀と戦って、最終的に光秀は逃げながら討たれてしまうわけなんですよね。光秀討伐という、その大行賞ですね、もらうわけですよ。
その時、信長の陣営の中で、もう一番弟子ではないわけですよね、秀吉っていうのは。他にもすごいやつがいるわけですよ。柴田勝家とかね、丹羽長秀とか滝川一益とか、いっぱいいるんですよね。もう大御所たちが、ビッグ4みたいなやつがいるわけですよ。「信長さんの下には我々がいるからね」なんてね。強いんです。勝家なんかもうすごいんです。「勝家がいるからね。俺がだからね」なんて言ってるわけなんだけども、その時、勝家は上杉の方を攻めてて、なかなかそっちは戻れなかった。そっちの方が距離近いのにね。でも戻れなかった。戻れなかったんだよ。秀吉、早いよね。「ああ、すいませんでした」、ビュン! アイムソーリー&ゴーだからね。ビーン。すごいよね。早いんですよ。とにかく早い。
その上で清洲会議。これが有名ですよね。三谷幸喜さんでも映画になりましたけれどもね。この清洲会議っていうのは何なのかというと、織田信長先生が死んだ、殿が死んだ、その後継者は誰なんだを決める会議だったと言われております。その内部も諸説あるんだが、一説によるとですよ、次男か三男かで揉めてたっていうところがあるらしいんですよ。次男より三男の方が優秀だったらしいんです。面白いよね、ここね。その上で三男を推してたのが柴田勝家ですね。盤石ですね。
「わしが柴田勝家だ。三男で決まりだろ、お前。こいつが優秀なんだからな。実力伴うこの三男で行こう」。そういうふうに言ってたと言われてます。一説にはもう最初から結果決まってたと。色々な説あるけども、実はこの三男を推してる勝家、次男を推す派閥もあるわけですよ。「次男だ、三男だ、次男だ、三男だ」と言ってる間に。なぜ次男か三男かだったかというと、長男はもうお亡くなりになってるからですよね。長男が亡くなってるから次男か三男かって言ってる間、その間、この猿がものすごい後ろで色々とコミュニケーションしてるわけですね。柴田勝家が「三男だろうな。基本三男だよな」って言ってる間にやってて。
それでどうやって現れるかというと、長男に子供がいるんだね。孫がいるわけですよ、つまり。「だとしたら、こっちの方が正統じゃございませんか」と言って、「あちゃー」となるわけです、みんなが。「ああ、そっちー」みたいになって、みんなが「そうかも、そうかも」とか言って。裏で根回ししてたんだね。そうかも、そうかもとか言って。しかもうまいのは、「じゃあ、その後見人は誰か?」ってなった時に、この三法師っていうんですけどね、三法師っていうこの孫ですよ、信長の孫、長男の子供ね。「ここが一番でしょ」ってなったその子供を、ものすごいあやしてるわけですね。「猿おじちゃんだよー」「わあ」とか言って。「猿おじちゃーん」とか言ってね。
それで、その後見人が誰かっていう会の時に、この秀吉が三法師を抱いて現れるという。「さあ、三法師様のおなーりー」って秀吉が言って、全員が「ははー」ってやる。その絵がもう秀吉のコントロールのものだったという、そういう清洲会議なんですよ。そのことによって柴田勝家派と秀吉派は一気に一触即発になるわけですね。その上で、いざ柴田勝家と秀吉の時に勝つわけですよ。それが賤ヶ岳の戦いというんですね。ここで勝つ。光秀を討ち、勝家に勝ち。
ここもうまくない? スピード&コミュニケーションの人だよね。こっちだ、こっちだ、根回ししてさ。要するに自分が一番強いっていう自信がないわけですよ。だからこそものすごい頭を使うわけですね。根回しをする、根回しをする。そして勝家もいなくなった。もうすぐですね。そうなった時に阻んできたのが徳川家康だ。小牧・長久手の戦いっていうのがあるわけですね。家康が「そう簡単には全てはあげられないね。私も最有力候補の一つだよ」ということで、徳川家康が立ちはだかるわけですよ。
ただ、この徳川家康はやはり難物ですから、勝てないですね、なかなか。「拮抗してるな、これは。この家康の抵抗をなんとかなくせないかなー」っていうところで、ここ武力じゃない。要するに、そこで家康を討ちましたって話じゃない。「うーん、無理か。分かった、分かった。武力制圧のラインは無しだ。あいつは強い、家康。認めよう。あいつはなかなかやる男よ。しかし私には作戦があるんだ」。スピード&コミュニケーション。そう、彼は朝廷に近づくんですよ、そこから。
朝廷の権威を借りるわけですね。それまでの猿の一番のコンプレックスが、出がやっぱり農民だということなんですね。それまでも将軍って色々将軍職ってあるけど、昔をたどれば源氏の流れとか、昔をたどれば平氏の流れとかというのが、いまだに結構重用されてた時代だったんです。だから「そうじゃないと将軍にはなれませんよ」とか言われたんですね。だからこの豊臣秀吉は将軍にはなれないだろうって言われてた。でも朝廷に近づいて、太政大臣、そして関白という権威を得るんです。すごいやり方。ウルトラCを決めるわけですよ。「関白秀吉である」。こうなるわけですよ。
朝廷の権威もあり、そして最有力候補となった今、「争うことが一体どこにあるんだ? それは正義なのか?」。関白として言う。「日本はもう戦争はいらない」っていうわけですよ。それで家康が「ふーん」となるわけですね。「ならばもう従うしかないのか」と。でも家康はまだうかがってはいるけどね。家康はうかがってはいるけども、そこがうまいんだよね。すごいよね。
だから秀吉というのは、とにかく勝ちに勝ったっていうと、押さえるところは押さえてるんだけど、何でもかんでも武力でやんなかった。しかも勝った相手にも、だから負けた側にも、信長だったらもう全部奪う、もう全て奪うね、本当に全部潰すみたいなことやってたんだけど、潰さない。最後まで抵抗した小田原北条氏に対しても、「命を生き長らえさせた上で配下になりなさい」。こっちだったんですよ。部下にする。逃げ場所を用意しとくんですね。ここのギリのうまさ。これが豊臣秀吉という男なんですね。
ところが、この秀吉にも終わりが訪れるわけですよね。それは朝鮮出兵の最中、病で死んだっていうのは結構有名だと思うんですけども、あれはなんで朝鮮出兵したんだろう?って思うじゃないですか。なんで急に、みたいなね。それだけ聞くと分かんないかもしれないんだけど、あれはもっと広い視野が秀吉にあったみたいだね。あの時「うちの属国になれ」っていうのは、朝鮮だけじゃなくて中国にも東南アジアにも出してるんだって。だからもう秀吉は、ここからアジア全域を押さえようっていうふうに考えてたらしいんですよ。
その中でやはり明ね。明もその時に結構ぐらついてたっていう事情を見透かして行ったらしいんだけど、でも抵抗が強かった。一発目は朝鮮半島からバーッて入って、韓国のソウルを押さえちゃって、そこから中国にもバッと入っちゃって、もうそこまで行ったんだけども、向こうの強いやつらがわあっとやってきて、「うーん、なかなか拮抗してるな」っていうところで一回和睦。「はい、一回逃げますね。お疲れさん。一回逃げまーす」ってやって、「もう一回じゃー!」ってね。
その「もう一回じゃー」のきっかけは、中国から「うちの属国にならないか」っていう挑戦状が来たわけですよ。「中国はまだ余裕があるぞ。お前どうしたんだ」っていう挑発を受けて、「おっしゃ、行ったらー!」ってもう一回行く。でも二度目行く時には、もう準備万端、向こうは。「どうせ日本来るんだろ。じゃあ、こうしてこうして、こうしといてやれ」。「うわあ、難航してるよ」。行かされてる加藤清正さんも、「もう腹減った。ちょっとこれきついっすよ、これ」ってなって。「マジっすか?」ってなってる間に秀吉が病死するということで、撤退というふうになるんですね。
天下は統一したものの、さらにさらにと夢を見た秀吉。それが敗北を決したというところを見ていたのが家康ですよね。家康は見ているというね。ずっと見てるというね。服従しても見てると。ずーっと見ている、見ている家康ですね。
これ、だから言ったら「バイオレンス&イノベーション」、「スピード&コミュニケーション」、こっちが、もうスタンド名を言うのであれば「パーフェクトコントロール」ですよ。もう徹底管理っていう、非常に強いパワーの能力者なんですよね。「バイオレンス&イノベーション」っていうところから、「スピード&コミュニケーション」っていうね。「パーフェクトコントロール」、すごいです。パーフェクトコントロール、これが強いんですよ。ここのイノベーションがすごくて。
そこまでも関ヶ原、大坂夏の陣、ここら辺盛り上がるよね。三成軍との戦いがあるわけですよ。もう秀吉が死んでて、その後どうするんですかの合議制の中で、武力でやってきた武断派のトップが家康、文治でやってきた、事務方でやってきたトップが三成。事務方のトップ三成VS武力派の家康、どっちなんだの争いね。これも色々あったらしいですよ。
これも一応言っときますけども、結構劣勢だった家康も、向こうの西軍、三成軍かなりでかかった。10万ぐらいだ。だけどそこで家康が取った方法が、手紙作戦なんだって。手紙で「こっちの味方についてください。こっちの味方についてください」、むちゃくちゃ出して。「殿、まだ出陣しないんですか?」「いい! 手紙を書く! こっちの味方についてください。こっちの味方についてください」。それが後からじわじわ功を奏してきて、向こうの軍がどんどん裏切るんだよね。
裏切る、裏切らないっていうやつに、合戦が始まってから、小早川ってやつがいてね。パーンって、小早川にね、「おい、どっちなんだ。おい、裏切るって言ってたよな。手紙出したよな」、パーンって言ったら、「はっ! そうだった」って、もう一回裏切ったりして。戦局が変わって、最後の最後までギリギリだったところを制圧したのが、この関ヶ原の戦いだったそうなんですね。この三成っていうのは負けたけれども、「これ運が悪かっただけだ」っていう言葉を、負け惜しみのように残してるけども、本当にそうだったんじゃないかっていうぐらい拮抗してたらしい。そこから江戸幕府。これは征夷大将軍になるわけですよね、トップで。
ところがですよ、豊臣家はまだあるわけだ。これ怖いよね。家康はもう御年60ですよ。いい感じにミドルな感じ。もう白いですよね。「家康ですよー」ってね。ある日、その豊臣の二代目を見に行ったんだって。秀頼を見に行ったんだって。「じゃあ、ちょっと挨拶行きますね」って。「秀頼君、大きくなったね」って言った時に、秀頼がめっちゃ優秀そうだったんだって。ピーンってね。「家康さん、お久しぶりです。父が大変お世話になったと聞いております」。「こいつはやばいな」と思ったらしいんですよ。「あいつ潰しとかんとまずいだろ、どう考えても。あの目は俺を殺す目だな」ってなって。
その豊臣家にいちゃもんつけるんですって。豊臣秀吉を祀る、なんかもう一回リフォームするみたいな時に、そのリフォームのところで、「俺のこと悪く言ってる文字とか書いてるじゃん」みたいな、謎の、本当それぐらいの謎のいちゃもんをつけて。「なんすか! いやいや、徳川さん、どうしたんすか?」みたいな。「いやいや、ダメだよ、それ」ってね。それで「堀埋めろ」とか色々言うわけですよ。「いやいや、ちょっとこれ、明らかに徳川がもう豊臣潰そうとしてるんだ」っていうのがあって、一回争って。そこから争いかけて、もう一回和睦をしたと見せかけて、もう一回いちゃもんつけて。「でも従業員全部クビにしなきゃダメだよ、それ」って。「いや、徳川さん、だから何をおっしゃってるんですか? 何もしてないでしょう、うち」みたいな。明らかに殺そうとしてる。もうまずいとなって、大坂夏の陣になるわけですよね。
ただ、この大坂夏の陣に至っては、関ヶ原とは違って、もう圧倒的徳川有利と言われてたわけですよね。ここで活躍するのが真田幸村。これ、絶対負けると分かってた豊臣側についたよっていうところが面白い話なんですよね。真田幸村の軍っていうのは、義経っぽい感じかな、人気の感じで言うと。負けた側っていうか。この「判官贔屓」って言葉があって、弱いものが好きっていうね、負ける方を応援しちゃう日本の感性みたいなのは義経の言葉を言うんだけど、そういう感じかもしれない。
その真田幸村をみんながかっこいいって思うのって、要するにもう負けるって分かってるけど、「いや、それでも俺は豊臣に行く」。そのストーリーじゃない。『真田丸』とかもそうだったよね。「秀吉の方に行きますよ。世話になったからね。死にに行きますか?」。これですよ。「死にに行きますか?」。この真田幸村の家紋っていうのがあるんだね。六文銭っていうね、六個のコインが描いてあるんだけど、「なんで六文?」みたいなね。「お金がないのかな?」みたいな、そういうことじゃなくて。
実は六文銭っていうのは、地獄へ行く時、三途の川を渡る時に、その三途の川の渡り賃として六文必要らしいぜっていう逸話があって。「じゃあ俺たちはもう死ぬ覚悟ができてる。俺たちに残る、必要なのは長い人生ではなくて六文のお金だけさ。さあ、地獄へ行こうぜ」。これですよね。かっこいいっすよ、真田幸村。「さあ、地獄へ行こうぜ」ってね。すごいです。旗の紋章から何から全部かっこいいわけですよ。だからもうみんな好きなんですね、真田幸村。
ただ、この幸村がなんで人気かって、この絶対的に不利と言われた中で、家康本陣では「ああ、もう絶対勝つからね、うちは」っていう時に、もう高を括ってた家康本陣まで突っ切って行っちゃったことだよね。もうギリギリまで追い詰めたと言われてるんですよね。もう死ぬ覚悟ができて、ギンギンになっちゃってる。「地獄行こうぜ、俺と一緒に」っていうやつが前から来るんですよ。「いやいや、怖い怖い。あいつおかしい。あいつおかしい。地獄行っちゃおうぜーとか、ちょっと、まあまあ」って言って。そのまま直線で突っ切って本陣までやってきて。
それで一説によると、その家康は何度も「うわあ、もうちょっと待ってくれ。もうダメだ、俺は腹を切る」って何度も言ったらしい。それぐらい大慌て、慌てふためいたんだけど、すんでのところで色んなやつらに助けられて、ギリ助かると。それぐらいギリまで追い詰めた真田幸村、なんと忠義のやつよ、というお話がここには残ってるわけだよね。だけど、ここでは僕はあんまり触れないと。でも結構触れちゃったけどね。あんまり触れないつもりが結構触れちゃったんだけどもね。
ただ大事なのは、この徳川家康のパーフェクトコントロールとは一体何だったのかっていうことなんですよ。このパーフェクトコントロールを分析して初めて、江戸時代が面白くなるんですよ。このパーフェクトコントロールの時代、1、2、3、初代から三代目家光までは、これ武断政治って言われたんですね。徳川の時代って長いでしょ。長いから、もう色々言われるんですよ。なんとかの治とか、なんとかの政治とか、なんとか改革とか、いっぱいあるでしょ。やだよね。その上で、江戸がどういう形で300年続いたか、俺はたったの五つに分けました。五つだけ覚えてくれれば大丈夫です。ざっくり分かります。
まず最初は武断政治、厳しくいきます。タイトに締め上げます。「お前たち、江戸幕府の言うこと聞けよー」ってやるんですね。「聞けよー」ってやりすぎた結果の反発を受けて、次の4、5、6、7は緩くします。「優しくしてあげまーす」「え!?」なんてね。「さっきまであんなに締め上げてたのに、優しいんすか」。優しくしすぎたので、もう一回8、9、10辺りで締め上げます。「厳しくいくぞー」ってね。「ああ、やっぱり厳しいっすね。江戸さんはやっぱり厳しいっすね」ってなった後、その反動で今度は11、12、13ぐらいまではかなり緩やか。「遊んじゃいなよー」みたいなね。「パーリー始めよう」みたいな。「ああ、いいっすねー」なんて。それでタイト、ルーズ、タイト、ルーズでジ・エンドを迎えると。
タイト、ルーズ、タイト、ルーズ、ジ・エンドで覚えると簡単なんですよ。これで区切った方が分かりやすいんですね。このまず最初のタイト、ここで発揮されたのがパーフェクトコントロール。これがうまくいってるから、ここまで続いたんじゃないですか?と言われていますね。
それがまず武士たちへのコントロールだね。二つのダブルコントロールが効いてるんですよ。家康のダブルコントロール、武士&農民。武士のコントロール、まず監視と配置がうまかった。それは有名ですよ。外様とか、親藩、譜代とかとね、「それ違うよ」なんてね。「後から味方になったやつは遠くに配置します」っていう。これもシンプルなんだけど、今までやんなかった。今まで住んでるところで叩いたり色々してたでしょ。そうじゃなくて、「お前は後からだから遠くー。お前も遠くー」ってやっていく。遠くにやっていくっていう作戦。プラス、その遠くに置いた上で、近くに幕府の直轄地を置いて、監視もしとくわけですよ。すごい遠くに引っ越させた上でずっと見てるっていうね。「すごい見られてるな、監視カメラつけられてるな」ということが一つあります。
そしてもう一つが財力の削減、そして武力の削減。財力の作戦がうまいんだよね。結局、お金持ったら反抗するじゃんっていうのがあって、「適度に削っとかないとねー」。これなんですよ。怖いよね。生かさず殺さずという言葉、まさにここに当てはまるんじゃないですか。だから色んな理由つけてお金を使わせるわけですよ。まずは参勤交代ね。一番有名な、家光の頃に完成したと言われる、「江戸までご挨拶に来てください、パレードで」っていうやつですね。「わあ、なんでか分かりませんけどパレードで、すごいお金かかりますけども、これ何なんですか」って。ただ金を使わせてるだけっていうことなんですよね。
金を使わせるね。そして普請役といって、江戸の幕府の持ってる建物の修理費用を徴収するわけですよ。「修理代はあなた方が出してね」っていうね。「え、なんで俺たちが」ってね。「いやいや、だって江戸はみんなの平和を守るわけだからね。生徒会ですよ」みたいなね。「生徒会のためのものですから、みんなで出し合いましょう。ベルマーク出してください」みたいな、そういう感じですよね。「みんなのために」みたいな感じで、お金をとにかく使わせる。それは参勤交代というパレードと、そして修理代ですね。
そして武力の削減、これもあった。これ一国一城の令というのがありまして、「もう一つの国には一個の城しか作っちゃいけませんよ」という。今でいうと核不拡散条約みたいなね。「核はこれぐらいしか持っちゃいけない」「この国しか持っちゃいけない」とかあるじゃないですか。ああいう武力を限定する条例ですよね。これを出してると。一国一城、参勤交代、普請役、外様のこの配置の仕方、かなりうまいですね。削ぐんです。とにかく削ぐんです。力つけさすんですけど。
でも、この武家の歴史に詳しいね。これ日本史分かってると、要するに公地公民制が崩れて墾田永年私財法になって、全員に土地を自由にやっていいよ、その方が活気づくから、の結果、強いやつと弱いやつが現れて、弱肉強食が始まるわけじゃないですか。だからそうはさせない。全員を程よく疲れさせるというね。程よく疲れさせる。すごい、いいですよ。大変なことです、これは。
そして農民もそうですね。これも歴史をうまく知ってるよね。本当だ、日本史分かってる人が作ってるというね。もちろんそうなんでしょうけども。土地売買禁止令と分割相続禁止令。土地を売買させないことによって、こいつだけがすごい土地持ってるとかっていう強力な人間をなくした。プラス、分割相続をすることでどんどん零細農家になっていっちゃう。「五人子供産んだから、この土地五分割」みたいな、そういうことがないようにする。その上で五人組制度。これうまいよね。これ有名だよね。五人組で密告させ合うっていうね。「あいつが悪いことしてましたよ」って言うと、それで連帯責任になっちゃうという、この仕組みですよ。いやあ、うまくできてる。
その上で、この武断政治がすごかったのは、家のお取り潰しが多かったってことでね。百何十個もの家が、この武家諸法度っていうルールに、「こういうことやれよ」っていうルールに、ちょっとでもミスったら「あれー?」なんて言って、潰されちゃうんですって。家ごと全部。その領地全部奪われちゃう。もしくは強制転勤なんですって。
だから「城の修理はちゃんと言ってくださいね」と言われる。一国一城令で城は厳しく管理されてる。城をうまく強化しようとするやつは謀反の気ありっていうことで、城をちょっとでも修繕したら、「あれ? 言わずに修繕してません?」「いや、ちょっと城壁が崩れてたんで、急場で修理しただけですやん。そんなに言わんでもええじゃないですか」「修理は許可出てます?」「いやいや、昨日の今日でしたからね。ちょっと直しただけですよ」「謀反の気あり」、バーン!と潰しちゃうんですよ。もうズバンズバンって潰して、「謀反の気あり、謀反の気あり」って、厳しめに一罰百戒。もう見せしめとしてどんどん潰していく。
ただ、これがこの乱を生むんですね。由比正雪の乱というね。これ、牢人と言われる。牢人って、さんずいへんの波の「浪人」ってよく出てくるじゃないですか。あの浪人っていうのは広義、広い意味で、戸籍を持ってないとかっていう人も浪人だったんですけど、これは単純に没落して、お取り潰しになった武士たちのことを、牢屋の牢で人で「牢人」って言うらしいんですよ。
この牢人集団が、「おい、俺もお取り潰しだよ。江戸幕府なんなんだよ。俺、支社長だったんだぞ」って。「支社ごと潰して、なんだよ。ちょっとトイレ修理しただけじゃん。うちのオフィスのトイレ、ちょっと修理しただけじゃん。なんでー」ってなってて。「いや、俺もだよ」とか言って。「車のタイヤがパンクしたから直したら、もうお取り潰しだよ」と言って。「俺もだよ、俺もだよ」って、それが集まって、「お取り潰しやりすぎだろ」って由比正雪のところに集まって乱が起きるっていうところがあって。それはもう鎮圧するんだけども、「ちょっとやりすぎたかもしんないねー」って言って、文治政治という、ちょっとルーズな方に行くわけですよ。
ここで利用されてくるのが、この新井白石を代表とする儒学っていう教えなんだよね。儒学って世界史でやったじゃないですか。春秋戦国時代に色んな教えがあって、その中に儒教という教えが隆盛するわけなんだけども、言ったら年功序列とか仁義とか、そういうのを大事にする。これがなんで江戸で重用されたか、いいねってされたか。それは権力の維持に非常にフィットしてるからなんだよね。つまり「上司に逆らうのってなくないですか」っていうね。「目上の人に逆らうのってなくないですか」っていう教えなんですよね。「礼儀が大事じゃないですか。目上の人にはきっちりと反抗はしない」。この年功序列の教えがめちゃめちゃフィットする。「いいね」と。
なんでその教え採用したか。仏教っていう教え、もうガンガン潰しちゃったからだよね。そうだよね。仏教っていう教えでコントロールしてたけど、仏教という教えが過激化していって、それもボコボコにあの魔王がして、「焼いちまいなー」のね。「焼いちまいなー」って言ったあの魔王がいたから、もう仏教の教えっていうのは武士とは水と油になっちゃったわけですよね。そんな中で儒教という、そっちの方から取ったわけですよ。
儒教の中でも朱子学と陽明学っていうのがあるらしいんだけど、ここも結構面白いよ。朱子学はもう体制側なんですよ。陽明学はどっちかっていうと朱子学よりも反体制側。だから朱子学がっちり、もう合ってるわけですね、幕府側にはね。「秩序を保ちましょう。礼儀を重んじましょう」。だからこの頃から、「武士は武芸に励め」っていうところから、「武士は忠義のものであれ」って教えに変わっていったんだって。面白いスライドだよね。「強いのが武士だろ」じゃなくて、「仁義、ハート・トゥ・ハートが武士だろう。分かってんでしょー」っていうふうに変えていったんですって。
その結果起きたのが赤穂浪士の事件よ。どういうことか分かる? 赤穂浪士の討ち入りって敵討ちじゃん。敵討ちっていうのは、この頃、儒教が流行りに流行ったから、めっちゃオッケーなことだったの。要するに、「主君のために家臣は尽くす、これが正義だー」の行きすぎたのが、「主君の敵取ってやれ」ということなんですよ。
だから赤穂浪士の事件は、お上も知ってたけど黙認してたっていう説があるんですよ。赤穂浪士の「うわ、最高じゃん。あいつらも復讐果たしてよ」って民衆にも大受けしたのは、この儒学が効いてたからなんだよね。儒学の世界になっていくわけですよ。
こうやって強く緩くやってったんだが、じわじわとだんだん、やっぱ厳しくなってくのが財政ですよ。お金が足りなくなってくる。なんでって、もうぶっ潰してるからね、いろんなとこ。ぶっ潰して、お金無駄に使わせて、弱体化させてるがゆえに、やっぱりだんだん全体のコントロール、今度はもうちょっと盛り上げなきゃいけないわけじゃないですか。「もうちょっとお金稼いで、みんな」っていう、グッとしなきゃいけない。
ここで出てくるのが徳川吉宗。これ、享保の改革ね。だからこの時代は本当、財政再建の時代です。財政再建と、徳川の権威が、もうだいぶ経ってきてるから、「家康様って何だっけ?」。もう伝説の人になっちゃってるわけですよね。そういう時代になっちゃって、だんだん薄れてくから、「いやいや、徳川ってのはすごかったんだよ」っていう、その権威復興と財政再建っていう、その復興の時代に入る。
でも、それがうまくいかないことは続くんですよ。吉宗も頑張った。田沼意次も頑張った。松平定信も頑張った。でも、色々締め上げて倹約させても、重商主義っていって田沼意次が金持ちを優遇しても、「いや、やっぱり倹約だ」って松平がやっても、なかなかうまくいかない。
なかなかうまくいかない時にとどめを刺したのが、この徳川家斉。こいつはむちゃくちゃ面白いんだ。俺、なんか好きなの。なんかわかんないけど、むっちゃおもろいよ、この人。この人ね、奥さん40人いたんだよ、家斉。40人いて、なんと55人子供産むからね。55人だよ。55、すごいことだよ。
この家斉は、本当に将軍職を退いても、まだ権威を保った上で、「俺が一番」ってやった上で、長いこと浪費しまくったわけ。「もう知らんがな。倹約なんやかんや君らやってたけど、結局うまくいかへんやろ。もう飲んだったらええねん。パーリナイ」って。「イエー」って、「美女カモーン」っていう、すごいのよ、家斉。「俺、まだ将軍やめても偉い人〜」っていう。すごい、もうパリピだよね。すげえパリピで、「イエーイ」みたいになっちゃって。
それで、40人の奥さんと55人の子供たちっていうね。全員の、わかんない、記念写真撮ったんでしょうか? 撮らないんでしょう。分かりません。こうやってね、「これ全員奥さん、全員子供たち」みたいなね、やってるという。家斉のせいでかなりダメージをくらいまして、「もう無理だろ」。だから、「もう無理です期」ですね。「江戸幕府ボロボロです期」になって。
それで慶喜が来て、立て直しを図るんですが、その頃、この家斉の後ぐらいにペリーが来るわけですよ。家斉の次の家慶辺りでペリーが来てさ。それまでは、貿易っていうのは鎖国、鎖国って言うけど、今の教科書では鎖国ってことはあんまないんですよね。実は4箇所ぐらい貿易の拠点があって、幕府直轄は長崎だったのかな。でも、アイヌとも中国、オランダとも、琉球とも色々と貿易をしてましたよっていうことがあるわけ。
でも、日本人が海外渡航するのを禁止とか、色々コントロールはあったんだけど、貿易はしてたっていうことなんですよ。閉じてたけど窓口を作って開いてたという。それもパーフェクトコントロールだよね、言ってみれば。コントロール貿易だったんですよ。
これも途中からね、最初は大航海時代のスペイン、ポルトガルが来るんですよね。だけどスペイン、ポルトガルは、結構最初の方に締め出されちゃう。なんでかと言うと、スペイン、ポルトガルの大航海時代の時は、キリスト教の布教もセットだったんですよ。「貿易してください。そしてキリスト教を布教させてください」っていうのがあったの。
でも、その後からやってきたオランダがずるいんだよね。オランダ来て、「日本さんって、ポルトガルさんとスペインさんともお取引なさってるんですよね」みたいな。「そうなんですよ。うまくやらせてもらってます」みたいな。「キリスト教云々言うてますけど、それもしょうがないなということで。それよりもポルトガルのやつが美味しいんですわ、非常にね」みたいな。
「いや、もちろんポルトガルさんもスペインさんもいいんですけど、うちオランダは特典が1個ありましてね。キリスト教は布教しなくてもいいということなんですよ」。「ええ」みたいなね。「ヨーロッパなのに、いいんですか?」みたいな。「その上で、ちょっとお話あるんです、1個ね」なんつって。
そのオランダが取った作戦が、キリスト教の布教は国家の治安を乱すっていう噂を流すのよ。「スペインさん、ポルトガルさん、いい人なんですけど、あれのさばらせるとやばいらしいですよ。キリスト教やったらね、国がーなって、もうバゴンやられるらしいですよ」ってなって。「そうなんすか」つって、スペインとポルトガルとの交易を禁止するの。まんまとオランダが日本との貿易を独占していくというね。
でも、貿易はしてたわけなんですよ。だけど、そこをこじ開けるやつが現れるわけね。ペリーだよね。もう有名な、あの9対1のヘアスタイルのペリーが「ハロー」っていうね。「USA」っていうね、USAからやってきたっていうね。あのペリーが「開国してください」って来るわけですね。
なんで「開国してください」って急にアメリカから来たかご存知ですか? あれも面白いんですよ。アメリカでは当時、産業革命によって油をむちゃくちゃ使ってた。クジラの油を使ってたんすって。捕鯨船をここまで取りに来てたんだけど、それの捕鯨船の停泊地がなかったの。「もう作れ、作れ、作らなあかん。油がもっと足りん。クジラの油使うんすわー」みたいなのがあった上で、油を取るための補給地、「あそこ、あそこ開国してください」。こういうことだったらしいんですよ。
それでアメリカが来て、バーンと門戸が開かれるまではオランダが独占してた。だから鎖国ではなかったっていう説が、この、なんとかだったっていう説が今は定説ですが、結構このエクストリーム授業のコメントですごいある。すっごい来る。「こっちが新しい説」とかがすごい来る。これに関してはもう大変。
いや、だってさ、それだってもちろん新しい説ってのは正しいのかもしれないんだけど、ちょっと勘弁して欲しいってとこもあんだよね。いや、俺さ、そう、こんなねと思ってこれ見てさ、「そうか」と思って見たらさ、初版が97年で、2014年第13刷発行だから、5年前っちゃ5年前なんだよ。だから確かに、ちょっと古い説もあるのかもしれないけど、そこは是非、自分で選び取って、コメント見てね。だからコメント欄とセットで読むと面白いかもしんない。
だからね、信長の三段構えの銃だってなかったかもって言われてんだよ。実は3000丁の銃って言われてるけど、本当は1000丁で、あの日は嵐だったから整列できなかったはずだぞとか言ってね。それで、「こっちは諸説あり」とか言われるからさ、本当に俺、1秒ごとに「諸説あり」って言わなきゃいけない。諸説あるのは前提としてね、もしかしたら古い説かもしれませんけど、皆さんのお力をお借りして、なんとか真実に近づきたいと思います。
その上で、どうですか? 戦国、江戸と、このイノベーション3を。やっぱ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、面白かったでしょ? その上で、それで大政奉還していく。それどうなるか? これね、変わってくよ。日本の姿が全然変わってくんですよ。
っていうのも、この江戸の頃に北海道と沖縄はどうだったのって話。さっきちょっと言ったでしょ。アイヌや琉球とも貿易してたって。そう、つまりまだ日本じゃねえんだよ。日本じゃないんすよ。蝦夷地には松前藩っていうところが貿易相手としてやってたし、薩摩の島津氏が琉球で首里城を1回占領したりとか、ちょっと爪はかかってる感じなの。だけどまだ、ここどうしたらいいのかなっていうところは決定してなかった。つまり北海道や沖縄が日本になってくのが明治からなわけですよね。
ここなんすよ。明治で一気に洋服も入ります。洋服も入ってきますね。もう全部変わってくわけですよ。明治政府が全てを変える。その明治維新というものが日本を近代化させたっていうことは、世界史的にも影響たくさん与えてるじゃないですか。東南アジアに衝撃を与えたし、中国にも衝撃を与えた。いち早く欧米化した日本。その日本がいよいよ今の俺たちの見ている日本の形になってくる。北海道、沖縄、そして洋服。さあ、もう俺たちの時代が目に見えてきたわけなんだよ。
さあ、俺たちが生きてる今、この令和。令和も日本史の中なんですよ。俺たちも日本史の登場人物だということが、じわじわ実感として現れてきましたね。エクストリーム授業、まだまだ続きます。ということで、ではまた!
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