着物から背広へ:刑部芳則が語る、明治から戦後までの日本人の洋装化
ReHacQ−リハック−【公式】日本人はなぜ着物をやめ、洋服を着るようになったのか。文化放送とReHacQのコラボ番組「ReHacQ R大学」で、日本大学商学部教授の刑部芳則氏がこの問いに答えた。聞き手は高橋弘樹氏の代役として学生代表を務めた元文化放送アナウンサーの寺島啓太氏である。刑部氏は、明治政府による洋装の導入から、大正の服装改善運動、戦時中の国民服とモンペ、戦後の急速な洋装の普及までを順にたどった。そのうえで、戦後の洋装化は価値観の「突然変異」ではなく、数十年にわたる積み重ねの結果だという見方を示した。
背広に蝶ネクタイで現れた研究者
刑部氏の専門は日本近代史で、明治から昭和にかけての制服史、生活文化史、昭和歌謡史に詳しい。NHK大河ドラマ「西郷どん」で軍装・洋装考証を、連続テレビ小説「エール」「ブギウギ」で風俗考証を、「虎に翼」で制服考証を、「ばけばけ」で時代風俗考証を担当してきた。2026年度後期の連続テレビ小説のモデルとなる人物についての新書も、NHK出版新書から出している。
この日の刑部氏は、白いワイシャツに黒の上着、蝶ネクタイという装いで出演した。刑部氏によれば、戦前の歌手が放送で歌うときはこうした格好をしていた。だから自分もメディアに出るときや講演のときは必ずこのスタイルにしているという。
研究を始めたきっかけは、子どもの頃に抱いた疑問だった。時代劇やドラマを見ると、服装が現代とまるで違う。髪型はちょんまげから散髪に変わり、侍は刀を差すのをやめ、着物は洋服に替わった。その理由は何だったのか。そこでまず洋装史から研究を始めた。その成果をまとめたのが著書『洋装の日本史』(集英社インターナショナル)である。
価値観が丸ごと変わる「大事件」
寺島氏は、着物から洋服への変化は単に服が替わった以上の大事件だったのかと尋ねた。刑部氏は、価値観がまったく変わったということだと答えた。現代に置き換えれば、「来年からちょんまげにしましょう、洋服をやめて着物にしましょう、履物も下駄や草履にしましょう」と言われるのと同じだという。そうなれば感覚そのものが変わってしまう。
スポーツ実況を担当する寺島氏は、侍は「ナンバ走り」をしていたといわれるように、走り方や歩き方まで違っていたのではないかと話を向けた。刑部氏は、実際に刀を差してみるとかなり重く、左側だけ傾いた状態になると述べた。それをどう支えていたかという身体の使い方ごと失われたことも、この変化の大きさを示しているという。
明治4年の改革と「服装の王政復古」
洋装が公に動き出す起点として、刑部氏は明治4年を挙げた。新暦の7月14日に廃藩置県が行われ、藩が廃止されて府県が成立した。その翌月の8月に、散髪をはじめとする髪型や服装の自由が許可される。ところが当時の人々はすぐには従わず、今まで通りでよいではないかという態度だった。
そこで明治天皇は、重臣や旧大名家の華族、その夫人たちをわざわざ集めて説いた。今の時代は古代に戻るのであり、古代の人々は筒袖に細い袴をはいていたではないか、だからそこに戻すのだ、という内容である。刑部氏はこれを、洋服を採用するのではなく「服装の王政復古」だという感覚だったと説明した。
そうした理屈が必要だった理由として、刑部氏は尊王攘夷思想の強さを挙げた。外国を打ち払えと言ってきたのに、なぜ外国の文化を取り入れなければならないのか。そうした反発が非常に強かった。だから政府は「これは洋服ではない」と言い、神武天皇が国を治めた神武創業の頃は筒袖に細袴だった、その頃に戻るのだと諭す文章まで出した。ちょんまげをやめて散髪にし、着物から洋服へ移り、侍は刀を差すのをやめる。こうして価値観を変えていくことが、ある意味で文明開化だったと刑部氏は述べた。
幕末の軍服と、海外での「かつら」
明治以前に洋服を着た日本人がまったくいなかったわけではない。一つは幕府が存在していた時代から使われていた軍服である。戦国以来の装備、つまり弓や槍では黒船の大砲に対抗できない。相手を制するには敵と同じように動きやすいものが必要だという理由で、洋服が取り入れられた。ただし、それは軍服に限られていた。
もう一つは海外渡航の場合である。使節団や公式の留学生として外国に行くと、日本の装いでは目立ってしまう。そこで「郷に入っては郷に従え」のように、渡航中だけ洋服を着た。ところが帰国の途中、上海あたりまで来ると元の装いに戻していたという。
困ったのは髪型だった。一度切ると簡単には伸びない。そこで向こうでは、かつらを着けてちょんまげを隠した者がいた。刑部氏によれば、ヨーロッパにはかつら屋があり、古いクラシック音楽の作曲家の肖像に見られるような長いかつらを買って着けていた。ホテルに戻るとかつらを外し、ちょんまげ姿に戻る。逆に実際に髪を切ってしまった人は、帰りの船旅のあいだに伸ばそうとしたが間に合わず、ちょんまげをぎりぎり結えるかどうかで苦労したという話も残っている。ちょんまげのかつらではなく、洋装に合わせたかつらをかぶるという、今とは逆の苦労である。
フロックコートと官吏の洋装義務化
当時の洋服には、今のTシャツのようなカジュアルなものは一切なかった。男性は白いカラーのシャツの上に、フロックコートと呼ばれた上着を着た。現在の背広とは違ってダブルの仕立てで、丈が非常に長く、後ろは燕尾服のように燕の尾の形になっていた。
これは役人が通勤のときに着るものだった。明治10年代後半には、出勤時は洋装とすることが通達で義務づけられる。それまでは紋付・羽織・袴で出仕する人もいたが、明治10年代に入るとその数は減っていった。
刑部氏は、日本政府の進め方の特徴にも触れた。従わなければ罰するという強制はせず、あの手この手で、そうせざるをえない方向へ持っていく。現代の例として刑部氏が挙げたのがマイナンバーカードである。作らなくても罰則はないが、国は作るよう推奨し続ける。最終的には、登録がないと病院で手続きができない、10割負担になるかもしれないとなれば、みんな作る。寺島氏の言う「外堀を埋めて内堀を埋める」やり方だと刑部氏は同意した。
皇后の洋装と、女性の礼服をめぐる理屈
女性の洋装が公的に動き出すのも明治10年代後半で、鹿鳴館の時代である。外国人をもてなし、日本がヨーロッパ諸国と同じような国だと見せる。見せかけだけでなく制度そのものも近代化していく流れのなかで、男性の公的な洋装は制度として整えられていった。では女性は関係ないのかというと、そうはいかなかった。
刑部氏によれば、ヨーロッパでは式典やパーティーに夫婦同伴で出席する。一方で日本には良妻賢母的な教育があり、女性はなるべく表に出しゃばらないよう教えられていた。それでも夫が公務に臨む場には付き添うべきだということが、この頃から盛んに推奨されるようになる。すると、男性が大礼服などの洋式礼服を着ているのに、女性が従来の和装では釣り合いが取れない。それまでの女性の公的な礼装は、十二単に、椎茸のような形の「おすべらかし」の髪型という平安時代風のものだった。
そこでヨーロッパのようなドレスを用いることになる。刑部氏によれば、明治20年頃に昭憲皇后が出した文書でも、男性の場合と同じ理屈が使われた。これは西洋の物まねではない。古代の女性は衣と裳、つまり上下に分かれたものを着ていた。推古天皇などの肖像画を見てもそう描かれている。鎌倉時代あたりから一続きの着物に太い帯を締めるようになったが、これは健康にもよくない。西洋も上下に分かれているし、日本も古代は分かれていたのだから元に戻るべきだ、という主張である。女性の洋装もまた王政復古の論理で説明されたのだと刑部氏は述べた。皇后が率先して着ることで、国民に模範を示したことになる。
一般女性にはほとんど広がらなかった明治の洋装
では一般家庭ではどうだったか。刑部氏の答えは、ほとんど変化がなかった、というものだった。男性はサラリーマン、特にホワイトカラーを中心に、会社へ出勤するときに背広を着るようになり、洋装が徐々に浸透した。しかし女性はそもそもほとんど働いていなかった。
加えて、女性の洋装は非常に高額だった。刑部氏は、今の値段で1着100万円以上する、毎日替えれば月曜から金曜で500万円ほどになると例えた。しかも動きにくい。当時の洋装は腰をきつく締めつけるコルセットを着けるもので、水を飲むのも大変だと言われるほどだった。高価で、健康に害があるかもしれないものが、農村や市井の女性に広がるはずがない。コルセットを巻いたまま鍬を持って畑を耕したり、赤子を育てたりはできない。明治期の一般女性は、刑部氏の言葉では「本当に99%和服」だった。
大正期:職業婦人の登場と、和服・洋服それぞれの欠点
大正時代に入ると状況が動く。ヨーロッパで第一次世界大戦が起き、国家総力戦のなかで男性だけでなく女性も働き手として求められた。その情報が日本にも入ってくる。日本でも「職業婦人」と呼ばれる働く女性が社会に出てくるようになり、女性の服装をどうするべきかという議論が改めて起こった。
刑部氏は、和服にも洋服にもメリットとデメリットがあったと整理した。和服は洋装より安い。しかし帯で腰を締めつけるため、子どもの頃から着ていると健康や発育に影響するといわれた。
その例として刑部氏は、秋田を訪れた際に見た写真の話をした。元の写真はヨーロッパにあるらしく、日本を訪れた外国人が日本人の暮らしとして撮影したものだという。4人ほどの女性が入浴している写真で、刑部氏は最初、小さい女の子たちだと思った。ところが解説を読むと成人女性だった。みな背が150cmほどと低く、痩せていた。刑部氏は、子どもの頃から着物で生活しているとこうした体形になるのかと感じたという。明治20年代に皇后の文書が出て以降、有識者、特に医学の専門家が、着物を着ているとこういう体格になる、病気になるといった主張を多くの雑誌で展開するようになった。
一方、洋服は着物に比べて活動的だが、高額で、やはり腰を締めつけるため健康に害がある。こうした欠点をどう改善するかという動きが、大正8年頃から本格化する。
服装改善運動:着物に袴、コルセットのない洋服
この動きが「服装改善運動」である。コストを安くし、活動的で、健康に害のない服装を作ろうというものだった。
和服を推す人々は、長い袖や丈を短くし、帯の幅を細くして締めつけを減らす改良を考えた。そのなかで出てきたのが「着物に袴」のスタイルである。着物は一枚でつながっているため、走ると裾がはだける。刑部氏によれば、戦前は素足を他人に見せるのは行儀が悪いとされていたので、女性は小股で歩くしかなく、大股で歩いたり走ったり跳んだりできなかった。袴をはけば足を隠せるうえ、袴で締めることで太い帯を使わずに済み、身軽に動ける。これが和服派の「最大公約数的な改良」だったと刑部氏は説明した。
洋装派にとっての問題はコルセットだった。コルセットを着けなければ活動的な洋服が作れるとして、職業婦人向けには男性の背広に相当するようなワンピースやツーピースが、カジュアルな用途には薄手のワンピースなどが、この頃から作られるようになった。
人気の職業、敬遠された職業
職業婦人がどんな仕事に就いていたのかについて、刑部氏は大きく二つに分かれると説明した。いわばホワイトカラーかどうかの違いである。
最も人気があったのはタイピストで、事務職や社長秘書など会社のなかで働く仕事も人気だった。ほかに、刑部氏が「夢の職業」と呼んだ女優や歌手といった演劇・芸能の世界、デパートのエレベーターガールや店員、レストランや食堂のウェイトレスも、職業として非常に人気があった。
反対に就きたくない仕事とされたのがバスガールである。集金をし、満員の車内で乗客を詰めて乗せなければならず、仕事として大変だった。電車の車掌のような仕事も同様に人気がなかった。紡績工場などの女工は、明治以来の「ああ野麦峠」や工場法の制定に見られるように、劣悪な環境で働かされた。
刑部氏は、北海道から沖縄まで、全国の高等女学校の記念誌にほとんど目を通したという。当時は小学校までが義務教育で、その上の高等女学校に進めるのはエリート層だった。記念誌に残る卒業生の回想には、制服が似ていたためにバスガールに間違えられるのが嫌だったという声や、卒業後にバスガールや工場で働くのは嫌だったという声が見られる。バスガールの服装は、折り襟のついた紺一色の長袖ワンピースに小さな帽子というもので、見た目はきれいだった。それでも仕事内容から敬遠され、実際に就いたのは小学校卒の女性が多く、高等女学校卒業生はタイピストやデパートガールの方へ進んだと刑部氏は述べた。
モダンガールと「二〇三高地」、そしてセーラー服
大正期の「モダンボーイ」「モダンガール」は、時代の最先端の流行を取り入れた男女だった。しかし刑部氏によれば、当時は今でいう不良のように見られていた。
当時の女性の髪型は、日本髪なら島田や丸髷だった。高等女学校の生徒は洋髪だったが、ボリュームを持たせ、さらに上に盛り上げる形が流行していた。日露戦争で乃木希典率いる第三軍が攻め落としたロシアの要塞「二〇三高地」になぞらえ、その髪型は「二〇三高地」と呼ばれたという。友達よりいかに大きく見せるかを競い、毎朝1時間ほどかけて結っていたそうだ。
モダンガールはこれとまったく違い、ハリウッド女優のような髪型をし、黒髪でも断髪にした。濃い化粧をしたこうした女性はそれまで社会にいなかったため、「あんな不良女になってはいけない」という扱いを受けた。寺島氏が、今では大正モダンはおしゃれな印象だが当時の年配者には奇異に映ったのかと問うと、刑部氏はその通りだと答え、価値観がまったく違ったのだと述べた。
同じ大正8年頃から、文部省を通じて高等女学校に洋式の制服が入ってくる。最初はバスガールのようなワンピース型が多かったが、すぐにセーラー服に替わった。刑部氏は、セーラー服に袖を通した世代と、着物に袴だけで過ごした世代とでは価値観が違うだろうと述べた。
男子の学生服は東京帝国大学から
男子の制服は女子より早く洋装化した。明治時代から、詰襟に金ボタン5つのいわゆる学ランを採用する学校があった。刑部氏によれば、最初に採用したのは明治19年の帝国大学(のちの東京帝国大学)である。その下にあるナンバースクールの旧制高等学校、さらにその下の旧制中学校にとっても到達点は東大だったため、エリート校は次々と詰襟を採用した。一部例外はあるものの、刑部氏が現在とっている統計でも、かなりの学校が5つボタンだという。
その結果、戦前の社会では服装を見ればどんな人か分かった。旧制中学校や高等女学校の生徒は「エリート」、モダンボーイ・モダンガールは「不良」というように、人は服装で見られていた。
昭和15年の国民服
昭和に入り戦争の時代になると、昭和15年に「国民服」が制定される。陸軍の軍服によく似ており、色は当時「国防色」と呼ばれた。刑部氏によれば、土や砂のような色のカーキとは少し違い、深緑に近い色だった。襟は二種類あった。普段は開襟で、ボタンを留めると詰襟になるものと、陸軍の将校が着るような従来の詰襟型である。帽子は野球帽のような形で、中央に割れ目が入っていた。
刑部氏は、これも服装改善運動から始まったものだと説明した。日本国民に最もふさわしい服を作る研究がずっと続いており、そこに戦争が重なった。アメリカやイギリスと戦争になれば輸入が止まる。日本の風土では羊を飼って羊毛を得ることがなかなか定着せず、明治時代から研究してもうまくいかなかった。そのため動物性繊維の洋服素材は国内では作りにくい。そこで、植物性繊維や木材から作れる素材、当時「ステープルファイバー」、通称「スフ」と呼ばれたものなどで作れる服として国民服が考案された。
国民服は支給品ではなく、自分で買うものだった。着用も義務ではなく推奨である。寺島氏が「推奨されるということは、つまりそういうことですね」と言うと、刑部氏も同意した。狙いは、いざというときに軍服へ転用できることにあった。国家総力戦になれば最終的には国民全員が戦うことになるので、陸軍と同じ形の服がよい。また、さまざまな色に染めるのは無駄なので、国防色に統一すれば無駄を省ける。立案には陸軍省と厚生省が関わったが、主に担ったのは厚生省だったという。
着心地は普通の背広と変わらないと刑部氏は話す。刑部氏自身、大学1年のときに骨董市で国民服を買い、何日か着て大学に通った。帽子もかぶったが、山手線では誰も気づかなかった。祝日でも授業がある日には、儀式の際に右胸から下げる紫の「国民服儀礼章」も着けて行き、友人から「君、今日はどうしたんだ」と言われたという。刑部氏は、机の上の勉強だけではだめで、実際にやってみることが大事なのだと語った。
ゲートルと「日本精神」
実際に着てみて刑部氏が苦労したのが、靴を履いた足に巻くゲートル、いわゆる巻脚絆だった。国民服と同じ深緑色で、紐の位置まで決まっているが、何度やってもうまく巻けない。当時の人々はそれを当たり前にこなしていた。
巻いてみると足が身軽になり動きやすいことは分かる。それでも、なぜゲートルを巻かせたのかについて、刑部氏は「よく分からない部分がある」と率直に認めた。推測としては、当時の「日本精神」、つまり重大な戦時下の局面で足元をふらつかせているとは何事か、という心の問題ではないかという。旧制中学校の生徒もゲートルを巻いて登校し、巻いていかなければ教師や先輩から鉄拳制裁を受け、「軟弱だ」「気がたるんでいる」と言われた。生徒たちは回想で、ゲートルを巻くのが嫌だったと書いている。
モンペとセーラー服、学童用国民服
女性の戦時服はモンペである。刑部氏によれば、いつから徹底されたのかは段階があってよく分からない。ただ、教育機関である高等女学校では、男子のゲートルと同じように必ず着用させた。
例外は式典の日だった。皇后の誕生日である「地久節」、天皇誕生日の「天長節」、明治天皇の誕生日だった「明治節」など、当時「三大節」「四大節」と呼ばれた日には学校で儀式がある。奉安殿の扉を開け、天皇・皇后の御真影と教育勅語に最敬礼し、校長が教育勅語を奉読する。この日だけはセーラー服のスカートをはいてよかった。生徒たちは回想で、スカートをはけてとても嬉しかったと語り、普段はスカートが傷まないよう大切にしまっていたという。刑部氏が面白いと指摘したのは、モンペの上はセーラー服だったことで、上下でちぐはぐな服装だった。
昭和17年になると学生服も国民服となり、一般用とは別に男子用・女子用の学童向け国民服が作られる。詰襟やセーラー服は国が認めなくなったため、新しく買えなくなった。それでも生徒たちは学童服を着たがらず、手元にあるうちは詰襟やセーラー服を着た。傷めたら二度と手に入らないので、大事に使っていたという。
普及は戦局の悪化から、国の方針には矛盾も
戦時中でもおしゃれをしたい気持ちはあったのかという問いに、刑部氏は「ありました」と答えた。国民服もモンペも、最初のうちはほとんど普及しなかった。広がるのは太平洋戦争が激化し、戦況が悪化して空襲の危険にさらされるようになってからである。工場などで働く人々も、国民服ではない作業着を着ていたが、その色は国防色だった。一般に売られる衣服は国が規制していたため国防色ばかりになり、世の中が一色になっていった。
一方で、刑部氏は国の方針に矛盾があったことも指摘した。国民服を推奨しながら、なるべく新しく作るなとも言っていた。資源がないので、手持ちのものがあるうちはそれを使え、新しく作るなら国民服にせよ、という苦しい言い分だった。そのため写真を見ると、派手な柄の服を着ている人も多い。着物をほどいて洋服風の上着に仕立て、モンペも着物の素材で作った。祝い事用の明るい着物を使うこともあった。白黒写真では分からないが、カラー化すれば相当派手な柄のモンペをはいた女性が多いだろうと刑部氏は話した。
戦後の急速な洋装化は「突然変異」ではない
戦後、女性の洋装は急速に普及する。刑部氏はその要因として、まず進駐軍とともにアメリカ文化が押し寄せたことを挙げた。資源のなかった衣料素材もアメリカから大量に入り、買うことも作ることもできるようになった。フランスの流行もアメリカの雑誌を通じて伝わり、「ニュールック」と呼ばれるスタイルや落下傘スカートが人気になった。完成品を買うと高いが、素材だけなら安いため、ミシンや洋裁学校がブームになり、家庭で洋服を作ることが広がった。
ただし刑部氏は、これを日本人の価値観の突然変異だとは考えていない。大正8年に始まった服装改善運動が、昭和初期にはモダンガールの間で突出した形で現れ、学校教育ではセーラー服として取り入れられた。戦時中にはモンペをはいたことで、従来の着物やスカートとは違う感覚が植えつけられた。小学校から高等女学校まで進んだ人は、10年近く洋服の制服に接していた。そうした感覚が積み重なったところに戦争が挟まり、戦後の状況が生まれた。よそ行きのお洒落として着物を着るのもよいが、普段着ならカジュアルな洋服もいい、という方向に価値観が変わった。洋装の制服などが始まってから20数年が経った昭和20年頃に、それが一気に花開いたというのが刑部氏の見方である。
寺島氏が朝鮮戦争の特需の頃の変化を尋ねると、刑部氏は世代交代の観点から説明した。その頃には高等女学校を出た世代が母親になっており、その子どもたちは着物を着ない。小学校から洋服で、中学・高校では制服が待っている。職業婦人という言葉も使われなくなり、結婚前の女性も会社で働き、洋服が中心になっていった。
一方、セーラー服に袖を通さなかった世代は当時まだ40代、50代で多く、昭和50年代頃まで着物で生活する人もいた。しかし着物を着る人口は増えることがなく、減る一方で、洋服を着る世代が右肩上がりに増えた。昭和50年頃を境に、着物姿は街中で目立たなくなったと刑部氏は述べる。今では駅などで着物姿を見かけると振り向いてしまうほどだという。男性は女性以上に着物を着なくなり、茶道をしているとか歌舞伎を観に行くといった、こだわりのある人以外はほぼ着ないのではないかと刑部氏は話した。大正期の電話交換手のように、着物に袴、草履や下駄で働く職業婦人の姿も、戦後には制服の支給などによって見られなくなった。
「ファッション」とは流行のこと、そして「背広」という言葉
最後に刑部氏は、「ファッション」という言葉に触れた。ファッションは本来服装のことではなく、日本語にすれば「流行」を意味する。服装に限った言葉ではないが、服装ほど流行が著しく変化する世界はないため、両者が結びついたのだろうと刑部氏は述べた。明治、大正から平成、令和まで、時代の変化を映す鏡のように常に変わり続けてきたのが服装だという。寺島氏も、社会の流れと服装の変化を年表で重ねると、何があったから服が変わったのかが見えてくると応じた。
寺島氏が刑部氏の「スーツ姿」は令和では珍しく見えると言うと、刑部氏はすかさず「スーツと言わないでください」と返した。「背広」という言葉はいまや死語になりつつあるので、自分はスーツではなく背広という言葉を普及させようとしているという。
収録後、寺島氏は、戦時中に色が減っていくなかでも、仕方なくという面はあったにせよ、カラフルな着物から作ったモンペをはく人がいたことに驚いたと振り返った。乗り物好きとしては、戦後のスチュワーデスのような憧れの職業だと思っていたバスガールが、大正期には仕事の大変さから不人気だったことが意外だったと語った。
学問ってもっと楽しい。楽しくためになる知の探究プロジェクト、ReHacQ R大学です。
こんばんは。フリーアナウンサーの寺島啓太です。本日は高橋弘樹さんが体調不良のためお休みで、元文化放送アナウンサーの私、寺島啓太が学生代表としてお話を伺います。
文化放送ライオンズナイターであったり、箱根駅伝など学生駅伝の実況、そしてボートレースの実況をやりながら、今はテレビと配信なども含めて、野球をやったりとか、陸上、サッカー、ラグビー、バレーボール、ハンドボール、あと何やってますかね。オートレースやったり、なんやかんやといろいろとやっております。あと、経済ニュースも今やったりとか、大学生の就職活動の会社説明会の司会とか、いろいろとやったりしているわけなんですけれども、まさかこういう形でいろんな先生方にお話を伺うことになるとは、びっくりしております。
大学時代というのがもう20年ほど前ということになるんですけども、振り返りますと、私、京都の大学に行ってたんですが、潜りとかやってたんですよ。他の大学に行って、自転車でバーッと行って、友達も行ったんで一緒に教室入ってですね、授業90分受けて、その後、学生食堂で昼ご飯一緒に食べるっていうようなことをやってたんですけど、懐かしいですね。
京都大学に潜りに行って、法律系の授業でした。なんとか概論っていうのを受けたんですけど、さっぱりわからない。本当、この大学受験しようという思いじゃなくてよかったなというふうに思ったのが、懐かしい思い出でございます。
今回はこれ、潜りっていう形になるんです。学生代表っていう形で、一応学生証もらえるってことで大丈夫なんですかね。はい、ありがとうございます。学生代表ということでお話を伺ってまいります。
今回は洋装の歴史ということです。いわゆる洋装、洋服ということですけれども、ファストファッションを着ることが非常に多いので、今日もシャツもズボンもファストファッションを着てきております。洋装の歴史ということですから、どれぐらい振り返るんでしょうか。近代というところでも、和服から洋服が入ってきたというと、結構クラシックな形の服装、そして袴からどう変わってきたっていう話が伺えるんでしょうか。歴史の中で、自分のこの日本人がどういったものを着てきたのかっていう話を伺っていければと思っております。では、ReHacQ R大学、開講です。
さて、今回のReHacQ R大学にお招きした先生は、日本大学商学部教授の刑部芳則先生です。よろしくお願いいたします。よろしくお願いします。
まず刑部芳則先生のプロフィールをご紹介します。ご専門は日本近代史。明治から昭和の制服史、生活文化史、昭和歌謡史に精通されています。これまでNHK大河ドラマ『西郷どん』で軍装・洋装考証、軍服ですね、洋服、軍装・洋装考証。NHK連続テレビ小説『エール』『ブギウギ』で風俗考証、『虎に翼』で制服考証、『ばけばけ』で時代風俗考証を担当されてきました。先月8月には、2026年後期NHK連続テレビ小説『ブラッサム』のモデル、宇野千代について書かれた『宇野千代 昭和モダニズムの伝道者』をNHK出版新書より発売されました。今日も正装で来ていただきまして。
そうでございます。大体、戦前の歌手の人たちっていうのは、NHK一社しかなかったですけど、大体そういう放送で歌う時っていうのは、こういう格好で歌ってたんですよね。
白いYシャツに黒のスーツ。そして蝶ネクタイ。蝶ネクタイ、礼装でございますね。ですから私はメディアに出る時とか講演の時には、必ずこのスタイルで出てるわけでございます。
なるほど。そういったイメージがちゃんとあるわけですね。ありがとうございます。先生、いろんな歴史を勉強されて、そして研究されてますけれども、元々はどれから始まったんですか。
私はいろいろなものに興味があったんですけど、やはり昔の時代劇とかドラマ、そういうのを見てると現代と違うじゃないですか。その服装やなんかがなぜ変わっていったのか。髪型もちょんまげから散髪に変わり、侍は刀を差してたのをやめて、着物から洋服って変わってるじゃないですか。その理由って一体何だったんだろうっていうのが、もう小さい時からの疑問で。まずはこれをやろうっていうことで、洋装史ですね。これをまず最初にやり始めたんです。
その本を今回出されたということなんですね。そうですね。『洋装の日本史』っていうのですね。芳則先生のご著書『洋装の日本史』、集英社インターナショナルより発売をされています。
これ、着物から洋服に日本人が変わったっていうのは、着る服が変わった以上の大事件っていうことはあるんですか。
これ、もう本当に価値観が全く変わったってことですよね。今の我々の生活が、来年からちょんまげにしましょう、洋服を着ないように、着物にしましょう、履物も下駄や草履にしましょうっていうふうな価値観に変わるのと一緒ですよ。
そうですね。今からそうなったら、やっぱり気持ちも全部変わってきますもんね。変わりますよね。感覚自体が違うと思います。
そうですよね。私、スポーツ中継とかやるので、体の動かし方とかいろいろ見るんですけど、やっぱりお侍さんとかって、ナンバ走りとか言うじゃないですか。刀を脇に差してとかね。走り方、歩き方っていうのも結構変わったって言いますもんね。そうですね。
実際に刀なんか差してみるとわかりますけどね、かなりの重量ですよね。左だけずっと傾いた状態になってしまいますから、それをどういうふうに支えてたかっていうのも、なくなったっていうのが、これ大事件なわけですね。
歴史とともにお話を伺っていこうと思いますけれども、やっぱり明治維新というところ、これが一つ。洋装というのはどういうふうに浸透していくんでしょうか。
これは明治4年、正確に言うと7月14日、廃藩置県っていうのがあるんです。藩が廃されて今の府県が成立するっていう大改革ですよ。その8月に洋服、散髪っていう、これが許可されるわけなんですね。だけど当時の人たちはみんなすぐにやらないわけです。今まで通りでいいじゃないか、みたいな。
明治天皇がわざわざ重要な臣下であったり、あるいは旧華族、花の族と書くね、大名等、それから奥さんたちですね、なんかを集めまして、今の時代というのは古代に戻るんだと。原始・古代というのは筒袖で細袴、細い袴に袖も細い、そういうものを着てたじゃないかと。だからそれに戻すんだという。だから言ってみれば、洋服を採用するんではなくて、服装の王政復古なんだっていう感覚なんですよね。
そういう感覚で。そう。つまり洋服を取り入れるってなると、それまで尊王攘夷の思想っていうのはすごく強かったわけですね。外国打ち払い、追い払い、なぜ外国のそんな文化を取り入れなきゃいけないんだっていう反動がものすごく強いわけですよ。だから決してこれは洋服じゃないんだと。
これは日本人が、もうそれこそ肇国創業ですよ。神武天皇が日本の国を治める時代。その頃というのは筒袖、細袴だったじゃないか。その頃に戻るんだというね。そういうことを諭すような文章まで出してるんですよ。
これ、じゃあ、ざんぎり頭を叩いてみればって言いましたけれども、頭も服装も同じように許可制になったわけですね。そうです。
だからちょんまげをやめて、いわゆる散髪。なるべく従来の着物から洋服へというような、侍たちは刀を差すのをやめましょうというような形で、価値観を変えていきましょうねっていう。それがある意味で文明開化ってもの。
それまで洋服着てる日本人っていうのは、もうなかったっていうことでいいんですか。
全くなかったわけじゃないんですね。それは一つには、幕府が存在した時からやっぱり筒袖で細袴っていうのはあって、それは軍服ですね。なぜ軍服なのかっていうと、やはり戦国以来の日本の装備では外国を打ち払うことはできないです。黒船の大砲に対抗することはできない。弓や槍だけでは。だからやはり相手を制するためには敵と同じような動きやすいものをっていうことで、洋服を取り入れていました。ただ、それは軍服に限定なんですね。
あとは、これは国内で認められてないわけですけども、外国に例えば使節団として行ったりとか、公式に留学生で行ったりとか、行った場合には、やっぱり外国の中で日本のいでたちだと目立っちゃうんですね。お侍さんが来たわけですもんね。ええ。だから郷に入っては郷に従えじゃないけど、向こうに合わせるという形で、海外に渡航している間だけは洋服を用いたりしてました。
だけどメンバーも日本に近づいてきて、上海あたりになると従来のいでたちに戻すんですね。でもこれ、ちょんまげしてたわけですから、髪型大変だったわけですね。
大変なんです。髪型は一回切ってしまうと伸びないじゃないですか。だからこれは大体かつらをつけたりしてたんです、向こうで。今、時代劇のかつらを皆さん、俳優さんがつけるような感じで。例えばクラシックの作曲家なんかでも、長いかつらとか、昔つけてたじゃないですか。そういうのはかつら屋さんみたいなのがあって、ヨーロッパなんかだと、それを買うんですよ。それをカモフラージュしてつけてる。ホテルなんかに戻るとそれを脱ぐんですね。ちょんまげになるじゃないですか。
だけど実際に切っちゃったりなんかすると、上海まで戻ってきた時に、その間に、そろそろって言って伸ばすんですよ。だけど簡単に伸びないじゃないですか。だからちょんまげしても、もうギリギリしか結うことができなくて苦労したとかっていうね、そういう話も残ってますよ。
ちょんまげのかつらをかぶるんじゃなく、洋装に合わせるかつらをかぶるっていう。そうです。ある意味、苦労してたわけですね。そうです。
そこから軍服、洋服を取り入れていくわけですけれども、やっぱり一般の人が着る服っていうのは、いわゆる男性だとYシャツとかそういうことになるんですか、洋服って。
そうですね。洋服って言っても、当時は今みたいなTシャツだとかカジュアルなものっていうのは一切ないわけですよね。ですから、ホワイトのカラーのYシャツに、当時はフロックコートって言ってましたけどね、今の背広とは違ってダブルになっていて、非常に長いんです、丈が。後ろが燕尾服みたいに、ツバメの尻尾みたいな形になってるっていうね、そういうようなものを着たりとかしていましたよね。
これ、お役所とかで着るんですか。そういうのを着たっていうのは。そうですね。いわゆる通勤をする時に着るものですね。
だから、後に明治政府の方でね、これ明治10年代の後半ですけど、必ず出勤する時には洋装でっていうことが通達で義務付けられるんです。それまでの間は、紋付、羽織、袴なんかを着て出仕してた人たちもいましたけど、でももう明治10年代に入るとその数も減ってきますよね。
結構、じゃあ政府が積極的にいろいろと、いわゆる通達、命令っていう形で出して、もう洋装化、洋装化っていう形にしてたわけですね。
そうですね。だからこれがやっぱり日本古来からのやり方なんだと思うんですけど、すごく強制的に、やらないとこうなるぞみたいな、そういうことはしないんですよ。あの手この手で、なるべくするような形で持って進めていくんですね。
だから例えば、最近の現代の例で言うと、マイナンバーカード作りましょうと。これ作らないと、1年以下の罰金とか、そういうのをつけないじゃないですか。そうです。罰則はない。ないんですよ。だけど作ってくださいね、作ってくださいねっていうふうに国家は推奨するわけですよ。だけどなかなか作らない国民がいる。そうすると最終的に、診療所に行ったというんですかね、病院って、もうマイナンバーカードの登録がないと、いわゆるバーコードが入力できないとか、なんだとか、受けられませんよみたいな、10割負担になりますよとなると、みんなやるじゃないですか。そういうような形で、なるべくやっていかなきゃいけないみたいな形に持っていくんですよ。
やっぱり外堀を埋めて内堀を埋めてっていう形。そうそう、そうなんですよ。なるほど。
さっき明治天皇の話が出ましたけれども、その奥様、当時の皇后様も西洋のドレスを着始めたっていうのは明治時代。
そうですね。これもやはり明治10年代後半ですけど、よく鹿鳴館っていうのがあるじゃないですか。ダンスをしたところ。ええ、外国人たちをもてなすために。日本の国家がヨーロッパ、諸外国と同じような国なんだというね、そういう見せかけだけではなくて、制度そのものも近代的なものに変えていこうとなった時に、男性の公的な洋装っていうのは制度的にも整備されていきましたけど、やっぱり、じゃあ関係ないのかっていうと、そうはいかないと。
やはりヨーロッパなんかの場合には夫婦同伴で、そういうセレモニーだとかパーティーだとかっていう場所に出てくるわけです。だけど日本の場合は、どこか良妻賢母的な教育があって、公になるべく表に出しゃばって出ていかないように、みたいなのが一方で教育にあるわけですね。それはそうなんだけど、しかし夫とそういうような公的な公務をやる場合には、やはり付き添って出るべきなんだ、みたいな形がこの頃から非常に推奨されてくるんですね。
そういった時に、男性の方が大礼服とか洋式な礼服を着ているのに、女性が従来の和装では、やはりこれ釣り合いが取れない。それで十二単ってあれを着てたわけですよ。着物ですもんね。あれが平安時代みたいなね。おすべらかしっていう、椎茸みたいな髪型をしてね、それで出ていく。それが公的な礼装だったわけですよ。
だからそうじゃなくて、やはりヨーロッパで使ってるようなドレス、そういうものを使うべきだっていう形になるんですけど、これが明治20年頃ですかね、昭憲皇后がこの時にも同じようなことを言ってるんですね。決してこれは西洋のモノマネではないんだと。
やっぱりこれは古代の女性たちを見ると、いわゆる裳、それから衣ですね。この二つに分かれているじゃないかと。上下に分かれたものを着ていた。だから例えば推古天皇だとか、そういう肖像画とか見ても、そういうふうに描かれてるじゃないかと。それが大体鎌倉時代あたりから、一つのつながった着物に帯を締めて着てる。これは健康的にもよろしくないってことですよね。だからやっぱり西洋を見たって上下に分かれてる。日本だって古代は上下に分かれてたんだから、ここで元に戻るべきだと。だから女性の洋装も、これは王政復古の論理なんですよね。
そこを率先してされたということなんですね。そうなんです。だから国民に模範を見せてるってことですね。そうですね。となると国民も、じゃあ私もってなるということですね。
実際に、じゃあいわゆる一般の家庭のところで言うとどうなんでしょうか。その辺って、洋装に変わっていく上ではどういった変化があったんですかね。
これはほとんど変化がないんです。男性の場合には徐々に浸透していきました。やっぱりそれはサラリーマンだとか、特にホワイトカラーと呼ばれる人たちは徐々に、そういう会社なんかに出勤する時に背広っていう形になっていきましたけど、女性の場合はまず働いていませんからね、ほとんどね。
それからやはり非常に女性の洋装なんかは高額なんですよ。高い。簡単に買えることができない。あと、それから動きにくいんですね。動きにくさ。ええ、今の女性たちが着ている洋装と違って、いわゆるコルセットという、非常に腰を締めつけるような。ギュッと縛りますもんね。やるんです。ですからあれをやると、水を飲むのも大変だって言ってるぐらいなんですよ。
そんな高額で、しかも健康に害があるかもしれないっていうような、そういう腰骨を締めつけるようなものなんていうのは、一般の農村だとか市井の人たちに広がっていかないわけです。だから一般ではやはりもう本当に99%和服ですよ、女性は。
そうですよね。そんなの、だってコルセット巻いた状態で鍬持ってね、畑を耕せる、お金もないし。できないでしょ。赤子を育てるわけにもいかない。
今の値段で言ったら、それこそ1着100万円以上するようなね。これ例えば1日ずつ変えていったら、月曜日から金曜日までで500万ぐらいかかるわけですよ。これ物理的に無理ですよね。
そうですね。っていうので、明治の時には、じゃあもうあんまり変わらずに。そうですね。ずっと続いてたと。はい。そして時代は大正に移りますと、大正になるとどういうふうに変化ってしていくんでしょうか。
大正になりますとですね、ヨーロッパの方で第一次世界大戦っていうのが行われまして、この時に職業婦人みたいなものが、非常に国家総力戦の中で、男性だけではなくて女性の担い手っていうのが出てくるわけです。
これ、戦争のところからの働き手がないから、女性がそれで働くことになると。ええ、なってくるんですね。そういう情報っていうのは日本の中にも入ってくるんですよ。徐々に日本の中でも、新しい女性といったような形でね、当時、職業婦人なんていう形でもって、女性でも働くっていうような形で社会の中に出てくるわけですよ。
そうなった時に、明治時代からあったんですけど、女性たちの服装をどうするべきなのかと。和服の方がいいのか、洋服の方がいいのか、どっちにもこれはメリットもあればデメリットもあるわけなんですよ。和服の場合のメリットっていうのは洋装に比べて安いわけですね。だけどやはり帯で腰を締めつけている。これを子供の頃から着ていると健康に害がある。それから発育にも影響してくるんですよ。
実際そうなんですか。実際そうですね。これは私は秋田に行った時、角館というところに行った時に写真で見たんですけど、元の写真というのはヨーロッパの方にあるみたいなんですけどね。ある日本に来た外国人が撮影した写真があるんですよ。それは日本人の暮らしとして撮った1枚なんでしょうけど、何人かのいわゆる女性ですね。その女性がお風呂に入っている写真、入浴してる写真なんですけどね。
4人いましたか。私は小さい女の子だと思ってたんです。ところが、その解説とか読んでみると成人女性なんですね。みんな裸なんですけど、その裸を見てみると、とてもこれは成人女性と思えないぐらい、みんな背丈が非常に低い。150センチぐらいですかね、みんなね。それでもう痩せていて、全然胸なんかもないんですよ。だからやはり着物でそうやって子供の頃から生活してると、こういうような体型になっていくのかなんて感じたんですよね。
栄養状態だけではなくって、そういった服装というところも成長に関わってくる。関わってくる。これ、もう明治20年代から、皇后がそういう言葉を出してからですね、有識者とか、特に医学の人とかなんかが、やはり着物を着ているとそういう体格になってしまうんだ、病気になるんだとかっていうことが、結構たくさんいろんな雑誌に出てくるんです。
一方で洋服の方を支持する人たちの中でも、そのメリット、デメリットっていうのはあってですね。メリットとしてはやはり着物に比べれば活動的だ。だけどやはり高額である。そしてやはりこれまた健康に害を及ぼす。やっぱり腰骨を締めつけるからってことですね。だからそれをどう改善するのかっていうのが、大正8年頃から起きてくるんです。これが大正時代なんですね。
それが服装改善運動というやつで。なるべくコストを安くすること、それから活動的で動きやすい、そして健康に害がないような服装を作っていこうっていう形で。ここで、この服装改善運動の中で和服を推奨する人、つまり従来の和服っていうものを、袖が非常に長いですね、これがね。それを丈を短くしたりとか、それから帯の幅を細くして、そしてなるべく締めつけないようにするとかですね。その中で出てきたのが、着物に袴っていうスタイルなんですよ。
動きやすい和装にはどうしたらいいかというので生まれたものなんですね。どうしても着物の場合っていうのは1枚につながっていて、走ったりなんかすると裾がはだけますでしょ。これ、戦前の女性のあれなんですけど、素足を他人に見せるっていうのは行儀、マナーがよくない。見せちゃいけない。そうすると小股になっちゃうわけですよ。
ちょっと小股。そうそう。大股になったりとか、走ったりとか、飛んだりとかってできない。だけどそれを袴をはいてれば隠すことができるじゃないですか。袴で締めると、帯のような形で締めつけなくても身軽にすることができるという。これが和装の人たちの最大公約数的な改良なんですよ。
一方で洋装の方の場合には、やっぱりこのコルセットが問題なんです。このコルセットをつけなければ活動的な洋服が作れるだろうっていうので、ワンピースだとか、ツーピースだとかっていうような職業婦人が着るような、男性でいう背広のタイプのようなものだとかね。カジュアルなものであれば、非常に薄手のものでのワンピースだとかっていうものが、この辺りから作られてくるっていう形になってくるんですね。
実際の職業婦人っていうと、どんな職業にみんな就いてたんですか。
これも職業婦人っていうと、働く女性そのものっていうふうな感じじゃないですか。だけどこれ、大きく二つに分かれるんですよ。やはりこれはホワイトカラーか、そうでないかっていうような、ブルーに入っていくんだけど、一番やはり人気があるのはタイピストですね。タイプライターを打つ人。はい、人気ですね。
それから、あとは事務作業ですね。だからそのタイピスト、それから社長の秘書であるとかいうような、会社の中で働くような女性。それ以外ですと、これは夢ですけど、女優であるとか、それから歌手であるとかっていう演劇、芸能の世界ですね。それ以外だと、例えばデパートがある。
そうか、百貨店、デパートがあって、そこで働くと。ええ、エレベーターを案内したりとか、あるいは店員だとかありますよね。それから、あとはウェイトレス。レストランであるとか食堂ですね。こういうところで働く女性とか、こういうのは職業婦人としても非常に人気なんです。
あまり就きたくないというのがバスガールですね。人気なかったんですか。人気ないです、これは。どうして。これ非常に職業的に大変なんですよ。お金を集金したりとかね。それから、いわゆる満員になるじゃないですか。そういうところで人と一緒に乗ってやっていかなきゃいけないとかね。だからこのバスガールとか、あるいは電車やなんかの車掌みたいなね、女性のこういうものっていうのはあまり人気がないんですね。
歌もあるから人気なのかなと思ってたんですけど。人気ないんですよ。それから、あとは工場で働く女性ね。紡績工場だとか、これは当時、環境がよくないんですよ。明治からね、『あゝ野麦峠』とか。そうなんですよね。工場法なんかが制定されたぐらいでしょ。それであったって、やっぱり劣悪な環境で働かされるわけですから。
ですから当時は、大体義務教育は小学校なんですよ。その上に高等女学校っていうのがあったんですけど、そこに行ける女の子っていうのはエリートなんですよね。そうですね。高女に行ったお友達っていうと、なんかすごくリッチな層っていうイメージありますよね。
そうですね。その高等女学校の生徒たちが、みんな回想してるのがあるんですよ。いわゆる高等女学校の記念誌なんかを読みますとね。私、全国の北海道から沖縄までの記念誌をほとんど目を通しました、高等女学校のね。そうするとみんな言ってます。バスガールに間違えられるのが嫌だったとかね。その学校の制服が似てたからとかね。それから卒業してから職業に就くっていった時に、バスガールとか、あるいは工場だとか、そういうところで働くなんていうのは嫌だったみたいなね。就きたくない職業っていうので選んでますよ。
これ、バスガールなんかは服装はどんな服装だったんですか。ワンピースですね。折り襟がついていて、紺の一色のような形の長袖のワンピースで、それにちょっとした帽子をかぶるっていうような形なんですよ。
服装なんかはすごくきれいに見えて、なんか人気の職業になりそうなイメージなんですけど。そうなんですよね。それよりもやっぱり働く内容というところで、なかった。そうですね。
やっぱりこのバスガールに就くような女性っていうのは、小学校を卒業してるような女性が多いんですよ。高等女学校なんかを卒業してる女性って行かないんですよ。やっぱりタイピストとかデパートガールとか、そっちの方へ行くんですよ。
そうなんですね。大正時代って、モダンボーイ、モダンガールっていう言い方もされてたんですよね。これ、どんな人たちだったんですか。
これは言ってみれば時代の最先端を行くような男性、女性っていうか、その流行のスタイルを取り入れていったっていう形ですね。だけども当時は、今でいう不良っていうような形で見られてましたよね。ケバケバしい化粧をして。そして長い髪、長い黒髪の、一番、日本髪っていうのは島田とか丸髷だとかっていうのがありますし、それから高等女学校の学生たちは洋髪なんだけども、いわゆる庇髪というのを結ってましたよね。非常にボリュームがあって、一つじゃないですね、その上にさらに乗せるっていうような。
すごいですね。なかなかに工夫してますよね。ええ、当時としては二百三高地と言ってね。日露戦争の時に第3軍の司令官、乃木希典がロシアの要塞を、非常に陥落させるのが難攻不落だった。その二百三高地っていう要塞のような形だったんで、別名、二百三高地って呼んでた、その庇髪をね。すごいですよね。
だから友達よりもいかにその頭の形を大きく見せるか、作るかっていうので、朝1時間ぐらいかけてやるっていうんです、毎朝ね。そういうのが主流だったんだけど、モダンガールっていうのは全くそういう髪型と違うんです。言ってみれば今の女性と同じですけど、もうそれこそハリウッドの女優がやってるようなね。それから、黒髪であっても断髪っていってね、そういう女性がいたりとかしましたよね。
うなじを見せたら、それはまたこれもびっくりされるでしょうし。だからやっぱりそういうような女性っていうのは、社会から、今までいなかったわけなので、なんだ、すごい女だよと、あんな不良女になったらいけない、みたいな、そういうような扱いでしたね。
今、大正モダンっていうと、すごく何かクラシカルなところもありながら、おしゃれないいイメージっていうのがあるんですけど、当時の人で年配の人からしたら、そう思ってない人も、じゃあいたかもしれないってことですか。もう1回いいですか。当時の大正モダンを作ってた人たちよりも年配の人からしたら、不良だとか、おしゃれなイメージじゃなくって、奇異なものを見てるようなイメージ。
その通りですね。やっぱりそこに価値観っていうのは全然違うわけなんですよね。だからちょうど高等女学校の学生で言っても、大正8年あたりから文部省を通して、いわゆる洋式の制服っていうのが高等女学校なんかに入っていくことになるんですね。そうすると最初は、そのバスガールのような形、ワンピース型みたいなものが結構多かったんですけど、もうすぐにセーラー服に変わるんですよ。だからこのセーラー服に袖を通していた世代と、着物に袴だけで通した世代とでは、やっぱり価値観って違うと思うんですよ。
そうですね。これ、制服はじゃあ男性も変わってたんですか。男性は、やはり女性に比べると早いんですね、洋装がね。だから導入も早かったです。もう明治時代から、通称学ランと言われるような、詰め襟に五つの金ボタンがついた、いわゆる学生服っていうのを、もう明治時代から採用している学校っていうのはありましたね。
これもじゃあ学校によって、その導入の時期っていうのがちょっとずつ違うわけですか。基本的には設立した年がありますよね。その年にもそれを採用していくっていうような。これ、一番最初に採用したのは東京大学なんですよ。
東大からスタートなんですね。なんです。明治19年に、当時は帝国大学、東京帝国大学って言ってますけど、やったことによって、その下にある旧ナンバースクールの旧制の高等学校、さらに下にある旧制中学校、やっぱり到達点は東大なんで、エリートのその学校たちっていうのは、みんな詰め襟を採用していくんですよね。
みんな真似するわけですね。一部そうじゃない学校もありますけど、やっぱり今、統計取ってますけど、かなりの学校が五つボタンですね。
またそういった学生が街を歩いてたら目立つわけですから、あそこの学生さんってわかるわけですよね。そうなんです。やはり戦前の世界では、エリートねっていうふうに、旧制中学校、高等女学校、エリートねってなるわけです。モダンボーイ、モダンガールは、あれ不良ねってなるわけですね。そういうふうに服装で見られたわけですね。そうですね。
それが今度、昭和に入りまして、そして昭和、戦争に入ってきますと服装も変わってきます。これ、国民服っていうのができるんですね。
はい。これは昭和15年に制定されたものなんですね。非常に軍服に似てるんですよ、陸軍の。だから国防色って当時言ってたんですけど、カーキ色っていうのはちょっと違うんですね。カーキ色っていうと、ちょっと土の砂のような色をしているじゃないですか。黄土みたいな感じですけど。国民服っていうのは、どちらかというと深緑のような色なんですね。
甲型と乙型、二つありまして、開襟になっているもの、通常は開襟になっていて、襟が開いている。それをボタンがありまして、やると折り襟になる、詰め襟になるっていうのと、従来の詰め襟型の陸軍の将校が着てるようなタイプと、二つありましてね。それで国民帽といって、今でいうと野球帽みたいな形をしているんだけど、中央部にちょっと割れ目の入ったものをかぶるというような、こういうスタイルのものが作られるんです。
これはなんで作られるかというと、実はこれも服装改善運動から始まってるんですよ。やはり日本の国民に一番ふさわしいような服を作っていこうというような研究がずっと進められていて、そこにいわゆる戦争というものが重なって、日本の資源っていうのに限りがありますから、いざ例えば外国、特にアメリカやイギリスと戦争になった場合に輸入が止まってしまいますね。輸入が止まってしまうと、日本の国内の中では動物性の繊維による洋服の素材って作ることが難しいんですよ。
動物性って、これどんなものからできるってこと。羊とか。ああ、羊毛。羊毛はやっぱり日本の風土にはなかなか馴染まない。そうですね。明治時代から研究をしてやってみたんだけど、なかなかうまくいかないんですよ。
もう一つ、植物性繊維っていうのがありますよね。あとは木材からできるものだとかね、こういうものは日本は豊富にあるので、そういったもので作れるものとかね。これ、当時はステープルファイバーって言ったんですよ。通称スフっていうふうに言ってたんですけどね。そういうようなものの生地でも作れるものとかっていうのをいろいろ考えまして、そこでこの国民服っていうのが出来上がることになるんですよ。
支給品なんですか、これ。違います。これ買うんです、自分たちで。買わないといけないんですね。もちろん。これ着ろっていうのに、買わないといけないんですね。着ろっていうか、着てくださいという推奨なんです、これ。そうか、そこも推奨なんですね。なんです。でも推奨されるってことは、なんとなくそういうことってことですよね。
そういうことなんです。これは、いざとなった時に軍服に転用することができるってことなんです。だから国家総力戦になった場合っていうのは、最終的には国民全員が戦うことになるじゃないですか。そうすると陸軍と同じような形の服の方がいいわけですね。それから、あと染色の問題で、いろんな色を作るっていうのは無駄じゃないですか。全部その国防色、陸軍と同じような形のものに統一してしまえば無駄が省けるっていう、こういう発想から作ったんです。
これ、国の機関で言うと軍なんですか。内務省とかがやってるんですか。これは元々は陸軍省と、それから厚生省っていうのが考案には携わってたんですけど、主としては厚生省ですね、これは。
厚生省がそういうのを考えた上で国民服というのができて、着心地ってどうだったんですかね。これ普通の背広と同じですよ。私も着たことありますけど。私は変わってましてね、ある時に、そうだ、国民服を着て大学に行こうって言って、大学の1年生の時に何日かですけど、着て行きましたよ、これ。
現役の学生だった時ですか。そうです。行きましたよ。これ、どうやって手に入れたんですか。これ、骨董市で買いましたね。売ってたんですね。売ってました。
どういう反応するだろうなと思ってたんですけどね、みんな見て見ぬふりなのか、山手線乗ってても誰も気がつかなかったですね。帽子はかぶったんですか。帽子もかぶりました、国民帽もね。
それで儀式の時には国民服儀礼章っていうのをつけるんですよ。この紫の、右胸からつけるのがあるんですけどね。だからあえて大学で、祝日みたいな、だけども祝日でも授業がある時ってあるじゃないですかね。その時、国民服儀礼章をつけて行ったんですけどね。もう友達の間では、どうしたんだ君、今日は、みたいなのはありましたよね。その反応を楽しむっていうので、やったことあります。
なかなかに若い頃から鋭い先生だったんですね。そうですね。やっぱり机の上の勉強だけじゃ駄目なんですね。やってみるってことは大事なんですよ。国民服だって着てみるとどうなのかな、みたいなね、やってみるんですよ。
そう、着心地わからないと、その当時の服装で、その雰囲気わかんないですから。わかんないです。それから私、やってみてやっぱり大変なのは、ゲートルっていうのを巻くんですよ、これ。足に、靴はいて。ゲートル、巻き脚絆ってやつですね。同じような深緑色のやつを巻いてやるんですけどね、なかなかうまくいかないんですよ。
紐やなんかも決まってましてね。だけど、その紐の位置がそこに行くようにやるっていうのは相当ね、何回も何回もやっても、なかなかうまくいかない。それをみんな当たり前のようにやってたわけでしょ。やってたんです。これ戦争中、これやってないと大変なんですよ。
これ、ゲートルに何の意味があるんですか。これはやはり自分でやってみるとわかりますけどね、足が非常に身軽になって、動きやすい。これを何のためにやってるのか、私もいろいろ考えてますけど、よくわからない部分があるんです。ただやっぱり当時としては日本精神なんでしょうね。
心の問題ですか。やっぱりこの重大な戦中の時局に、足をひらつかせてるっていうのは何事なのかっていう、多分そこなんですよ。それ以外、ちょっと理由がわからなくて、例えば旧制中学校なんかでもみんなやっていくわけです、生徒たちはね。
若いうちからやるんですね、こういうの。生徒たちはこれやるんです。だけど、これやっていかないで行きますでしょ。そうすると学校の先生とか先輩から鉄拳制裁ですよ。なんだお前は軟弱だ、みたいなね。気がたるんでるからこういうことになるんだ、みたいなね。だからみんなやるんですけどね。その生徒たちも回想で言ってますよ。ゲートル巻くの嫌だった、みたいなね。
でもみんながやってたものだった。ええ。男性はその国民服を着て、女性は当時はモンペ。
モンペですね。これも色々段階があって、いつ何時からそれを徹底的にやったのかっていうことはよくわかんないんです。ただ、高女学校なんかはやっぱり教育機関だから、その男子のゲートルと同じように、必ず着用させるようにしてくるんですね。
やっぱり着ていかなきゃいけないんでしょう。履いていかなきゃね。
だからみんな行ってるんですよ。ただ、例えば地久節っていうのがありましてね。地久節っていうのは、皇后陛下のお誕生日の日なんです。
あ、節って、節分の節ですね。
ええ、地は地面の字に、久しいという字に、節分の節で、地久節っていうのがあるんですけどね。これとか、例えば天皇陛下の誕生日の天長節であるとか、あるいは明治天皇のお誕生日だった明治節とか、こういう、当時は三大節とか四大節って言ってたんですけど、そういうような式のある時っていうのは学校に行くんですよ。
学校に行って、奉安殿というのがありましてね。そこに天皇と皇后陛下の御真影が飾られていて、そこに教育勅語っていうのがあって、校長先生なんかが最敬礼して、そこの扉を開いて教育勅語をそこで奉読するとかね、みんな最敬礼するっていうような儀式があるんですよ。そういう時だけはセーラー服のスカートを履いてきていいんですね。
みんな言ってます。そういう時にはスカートが履けてとても嬉しかった。普段は傷まないように大切に保存してるんですね、スカートはね。ただ、面白いのは、モンペの上はセーラー服なんですよ。
ああ、そうか。上と下でものすごい違和感のある服装だったわけですね。
みんなセーラー服があるわけなんですね。特にこれ、昭和17年になりますと、学生服も国民服なんですよ。だから中学校であっても学校でも、女子用、男子の国民服っていうのが、一般の国民服とは別の学童向けの国民服っていうのが作られるんです。
だから手に入らなくなるんです、新しく買おうとなったら。国が認めてないから。だけどみんな着たがらないんですね。だからあるうちには詰襟を着ていったりとか、あるいはセーラー服なんだけど、大事に使っていかないと、傷んでしまったらもう二度と手に入らないから。だからそういうような形で使ってたんですね。
どうでしょうか。そうなってくると、気持ち的にはやっぱりちょっとでもおしゃれしたいっていう思いは、戦中でもあったという。
ありました。だから言ってみれば、この国民服とかモンペなんかも、最初のうちはほとんど普及しないんですよ。やっぱりこれが世の中に浸透してくるっていうのは、太平洋戦争が激化してきて、特に日本の戦況が悪くなってきてですね、空襲なんかの危険にさらされるようになるっていうような時から、非常に普及してきますね。
それから工場で働く人、一般で働く人たちも、一見国民服に見えるんだけど、国民服ではない作業着だとかなんだとかって、全部国防色なんですよ、もう。世の中、新しく買おうと思うと、一般に売られてるものは国が規制してますから、国防色的な色のものばっかりだから。一見国民服に見えるけど、そういうものになるっていう。だから一色になっていくっていう形ですよね。
あ、そっか。色の世界も変わってくるわけなんですね。
ただ、従来のものっていうのを各家庭で持ってますでしょ。国も矛盾しててね、それを推奨するんですよ、国民服を。だけど、なるべく作るなって言ってるんですね。あるうちは従来のものを使えって言ってるんです。もったいないからっていう。だから、アンコメなんですよ。新しく作るんだったらこれなんだけど、でもなるべく作らないでね、みたいな。資源がないからっていう苦しいところで。だから写真なんか見てみると、結構ケバケバしいものを着たりしてますよね。
着ざるを得ないみたいなところもあるかもしれない。
そうです。結構、着物を洋服のように上着を仕立てて、モンペっていうのも着物の素材ですからね。だけど、それ、冠婚用のものやなんかを、いわゆる使ったりなんかしてるわけですね。
そしたら祝い事ですから、明るいものですもんね。
そうなんです。だから白黒の写真だからよくわからないんだけど、でもこれ、今ほら、着色する技術とかあるじゃないですか。着色してみたら、これものすごく派手だろうなと思うような、柄からしてもすごいモンペを履いてる女性、多いですよ。
そんな時代を経て、戦後になりますと、米軍ももちろん入ってくるわけですし、また服装が変わってきますが、これ戦後どういうふうに変わっていくんでしょうか。
戦後はものすごく急速に女性の中で洋装が普及していくんですね。これは一つには、やっぱり進駐軍がやってくるっていうことなんですよ。アメリカの文化っていうのがどっと押し寄せてきますでしょ。それから今まで衣料を作るにしても何にしても、資源がもうないわけです、素材が。だからこれ、大量にアメリカから入ってくるわけです。だからもういくらでも買うことができるし、作ることができるっていうような状況が出てくる。
さらにこれは、特にフランスだとかの情報なんかも、アメリカの雑誌やなんかを介して日本に輸入されてくる。だから当時、ニューっていうふうに言ってますね、ニュースタイル。こういうものが非常に日本の中で人気になってます。落下傘スカートとかね。こういうのを、舶来製なんか出てくる。自分たちでやっぱり買うとなると値段がかかるから、いわゆる素材だけだとコストが安いでしょ。だからミシンが非常にブームになって、洋裁学校なんかもブームになって、そういうのを家庭で作っていくっていうのが進んでいくんですね。
私は、これは日本人の価値観の突然変異であるというふうには思ってないんですね。
あ、じゃあ、ないと。
ないと思ってるんです。これはやはり大正8年から始まった服装改善運動、これが昭和の初期にモダンガールとかの間で、非常に突発的に出てきますけど、学校教育、ここでセーラー服やなんかで取り入れられていきますよね。特に戦争中なんかになるとモンペを履いたりなんかして、従来の着物だとかスカートとはちょっと違う感覚っていうのが、この4、5年の間に植えつけられるじゃないですか。
だから若い人たちを中心にして、着物だけで一生過ごしていくっていう生活スタイルではなくて、やはり小学校から高等中学校まで行った人たちってなると、やっぱり10年近く洋服に、制服やなんかで接する時間っていうのはあったわけですよ。そういう感覚っていうものがあって、戦争を挟んでこういう状況が出てきたっていう形になって、着物もいいけど、おしゃれで、例えばよそ行きでちょっとした時におめかしで着物を着ていくのはもちろんいいんだけど、やっぱり普段着なんかでカジュアルな形で洋服もいいわねっていう形で変わってくるんですね、価値観がね。
だからそれがちょうどこの昭和20年頃、洋装なんかが始まってからもう20数年経ってくるわけですよね。ここでそういうものが非常に開花してくるっていう時期がやってくるっていうふうに、私は考えてるんです。
じゃあ、もう戦後、1945年8月で、そこから一気に変わっていくわけですか。そこで朝鮮戦争とかで、特需って言いますけれども、あの辺りはもう本当に一気に服装もまた変わっていく。
変わってきますよね。つまりその頃になると、高等学校を出てたような世代の人たちがお母さんになってるわけですね。その子供たちが生まれる。その子供たちは着物を着ないわけですよ。もう小学校の時から洋服だし、中学、高校ってなると制服が待ってるわけですよね。そしてもう職業婦人なんて言ってないで、嫁入り前なのかもしれないけど、会社で働いたりとか、洋服の方が中心になっていくわけですよ。
この辺りから、やはり中高年の人たちは着物だけで、つまりセーラー服なんかに袖を通さなかった世代たちっていうのは、当時まだ40代、50代でたくさんいたわけですね。その人たちは昭和50年代ぐらいまでずっと着物っていう生活の人たちっていうのはいましたけど、決して着物は増えていかないんです、人口的に。どんどん減っていくんです。
減るばっかり。
減るばっかり。洋服を着ていく世代っていうのが、どんどん右肩上がりで増えていくんですね。やがて昭和50年ぐらいを境にして、もう着物の姿っていうのは徐々に巷の中から目立たなくなっていくっていうことですね。
そうですね。実際に出会うことが本当に少なくなってますもんね。
今ほとんど、私もたまに巷だとか駅で見ると、振り向いちゃいますもんね。目で追いかけちゃいます。あ、珍しいなって。
でもこれ、男女で見ると、より男性の方がやっぱり洋装になるのが早くて、より和装になる機会は減ってるのかなって思ったんですけど。
そうですね。もうほとんど男性は女性以上に着物って見ないですよね。何かそれこそ、茶をやってるとかね、歌舞伎を見に行くとか、そういうようなこだわりのある人以外はもう着ないんじゃないですかね。
そうですね。大正時代だと、職業婦人とかでも袴姿っていうのもあったってことでしたけども、そこももう昭和になるとないってことですよね、戦後になると。
そうですね。職業婦人の間でも袴を履く人っていうのはいないですよね。昔はそれこそ電話交換手なんかね。
電話交換手。
ええ、着物に袴に、草履を履いたり下駄を履いたりで、いましたけど、写真、大正時代とかね。もうあれなんかも、ところによると制服なんかが支給されたりなんかして、それを着てやってますでしょ。戦後になりますと、いろんな働く女性たちは結構制服で働いてやっていくっていうことですね。
ここも色々な洋装で、開発がそれぞれ行われていくということになってきます。改めて色々と時代と時系列とともに伺っていきましたけれども、やっぱり時代時代でそれぞれの服装っていうのが変わってるんですね。
そうですね。だからよく、服装のことをファッションってみんな使うじゃないですか。ファッションっていうのは、実は服装のことではないんですよ。もともとファッションっていうのを日本語にすると、流行っていうことですから。だから流行の変化。服装に特化したことではないんだけど、でも服装ほど、逆に言うと、ファッション、流行っていうものが著しく変化している世界はないねっていう形で、おそらく結びついてるわけなんですよ。
だからやっぱり、明治、大正、さらに平成、令和って来てますけど、やっぱりその時代時代を見ると、もう時代の変化を映す鏡のように、常に変化してるのは服装だなっていう感じがしますよね。
そうですね。だから服装も、そこに社会の流れっていうので、何が起きたかっていう歴史を年で見ていくと、あ、これがあったからこう変わったんだとか、そういうのも色々と関わってくるんですね。
そうなんです。
その中で刑部先生のスーツ姿を見ていますと、やっぱり今の令和の時代ではちょっと珍しいっていう感じの服装に見えますから。
スーツって言わないでください。礼装の背広と言ってください。
背広で。
背広。もう背広って言葉が今、死語じゃないですか。
そうですね。
だから私はスーツっていうのを使わないで、背広っていうのを普及させようと思ってます。
白の蝶ネクタイは、これ蝶ネクタイで。
蝶ネクタイです。
背広姿の今日、刑部先生とお送りしまして、本当に色々と勉強させていただきました。ありがとうございます。
はい、ありがとうございました。
今回のお客様は、日本大学商学部教授の刑部芳則先生でした。ありがとうございました。
ありがとうございます。
刑部先生にいろんなお話を伺ってきました。本当に時代時代の服装というところ、これはもう時代が作った部分っていうのが結構あるんだなっていうのを思いました。そして色味がだんだんと、戦中、有事になってくると減っていくっていうのも、びっくりするところがありましたね。でも、それでも色を減らしていく中でも、それどころじゃないんだって言って、カラフルな着物で作ったモンペを履いたりする方がいるっていうのは、これもどうしてもしょうがないからっていう部分もあるんでしょうが、時代が作った服装の部分なんでしょうね。
個人的には乗り物好きですので、大正時代にバスガールが人気なかったというのはちょっとびっくりしました。当時スチュワーデスって言われて、フライトアテンダント、キャビンアテンダントみたいな、戦後の飛行機に乗る女性の人たちが羨ましいなって思われるような職業だっていうふうに思ってる分だけ、当時のバスガールもそうなんじゃないかって思ってたんですが、そうじゃないんですね。働く中で大変な仕事をしていて、人気がなかったっていうのもびっくりしましたね。
刑部芳則先生のご著書の日本史、集英社インターナショナルより発売されています。ぜひお手に取って、こちら読んでいただければと思います。
ReHacQ R大学では、一緒に楽しめたり学べたりする学生も募集中です。番組アーカイブやオリジナルコンテンツの補習授業、耳で楽しむReHacQの視聴のほか、生配信イベント、番組収録観覧、オフ会、出演者へのQ&A企画など、文化放送オリジナルプラットフォームの番組ページから、ぜひお申し込みください。ご意見、ご要望も大歓迎です。メールアドレスは、rr@joqr.net、rr@joqr.net。
番組Xもあります。ハッシュタグ、リハックラジオで検索してみてください。そろそろ今回の講義の時間も終わりです。ReHacQ R大学教養学部、お相手はフリーアナウンサー寺島啓太でした。
ます。
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