着物から背広へ:刑部芳則が語る、明治から戦後までの日本人の洋装化

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概要

日本人はなぜ着物をやめ、洋服を着るようになったのか。文化放送とReHacQのコラボ番組「ReHacQ R大学」で、日本大学商学部教授の刑部芳則氏がこの問いに答えた。聞き手は高橋弘樹氏の代役として学生代表を務めた元文化放送アナウンサーの寺島啓太氏である。刑部氏は、明治政府による洋装の導入から、大正の服装改善運動、戦時中の国民服とモンペ、戦後の急速な洋装の普及までを順にたどった。そのうえで、戦後の洋装化は価値観の「突然変異」ではなく、数十年にわたる積み重ねの結果だという見方を示した。

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背広に蝶ネクタイで現れた研究者

刑部氏の専門は日本近代史で、明治から昭和にかけての制服史、生活文化史、昭和歌謡史に詳しい。NHK大河ドラマ「西郷どん」で軍装・洋装考証を、連続テレビ小説「エール」「ブギウギ」で風俗考証を、「虎に翼」で制服考証を、「ばけばけ」で時代風俗考証を担当してきた。2026年度後期の連続テレビ小説のモデルとなる人物についての新書も、NHK出版新書から出している。

この日の刑部氏は、白いワイシャツに黒の上着、蝶ネクタイという装いで出演した。刑部氏によれば、戦前の歌手が放送で歌うときはこうした格好をしていた。だから自分もメディアに出るときや講演のときは必ずこのスタイルにしているという。

研究を始めたきっかけは、子どもの頃に抱いた疑問だった。時代劇やドラマを見ると、服装が現代とまるで違う。髪型はちょんまげから散髪に変わり、侍は刀を差すのをやめ、着物は洋服に替わった。その理由は何だったのか。そこでまず洋装史から研究を始めた。その成果をまとめたのが著書『洋装の日本史』(集英社インターナショナル)である。

価値観が丸ごと変わる「大事件」

寺島氏は、着物から洋服への変化は単に服が替わった以上の大事件だったのかと尋ねた。刑部氏は、価値観がまったく変わったということだと答えた。現代に置き換えれば、「来年からちょんまげにしましょう、洋服をやめて着物にしましょう、履物も下駄や草履にしましょう」と言われるのと同じだという。そうなれば感覚そのものが変わってしまう。

スポーツ実況を担当する寺島氏は、侍は「ナンバ走り」をしていたといわれるように、走り方や歩き方まで違っていたのではないかと話を向けた。刑部氏は、実際に刀を差してみるとかなり重く、左側だけ傾いた状態になると述べた。それをどう支えていたかという身体の使い方ごと失われたことも、この変化の大きさを示しているという。

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明治4年の改革と「服装の王政復古」

洋装が公に動き出す起点として、刑部氏は明治4年を挙げた。新暦の7月14日に廃藩置県が行われ、藩が廃止されて府県が成立した。その翌月の8月に、散髪をはじめとする髪型や服装の自由が許可される。ところが当時の人々はすぐには従わず、今まで通りでよいではないかという態度だった。

そこで明治天皇は、重臣や旧大名家の華族、その夫人たちをわざわざ集めて説いた。今の時代は古代に戻るのであり、古代の人々は筒袖に細い袴をはいていたではないか、だからそこに戻すのだ、という内容である。刑部氏はこれを、洋服を採用するのではなく「服装の王政復古」だという感覚だったと説明した。

そうした理屈が必要だった理由として、刑部氏は尊王攘夷思想の強さを挙げた。外国を打ち払えと言ってきたのに、なぜ外国の文化を取り入れなければならないのか。そうした反発が非常に強かった。だから政府は「これは洋服ではない」と言い、神武天皇が国を治めた神武創業の頃は筒袖に細袴だった、その頃に戻るのだと諭す文章まで出した。ちょんまげをやめて散髪にし、着物から洋服へ移り、侍は刀を差すのをやめる。こうして価値観を変えていくことが、ある意味で文明開化だったと刑部氏は述べた。

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幕末の軍服と、海外での「かつら」

明治以前に洋服を着た日本人がまったくいなかったわけではない。一つは幕府が存在していた時代から使われていた軍服である。戦国以来の装備、つまり弓や槍では黒船の大砲に対抗できない。相手を制するには敵と同じように動きやすいものが必要だという理由で、洋服が取り入れられた。ただし、それは軍服に限られていた。

もう一つは海外渡航の場合である。使節団や公式の留学生として外国に行くと、日本の装いでは目立ってしまう。そこで「郷に入っては郷に従え」のように、渡航中だけ洋服を着た。ところが帰国の途中、上海あたりまで来ると元の装いに戻していたという。

困ったのは髪型だった。一度切ると簡単には伸びない。そこで向こうでは、かつらを着けてちょんまげを隠した者がいた。刑部氏によれば、ヨーロッパにはかつら屋があり、古いクラシック音楽の作曲家の肖像に見られるような長いかつらを買って着けていた。ホテルに戻るとかつらを外し、ちょんまげ姿に戻る。逆に実際に髪を切ってしまった人は、帰りの船旅のあいだに伸ばそうとしたが間に合わず、ちょんまげをぎりぎり結えるかどうかで苦労したという話も残っている。ちょんまげのかつらではなく、洋装に合わせたかつらをかぶるという、今とは逆の苦労である。

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フロックコートと官吏の洋装義務化

当時の洋服には、今のTシャツのようなカジュアルなものは一切なかった。男性は白いカラーのシャツの上に、フロックコートと呼ばれた上着を着た。現在の背広とは違ってダブルの仕立てで、丈が非常に長く、後ろは燕尾服のように燕の尾の形になっていた。

これは役人が通勤のときに着るものだった。明治10年代後半には、出勤時は洋装とすることが通達で義務づけられる。それまでは紋付・羽織・袴で出仕する人もいたが、明治10年代に入るとその数は減っていった。

刑部氏は、日本政府の進め方の特徴にも触れた。従わなければ罰するという強制はせず、あの手この手で、そうせざるをえない方向へ持っていく。現代の例として刑部氏が挙げたのがマイナンバーカードである。作らなくても罰則はないが、国は作るよう推奨し続ける。最終的には、登録がないと病院で手続きができない、10割負担になるかもしれないとなれば、みんな作る。寺島氏の言う「外堀を埋めて内堀を埋める」やり方だと刑部氏は同意した。

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皇后の洋装と、女性の礼服をめぐる理屈

女性の洋装が公的に動き出すのも明治10年代後半で、鹿鳴館の時代である。外国人をもてなし、日本がヨーロッパ諸国と同じような国だと見せる。見せかけだけでなく制度そのものも近代化していく流れのなかで、男性の公的な洋装は制度として整えられていった。では女性は関係ないのかというと、そうはいかなかった。

刑部氏によれば、ヨーロッパでは式典やパーティーに夫婦同伴で出席する。一方で日本には良妻賢母的な教育があり、女性はなるべく表に出しゃばらないよう教えられていた。それでも夫が公務に臨む場には付き添うべきだということが、この頃から盛んに推奨されるようになる。すると、男性が大礼服などの洋式礼服を着ているのに、女性が従来の和装では釣り合いが取れない。それまでの女性の公的な礼装は、十二単に、椎茸のような形の「おすべらかし」の髪型という平安時代風のものだった。

そこでヨーロッパのようなドレスを用いることになる。刑部氏によれば、明治20年頃に昭憲皇后が出した文書でも、男性の場合と同じ理屈が使われた。これは西洋の物まねではない。古代の女性は衣と裳、つまり上下に分かれたものを着ていた。推古天皇などの肖像画を見てもそう描かれている。鎌倉時代あたりから一続きの着物に太い帯を締めるようになったが、これは健康にもよくない。西洋も上下に分かれているし、日本も古代は分かれていたのだから元に戻るべきだ、という主張である。女性の洋装もまた王政復古の論理で説明されたのだと刑部氏は述べた。皇后が率先して着ることで、国民に模範を示したことになる。

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一般女性にはほとんど広がらなかった明治の洋装

では一般家庭ではどうだったか。刑部氏の答えは、ほとんど変化がなかった、というものだった。男性はサラリーマン、特にホワイトカラーを中心に、会社へ出勤するときに背広を着るようになり、洋装が徐々に浸透した。しかし女性はそもそもほとんど働いていなかった。

加えて、女性の洋装は非常に高額だった。刑部氏は、今の値段で1着100万円以上する、毎日替えれば月曜から金曜で500万円ほどになると例えた。しかも動きにくい。当時の洋装は腰をきつく締めつけるコルセットを着けるもので、水を飲むのも大変だと言われるほどだった。高価で、健康に害があるかもしれないものが、農村や市井の女性に広がるはずがない。コルセットを巻いたまま鍬を持って畑を耕したり、赤子を育てたりはできない。明治期の一般女性は、刑部氏の言葉では「本当に99%和服」だった。

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大正期:職業婦人の登場と、和服・洋服それぞれの欠点

大正時代に入ると状況が動く。ヨーロッパで第一次世界大戦が起き、国家総力戦のなかで男性だけでなく女性も働き手として求められた。その情報が日本にも入ってくる。日本でも「職業婦人」と呼ばれる働く女性が社会に出てくるようになり、女性の服装をどうするべきかという議論が改めて起こった。

刑部氏は、和服にも洋服にもメリットとデメリットがあったと整理した。和服は洋装より安い。しかし帯で腰を締めつけるため、子どもの頃から着ていると健康や発育に影響するといわれた。

その例として刑部氏は、秋田を訪れた際に見た写真の話をした。元の写真はヨーロッパにあるらしく、日本を訪れた外国人が日本人の暮らしとして撮影したものだという。4人ほどの女性が入浴している写真で、刑部氏は最初、小さい女の子たちだと思った。ところが解説を読むと成人女性だった。みな背が150cmほどと低く、痩せていた。刑部氏は、子どもの頃から着物で生活しているとこうした体形になるのかと感じたという。明治20年代に皇后の文書が出て以降、有識者、特に医学の専門家が、着物を着ているとこういう体格になる、病気になるといった主張を多くの雑誌で展開するようになった。

一方、洋服は着物に比べて活動的だが、高額で、やはり腰を締めつけるため健康に害がある。こうした欠点をどう改善するかという動きが、大正8年頃から本格化する。

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服装改善運動:着物に袴、コルセットのない洋服

この動きが「服装改善運動」である。コストを安くし、活動的で、健康に害のない服装を作ろうというものだった。

和服を推す人々は、長い袖や丈を短くし、帯の幅を細くして締めつけを減らす改良を考えた。そのなかで出てきたのが「着物に袴」のスタイルである。着物は一枚でつながっているため、走ると裾がはだける。刑部氏によれば、戦前は素足を他人に見せるのは行儀が悪いとされていたので、女性は小股で歩くしかなく、大股で歩いたり走ったり跳んだりできなかった。袴をはけば足を隠せるうえ、袴で締めることで太い帯を使わずに済み、身軽に動ける。これが和服派の「最大公約数的な改良」だったと刑部氏は説明した。

洋装派にとっての問題はコルセットだった。コルセットを着けなければ活動的な洋服が作れるとして、職業婦人向けには男性の背広に相当するようなワンピースやツーピースが、カジュアルな用途には薄手のワンピースなどが、この頃から作られるようになった。

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人気の職業、敬遠された職業

職業婦人がどんな仕事に就いていたのかについて、刑部氏は大きく二つに分かれると説明した。いわばホワイトカラーかどうかの違いである。

最も人気があったのはタイピストで、事務職や社長秘書など会社のなかで働く仕事も人気だった。ほかに、刑部氏が「夢の職業」と呼んだ女優や歌手といった演劇・芸能の世界、デパートのエレベーターガールや店員、レストランや食堂のウェイトレスも、職業として非常に人気があった。

反対に就きたくない仕事とされたのがバスガールである。集金をし、満員の車内で乗客を詰めて乗せなければならず、仕事として大変だった。電車の車掌のような仕事も同様に人気がなかった。紡績工場などの女工は、明治以来の「ああ野麦峠」や工場法の制定に見られるように、劣悪な環境で働かされた。

刑部氏は、北海道から沖縄まで、全国の高等女学校の記念誌にほとんど目を通したという。当時は小学校までが義務教育で、その上の高等女学校に進めるのはエリート層だった。記念誌に残る卒業生の回想には、制服が似ていたためにバスガールに間違えられるのが嫌だったという声や、卒業後にバスガールや工場で働くのは嫌だったという声が見られる。バスガールの服装は、折り襟のついた紺一色の長袖ワンピースに小さな帽子というもので、見た目はきれいだった。それでも仕事内容から敬遠され、実際に就いたのは小学校卒の女性が多く、高等女学校卒業生はタイピストやデパートガールの方へ進んだと刑部氏は述べた。

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モダンガールと「二〇三高地」、そしてセーラー服

大正期の「モダンボーイ」「モダンガール」は、時代の最先端の流行を取り入れた男女だった。しかし刑部氏によれば、当時は今でいう不良のように見られていた。

当時の女性の髪型は、日本髪なら島田や丸髷だった。高等女学校の生徒は洋髪だったが、ボリュームを持たせ、さらに上に盛り上げる形が流行していた。日露戦争で乃木希典率いる第三軍が攻め落としたロシアの要塞「二〇三高地」になぞらえ、その髪型は「二〇三高地」と呼ばれたという。友達よりいかに大きく見せるかを競い、毎朝1時間ほどかけて結っていたそうだ。

モダンガールはこれとまったく違い、ハリウッド女優のような髪型をし、黒髪でも断髪にした。濃い化粧をしたこうした女性はそれまで社会にいなかったため、「あんな不良女になってはいけない」という扱いを受けた。寺島氏が、今では大正モダンはおしゃれな印象だが当時の年配者には奇異に映ったのかと問うと、刑部氏はその通りだと答え、価値観がまったく違ったのだと述べた。

同じ大正8年頃から、文部省を通じて高等女学校に洋式の制服が入ってくる。最初はバスガールのようなワンピース型が多かったが、すぐにセーラー服に替わった。刑部氏は、セーラー服に袖を通した世代と、着物に袴だけで過ごした世代とでは価値観が違うだろうと述べた。

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男子の学生服は東京帝国大学から

男子の制服は女子より早く洋装化した。明治時代から、詰襟に金ボタン5つのいわゆる学ランを採用する学校があった。刑部氏によれば、最初に採用したのは明治19年の帝国大学(のちの東京帝国大学)である。その下にあるナンバースクールの旧制高等学校、さらにその下の旧制中学校にとっても到達点は東大だったため、エリート校は次々と詰襟を採用した。一部例外はあるものの、刑部氏が現在とっている統計でも、かなりの学校が5つボタンだという。

その結果、戦前の社会では服装を見ればどんな人か分かった。旧制中学校や高等女学校の生徒は「エリート」、モダンボーイ・モダンガールは「不良」というように、人は服装で見られていた。

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昭和15年の国民服

昭和に入り戦争の時代になると、昭和15年に「国民服」が制定される。陸軍の軍服によく似ており、色は当時「国防色」と呼ばれた。刑部氏によれば、土や砂のような色のカーキとは少し違い、深緑に近い色だった。襟は二種類あった。普段は開襟で、ボタンを留めると詰襟になるものと、陸軍の将校が着るような従来の詰襟型である。帽子は野球帽のような形で、中央に割れ目が入っていた。

刑部氏は、これも服装改善運動から始まったものだと説明した。日本国民に最もふさわしい服を作る研究がずっと続いており、そこに戦争が重なった。アメリカやイギリスと戦争になれば輸入が止まる。日本の風土では羊を飼って羊毛を得ることがなかなか定着せず、明治時代から研究してもうまくいかなかった。そのため動物性繊維の洋服素材は国内では作りにくい。そこで、植物性繊維や木材から作れる素材、当時「ステープルファイバー」、通称「スフ」と呼ばれたものなどで作れる服として国民服が考案された。

国民服は支給品ではなく、自分で買うものだった。着用も義務ではなく推奨である。寺島氏が「推奨されるということは、つまりそういうことですね」と言うと、刑部氏も同意した。狙いは、いざというときに軍服へ転用できることにあった。国家総力戦になれば最終的には国民全員が戦うことになるので、陸軍と同じ形の服がよい。また、さまざまな色に染めるのは無駄なので、国防色に統一すれば無駄を省ける。立案には陸軍省と厚生省が関わったが、主に担ったのは厚生省だったという。

着心地は普通の背広と変わらないと刑部氏は話す。刑部氏自身、大学1年のときに骨董市で国民服を買い、何日か着て大学に通った。帽子もかぶったが、山手線では誰も気づかなかった。祝日でも授業がある日には、儀式の際に右胸から下げる紫の「国民服儀礼章」も着けて行き、友人から「君、今日はどうしたんだ」と言われたという。刑部氏は、机の上の勉強だけではだめで、実際にやってみることが大事なのだと語った。

ゲートルと「日本精神」

実際に着てみて刑部氏が苦労したのが、靴を履いた足に巻くゲートル、いわゆる巻脚絆だった。国民服と同じ深緑色で、紐の位置まで決まっているが、何度やってもうまく巻けない。当時の人々はそれを当たり前にこなしていた。

巻いてみると足が身軽になり動きやすいことは分かる。それでも、なぜゲートルを巻かせたのかについて、刑部氏は「よく分からない部分がある」と率直に認めた。推測としては、当時の「日本精神」、つまり重大な戦時下の局面で足元をふらつかせているとは何事か、という心の問題ではないかという。旧制中学校の生徒もゲートルを巻いて登校し、巻いていかなければ教師や先輩から鉄拳制裁を受け、「軟弱だ」「気がたるんでいる」と言われた。生徒たちは回想で、ゲートルを巻くのが嫌だったと書いている。

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モンペとセーラー服、学童用国民服

女性の戦時服はモンペである。刑部氏によれば、いつから徹底されたのかは段階があってよく分からない。ただ、教育機関である高等女学校では、男子のゲートルと同じように必ず着用させた。

例外は式典の日だった。皇后の誕生日である「地久節」、天皇誕生日の「天長節」、明治天皇の誕生日だった「明治節」など、当時「三大節」「四大節」と呼ばれた日には学校で儀式がある。奉安殿の扉を開け、天皇・皇后の御真影と教育勅語に最敬礼し、校長が教育勅語を奉読する。この日だけはセーラー服のスカートをはいてよかった。生徒たちは回想で、スカートをはけてとても嬉しかったと語り、普段はスカートが傷まないよう大切にしまっていたという。刑部氏が面白いと指摘したのは、モンペの上はセーラー服だったことで、上下でちぐはぐな服装だった。

昭和17年になると学生服も国民服となり、一般用とは別に男子用・女子用の学童向け国民服が作られる。詰襟やセーラー服は国が認めなくなったため、新しく買えなくなった。それでも生徒たちは学童服を着たがらず、手元にあるうちは詰襟やセーラー服を着た。傷めたら二度と手に入らないので、大事に使っていたという。

普及は戦局の悪化から、国の方針には矛盾も

戦時中でもおしゃれをしたい気持ちはあったのかという問いに、刑部氏は「ありました」と答えた。国民服もモンペも、最初のうちはほとんど普及しなかった。広がるのは太平洋戦争が激化し、戦況が悪化して空襲の危険にさらされるようになってからである。工場などで働く人々も、国民服ではない作業着を着ていたが、その色は国防色だった。一般に売られる衣服は国が規制していたため国防色ばかりになり、世の中が一色になっていった。

一方で、刑部氏は国の方針に矛盾があったことも指摘した。国民服を推奨しながら、なるべく新しく作るなとも言っていた。資源がないので、手持ちのものがあるうちはそれを使え、新しく作るなら国民服にせよ、という苦しい言い分だった。そのため写真を見ると、派手な柄の服を着ている人も多い。着物をほどいて洋服風の上着に仕立て、モンペも着物の素材で作った。祝い事用の明るい着物を使うこともあった。白黒写真では分からないが、カラー化すれば相当派手な柄のモンペをはいた女性が多いだろうと刑部氏は話した。

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戦後の急速な洋装化は「突然変異」ではない

戦後、女性の洋装は急速に普及する。刑部氏はその要因として、まず進駐軍とともにアメリカ文化が押し寄せたことを挙げた。資源のなかった衣料素材もアメリカから大量に入り、買うことも作ることもできるようになった。フランスの流行もアメリカの雑誌を通じて伝わり、「ニュールック」と呼ばれるスタイルや落下傘スカートが人気になった。完成品を買うと高いが、素材だけなら安いため、ミシンや洋裁学校がブームになり、家庭で洋服を作ることが広がった。

ただし刑部氏は、これを日本人の価値観の突然変異だとは考えていない。大正8年に始まった服装改善運動が、昭和初期にはモダンガールの間で突出した形で現れ、学校教育ではセーラー服として取り入れられた。戦時中にはモンペをはいたことで、従来の着物やスカートとは違う感覚が植えつけられた。小学校から高等女学校まで進んだ人は、10年近く洋服の制服に接していた。そうした感覚が積み重なったところに戦争が挟まり、戦後の状況が生まれた。よそ行きのお洒落として着物を着るのもよいが、普段着ならカジュアルな洋服もいい、という方向に価値観が変わった。洋装の制服などが始まってから20数年が経った昭和20年頃に、それが一気に花開いたというのが刑部氏の見方である。

寺島氏が朝鮮戦争の特需の頃の変化を尋ねると、刑部氏は世代交代の観点から説明した。その頃には高等女学校を出た世代が母親になっており、その子どもたちは着物を着ない。小学校から洋服で、中学・高校では制服が待っている。職業婦人という言葉も使われなくなり、結婚前の女性も会社で働き、洋服が中心になっていった。

一方、セーラー服に袖を通さなかった世代は当時まだ40代、50代で多く、昭和50年代頃まで着物で生活する人もいた。しかし着物を着る人口は増えることがなく、減る一方で、洋服を着る世代が右肩上がりに増えた。昭和50年頃を境に、着物姿は街中で目立たなくなったと刑部氏は述べる。今では駅などで着物姿を見かけると振り向いてしまうほどだという。男性は女性以上に着物を着なくなり、茶道をしているとか歌舞伎を観に行くといった、こだわりのある人以外はほぼ着ないのではないかと刑部氏は話した。大正期の電話交換手のように、着物に袴、草履や下駄で働く職業婦人の姿も、戦後には制服の支給などによって見られなくなった。

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「ファッション」とは流行のこと、そして「背広」という言葉

最後に刑部氏は、「ファッション」という言葉に触れた。ファッションは本来服装のことではなく、日本語にすれば「流行」を意味する。服装に限った言葉ではないが、服装ほど流行が著しく変化する世界はないため、両者が結びついたのだろうと刑部氏は述べた。明治、大正から平成、令和まで、時代の変化を映す鏡のように常に変わり続けてきたのが服装だという。寺島氏も、社会の流れと服装の変化を年表で重ねると、何があったから服が変わったのかが見えてくると応じた。

寺島氏が刑部氏の「スーツ姿」は令和では珍しく見えると言うと、刑部氏はすかさず「スーツと言わないでください」と返した。「背広」という言葉はいまや死語になりつつあるので、自分はスーツではなく背広という言葉を普及させようとしているという。

収録後、寺島氏は、戦時中に色が減っていくなかでも、仕方なくという面はあったにせよ、カラフルな着物から作ったモンペをはく人がいたことに驚いたと振り返った。乗り物好きとしては、戦後のスチュワーデスのような憧れの職業だと思っていたバスガールが、大正期には仕事の大変さから不人気だったことが意外だったと語った。