【インターネット30年史とAI時代の戦略】7つの激変に学べ/AI時代も起きる/いかがわしい奴が勝つ/SNSとスマホが変えた世界/日米の勝敗を分けた規制への対応【PIVOT TALK SPECIAL】

YouTubeで開く ↗
概要

インターネットが商業化されてから約30年が経過した。かつては怪しい若者や一部の愛好家が集う周縁の存在にすぎなかったインターネット産業は、今やマスメディアを飲み込み、国家の政治や経済を左右する巨大な基盤となった。前LINEヤフー会長の川邊健太郎氏、AIエンジニアで起業家・参議院議員の安野貴博氏、MCの石田健氏による対談では、初期の熱狂からITバブルの崩壊、検索広告の発明、スマートフォンとSNSの登場、そして日米の勝敗を決定づけた規制と発想の差について、当事者の視点から歴史的な検証が行われた。

見出し付き・読了14分

1995年の胎動と「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の熱狂

川邊氏が大学3年生だった1995年は、日本社会が大きく揺れ動いた年だった。1月には阪神・淡路大震災が発生して従来の安全神話が揺らぎ、3月には地下鉄サリン事件が起きて既存のエリート層に対する見方が変容した。そして11月、Windows 95の発売によって個人とインターネットの距離が一気に縮まった。社会が不安定さを増す一方で、新しい変化が始まる原点となった時期に、川邊氏はWebに触れ、起業へと踏み切った。

当時の日本において、学生がソフトウェアやサービスを開発して起業する例は極めて稀だった。バブル期の名残として学生向けの携帯電話代理店やイベント企画を手がけるサークル的な起業は存在していたものの、インターネットを活用した事業に取り組む者はほとんどいなかった。

川邊氏らが集まった渋谷には、ビットバレーと呼ばれるベンチャーのコミュニティが形成された。当初は事業の進め方も確立されておらず、パソコンの購入者向けに配線や接続を代行する作業や、企業のホームページ受託制作といった手堅い需要を拾うところから事業を立ち上げていった。

当時、起業家たちを突き動かしていた動機について、川邊氏は「パワー・トゥ・ザ・ピープル(民衆に力を)」という感覚があったと振り返る。従来の社会では、事業を立ち上げるために莫大な資本、人員、許認可が必要であり、何も持たない若者が参入する余地はなかった。しかしWebという環境の出現により、誰でも地球の裏側へ向けて情報発信できるようになり、個人が既存の権力構造に対抗できる手段を手に入れた。その高揚感が、黎明期の起業家たちを強力に牽引していた。


起業家たちの3つの系統と黎明期の資金調達

初期のインターネット空間には、大きく分けて3つの系統の人々が集まっていた。

1つ目は、川邊氏や堀江貴文氏に代表される学生起業家である。学生時代からコンピューターに親しみ、Webの登場に可能性を感じた層である。当時は就職氷河期にあたり、大企業への就職が困難だったことも手伝って、そのまま事業を継続する道を選んだ側面もあった。

2つ目は、「ダイヤルQ2」などの情報ダイヤルビジネスを手がけていた層である。画面を持たない携帯電話向けに、音声で占い、波情報、出会い系などのコンテンツを提供して利益を上げていた事業者たちである。彼らは「音声で提供していた情報を画面に置き換えればよい」という構造をいち早く理解し、Webへの参入を果たした。その代表例が、GMOインターネットグループを創業した熊谷正寿氏である(「Q」はダイヤルQ2のQに由来する)。

3つ目は、ビジネスの仕組みを理解した上で、勝負をかけるために一般企業を退職して参入してきた元サラリーマン層である。

ただし、これらのプレイヤーは当時のビジネスパーソン全体から見れば5%にも満たない少数派にすぎなかった。残り95%以上の人々は、大企業(JTC)の中からインターネットを冷ややかに眺めているか、電子メールを便利な業務ツールとして使うにとどまっていた。

資金調達の環境も現在とは根本的に異なっていた。当時はベンチャーキャピタル(VC)からのエクイティ調達という手段が一般化しておらず、川邊氏らも学生でありながら銀行や国民生活金融公庫(現・日本政策金融公庫)から数千万円規模の融資(デットファイナンス)を受けて事業を行っていた。バブル崩壊後の不況期で大企業が新卒採用を絞っていたため、政府の中小企業支援策として信用保証協会の保証を取り付けやすかったという背景があった。その後、1998年頃からジャフコなどのVCが台頭し、ナスダック・ジャパンや東証マザーズの創設へとつながっていった。


サービスモデルとビジネスモデルの乖離、検索連動広告の衝撃

インターネットビジネスの黎明期における最大の特徴は、「サービスモデル」と「ビジネスモデル」が明確に分離していた点にある。

国境を越えて利用者が広がるWebの特性上、まずは多くの人に使われるサービスを作ることが先行した。しかし、利用者が増えても直接的な収益化手段は見出せず、初期のYahoo!が導入したバナー広告も、マスメディアの広告費と比較すれば爆発的な利益をもたらすものではなかった。事業者は利用者が増えていくサービス作りに没頭していたものの、ビジネスとしていかに成立させるかという解は持っていなかった。

その構造を劇的に転換させたのが、検索連動型広告(リスティング広告)の登場である。Googleが買収したOvertureなどの技術を基幹とし、Yahoo! JAPANにも導入されたこの広告モデルは、ユーザーが検索窓に入力したキーワードに応じて広告を表示し、入札方式で単価が決まる仕組みだった。

コンプレックス関連をはじめとする特定分野のキーワードには広告主から高い単価がつき、プラットフォーム側のサーバーコストに対して極めて高い利益率を叩き出した。川邊氏は、検索連動広告によって初めて「インターネットは信じられないほどの高利益率を実現できるビジネスになり得る」と実感したと語る。


ネットバブルの崩壊とライブドア事件の衝撃

1995年から2000年にかけて、米国のネットスケープやYahoo!の株式公開を契機にネットバブルが過熱した。ソフトバンクがナスダック・ジャパンを誘致し、東証がマザーズを立ち上げるなど市場環境も整ったが、2000年春にバブルは崩壊する。光通信やソフトバンクの株価が急落し、一攫千金を狙って参入したプレイヤーの多くが市場を去った。しかし、サービスモデルそのものを楽しんでいた起業家たちにとっては、ユーザー数が伸び続けていたため、現場の感覚としては開発を継続する日常に大きな変化はなかった。

その後、2003年に六本木ヒルズが開業すると、Yahoo! JAPAN、楽天、ライブドア、村上ファンド、ゴールドマン・サックスやリーマン・ブラザーズなどの金融機関が集結した。六本木ヒルズの内部階段を通じて他社の経営陣同士が頻繁に行き来し、日常的に密な情報交換が行われる特異なエコシステムが形成されていた。

2004年のプロ野球参入騒動や2005年のフジテレビ買収劇を通じてITベンチャーは再び脚光を浴び、株式市場も活況を取り戻した。しかし、2006年1月のライブドア事件の発生によって業界は冷や水を浴びせられることになる。川邊氏は、同居していた六本木ヒルズのカフェから、正面玄関に報道陣と東京地検特捜部が雪崩れ込んでいく光景をリアルタイムで目撃していた。この事件を境に、新興IT企業に対する社会的な警戒感は急速に強まり、スタートアップ支援が再び本格化する第二次安倍政権(アベノミクス期)まで、約6〜7年間に及ぶ停滞期が続くことになった。


最大の想定外だったSNSと、iPhoneが変えた接触頻度

川邊氏が30年の歴史の中で「最も想定と異なり、最大の激変だった」と挙げるのが、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の台頭である。

当初、他人の昼食の写真や日常の断片的なつぶやきをわざわざWeb上で閲覧する需要があるとは信じられず、そこに広告価値が生まれるとも想定していなかった。Yahoo!のように、マスメディアのコンテンツを集約(アグリゲート)して配信するポータルサイトを築いてきた立場からすると、個人の極めてプライベートな情報発信がメディアの主流になるとは予測しがたかった。

しかし、人類が生物学的に管理可能な人間関係の限界とされる「ダンバー数」(約150人)の内側にいる関係性の情報であれば、他人の些細な日常であっても強い関心の対象になるという人間の本質が、SNSの爆発的な普及によって証明された。

さらに、この変化を決定づけたのがスマートフォンの登場である。パソコン中心の時代は、オフィスや自宅の机の前に座っている限られた時間しかインターネットに接続できなかった。利用頻度をいかに引き上げるかが業界の課題だったところに、常に携帯し就寝直前まで触れ続けるスマートフォンが現れたことで、ユーザーの接触頻度は桁違いに跳ね上がった。

結果としてSNSは、マスメディアをも包摂する世界的な情報インフラとなり、国家の選挙や政治をも直接揺るがす存在へと変貌を遂げた。


クラウドとiPhoneはなぜ日本から生まれなかったのか

2000年代後半以降、日米のインターネット産業の間で決定的な差がついた要因として、iPhone、クラウド、SNSの3つの波が挙げられる。

それ以前の2007年頃までは、日本は「iモード」をはじめとする携帯電話向けインターネット(ガラケー文化)の先進国だった。コンテンツに対して少額課金を行い、プラットフォームが確実に回収するビジネスモデルが確立されていた国は世界でも日本くらいであり、当時は日本の事業者こそが最先端を走っているという自負があった。

しかし、2009年前後から米国勢との差が急速に拡大した。日本からクラウドサービス(AWSのような基盤)が生まれなかった構造的理由について、川邊氏は「電子商取引(EC)の構造の違い」を指摘する。

  • Amazonのアプローチ:自ら商品を仕入れ、在庫を持ち、配送までを一貫して管理する本格的な物売り(直販型EC)を行っていた。そのため、外部のあらゆる事業者や物流システムと自社基盤を接続する必要に迫られ、ジェフ・ベゾス氏の号令のもと、すべての社内システムをAPI経由で接続可能な設計へと強制的に再構築した。この強固なAPI基盤を外部に切り売りする発想から、AWS(Amazon Web Services)が誕生した。
  • 日本のEC(楽天市場、Yahoo!ショッピング)のアプローチ:出店者を集める「ショッピングモール形式」を採用していた。プラットフォーム側は出店者から商品データを受け取って陳列するだけで成立したため、自社で物流や調達までを統合的に制御する大規模システムを開発する必要性が薄かった。

両者の差はエンジニアの個々の技術力によるものではなく、「すべての業務をAPIで外部と繋がなければならない」という切実な要請と発想を持っていたかどうかにあった。


「自己規制」の米国と「事前規制」の日本――動画プラットフォームの分岐点

日米の勝敗を分けたもう一つの決定的な要因は、法規制への向き合い方と企業統治(ガバナンス)の違いである。動画配信サービスの黎明期におけるYouTubeと国内勢の対応の違いがその典型である。

川邊氏は、Yahoo! JAPANの組織的ケイパビリティからしてSNSを自前で成功させることは難しかったとしつつも、「YouTubeのような動画プラットフォームは自社でも実現できたはずだった」と悔恨をにじませる。当時、ヤフーも「Yahoo!ビデオキャスト」という投稿型動画サービスを立ち上げていた。

ここで明暗を分けたのが、日米の法文化とリスク許容度の違いである。

  • 米国の「事後規制」型アプローチ:YouTubeはサービス開始当初、著作権侵害の動画が大量に投稿されるプラットフォームとして急成長した。既存の権利者から無数の訴訟を起こされたが、裁判を一つひとつ戦い抜き、司法の場でルールを確定させながらプラットフォームを維持した。その間に一般クリエイター向けの投稿環境を整え、収益分配モデルを確立して「YouTuber」という新産業を生み出していった。
  • 日本の「事前規制」型アプローチ:日本企業は権利関係の事前解決を前提とする文化が根強い。Yahoo!ビデオキャストでは、最初から著作権侵害を起こさないよう、既存のテレビ局や映画会社などの権利者を事前に説得し、正規のコンテンツを供給してもらおうと試みた。しかし当時、既存マスメディアはインターネットを「自らの市場を破壊しかねない敵」と見なしており、安価にコンテンツを提供することに極めて慎重だった。結果として正規コンテンツは集まらず、プラットフォームとして離陸できなかった。

さらに、上場企業としての制約も影を落とした。ニワンゴ(ドワンゴ)がYouTubeのAPIを利用してコメント機能を重ねる「ニコニコ動画」をローンチした際、川邊氏らはマッシュアップとしての面白さを認めつつも、「他社の動画基盤に乗っかり、広告主が嫌がるであろうコメントが流れる画面でどうやって利益を出すのか」と収益化を疑問視した。すでに上場し四半期ごとの利益責任を負っていたヤフーのような先行企業には、不確実で著作権リスクの高いUGC(ユーザー生成コンテンツ)基盤へ巨額の投資を続ける意思決定が構造的に困難だった。


2種類の「いかがわしい者たち」と、社会的信用の獲得

インターネット産業が拡大する原動力となった「いかがわしい者たち」について、川邊氏は2つの類型が存在し、その双方が不可欠だったと分析する。

  1. 新技術に惚れ込んだ開発者・起業家:社会的な理解が追いついていない未知の技術を掲げて突進するため、既存社会からは得体の知れない「怪しい存在」として警戒される。
  2. VCを中心とする資本の提供者:一攫千金を狙って新興産業に莫大なリスクマネーを投じ、急激な企業価値の増大を煽る。

この両者が共生関係を結ぶことで、産業は急速な拡大を遂げた。当事者たちは六本木ヒルズを拠点に産業を牽引している全能感を抱いていたが、後に政治や行政の現場に関わるようになると、自分たちがいかに社会全体の中ではマイノリティであり、法規制の及ばない特異な温室の中で自由に活動していたにすぎなかったかを痛感することになる。

その中でYahoo! JAPANは、孫正義氏から経営を引き継いだ井上雅博氏のもと、初期の「いかがわしさ」から脱却し、社会的な信用を獲得する方針を明確に打ち出していった。

その象徴的な転換点が、2011年の東日本大震災である。Yahoo! JAPANは被災状況の情報配信や義援金募金プラットフォームとして機能し、震災から約1か月後に第三者機関が実施した「震災時に役に立ったメディア」のアンケート調査において、NHKなどのマスメディアと並んでネットが1位を獲得した。井上氏はこの結果に深く喜び、創業から15年をかけて「社会の公器」として信頼に足るメディアへと定着したことを確認した。


インターネットが残した教訓と、AI時代への接続

インターネット産業の30年間を振り返ると、最初の10年はサービスモデルの模索と高収益な広告モデルの発明に費やされ、次の10年はスマートフォンとクラウドによるグローバル規模の再編が起き、最後の10年は巨大プラットフォームが社会の支配的なインフラとなるプロセスだった。

日々の変化は緩やかであり、30年×365日の連続の中で、気づいたときには後戻りのできない格差が日米間で生じていた。それは技術力の優劣というよりも、不完全な技術や法的なグレーゾーンを抱えたままサービスを走らせる事業環境の違い、そして業務プロセス全体を根本からAPI化・自動化しようとする発想の差がもたらした結果だった。

対談の終盤、議論は生成AIがもたらす変化へと向けられた。30年をかけて進展したインターネットの変革に対し、AIはわずか数年で産業の前提を覆しつつある。既存の規制や過去の成功体験に縛られたアプローチでは再び同じ敗北を繰り返す可能性があるという問題意識のもと、議論は後半の「AI時代における具体的な戦略と政治・社会システムの再設計」へと引き継がれた。