両陛下、地震から2カ月の熊本被災地へ 避難所・病院・仮設団地で聞いた現場の声
テレ東BIZ ダイジェスト天皇皇后両陛下は、7月末に起きた熊本地震の被災地を見舞われた。説明欄によれば訪問は2026年9月29日で、最大震度7を観測した地震から2カ月が経っていた。宮内庁担当記者の解説付きのこの映像では、両陛下がヘリで降り立った八代市から避難所、病院関係者との懇談、仮設団地、商店街へと移動する様子と、そこで被災者や支援者が語った内容が記録されている。両陛下の発言は字幕ではほとんど聞き取れない。そのため本稿では、住民や支援者が語った内容を中心にたどる。
八代市に到着、折れた煙突の横を徐行
両陛下は熊本県八代市の河川敷にヘリで降り立った。案内役が被災地の方を示すと、両陛下は頭を下げた。車列は、地震で煙突が折れた八代工場の近くをゆっくり進んだ。解説の記者が熊本県の人に聞いたところでは、この煙突は八代市のランドマークのような存在だったという。記者自身も河川敷から車列を見ており、徐行するように進んでいったのが印象的だったと振り返っている。
くまモンのバッジを着けて避難所へ
最初に訪れたのは、前日の集計で81人が身を寄せていた避難施設である。解説で注目されたのは、皇后さまの首元にあったくまモンのバッジだ。記者の説明では、くまモンが復旧・復興の応援団を務めていると説明を受け、両陛下の分も用意してあると聞いて、着けることにしたという。キャラクターのバッジをためらわずに着けたことについて、番組の聞き手は「両陛下は熊本県民と心を1つにされた」と受け止めていた。
避難所では、10年前の地震でも被災したと話す住民の声も聞こえる。前回の熊本地震を経験した人が再び被災した地域であることがうかがえる。
自主防災組織が30分で避難所を開設
続いて両陛下は、災害対応にあたった人たちと懇談した。最初に話した地域の代表者は、発災直後の動きを具体的に説明した。この地域では、大きな災害の際に自主防災組織が避難所を開設する手順を、5年ほど前から毎年訓練してきた。そのため地震の当日も立ち上げが早く、本人が駆けつけた30分ほど後には、すでに関係者が集まって開設と業務を始めていたという。各町内から被害状況や道路の状況が逐次上がってきたので、それを確認しながら連絡を回し、役割を振り分けたと話した。
避難者のうち、水と食料を自分で持ってきた人は3割ほどだったという。残りの人たちの食事は地元で用意し、提供は40日ほど続いた。いちばん苦労したことを問われると、非常食ばかりになりがちな中で、特に高齢者のために野菜をどう確保するかだったと答えた。野菜を分けてもらい、味噌汁などの汁物にして出したという。暑い時期だったので、食中毒への対策にも気を配ったと述べている。
ライフラインについては、地区のおよそ3000世帯のうち一部が影響を受けたと話しているが、詳しい数字は字幕から読み取りにくい。途中で一度断水し、1週間ほど我慢する時期もあったという。それでも約2カ月の間、避難者に大きな病気は出なかった。その理由として代表者は、2年ほど前に避難所にエアコンが設置されていたことを挙げた。団体生活に慣れないためか、当初は体調を崩した人が2人ほどいたが、いずれも軽症だったという。
子どもと一緒に動いた地元スポーツチーム
次に話したのは、地元で活動する男子スポーツチームの代表である。チームは避難所で夜間の見回りのような活動をしたほか、届いた支援物資を受け取って避難者にいち早く配った。避難所には子どもがたくさん来ていたので、子どもたちの力も借りながら一緒に動いた。多くの子どもが協力してくれて心強かったという。
代表によると、チームは今年11月から新しいリーグ(字幕では「Vリーグ」)での活動を控えていた矢先に被災した。1カ月以上練習ができなかったが、やれることがないなら全力でボランティアをやろうと決め、発災直後から今もボランティアを続けている。子どもに運動の機会をつくるため、避難所では健康体操の時間も設けた。物資の配布を子どもたちと一緒にやったことで、子どもの笑顔が避難者を元気づけたのではないかと代表は話す。不安を抱えていた子どもたちにとっても、チームと一緒に動くことが安心感につながったのではないかという見方も示した。
チームの45人はそのまま避難所に入り、代表自身も避難生活を送っていた。そこに最大30〜40人ほどの高校生らが加わったという。選手のうち1人と、同じチームでプレーする代表の弟も、家族と一緒に避難している。ほかの選手は幸いけがもなく、数日後には自宅に戻ったと説明した。体を動かすこと、元気を与えることが自分たちにできることだと考えて活動したといい、「こんなチームがいる」と知ってもらうアピールにもなったと話した。体操の参加を呼びかけるときも、若い男性が「やりましょう」と声をかけると、皆が一緒にやってくれたという。
停電・エレベーター停止の中で入院患者を守った病院
病院の院長は、病院の当時の様子を写した画像が称賛を受け、各方面から多くの見舞いが寄せられたことに感謝を述べた。医師をはじめ各職種がそれぞれの役割を立派に果たしてくれたことを誇りに思うと語っている。
地震発生時、病院では4件の手術が行われていたが、4件ともうまくいったという。一番困ったのは電気で、とりわけエレベーターが問題になった。建物は14階建てで、6階から14階が病棟にあたる。エレベーターが止まると、6階より上へは人の手で運ばなければならない。病院には12基のエレベーターがあるが、無事だったのは1基だけだった。その1基がたまたま14階まで通じていたため、患者を運ぶことができたと院長は説明した。設備は現在も一つずつ修理している最中だという。
職員について院長は、自宅が被災した人も患者のもとに駆けつけたと話した。約1000人の職員が集まって交代で対応にあたり、いつ休んでいるのか分からないほどだったという。新館を建てる際に地下100メートルまで井戸を掘っていたことも功を奏した。水の確保ができて1日半で稼働でき、人工透析も続けられた。院長は「やっぱり井戸は大切」と強調した。病院は地域の指定病院として、職員が自分の生活を後回しにして地域のために力を出したと述べ、知事や市長にも認めてもらったことへの感謝を語った。
震度7の町の仮設団地と小学校
一行は、震度7を観測した町(字幕では「川町」)に移動した。小学校の横にある鹿島仮設団地には、前日の段階で38人が入居していた。仮設住宅の前には小学校があり、隣には学童もある。両陛下は児童に声をかけていた。
商店街で聞いた揺れの瞬間
続いて訪れたのは、熊本県内でもう一つ最大震度7を観測した地域の商店街である。記者は、倒壊した建物が地震の大きさを物語っていたと伝えている。両陛下が話しかけた住民は、10年前の地震にも触れながら、自分の店は随分古くからあったと話した。地震のときは家にいて、ひどい揺れだったと振り返っている。現在の住まいについてのやり取りもあったが、字幕からは詳細を読み取れない。
消防団員と行政担当者が語った支援の実情
地元の消防団関係者は、8月の厳しい暑さの中、団員自身の多くが被災しながら活動したことを説明した。両陛下から入団の時期ときっかけを問われた団員は、27歳ごろに入り、地域の先輩に誘われたのが始まりだったと答えた。地域に溶け込む中で、大事なものや自分がやるべきこと、仲間の大切さを学ばせてもらったと語り、先輩への感謝を口にした。団の中心は30〜40代が多いという。
行政側の担当者は、一番暑い時期の災害だったため、住民の明日の生活をどうつなぐかが課題だったと語った。断水があり、電気もなかなか復旧しない地区があった。それでも各地から支援があり、飲料水や生活用水の供給、全国から寄せられた支援物資に助けられたと説明した。担当者自身も被災しており、地震のときは50分ほど離れた場所で車に乗っていて、すぐに引き返したという。
子育て家族との対話
最後に両陛下は、高校3年生、小学2年生、未就学の子どもがいる家族と言葉を交わした。家族の協力もあり、地域の人たちにも支えられて過ごせているという趣旨のやり取りが交わされ、懇談は終わった。字幕では、両陛下の問いかけの内容や被災者の現在の暮らしの詳細までは聞き取れない部分が多い。地震から2カ月が経っても、病院の設備修理や仮設住宅での生活が続いている。この訪問の記録は、復旧がまだ途中にある被災地の姿を伝えている。
天皇皇后両陛下が7月の末に起きた熊本地震の被災地を見舞われました。
両陛下が熊本県八代市に降り立たれました。
が被災地の方を案内すると、両陛下が頭を下げられていました。
両陛下を乗せた車が被災地の方に向かっていきます。
煙突が折れた日本製紙の八代工場の近くをゆっくりと進んでいきます。熊本県の人間に聞くと、煙突は八代市のランドマークみたいなものだったということでした。ヘリが降り立った河川敷から私も見ていましたが、徐行するように進んでいくのが印象的でした。
すいません。撮ってるんで、ちょっと電話してあ。
前日の集計で81人が避難する施設です。
ありがとうございます。ご、めとうございます。
陛下の、皇后様の首元にあるのはくまモンのバッジですね。復旧復興の応援団としてくまモンの説明があり、両陛下の分も用意していると聞いて、つけましょうということになったそうです。キャラ物をわず両陛下は熊本県民と心を一つにされたんですね。ですね。
さ、どこありがある。
大丈夫です。前の10年前のです。10年前も被災しました。それを9年の高してやった。の6月なと。
のさでした家にいらっしゃって。
やしか大丈夫か? はい。
が今年集中してばっかりします。
席の方から全て考えすごいから少。
はい。私から3名の方をご紹介いたします。まずは小学校の東府長さですね。田さんと水さんといらっしゃいます。そして2人目は。
災害の復旧などに尽力した人たちをねぎらわれました。行く先で消防や医師、看護師の代表者をねぎらわれていました。
委長、島先生ということ、ありがとうございます。
それではもう順番に、さんから今回の対応についてのお話をぜひしていただいた、よろしくお願いします。
最初また私、自宅でしまして、多分これ大きい地震だったなとこで、上の方は多分一つだけで、あと人にしまして、それ方とかませんでしたので、それでコミしてですね。なぜかと言うと、大きい災害があった時は自分で自主防災組織の方、避難所を開設するちゅうことを5年ぐらい前から毎年Pとしてやってましたので、それがいち早く立ち上げて、私が30分ぐらいしていた時にはもうこういうボの方がいらっしゃって、そのえてその感情を開設して決定業務を開始したちゅうでしっかりです。
ですので情報的には各町内から回ってきますので、くの教会状況だったり道路の状況だったり、逐次確認をしてですね。メールを作って、例えばもうトレーニングホームの方と私の方に振り分けて、一応終了し、終了いたしました。
そのですね、もう250年ぐらいが人間になってましたので、まずもってなかなか、水と食料を持ってきてくれるうちはですね、今日は言ってるんですけど、3割ぐらいが確か持ってくれずにですね。あとは食料は、実況の自称の方で、市場に決まってですね、皆さん提供したことは、40日間じゃないですかね。一応頑張って。はい。があっての、避難生活を活動化できたのかなというふうに思ってます。
大変ですね。今まで何が一番大変でいらっしゃいますか?
そうですね。やっぱりどうしても非常食でありますので、高齢者の方は特に野菜食とかですね、それを考えます。自分、ちょっと野菜を分けてもらですね。味噌汁作ったりと、汁にして提供したりですね。それが一番ずっと大変な。はい。ちょっと暑い時期でした。食中のですね、かんですね。それをしましたですね。それが一番にたのかなと思います。
最初はあれですか、水とか電気は。
はい。お様でですね、今ちょっとお話題に高校の方は、3000世帯ぐらいあるんですけど、500世帯ぐらいがません。この小線はですね、図書から水、電気を来てましたので、す活動がましたですね。途中で吉1回ちょっと水になって、1週間ぐらいからちょっと我慢した時にございました。またいいたしましたですね。その点はもう病気もなく数ですね、2ヶ月間すりました。
ましたね。大変です。はい。ですからね。
そうですね。うちの場合は、対応のおかげで2年ぐらい前に、と、エアコンがついてですね、もう会な技があって、立40%ぐらいだったですね、避難所の付けですからですね。その中の一つで、体調される方、2方ぐらいですね。当初やっぱり団体生活を送る環境で、ちょっとお。うん。そうすと、軽いんでな。やにかれてです。で、出した。
ありがとうございます。はい、どうも。
はい。はさん、よろしくお願いします。代表の早です。よろしくお願いします。
私たちにもですね、被災所に夜、近い球的なの、活動とりまして、いろいろと物資だといていう時に受けるて、それをもういち早く避難者の方々に配っているんですね。あと、そこに対して子供たちっていうのがいっぱい避難に来てましたので、子供たちの力を一緒に借りながら協力して、避難所でも対応というのをやってですね。なんで本当、多くの子供たちが今回のこう被災してると一緒によって活動してくれですね。すごい心強かったなというとで。
私たちは熱に活動してる男子ワチで、今年11月からいよいよVリーグ人ということ、今回の震災になってしまったんですね。1ヶ月間以上、練習も全然ができない状態だし、そこの再度もなかなかこうできない。このやることがないだったら全力でご覧やるということで、お初から、今日も今のはずとご覧やってる感じですよね。
そのままはですね、子供たちに運動の機会を作るというところで、こういうふうに回ったり、避難所では健康体操というシをやらせていただいて、プラスで出し、ずっとやってるですね。
さんたちが協力してない。どういうこと? を受け入れた後に仕ってくれたり、あとは避難所に行けて配布する時にですね、みんなで手しして、子供たちの笑顔で皆さんに元気になられたんじゃないかなというところもありますし、当然子供も、やっぱ3シーズが不安なところがあるので、僕たちのチームと一緒にやるっていうところで心感が出たのかなとは思いますね。
初めに。そうですね。みんなのこのからですね、別をみんなに配ってしまうと、何ぐらいで感想ですか?
最初は私たちのチーム、4、5人が避難所にそのまま入ったんで、また私も以時代に避難してる状態なんです。はい。そこから高校生中ですね、最大30名、40名ぐらいのありましたね。プラスアルファさんからの協力ですね。すごいこう、みんなの力でここまでですね。
決勝のチームの方たち被災。そうですね。選手も1人、一緒に私に避難所生活ていうますし、私の弟も同じチームで活動してるんですけど、家族と一緒にまた避難してですね。他の選手たちは幸いで怪我とかっていうのがなくて、数年は、数日はやってたんですけど、家に戻る選手、そこは人いでしたね。
はい。体操の指導とか、そういうの強く私たちができることってなると、そういう体を動かしたりとか、あとは元気を与えたりとかですね。そういう活動っていうのは特に今回しっかりやらせていただいたんで、本当いいアピールにもなったのかなとは思うんですよね。こんなチームがいるんだっていうところですね。
体操、大切です。
そうですね。寝たきりですね。でもやっぱりこう、移動してもらうためには、若い男の人たちがやりましょうというと、皆さん一緒にやってくれますんです。はい。
川総委員のと申します。ありがとうございます。
実は昨日、試合た時に実室の画像がですね、その当時の画像が展示会の方から賛を受けておられ。ご覧になりましたか。ありがとうございます。
大変でした。ところが皆さんからすごい賛を受けて、いろんなお見舞いを頂いて、本当に感謝申し上げております。それでやはり、医師をはじめとした職ですね、それぞれの役割を立派にしてくれたことを、本当に誇りに思っております。
はい。4件、4件やっておりました。ところ、4件とですね、うまくいきまして、私も来て大変ですね。実はちょっとは持ってきたんですけどね。副長の方が止められました。残念になりました。ご用意はですね、こんの思いましたです。やはり電気ですね。水は当然ですけれども。
エレベーター、うちは14階あるんですけども、6階から14階がさんの病なんですね。それでエレベーターが止まると手動で持っていかなくちゃ、6階まで行かなくて、6階以上に行かいけないので、もう大変でございました。ただ、うちエレベーターが12基あるんでございますけれども、1基だけが軽傷だった。そしてそのエレベーターがたまたま14階までしていることだったもんですから、それで患者さん方を運ぶことができまして、不幸中の幸いですね。
はもうしっかりして歌ったんですけども、中身は不明だでございます。まだ今も補修中で、一つずつ、これからなんですけど、一つ一つ整えまして。その代わり職員がしっかりましたもんですから、1週間も通常するかな、これもまたうちの職員がしっかりということで、これで持ってます。
もちろんです。でも自分のとこ縦おいてですね、患者さんに駆けつけて、みんなうち1000人いますけど、みんなが集まって、交代状態に、いつ休んでるのかわからんぐらいによくやってくれました。本当に感謝しております。今ともご視聴よろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。
そうです。大概ことに私、新館を建てる時に100メートル下に井戸を掘ってたんで、それで1日半で稼働することができまして。そして人工透析やってるんですけど、過ごくことができまして、やっぱり井戸は大切でございます。はい。ありがとうございます。
はい、すいません。ありがとうございます。
ありがとうございます。その時もですね、うちが感染指して指定病院となりますので、地域の貢献するように職員ておりまして、みんな自分の病を停して、改造され地域のために合い出しております。ありがたい会社です。そこ、知事も長さんもお認めいいて、うちを大にしていただいて、こちらも感謝申し上げてます。よろしくお願いいたします。ありがとうございます。
ありがとうございます。はい、どう、ありがとうございます。ありがとうございます。
震度7を観測した川町です。この小学校の横にある鹿島仮設団地には、前日の段階で38人が入居されていました。
そっ。
趣。
いつ。
大丈夫です。は、で。
はい。
よ。
両陛下が児童に声をかけられています。仮設住宅の前に小学校があり、横には学童がありました。
から。
そう。
熊本県宇城市、また最大震度7を観測しました。商店街があって、倒壊が地震の大きさを物語っていました。
ました。
ホ。
若ちょうど今。
被災者を見舞われました。
10年前の、10年前の。はい。プロの方がやったら広かったね。特にいないんで、1人なんですよ。ぐらいの困っ。
今はどちら? 今はどちら?
今は永久。そういうです。お店の方は随分古からあったらしいます。即の代からね。
うん。とこの辺り、それでもね、ひどい年です。その時はません。
その時はお家の方にいらっしゃったんですか?
そうです。におりましたけど、入れると瞬間だったですね。で、部屋に拝んで。役目よかった。そう。ひどい揺れで。はい。大変です。
ありがとうございます。ありがとうございます。
魚では大事。
尽力者をねぎらわれました。
そです。最中国して。うん。そに対して人みたいなですね。はいました。うん。はい。さての完成しまして、曲によりは思いたんですけど、男性の話してなかなか短いできないとね。
さすが実はどの色にしてあれですね。系と川の薬から増えまして、リスとしてもりまして、中というの地元中ですね。世界方地元にするようなということで、そういうの通りですね、ど、新安まで行ったということですね。
とても厳しい暑さが。
そうですね。8月ですね、高によって消防団の中にも多数被災された、大変な中でもですね、彼たちです、ご協力いただいてですね、これで。
昭何年ぐらいで。3。
若い世代の方は参加さん。
はい。新はですね、一応LINEとしては若いと、30から40代の人間が多いと思う。この地券、えっていきたいと思います。
はい。ご自身の消防が何年ぐらい?
27。30、4年になると思います。
はい。何かきっかけがあります?
最初は地域の先輩方から、もうよりやりていう感じで家させる。そのですね、地域の皆さんに溶け込む中で、この大事なものとか、自分がせなこと、仲間とか、そういう勉強させてもらったのが証。はい。その先輩に感謝します。これです。
消防団のさ。ありがとうございます。松さん内行政長、大変てごそうですね。
一番暑い時期の災害があったもんですが、やはり住民のたちの明日の生活と繋がりですね。それをどういうふうに加工するかということで、本当にまず断水もありましたし、電気の部ではなかなかもさないところもございました。そういった中でも支援活動がありましたので、飲料水、生活用水の供給と、それから各地から許していただいた支援ない。本当に。
はい。大変な。はい。
私も実は、いはなく私とですけれども、全壊してます。私、から50分ぐらいところで、車の中でを感じまして、すぐ引き返しまして、もりまして。もう揺れのショックで負けない状態でました。しかもですから私だと思いですから、もう靴を履かせて、にして避難されたという感じでます。
やはりのさの各家点の生活ですが、完全ことが少のに繋がるだと、そういうことを新聞にて活をされてきたと思います。はい。都回収されてます。
こですね。大町の方では、一番最は8月末の下旬です。それから各人からも生活するの試験だといられました。皆さんの事情表示の精神で皆さんされます。
のご訪問がまた何よりの支えとなると思います。ありがとうございます。はい、ありがとうございます。
そたちでが、高校3年と、それから小学校2年生と、それからまた未学した。はい。皆の家族の手もくですね。はい。この地域の皆さんもですね、さ、取られませようですので、良かったかと思っております。ございます。いただきます。ありがとうございます。
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