稼働率95%でも5年で陰りが見えた:GENSEN HD川﨑俊介社長が語る、湯快リゾートの現場で重ねた改善

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概要

GENSEN HDの川﨑俊介社長は、プロサッカー選手を目指したのち、湯快リゾートの立ち上げに加わり、開業準備と旅館運営の現場を経験してきた。この未公開インタビューでは、低価格の温泉旅館がどのような工夫で成り立ってきたのかを語っている。川﨑社長の考えの軸にあるのは、好調な事業でも同じことを続けていれば必ず陰りが来るという、自身が現場で得た実感である。

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プロを目指したサッカーと、21歳での断念

川﨑社長は長崎県長崎市の生まれで、高校卒業後は京都で4年ほど過ごした。小学生から高校まで本気でサッカーに取り組み、プロを目指して京都の社会人リーグのチームに在籍していた。その間、ドイツとオランダにも練習生として1カ月ほど滞在したという。

転機は21歳ごろに訪れた。所属チームが社会人リーグからJリーグの一つ下のカテゴリーであるJFLへ参入を目指したが、参入決定戦で敗れた。川﨑社長はこのとき「なんとなく」サッカーを諦めたと振り返る。

やり切ったのか、心残りがあったのかという問いには、当時は若かったと前置きしたうえで、続けていてもうまくいったかは分からないと答えている。ただ、今になって思うのは、20代前半に本気でサッカーに打ち込めるのはその年代にしかできないことだったという点だ。ほかの仕事はいつでもできるが、20代でサッカーを本気で頑張れる機会はあまりない。だからもう少し続けてもよかったと感じている。ただし本人は、これはあくまで結果論だと断っている。

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アルバイト先から新規事業に手を挙げる

最初から旅行業界を目指していたわけではない。サッカーをしていた時期、川﨑社長は湯快リゾートと同じグループの会社が運営するカラオケ店「ジャンカラ」でアルバイトをしていた。アルバイト歴は2年ほどで、リーダー的な立場にあったため、社員にはすぐなれる状況だった。

そのころ、社内で新規事業の公募があった。まだ社名も決まっていない段階の、のちの湯快リゾートである。川﨑社長は、自分が最も有利に進められる選択肢だと考えて手を挙げた。当時はそれほど深く考えていなかったが、今振り返ると、あのとき手を挙げたかどうかが人生を大きく左右したと話す。

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開業準備課での8年間と年齢による足止め

川﨑社長が配属されたのは開業準備課だった。湯快リゾートが新しい施設を出すたびに、最初に現地に入る部隊である。物件の取得からオープンまでを担当し、10年ほどは3カ月から半年に1回のペースで新規出店を繰り返した。各地を転々とし、最終的に石川県に住居を構えたという。

21、22歳で入社し、支配人になったのは30歳のときで、8年かかっている。年齢に関する決まりがあったわけではない。一緒に開業準備課にいた7人ほどの同僚は比較的早く支配人になった。しかし入社時22歳だった川﨑社長は、経験不足と見なされる年齢だったため、30歳まで待つことになった。もっとも、30歳でもホテル・旅館の支配人としては相当若いと本人は付け加えている。

同じように入社し、違うのは年齢だけなのに、自分だけ支配人になれない。年齢は自分で早めることができないので、条件として課されると、到達するまでにただ時間を費やすしかない。川﨑社長はこれを「不合理」だと感じ、のちに自分が課長や部長になったときに、その慣行を撤廃したと語っている。

外から見れば、出店のたびに最前線に立つ開業準備課のほうが花形の仕事に映っていたかもしれない。だが川﨑社長たちから見ると、運営を担う支配人のほうが圧倒的に魅力的だった。26、27歳のころには支配人になりたいと強く思っていたという。

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8年分の「自分ならこうする」を注ぎ込む

開業準備課の仕事では、オープンまでの過程で支配人の働きを間近に見ることになる。川﨑社長は店舗ごとに「こうすればもっとできるのに」「自分ならこうする」と考え、それを8年間ため込んできた。最初に支配人を務めた湯村温泉の施設では、その知識と経験をすべて注ぎ込んだという。

当時、つまり約15年前に取り組んだこととして、川﨑社長はオープンキッチンの導入を挙げる。また、将来はアルコールのセルフサービスが広がると見込み、それに対応できるレイアウトを用意した。予約の段階で食事時間を決めておくなど、ほかにも数えきれないほどの試みをしたという。インタビュアーが、こうした仕組みが今の大江戸温泉物語にもアップデートされながら残っていると確認すると、川﨑社長はそれを認めた。ただ、本人は当時は当たり前に考えてやったことだと言い、特別なことだとは捉えていない。

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創業期の湯快リゾート:均一料金、布団敷きっぱなし、バイキング

考え抜く姿勢は支配人になってから身についたものではなく、創業当時からあったと川﨑社長は言う。創業期の湯快リゾートは、7500円か7800円の年間均一料金で、布団は敷きっぱなし、食事はバイキングというスタイルだった。川﨑社長はこれを、ほかの温泉旅館から見れば激震が走るほどの改革だったと表現する。

オープンから1年間、稼働率は95%を保った。一方で、布団を敷きっぱなしにすることを受け入れられない客もいた。そうした客から内線がかかってくるたびに布団を敷き直すといった対応を繰り返していたという。

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80人を一度に案内する「ツアーチェックイン」

創業期には自社で直行バスも走らせ、関西や北陸から往復2000円で来られるようにした。しかし1便に2台ほどのバスが着くと、80人が一度に降りてくる。チェックインには長い行列ができた。

1組の手続きに5分かかるとすれば、2人1組で40組になり、最後の客はとてつもなく待つことになる。そこで当時の従業員たちと考えたのが、80人まとめてチェックインする方法だった。部屋番号は違っても説明の内容は同じなので、客に集まってもらって一度に説明し、終わったら鍵を渡して部屋に入ってもらう。いかに早く部屋に入ってもらうかを考えた結果で、この方法は今も「ツアーチェックイン」という名前で残っているという。

こうした改善を日々繰り返さなければ運営が回らず、そのたびにその場でオペレーションを作る必要があった。そういう考え方を持つ人がいなければ出店を続けられない状況だった。川﨑社長は、それをなかなかできない経験だったと振り返る。

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食事時間を三部制にした理由

食事時間を三部制にしたことについても、川﨑社長は具体的な数字で説明した。250人ほどが入るレストランを持つ、600人規模の旅館を想定する。三つに分ければ200人ずつで済む。分けなければ、600人のうち6〜7割がオープンと同時に来るため、400人ほどがレストランに入れず待たされる。一気に満席になるので、料理もドリンクも品切れになる。

実際に当初はこのやり方をしていたという。料理は切れ、ドリンクは出ず、客を待たせる。それを繰り返していると満足度は上がらなかった。料理を切らさず、ドリンクを出し、客を待たせないためにどうすべきかを考え抜いた結果、時間を区切る形にしたほうが圧倒的にうまく回るという結論に至った。

背景には従業員側の事情もあった。一斉に客が押し寄せる状況では、料理の差し替えは若手の男性にしかこなせなかった。川﨑社長はサッカー経験者として、ほとんどフィジカルで働くような状態だったと話す。若手の男性しかできない業務があるのは旅館運営として致命的であり、三部制にしたことで誰でも対応できるようになった。改善しなければずっと大変な状態が続くので改善した、というのが川﨑社長の説明である。

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利用者の目線を叩き込まれた「職業病」

オープンキッチンやセルフのアルコールも現場を回すための発想から生まれたのかと問われ、川﨑社長はそれもあると認めたうえで、もう一つの要素を挙げた。さまざまな業種のサービスを利用する側として、普段から運営の目線で見る習慣である。これは当時の部長に教え込まれたものだという。メニュー構成や店舗レイアウトを徹底的に叩き込まれたため、今でもどこに行っても通路の幅やレジの配置を職業病のように見てしまうと話す。

その例として挙げたのが自動精算機である。当時、飲食店では導入しているところが多かった。温泉旅館はサービスに特化し、接客をきちんとすべき業態なので、従業員側の発想ではおそらく自動精算機は入れない。しかし利用者の立場に立てば、精算がスムーズに終わる。どのホテルや旅館でもチェックインとチェックアウトではそれなりに待たされるが、待たせることが本当によいのか。客の利便性が高いほうが満足度も高いと考えれば、自動精算機は入れて損はない。むしろ、その分だけ人にしかできないことは何かを考える時期なのではないか、と川﨑社長は語る。

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年間500軒が潰れていた業界での危機感

こうした改革を続けてきた理由として、川﨑社長は危機感を挙げる。それは当時も今も変わらないという。川﨑社長によれば、23年前には温泉旅館が1年に500軒潰れており、今でも年に100軒ほどが潰れている。

その原因は、業績不振と、後継者がいないことによる事業継続の難しさにある。川﨑社長は、後継者問題は難しいかもしれないが、業績不振は変えられるのではないかと考えている。そしてこれは自社にも当てはまると強調する。今はうまくいっていても、5年後もうまくいっているかは分からないからだ。

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稼働率95%の旅館に見えた陰り

この考えの原点として、川﨑社長は創業期の体験を語った。7500円か7800円の均一料金で年間稼働率95%ほどを保っていたころ、フロントやレストランに入っていると、予約の電話はひっきりなしに鳴り、客はチェックアウトのときに次の予約を取って帰った。当時は「このビジネスは終わらない」と思っていたという。

ところが5年ほどで陰りが見え始めた。一気に下がったのではなく、95%が93%、90%と徐々に落ちていった。それでも十分に人気のある旅館だったが、あれほど人気があっても5年で限界が見えてくることを知った。川﨑社長はこのとき、同じことを続けていればよいというビジネスはないと実感し、常に新しいことに挑戦しなければならないという感覚を持つようになったと語っている。