【スーツ・ベテランちvs東大研究者】なぜ親を悪く描けない?巨大企業ディズニーが負う責任とは【ReHacQvs山本恭輔】
ReHacQ−リハック−【公式】ディズニー作品は長年にわたり、世代や国境を越えて親しまれるファミリー向けエンターテインメントの代表格として受容されてきた。しかしその裏側には、単なる「純粋で無害な夢の世界」にとどまらない、複雑な社会構造や歴史的文脈、そして企業のビジネス戦略が張り巡らされている。東京大学大学院博士課程でディズニー作品やポピュラー文化を研究する山本恭輔氏は、作品がどのような時代背景の中で制作され、いかにして人種やジェンダーを表象してきたのかを解き明かしている。本稿では、山本氏へのインタビューを通じ、ディズニーが抱える表現の制約、ポストフェミニズムとの関係、「可視性の政治」が「可視性の経済」へと変質する構図、そして政治的無垢(ポリティカル・イノセンス)の戦略について整理する。
「車に人種や性別がある」違和感から始まる文化研究
研究の原点として山本氏が挙げる具体例が、ピクサー映画『カーズ』である。本来であれば無機質な鉄の塊であるはずの車に、男性や女性の別が与えられ、白人、アジア人、黒人といった人種的な属性が付与されている。観客はそれを疑問を持たずに受け入れがちだが、客観的に見れば奇妙な現象である。車の造形や振る舞い、話し方を通じて、どのように人種やジェンダーといったキャラクター性が観客に納得される形で付与されているのかを分析することが、文化研究の重要なアプローチとなる。
また、作品の背景にはアメリカの具体的な歴史が埋め込まれている。『カーズ』の題材となっているストックカーレース「NASCAR(ナスカー)」は、もともと禁酒法時代に密造酒を運んでいた者たちが、警察の追跡を逃れるために改造した車を爆走させていた歴史に端を発する。さらに、劇中で高速道路の開通によって寂れていく町が描かれる背景には、1950年代アメリカのロードサイドカルチャーの衰退という史実が存在する。作品を楽しむだけでなく、その裏側にある社会や歴史の文脈へと遡ることで、アメリカ文化そのものの構造を浮き彫りにできると山本氏は指摘する。
表象(レプレゼンテーション)が形づくる「現実感」
ポピュラー文化を分析する上で根底にあるのが、「表象(レプレゼンテーション)」という概念である。人間は現実のすべてをそのまま切り取って伝えることはできない。動画の編集や言葉の選択と同様に、何らかの記号を通して現実の一部を抽出し、置き換え、再び提示(リプレゼント)している。
この抽出作業には、送り手の意識的・無意識的な判断が介在し、受け手側もまた流通しているイメージを自らの想像力で補いながら理解する。こうして社会に流通し共有されるイメージ群が、人々の「現実感(リアリティ)」を形づくる。たとえば、一度も行ったことがない街や国に対して抱くイメージや、過去の映画で日本を描く際に芸者や歌舞伎、あるいは出っ歯といった記号が抽出されてきた歴史も、表象が作用した結果である。作品の中で「誰がどう演じるか」「何をどのように描くか」という選択を、誰が、どのような状況で、誰に向けて行ったのかという文脈を読み解くことが、表象を分析する上での鍵となる。
ファミリー向け巨大企業が抱える表現の制約
現代のディズニーは、映画スタジオにとどまらず、配信サービス、テーマパーク、クルーズ客船、音楽、舞台、ゲームなどを傘下に収め、マーベルやスター・ウォーズ(ルーカスフィルム)、ピクサーを抱える巨大メディア・コングロマリットである。世界中のファミリー層に向けてエンターテインメントを提供する企業となったことで、社会的・倫理的な責任を負わざるを得ない立場にある。
その巨大さゆえに、作品表現には強い制約がかかる。その最たる例が「実の父親や母親を明確な悪人として描けない」という点である。親が子どもに安心して見せられる健全なコンテンツであるというブランディングを維持する以上、血のつながった親を悪者として処理することは商業的に極めて困難であり、大ヒットを狙うメジャー作品では基本的に避けられてきた。しかし、現実のアメリカ社会では養子縁組や多様な家族形態、人種やセクシュアリティの多様性が日常的な前提となっており、グローバル企業としてその現実にどう向き合うかという葛藤が常に制作現場に横たわっている。
福祉国家の解体、新自由主義、ポストフェミニズムの台頭
ディズニー作品における女性像の変化を捉えるには、1950年代以降のアメリカ社会史を振り返る必要がある。第二次世界大戦後の1950年代、アメリカでは「男性が外で稼ぎ、女性が家庭内で無償の家事・ケア労働を担う」という核家族モデルを前提に社会福祉制度が設計されていた。映画『シンデレラ』(1950年)や『眠れる森の美女』(1959年)は、ジェンダーという概念が成立し始めたこの時代に制作され、当時の性別役割分担を色濃く反映している。
1960年代以降、公民権運動とともに第2波フェミニズムが台頭し、固定化された性別役割や女性の労働市場からの排除を批判した。しかし1980年代以降、この批判は新自由主義的な市場原理と結びついていく。企業側は安価で融通の利く労働力として女性を市場に参入させ、共働きが前提化する一方で、競争の結果は個人の「自己責任」へと回収されていった。
こうして生まれたのが「ポストフェミニズム」と呼ばれる状況である。「法的平等は達成され、女性も社会進出を果たしたのだから、もはやフェミニズムによる構造的変革は不要であり、成功も失敗も個人の選択と能力の問題である」という空気が社会を覆った。この時代背景を反映し、1980年代末からポピュラー文化にも変化が生じる。『リトル・マーメイド』(1989年)を皮切りに始まる「ディズニールネサンス」期の作品群は、自ら行動を起こす女性像を提示しつつも、新自由主義的な自己実現の論理を内包するようになっていった。
『アナと雪の女王』に見る女性像の相克
こうしたポストフェミニズム的な状況が鮮明に表れている例として、山本氏はディズニー長編アニメーションで初めて女性監督(ジェニファー・リー)が起用された『アナと雪の女王』(2013年)を挙げる。
劇中において、アナは家庭的なロマンスに憧れを抱く旧来的な女性像の系譜を引く一方で、エルサは強大な能力を持ち自立した自己を追求する存在として描かれる。しかしエルサの持つ力は社会秩序とうまく適合せず、能力の暴走という形で孤立を招く。自立した能力を持ちながらも社会との調和に葛藤するエルサと、家庭的な幸福を希求するアナという姉妹の対比は、まさにポストフェミニズム社会を生きる女性たちが直面する構造的な課題を体現している。観客が理論的な背景を意識していなくとも、作品が社会的なリアリティと共鳴しているからこそ、世界的なヒットへとつながったといえる。
可視性の政治から「可視性の経済」へ
マイノリティ(決定権や権力から遠ざけられてきた人々)をメディアで描くことには、歴史的に重要な意義があった。メディア上でその存在が可視化されることが、実質的な権利の獲得や社会的地位の向上へと結びつく側面があり、これは「可視性の政治(politics of visibility)」と呼ばれる。
しかし、多様性を描くこと自体が直接的な興行収入や利益に結びつく時代になると、構造の変質が生じる。黒人ヒーローを描いたマーベル作品『ブラックパンサー』のように、特定のマイノリティを主役に据えることで新たな観客層を開拓し、商業的成功を収めるモデルが確立された。その結果、多様性を描くことそれ自体が企業の収益を上げるための「目的」へとスライドしていく。
批判的な社会運動のエネルギーが企業のイノベーションの資源として消費され、「多様性に配慮している先進的な企業」というイメージさえ担保できれば、実質的な社会構造の不平等には踏み込まない状況が生まれる。山本氏はこの現象を「可視性の経済(economy of visibility)」と呼ぶ。資本主義が自らに対する異議申し立てすらも商品化して推進力に変えていく中で、多様性の表象をめぐる議論が単なる「ポリコレか否か」という表面的な対立に矮小化されてしまう問題がここにある。
「ディズニープリンセス」という枠組みの歴史修正性
この「可視性の経済」が極めて分かりやすい形で表れているのが、「ディズニープリンセス」というブランド展開である。今日定着しているこのカテゴリーは、もともと存在していたわけではない。2000年、ナイキ出身のマーケティング担当者が、サードパーティが独自に販売していたドレスなどの商品に着目し、過去の作品群を横断する統一ブランドとして立ち上げたものである。
初期のディズニープリンセスは白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫の3人のみであったが、1989年のアリエル以降、ベル(『美女と野獣』)、ジャスミン(『アラジン』)、ポカホンタス、ムーランと、人種的・文化的多様性を取り入れながらラインナップが拡大していった。しかし、このブランド化には特有のジレンマがつきまとう。
多様な人種や出自のプリンセスが加わることで選択肢は増えた(マルチプリシティ)ものの、実態としては「黒人はティアナ、アジア人はムーラン」といった形で、人種と特定のキャラクター・衣装が強固に結びつけられてしまう側面がある。アメリカでは文化の盗用に対する意識が高いこともあり、「白人の少女がティアナのドレスを着ることをためらう」といった事態も生じている。
さらに山本氏は、ディズニープリンセスという枠組みが持つ「歴史修正的なブランディング」の側面に警鐘を鳴らす。1937年の『白雪姫』から2010年代の作品までを1つのブランドに並列させることで、初期作品が制作された当時の白人中心主義的・家父長制的な文脈が漂白され、「ディズニーは昔から時代を先取りした多様な女性像を描いてきた」かのような印象を事後的に作り出してしまう。近年の実写化戦略も、現代の価値観に照らして不都合となった過去の物語を手直しして延命させ、未来永劫テーマパークやグッズの収益基盤として維持し続けるための企業戦略と軌を一にしている。
自己言及の罠と「政治的無垢」の維持
現代のディズニーは、自らに向けられるフェミニズム的な批判を十分に自覚した作品作りを行っている。『シュガー・ラッシュ:オンライン』(2018年)では、歴代のプリンセスたちが集まる控室に迷い込んだヴァネロペに対し、「毒を盛られたことがあるか」「大事な問題を男の人に解決してもらったと思われているか」と問いかけ、それに肯定することでプリンセスの仲間入りを果たすというパロディが描かれた。
批判を先回りして自虐的なネタとして消費する態度は、批評的な自覚を示す一方で、批判そのものを無力化し、自社のブランド力を高めるためのツールとして回収してしまう。東京ディズニーシーの新エリア「ファンタジースプリングス」において、『アナと雪の女王』や『塔の上のラプンツェル』と並んで、1953年の『ピーター・パン』が配置され、「いつまでも子どものままでいてね」というメッセージが提示されていることも象徴的である。パークという空間が現実の複雑な歴史や政治を不可視化し、無垢な夢の世界として演出される一方で、その「政治的ではない」という姿勢そのものが極めて高度な政治的判断に基づいている。
山本氏は、ディズニーが意図的に構築してきたこの「政治から切り離された純粋な立場」を「ポリティカル・イノセンス(政治的無垢)」という概念を用いて分析している。夢やファンタジーを届ける企業として中立性を装いながら、実際には強固なビジネス戦略と社会的要請の狭間で絶え間ない綱引きを続けている。表面的なポリコレ論争にとどまらず、作品が作られた時代背景、資本主義の論理、そして「無垢さ」を演出し続ける構造そのものに目を向けることが、現代のポピュラー文化を読み解く上で不可欠な視座となっている。
