『インサイド・ヘッド』はアイデアをドラマにした。岡田斗司夫が『バケモノの子』『脳内ポイズンベリー』と比べて語る

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概要

金曜ロードショーで『インサイド・ヘッド』が放送される(翌週は『インサイド・ヘッド2』)のに合わせて、岡田斗司夫が2015年7月26日配信の岡田斗司夫ゼミ第84回を編集し直して公開した回である。この映画では、人間の頭の中に宇宙船のブリッジのような操縦席があり、ヨロコビやイカリといった感情のキャラクターが会議をして人間の行動を決めている。岡田はこの設定自体を寓話として面白いと認めたうえで、本作がすごいのはアイデアで終わらず、頭の中のキャラクターたちの成長ドラマと、操られる側の人間のドラマを両方成立させている点だと語る。同時期に公開された細田守監督の『バケモノの子』と、同じアイデアを使った実写映画『脳内ポイズンベリー』を比べながら、その違いを説明していく。

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Twitterでは70点、本音は「なんじゃこりゃ」——『バケモノの子』

前回の放送で視聴者から両作品を観たかと聞かれ、宿題として観てきたという流れで話は始まる。岡田は『バケモノの子』についてTwitterでは70点と書いたが、それは遠慮した数字だったと明かす。アニメ界に細田作品を評価しようという大きな流れがあること、公開直後にあれこれ言うのも気が引けたことから、7万人ほどが見ているTwitterでは控えめにしたという。視聴者の少ないニコ生での本音は、観終わったあとに「これをどうすればいいの」と感じる「なんじゃこりゃ」だったと語る。

岡田によれば、映画は感動できる話としてはきちんと作られている。男の子の成長があり、父親代わりの師匠がいる。引っかかったのは冒頭である。9歳の少年・九太は母親を急に亡くし、父親は行方不明で天涯孤独になる。拗ねている九太に親戚が「ついてこい」「何不自由ない生活をさせてやる」「子供は大人の言うことを聞いていればいい」といった、子供が嫌がりそうなセリフを次々に言う。九太はそれを聞いて街に飛び出し、異世界を見つける。

岡田はこの「大人は分かってくれない、自分はたった一人」という分かりやすすぎる描き方に、監督の甘えを感じたという。セカイ系の漫画やアニメに慣れた観客なら「このキャラはこういう人ね」とすぐに飲み込むので、その観客に甘えている。同時に、家族は自分たちで環境を作るものだという話を一般の客に向けてしようとしていて、そこでは観客に媚びている。キャラクターが甘えるのは構わないが、監督が観客に甘えるのはやめてほしい、と岡田は言う。結果として、監督が主人公の立場に共感していないのが見えてしまい、ピンとこなかったと述べている。

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熊徹は宮崎駿である

それでも岡田が面白いと感じたのが、九太の師匠になる熊の妖怪のような熊徹だ。熊徹は何も教えてくれないのに、力だけは強い。これまで弟子を取ったことはあるが全員逃げていき、自分ではそれを直そうともしない。岡田は熊徹を宮崎駿だと読む。宮崎駿と細田守の関係、つまり宮崎から何かを学ぶことは不可能だという話がラインとしてあり、それだけでは物語にならないので「師匠の技は盗む」という展開になる。九太が熊徹の足運びを見て真似し、自分で学んでいく場面はそこそこ感動的だと岡田は認める。ただ、よく考えるとジャッキー・チェン映画で何十回も観てきたパターンでもある。細田は師匠から盗むことを技術として理解し、ストーリーとして頭に入れてはいるが、本人はあまり納得していない。それが演出から見えた気がして、そこは面白かったという。

岡田の見立てでは、細田はいずれ宮崎駿と自分の関係をテーマにするだろうが、今は自分の話を入れることよりも、求められているポジション、つまり「ポストジブリ」「ポスト宮崎駿」を観客に分かりやすく演じ切ることに力を注いでいる。岡田は、そんなものを引き受けなくてもいいし、日テレの戦略に乗らなくてもいい、『時をかける少女』の頃のままで細田らしい作品を作るほうが最終的に歴史に残るアニメに近づくと思う、と話す。

その例として岡田は『クレヨンしんちゃん』を挙げる。原監督が路線を大きく変えたあと、後を継いだ人はとても苦しかった。『モーレツ!オトナ帝国の逆襲』や『アッパレ!戦国大合戦』のようなものを期待されても困っただろう。それと同じように、細田が自分ではあまり望んでいない方法をやりたがっているように見えて、観ていて切なかったと岡田は語る。

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『脳内ポイズンベリー』はアイデア止まり

一方の『インサイド・ヘッド』は「面白かった」と岡田は言う。11歳の少女ライリーの内面世界を描く作品である。比較対象の『脳内ポイズンベリー』は漫画原作の日本の実写映画だ。岡田によると、検索すると上位に出てくる映画評サイト「超映画批評」では『脳内ポイズンベリー』の評価が高く、『インサイド・ヘッド』の評価が低かった。岡田はこの一点だけで、この評者には映画を観る力がないと思ったという。

その理由として岡田は両作の作りの違いを説明する。『脳内ポイズンベリー』はアイデアの映画だ。自分の中で何人ものキャラクターが会議をしたらどうなるか、という設定を見せると、すぐに事件に移る。恋愛の出会いがあり、悩みや葛藤が生まれるたびに、脳内のキャラクターが「ああしろ」「こうしろ」と主導権争いをする。しかし脳内ではドラマがまったく起きない。なぜその感情があるのかという葛藤がないので、観客が共感できるのは主人公の恋愛模様だけになり、ドラマはそこにしかない。

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感情の分け方に見える文化の違い

『インサイド・ヘッド』には、ヨロコビ、カナシミ、ムカムカ、イカリ、ビビリの5つの感情キャラクターが登場する。岡田は、日本人から見て不思議なのはムカムカ(嫌悪)とイカリ(怒り)が別のキャラクターになっている点だと指摘する。理性を重んじるアメリカ人にとっては、ムカムカすることと怒ることはまったく別物だという考え方が見えて面白いという。日本人なら「恥ずかしい」を入れるだろうが、彼らはおそらく恥ずかしさを感情とは捉えていない。そのかわりにムカムカとイカリを分けるところが面白い、と岡田は語る。

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ヨロコビとカナシミが生む成長のドラマ

岡田が両作の違いの核心とするのは「アイデアの2つ目のレベル」、つまり人間になぜ感情が発生するのかを描いているかどうかだ。物語の最初では、ヨロコビがライリーを全面的に制御している。そのおかげでライリーの思い出はほとんどが喜びに満ちていて、彼女はすくすく育ってきた。このままずっとそうなればいい、という状態である。

ところがカナシミは、自分でも分からない理由でいろいろなものに触り始める。やってはいけないと分かっているのに、喜びに満ちた記憶「コアメモリー」に触れてしまい、記憶が悲しみの色に染まっていく。ライリーの中でそれが悲しい記憶になってしまうから駄目だと止められても、やめられない。岡田はこれを、悲しみがなければ人間は大人になれないということを描いたものだと解釈する。

岡田はここに親子の構図を重ねる。親は子供がずっと幸せであればいいと願い、その連続で育てばいいと思っている。だが子供はそうは生きられない。日常の中で悲しいことが起こり、塞ぎ込んだり、反抗期になったり、返事をしなくなったりすると、親は「どうしちゃったんだろう」と考える。しかし岡田によれば、それこそが成長であり、より深い感情を得るチャンスなのだという。

ライリーの中には家族の世界など、テーマパークのような世界がいくつもあり、どれも幸せそうに作られている。カナシミとヨロコビが冒険するうちに、それらの世界は次々に崩れていく。崩れたあと、最後に見えてくる世界は、悲しみが入ってきたおかげでより豊かになっている。岡田はここに、きちんとした成長物語があると評価する。

『脳内ポイズンベリー』では主人公の成長は、今の恋愛をどう受け止め、どう卒業して次の恋愛に向かうかという現実世界のドラマになる。これに対し『インサイド・ヘッド』では、脳内の各感情がなぜ存在するのかが分かる。同時に、観ている側も自分の中に感情が生まれてきた順番に気づく。岡田は、「嫌だ」は早くから分かるが、悲しみは8〜9歳くらいにならないとなかなか理解できないと考えている。それが段階的に見せられるので「深い話だ」と感じ、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める作りになっていると述べる。

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ピクサーとジョン・ラセターの物語作り

岡田はピクサーの話作りのうまさを『カーズ』で説明する。『カーズ』は車の話ではなく、故郷を捨てた若者の話だという。ジョン・ラセターは田舎で小中学校時代を過ごし、大学を経てディズニーに入り、好きな映画を撮れるようになった。これがレースカーのマックィーンのいる世界にあたる。ディズニーで映画を作り、レースを続けるうちに、自分が生まれた故郷を忘れてしまう。自分がアニメのヒット作を作っている間に、映画界における自分の故郷はどんどん過疎化していく。そこで彼が何を考えるのかまで、きちんと踏み込んでいると岡田は語る。

宮崎駿がラセターを高く評価する理由も、岡田はここに見る。自分が好きなものと、自分が見捨ててきたものとの対比を、ラセターは『トイ・ストーリー』の頃からいつも語ってきた。宮崎はそれができなかった、あるいは『風立ちぬ』あたりでようやくやった、と岡田は言う。『インサイド・ヘッド』はラセターの監督作ではないが、ピクサーはプロデューサーを通じて、アニメーション映画を作るときに必ず大人がどう観るかを考えている。成長段階の子供が観ればエンターテインメントで、大人が観れば文芸作品の端に届くように仕上げている。岡田はそこをうまいと評価する。

点数にすると、岡田は『インサイド・ヘッド』を100点満点で90点ほど、『バケモノの子』をTwitterの70点ではなく65点ほどとした。細田には、『サマーウォーズ』でも少ししんどかったので、『時をかける少女』から『サマーウォーズ』の頃に戻ってほしいと述べて、本編を締めくくった。

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アップグレード情報:「ドーパ餓鬼向け」の手法とテーマ性のずれ

再公開にあたって、岡田は補足を加えている。少し前の配信で、ドーパミンが大量に出るものを好む「ドーパ餓鬼」(岡田は自分たちのことだと言う)向けのコンテンツは本当に悪なのか、という話をした。それに照らすと、『バケモノの子』に代表される細田監督のアニメは、表現方法がかなりドーパ餓鬼向けだという。観客が内容を理解するための手間をできるだけ減らし、とにかく分かってもらうことに親切な作品である。

岡田は、その手法が悪いという意味ではないと断っている。問題は、そのやり方でジブリ作品のようなテーマ性のある映画を作ろうとしたことで、特に後半の作品が微妙になっていったと見ている。その結果として興行もなかなか伸びない。岡田は、スタジオポノックや宮崎吾朗監督の作品も同じ欠点を持っているのではないかと考えている。

岡田の考えでは、細田も宮崎吾朗も本来は大衆作家で、宮崎駿のような矛盾を抱えた作家性に手を出して手に余ってしまった。二人ともあまり矛盾のない「いい人」なので、内面に矛盾のある作品を作ろうとすると、その矛盾をセリフで説明しがちになる。それよりも、大衆作品を作れる才能を生かして、観客の感情を煽り、息つく暇もなく興奮させるジェットコースター型のアニメを作っていれば、評価は今とまったく違っていたのではないか。チューニング、つまりプロデューサーとの話し合いによる微調整が足りなかったのではないか、と岡田は「今ちょっと思っている」と述べている。

ドーパ餓鬼向けではない『インサイド・ヘッド』の観方

逆に『インサイド・ヘッド』は、面白いアイデアをきちんとドラマにまで昇華させた映画だと評価する一方で、ドーパ餓鬼向けに分かりやすくは作られていないと岡田は指摘する。感情をうまく操作するという点では『塔の上のラプンツェル』などのほうがずっとうまくできている。『インサイド・ヘッド』はテーマを理解するのに少し頭を使う必要がある映画だという。

そこで岡田は、本編で話した「心の中に悲しみがなければ人は成長できない」という部分を補助線にして観ると分かりやすくなると勧め、観て損はない作品だと結んでいる。